~ 六ノ刻 誘火 ~
鬱蒼とした森を抜けると、そこには開けた場所が広がっていた。辺りには古びた日本家屋が立ち並び、月明かりの下、不気味な影を落としている。
かつて、畑か水田であったと思しき農地は、既に雑草によって無残にも侵蝕されていた。伸び放題に伸びた草の背丈は、人の身の丈さえも軽く超える。いったい、どれほどの年月を放置されればこうなるのか。少なくとも、この場所が遺棄されたのが、そう最近のことではないというのは確かだが。
「うへぇ……。こりゃまた、凄いとこですなぁ……」
廃村の入口で呆然と立ち尽くしたまま、亜衣がぽつりと呟いた。
「おいおい、マジかよ。まさか、これが本当の、≪地図から消えた村≫ってやつなのか?」
亜衣の隣で、浩二もまた驚きを隠せない様子で口を開けた。彼女から聞いていた都市伝説、≪地図から消えた村≫の話が頭の中で蘇り、何やら嫌な悪寒が背中を走り抜けた。
地元の人間からも忘れ去られ、今や人の住まう場所ではなくなった廃村。離農や過疎によって生まれることがほとんどであるとはいえ、やはりその姿はどこか不気味だ。朽ち果てた家屋や放置された畑を見ているだけで、今にも物影から人ならざる者が飛び出して来るようで恐ろしい。
仮にこれが昼間ならば、この場所も随分と違った空気が流れていたことだろう。しかし、今の時刻は既に夜。日が落ちて、まだそう時間が経っていないにも関わらず、この村を覆う闇は重く深い。
その場にいる誰もが、それ以上は何も口にしなかった。ただ、先頭にいる魁だけが、総司郎を引き連れて廃村へと足を踏み入れて行く。
「待って下さい、先生! どこへ行くんですか!?」
雪乃が慌てて手を伸ばしたが、魁は振り向かなかった。代わりに横にいる総司郎に目配せすると、やはり無言のまま近くにあった民家の扉に手をかけた。
古びた木戸の軋む音がして、中から湿った埃臭い空気が溢れ出て来た。それでも気にせず、魁はずかずかと家の中へ足を踏み入れる。その後ろから、総司郎が少し遅れて魁についてゆく。
目の前で淡々と進められる探索作業を、雪乃や浩二はしばし呆然としたまま見つめていた。この廃村に打ち捨てられた家屋の中を、何ら臆することなく覗き見る度胸。それだけでも大した物だとは思うが、それ以上に感心してしまうのが、総司郎の一連の動きだ。
彼が既に光を失っていることは、雪乃達も知っていた。こんな夜でもサングラスを外そうとしないのは、その向こう側に、あるべきはずのものがないのを隠すためだ。ただでさえ強面の顔なのに、そこに眼球がなく穴だけが広がっているとなれば、知らない者から好奇の目で見られることは必至だからである。
もっとも、そんなことは雪乃も浩二も気にしてはおらず、むしろ気になるのは、総司郎が実に器用に魁とコミュニケーションを取っているということだった。
先ほどの返答の仕方にしても、およそ目の見えない人間のものとは思えない。魁は無言のまま目配せしただけなのに、総司郎にはその意味がきちんとわかっている。普通の景色は見えなくとも、霊的な感性で、辺りの空気や人間の心までも敏感に感じ取ることができるということか。もしくは、魁と総司郎の間にだけ存在する、一種のテレパシーのような感覚があるのかもしれない。
そんな高校生達の考えを他所に、埃の積もった土間の中央で、魁と総司郎はしばし無言のまま辺りの様子を窺っていた。
土間の脇には、錆びついた農具が転がっている。村を捨てるとき、置き忘れられた物だろうか。それとも、既に持ち主が亡くなって、引き取る者もいないままに、打ち捨てられた物だろうか。
天井に張っているクモの巣は、今や無数の誇りを被り、ほとんど一枚のボロ布のようになっていた。埃と巣が完全に一体化し、時折吹き込む隙間風を受けて、ふわふわと宙に揺れている。大元の巣を作った本来の主は、既にこの家の中にはいないだろう。
やがて、土間に一通り目を通した魁は、総司郎と共に再び雪乃達の前に戻ってきた。そして、雪乃が何か訊ねる前に、残念そうに首を横に振って見せた。
「あの……先生?」
「なんだい? 悪いけど、この廃村には、君達が期待しているようなものはないみたいだね。確かに、ちょっと不気味な村ではあるけど……あくまでただの、過疎によって捨てられた廃村に過ぎないみたいだ」
「ただの廃村って……。それじゃあ、ここは地図にあった場所じゃないってことですか?」
「それは、まだ何とも言えないけど……。とにかく、今のこの村には、邪悪な幽霊や妖怪の類が巣食っている気配はないね。低級な浮遊霊やら不浄霊なんかは漂っているみたいだけど、大した力を持っているわけでもない。君達のお友達を瀕死に追いやった、祟りの元凶になりそうなやつは、残念だけどいそうにない」
「なんだよ、それ。だったら、この場所の他にも、もっとヤバい何かが潜んでいるところがあるってことか?」
雪乃の横で聞いていた浩二が、不満そうにして訊ねた。
自分の彼女である加藤詩織。その彼女を死の祟りから救うために、浩二はわざわざここまで足を運んで来たのだ。彼にしてみれば、ここまで来て当てが外れたなど、肩透かしもいいところである。
こんな結末は認めない。自分は絶対、犬崎紅を見つけ出して、詩織を救ってみせるのだ。その上で、詩織に例のビデオを送りつけた人間の顔を、一発殴ってやらねば気が済まない。
逸る気持ちを抑えつつ、浩二は深く息を吸い込んで意識を集中させた。
落ちつけ。ここで焦っても、自分は霊的なことに関しては素人だ。こういった類の話ならば、自分よりも亜衣の方がまだ詳しい。下手に焦って動いた結果、足手まといになるのだけは避けねばならない。
「なあ、嶋本。自称、≪歩く都市伝説百科≫のお前だったらどう思う? やっぱ、お前も、ここは単なる廃村だって考えか?」
顔は正面に向けたまま、浩二は自分の後ろに立っているであろう亜衣に問いかけた。
返事がない。そう言えば、先ほどから喋っているのは自分と雪乃だけで、亜衣はまったく口を出してきていない。こういった話には目がない亜衣のこと。あの、≪地図から消えた村≫のことをネタに、また奇妙な知識の一つでも語り出したところで不思議はないというのに。
怪訝そうな表情で、浩二はゆっくりと後ろを振り向いた。が、次の瞬間、自分の目の前の光景に、しばし言葉を失った。
「し、嶋本!?」
そこに、亜衣はいなかった。まさか、≪地図から消えた村≫を発見したことで舞い上がり、自分で勝手に調査を始めてしまったのか。
「長瀬君、あそこ!!」
雪乃が村の中を通っている一本の道を指して叫んだ。その先に、他でもない亜衣の姿がある。何やらおぼつかない足取りで、ふらふらと誘われるように歩いている。
これは、いったい何のつもりなのだろう。思わず後ろから亜衣の名を呼ぶ二人だったが、声はまったく届いていないようだった。まるで、何かに導かれるようにして、亜衣はどんどん村の奥へと進んで行く。
目を凝らして見ると、亜衣の周りには数匹の蛍のようなものが待っていた。野生の蛍であれば、浩二も幼いことに見たことがある。が、今、亜衣の周りに飛んでいるのは、彼の記憶にある黄色い光の蛍ではない。
赤い、まるで火の玉のような蛍が、亜衣の周りを誘うようにして飛んでいる。その蛍たちに惹かれるようにして、亜衣の姿がどんどん小さくなってゆく。
「長谷川、追うぞ!!」
浩二が叫ぶのと、彼の足が大地を蹴るのが同時だった。走り出した浩二の後ろを、続いて雪乃や魁、それに総司郎も追いかける。軽率な行動を取るのはまずいとわかっていたが、この状況ではどうしようもなかった。
後ろから追いかけてくる三人に構うことなく、浩二は全力で亜衣のことを追いかける。こう見えても、火乃澤高校のバスケ部では、その俊足を生かして常にレギュラーとして活躍しているのだ。速攻でカウンターを決めることを得意としている浩二にとって、亜衣の足に追いつくことなど造作もない。
だが、そう思って浩二が走れば走るほど、亜衣との距離は遠ざかる一方だった。酒に酔ったような歩き方だというのに、その距離はまったく縮まらない。あまりに不可解な出来事に、さすがの浩二にも焦りの色が見始めた。
やがて、亜衣の姿は村のはずれから伸びている小道に消え、浩二は完全にその姿を見失ってしまった。
「畜生……! いったい、何がどうなってやがる! どうして俺が、たかが嶋本の足に追いつけねえんだよ!!」
思わず声に出し、浩二は叫んでいた。そうしなければやっていられなかったし、何より体力も限界に近かった。
再び顔を上げ、浩二は目の前の小道を見る。小道はどこか、別の場所に通じているのだろうか。古い石畳のようなものが敷かれていたが、その隙間からは雑草が伸び放題に伸びていた。
「ちょっと……早過ぎますよ、長瀬さん……」
少し遅れて、後ろから息を切らした雪乃が追いついた。その横には、魁と総司郎の姿もある。肉体派の総司郎にとっては造作もない距離だったのかもしれないが、魁にとっても、やはり全力疾走は辛かったのだろうか。極力、顔に出ないようにしているようだったが、息が切れているのは明白だった。
「やれやれ……。急に走り出すなんて、いくら君が子どもでも、少し軽率過ぎるんじゃないの? 俺から離れて、何か危険な目に遭ったとしても……その時の安全は、保証できないって言わなかった?」
自分の体力のなさをごまかすようにして、魁は両手を広げて浩二に訊ねた。
「んなこと言ったって、嶋本のやつが、いきなり村の奥に行っちまうんだからよ! あいつの様子が変なの、あんただって見ただろう!?」
「ああ、それは俺も見たよ。確かに、ちょっと普通じゃないみたいだったね。あの蛍といい……少しばかり、厄介なことになってきたかな、こいつは……」
憤慨する浩二を他所に、魁はあくまで平静を装って切り返す。が、実際にその心の中に、焦りがないと言えば嘘だった。
嶋本亜衣が、いきなり村の奥へと歩き出した理由。その原因が何なのか、まだ判断を下すべき時ではない。
ただ、あの赤い蛍のような生き物――――果たしてあれが、本当に生き物と呼んでよい存在であるのであればの話だが――――によって、亜衣が村の奥に導かれたこと。これだけは紛れもない事実だろう。
あの蛍は、いったい何なのだろう。魁と、それに総司郎とて、警戒を怠っていたわけではない。霊的な何かが近づけば、咄嗟に察知して対応するだけの準備はしていたつもりだ。
ところが、そんな二人を嘲笑うようにして、あの蛍の群れは嶋本亜衣を連れ去った。こちらの霊感の包囲網をくぐり抜け、いとも容易く人を誘う。神霊に通じる力を持っている者からすれば、およそ考えられないことである。
あの、赤い蛍は危険な存在だ。それだけは、今の二人にもはっきりとわかった。否、二人だけではない。霊的な存在の知識などほとんどない浩二や雪乃でさえ、あれが何か良くない物であることくらいは、容易に想像がついていた。
「さて……。とりあえず、あのチビちゃんを探しに行こう。今は、それが先決だ」
場の静寂を断ちきるようにして、魁はすっと前に足を踏み出した。そして、徐に後ろを振り返ると、未だ立ち尽くしたままの雪乃と浩二に目を向ける。
「最後に、改めて確認させて欲しいんだけど……。これから先は、本当に俺にとっても未知の領域なんだよね。だから、君達の安全を保証できる物は何もない。思い留まるなら、これがラストチャンスかもしれないけど……どうする?」
「決まってんだろ、そんなの! 俺は、詩織をあんな目に遭わせたやつを許せねえ! それに、ここまで来て嶋本のやつを放り出して、自分だけおめおめと引き帰れっかよ!!」
「私も、長瀬さんと同じです。亜衣ちゃんは、私の大切な友達なんです……。それを、こんな怖い場所に置いて自分だけ逃げるなんて……やっぱり、私にはできません!!」
浩二と雪乃が、それぞれの想いの丈を魁に告げた。そこまで言われれば、魁にも止める理由はない。危険を承知でついてくるというのであれば、これ以上は文句をつけるのも難しい。それが道徳的に正しいか否かは……それに関しては、魁にとって興味のないことである。
「わかったよ……。ただ、何度も言ってるけど、俺の邪魔だけはしないでくれよ。それと、俺が本当にヤバいと思ったら、今来た道を直ぐにでも戻って車の中で待機していてくれ。最初は単なる廃村探索のつもりだったけど……場合によっては、君達が周りにいるだけで、俺の邪魔になるような事態になるかもしれないからね」
最後の方は、やけに念を押すような口調になった。そのまま車のキーを取り出し、それを浩二に向けて放り投げる。難なく受け止めた浩二だったが、その顔はどこか不満そうだ。
口では強がりを言っていても、いざ危険に遭遇すれば、平常心を保つのは難しい。それを知っているからこそ、魁はあくまで浩二と雪乃の意思を何度も確認するような態度を取っている。土壇場でパニックになられては困るという考えからの発言だったが、雪乃も浩二も別の意味で受け取っているようだった。
「何度も言わせんなよ。俺は、ダチを見捨てて逃げるような奴にはなりたくねえ。あんた達みたいに、化け物と戦うような力はないかもしれねえけど……これだけは、嘘も偽りもねえ、俺の本心だ!!」
浩二の声が、夜の山々に響き渡る。その声に驚いたのだろうか。森の木々をねぐらにしていた烏達が、ギャーギャーという鳴き声を上げながら一斉に飛び上がった。
遠巻きに鳥達の去る声を聞きながら、浩二はちらりと雪乃の方へ目を向けた。
雪乃は無言のまま立っていた。もう、言うべきことなど何もない。立場こそ違えと、自分もまた浩二と同じ気持ちである。二つの瞳で、その気持ちを真剣に訴えている。
もう、これ以上は確認するまでもないだろう。苦笑しながらも、魁は二人に「ついて来いよ……」とだけ言って歩き出す。途中、総司郎が何か言おうとしていたが、魁はあえてそれを制した。
嶋本亜衣が村の奥に消えたのは、魁と総司郎の油断にも責任がある。だが、それを持ち出して正義漢ぶるほど、魁は自分で自分のことを善人だとは思っていない。
亜衣に万が一のことがあったとしたら、それは即ち御鶴木魁の名前にも傷をつけることになる。だからこそ、ここは浩二や雪乃の手前、絶対にしくじるわけにはいかないのだ。
人間は、己の欲望に忠実に動いてこそ、最も力を発揮できる。異論があることは承知していたが、それが魁の信ずる一つの考えであるのは確かだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
夜の病院というものは、思いの外に静かな場所だった。もうじき、面会の時間も終わりを告げようとしている時刻。廊下には人影もまばらであり、看護師だけでなく患者や見舞客の姿も少ない。まだ、日が暮れて間もない時刻ではあったが、早い者は既に就寝の準備を始めようとしていた。
重苦しい機械音と共に、エレベーターの扉がゆっくりと開いた。近所の花屋で買った花を両手に抱え、長瀬晶は何やらぎこちない様子でエレベーターを降りた。
普通なら、こんな時間に病院に来ることなど考えられない。自分は病院の空気――――特に、あの独特の消毒薬のような匂い――――が苦手で、できればあまり入りたくないと考えている。ただ、今日に限っては兄である浩二に代わり、加藤詩織の見舞を任されているという理由がある、
「ちょっと! 何、そんなところでモタついてんのよ!」
後ろから、晶と同じくらいの背丈をした少女が彼を急かした。真横に切り揃えられた前髪が、彼女の気丈さを強調しているようにも見える。
「うっせぇな、香帆。病院ってやつは、俺はどうも苦手なんだよ。ここに来る前に、それはお前にも言ったじゃんか!」
少女がエレベーターを降りたところを見計らって、晶はここぞとばかりに振り向いて叫んだ。が、すぐに目の前の少女、紺野香帆の手によって、その大きな口を塞がれた。
「いきない大声で叫ばないでよ! 病院では静かにしなさいって、親から習わなかったわけ?」
ほとんど無理やりに、香帆は晶の言葉を押さえ込んで言い放った。思わず反論したくなるが、ここは黙っていた方が良さそうだ。口では香帆に敵わない。それは、今までの経験で、晶も十分に承知していた。
「悪ぃ……。なんか、わざわざ花選びに付き合ってもらったのに、怒鳴っちまって……」
とりあえず、反省した様子だけは見せておく。まあ、半分は本心もあるのか、晶もまんざらではなさそうだ。香帆もしばらくは憤慨していたが、直ぐに気を取り直したのだろうか。腰に当てていた両手を元に戻し、晶と一緒に目的の病室を目指して歩き出した。
カツ、カツ、という固い足音だけが、病院の廊下に響き渡る。消灯の時間ではないため、院内の廊下はまだ明るい。だが、こうも人に出会わないと、なにやら妙な寂しさと不安を感じてしまう。
明かりが点いているとはいえ、ここは夜の病院だ。こんなときに限って、学校の図書室で暇つぶしに読んだ、下らない怪談話のことを思い出すから嫌になる。
ふと、横を見ると、香帆の顔が思いの外に近かったので驚いた。本人は意識していないつもりなのかもしれないが、こう近づかれると、こちらの方が意識してしまいそうになる。自分の顔が赤くなりそうなのを察し、晶は素早く前に向き直って大袈裟に息を吐いた。
香帆が晶と今のような関係になったのは、卒業を間近に控えた、二月の寒い日のことだった。
あの日、香帆は自分の弟を失った。原因は虐めだ。帰国子女でもある香帆と、その弟であるレオは、周囲から好奇の目に晒されるようなことも少なくなかった。特に、香帆とは違い気の弱いレオは、最後まで虐めと戦うことを選ばずに、自ら命を断つことで、その苦しみから逃れるという選択をした。
自分の弟が死んだという事実。その衝撃を受け止めきれず、心に隙を生んでしまった香帆。そんな隙をついて、悪魔が香帆にささやいた。今は亡き弟のレオに、もう一度だけ会うための、合わせ鏡を使った禁断の儀式を授けたのである。
儀式を授けた者の正体が何なのか。それは、香帆は元より晶も知らない。ただ、儀式の力は本物で、香帆は確かにレオに再会することはできた。もっとも、実際には魂の一部を切り取られる形で、異界で鬼と成り果てたレオに監禁されていただけなのだが。
こちらの世界では、香帆は原因不明の昏睡状態に陥っていた。そんな香帆を救うため、晶は香帆から以前に渡されていた鏡を使い、同じ儀式を試したのである。そして、自分もまた魂だけの存在となって異界を冒険し、果ては鬼と成り果てたレオと対峙して、香帆を救い出すことにも成功した。そして、レオの虐めや異界での体験を通し、香帆とは妙に互いを意識し、それでいて喧嘩も絶えないという微妙な関係が続いている。
喧嘩する程仲がいい。それを自分の身をもって表しているようで、なんとも言えぬ不思議な感じがしてならない。だが、晶にはそれ以上に、自分が異界で見て来た物の方が奇妙に思えて仕方がなかった。
鬼の住む世界や、鏡を使って異界の扉を開くという儀式。こんな話、大人に話しても信じてもらえないに決まっている。否、大人か子供かに関係なく、普通の人には決して信じてもらえないだろう。幽体離脱だの鬼の住まう異界だの……そんな話はオカルト漫画の中の出来事としか、考えてもらえないに違いない。
ただ、自分の体験したことが紛れもない事実であることは、晶も十分に承知していた。それに、何も晶は自分一人の力で香帆を助け出したわけではない。彼が無事に異界を脱出できたのも、鬼と成り果てたレオの呪縛から香帆を救いだせたのも、全ては一人の風変わりな少年の力があってのことだった。
(紅兄ちゃん……。兄ちゃん達は、今、どこで何をやってんだよ……)
気がつくと、心の中で晶はそっと呟いていた。
犬崎紅。異界を彷徨っていた魂だけの晶を見つけ出し、鬼となったレオとも戦い、果ては香帆を救い出した張本人。兄の浩二に頼まれて、自らの危険を顧みず、晶のことを探しに来てくれた少年だ。
彼の力なくしては、今の晶と香帆はいない。だからこそ、晶にとっては、紅は真の意味でのヒーローだった。兄の話では、普段は無愛想で口が悪く、いつも寝てばかりいるとのこと。だが、それが借りの姿であることくらい、頭の悪い晶にさえ容易に想像がつく。
そんな紅だからこそ、晶は今回の事件もまた、彼が解決してくれるものだとばかり思っていた。兄の恋人である加藤詩織。彼女が何らかの祟りを受けたと聞いたときも、紅がいれば大丈夫だと信じていた。
ところが、その肝心の紅は、忽然と火乃澤町から姿を消してしまっていた。理由は知らない。兄に聞いても「こっちが聞きたいくらいだ」と返されるだけだったし、他に相談できる相手もいない。そうこうしている内に、とうとう兄の浩二までが紅を探しに行くと言いだし、晶の下からいなくなってしまった。
今、晶が詩織の病室を目指しているのは、他でもない兄に頼まれたからだ。詩織が倒れて既に五日目。事態は確実に、悪い方へと進んでいる。そんな彼女のことを心配し、兄が晶に後を託すのは、至って自然なことだと思われた。
「あっ、この部屋だ。この部屋が、詩織姉ちゃんが寝ている場所のはずだぜ」
そう言って、晶は部屋の番号を見ると、香帆より先に扉に手をかけて開け放った。
この時間、病室には詩織以外の患者はいないはず。そう思って部屋に入った晶だったが、意外なことに先客がいた。背の高い、いかにも上品そうな顔立ちをした一人の女性。いや、上品なのは顔立ちだけでなく、その全身から醸し出している空気そのものが、彼女が本当に気品のある女性だということを窺わせる。
女性の隣にいるのは、これはまた、なんと言ったらよいのだろう。こちらは男だったが、随分と雰囲気が大人しい。その上、単純に素朴としか表現のしようがないくらい、特徴のないのが特徴のような顔をしている。
女性と晶は初対面だったが、男の方には見覚えがあった。詩織の兄の、加藤俊介。以前、浩二と詩織の話に割って入ったとき、携帯電話に納めてある写真を見せてもらったことがある。もっとも、こうして顔を合わせて話すのは初めてであり、そういう意味ではこちらとも初対面の間柄といえた。
「あら。珍しいわね。こんな遅くに……それも、子どものお客さんなんて」
女性の方が、晶に気がついて声をかけた。今年の春から中学校に上がっていたのに子ども扱いされ、晶は少しばかりむっとした。
もっとも、それは一瞬のことであり、直ぐに晶は自分が怒っていたことさえ忘れてしまった。
改めて見ると、目の前の女性は物凄い美人だ。こういう人を、大和撫子と言うのだろうか。美人なのだが、決していやらしくない品のある顔立ち。彼女の持っている上品な雰囲気が、それを高めているのだろうか。
「あ、あの……。俺、長瀬晶って言います! 今日は……その……兄ちゃんに頼まれて、代わりに詩織姉ちゃんの見舞に来て……」
緊張する必要など何もないのに、気がつくと、妙に焦っている自分がいた。それを見て、目の前の女性が口元を抑えてクスクスと笑う。横にいる俊介も苦笑していたが、唯一、香帆だけが、晶の後ろで面白くなさそうな顔をしていた。
「な、なんだよ! 何が、そんなにおかしいってんだよ!!」
「ごめんなさい。でも、あなたがあまりに緊張しているみたいだったから、つい。」
「う……。そ、それは……」
「そんなに固くならなくても、普通に学校のお友達と話しているような感じで接してくれれば構わないわよ。私、こう見えても、意外とくだけた人間関係の方が好きだから」
そう言いながら、女性はすっと席を立つと、晶の方に近づいて手を差し出した。
「君島沙耶香よ。よろしくね」
「あ……は、はい……」
それ以上は、晶は何も言うことができなかった。沙耶香の顔を正面から見ることができず、代わりに手にした花束を、半ば押しつけるようにして突き出した。
「これ、詩織姉ちゃんへのお見舞いです! なんか……こんなことしかできないけど、よければ飾ってください!!」
自分でも、何を言っているのかわからなくなっていた。お見舞いの花は、あくまで詩織へ当てたもの。沙耶香のために買ったわけではないのに、この言い方は少々変だ。
いったい、自分は何を緊張しているのだろう。かつては火乃澤第二小学校の変態四天王とまで呼ばれ、≪パンチラハンター長瀬≫の異名を持っているほどの自分が、まさか女の人を前にして、こうも緊張してしまうとは。
そう言えば、今まで自分の周りには、沙耶香のような大人の女性が少なかったことを思い出した。最も年上の、十代の少女の知り合いとしては、目の前のベッドで寝ている詩織くらいしか知り合いがいない。これ以外には、母親の友達くらいしか年上の女性と話したことはなく、こと美人の女性には免疫がまるでないのである。
こんなことでは、かつて変態四天王とまで呼ばれた自分の名が廃る。中学校に上がり、さすがにスカートめくりのような低俗な遊びからは足を洗っていたが、それでも情けないことに変わりはない。
「ちょっと、晶! あんた、なにさっきから、そこの女の人にデレデレしてんのよ!!」
先ほどから晶の後ろで不満そうにしていた香帆が、とうとう我慢できずに言い放った。
「なんだよ、それ! そんなの、香帆には関係ないだろ! だいたい、俺は別に、この人に見とれてたわけじゃなくて……」
「見苦しい言い訳なんて、聞きたくもないわよ! ほんっと、いつになってもスケベなところは変わらないんだから!!」
「うっせえ! てめえこそ、どうしていつも、そう可愛げがねえんだよ! 中学生になって、ちょっとは女らしくなったこと思ったのに……。成長したのは、胸と尻だけかよ」
「なっ……!? もう、本当に最低! あんた、いつも私のどこに目を向けてんのよ!!」
自分の口から出た言葉も終わらぬ内に、憤慨したまま香帆は病室を出て行った。いったい、自分の何が悪かったのか。晶には今一つわかっていないようだったが、どうやら俊介と沙耶香の二人にはわかったらしい。互いに顔を見合わせると、苦笑いしつつも俊介が晶に声をかけた。
「おいおい、放っておいていいのかい? ここで喧嘩したままじゃ、これから先、後悔することになるかもしれないよ」
「別に構わねえよ。あいつが勝手に怒って、勝手に出て行ったんだからさ」
「ふぅ……。そう言って、強がっていられる内が華ってこともあるからな。明日、学校で顔を合わせたとき、彼女が口を聞いてくれなかったら……。そう、考えてみることはできないのか?」
「そ、それは……」
穏やかに諭す様な俊介の口調の前に、晶は言葉に詰まってしまった。
確かに、香帆とは喧嘩もするが、その日の内には必ず謝るようにしていた。所詮は些細な気持ちの擦れ違い。それを放っておくことは、どうにも気持ちが悪い気がしてならなかったからだ。
だが、今日はいつもの喧嘩とは違い、香帆は本気で怒っているようだった。それに、このまま互いに顔を合わせないで家に帰ったら、翌日の学校で、再び気まずい展開になるのは目に見えている。
「ご、ごめんなさい……。俺……やっぱ、香帆を追いかけます!!」
「ああ、その方がいい。彼女だって、本当に君のことを嫌いになったわけじゃないだろう。今すぐ追いかけて謝れば、ちゃんと許してくれるはずさ」
「ああ。それじゃ、俺、これで失礼します! 詩織姉ちゃんへの花、悪いけどよろしく!!」
そう言うが早いか、晶もまた病室の扉を開け放ち、香帆の後を追って走り出す。病院では静かにするのが当たり前だったが、今の晶の頭からは、そんな常識など吹き飛んでいる。
やがて、晶の足音が遠くなるにつれ、病室には再び静寂が訪れた。誰もいなくなったことを確認し、沙耶香はそっと部屋の扉を閉める。俊介は俊介で、未だ意識の戻らない妹の詩織の顔を、なんとも複雑な気持ちのまま見つめていた。
目の前のベッドに横たわる妹の姿は、数日前と比べても、随分とやつれているように思われた。その両目にはしっかりと包帯が巻かれ、首には紙人形を繋げて作った飾りを下げている。
医者の話では、眼圧が急激に上がっている以外、特に異常は見られないとのことだった。昏睡の原因は未だ不明で、助かる見込みはないに等しい。現代医学の常識を越えた症状の前に、医者もさじを投げたということだろうか。
詩織が受けた祟りに関しては、俊介も照瑠から聞かされていた。無論、首から下がっている紙人形の意味も含め、これがただの病気でないことは、彼も理解しているところではある。
ビデオを通し、詩織の魂を蝕んだ死の祟り。その影響を弱めるため、身代わりとなっているのが首から下げている紙人形だ。全部で十二体あるその人形が、全て黒色に染まったとき。そのときが、詩織の魂が本当に祟りによって蝕まれ、彼女は無残な死を遂げる運命を迎えるのである。
祟りによって人が死ぬ。そんなこと、普通の人間であれば、まずは疑ってかかるのが当たり前だ。しかし、昨年の夏に起きた奇妙な事件を通して、俊介もまた、霊的な存在を信じる人間へと変わっていた。
≪君島邸事件≫。昨年の夏、自分の恋人である君島沙耶香の家で起きた、謎の幽霊目撃騒動。それは、最初は沙耶香の金縛りに始まり、最終的には恐るべき鬼の呪いによって、当主の妻を錯乱させるまでに至ったという恐るべき事件。
そんな事件を解決してくれたのが、他でもない九条照瑠と鳴澤皐月の二人だった。彼女達の強力がなければ、沙耶香もまた、謎の幽霊に苦しめられて精神を病んでいただろう。もしかすると、そのまま事件の深い部分にまで巻き込まれ、命を落としていたかもしれない。
この世には、自分の常識では測ることのできない世界がある。そして、その世界の住人に対し、自分のような一般人はあまりに無力だ。自分だけでは沙耶香を救えなかったことを考えると、照瑠と皐月には何度頭を下げても足りないくらい、感謝していると言ってもよい。
「ねえ、俊介……」
突然、後ろから声をかけられ、俊介はゆっくりと振り向いた。そこには自分と同じように、心配そうな顔をした沙耶香が、やはり詩織の顔を不安げに覗きこんでいた。
「妹さん、無事に助かるといいわね」
「ああ、そうだな。でも、悔しいけど、今の俺には何もできない。以前、君が妙な事件に巻き込まれていたとき、何もしてやれなかったことといい……こういった話には、本当に自分の無力さを痛感させられるよ」
「それは、言わない約束よ。確かに、あのときの事件を解決したのは、照瑠ちゃんや皐月さんだわ。でも、俊介が私のことを想ってくれていたのは、紛れもない事実じゃない」
弱気になる恋人を叱咤するように、沙耶香は俊介を励ました。気休めだということは、自分でもわかっている。ただ、自分の恋人の想いが痛いほどよくわかるだけに、何か言わないと気が済まなかった。
確かに、自分たちは霊的な存在に対し、何の力も持ってはいない。そういった類の存在を祓ったり、それらを相手に戦ったりすることなど、実際にこの目で見たとしても、簡単に真似できるものではない。
全ての鍵は、照瑠と皐月、それに彼女達の追っている犬崎紅にかかっている。彼らが祟りの謎を解き明かし、その根源を断つことに成功しなければ、詩織は強大な悪意の餌食となって、二度と帰らぬ人となってしまう。
大丈夫だ。照瑠や皐月なら、きっと上手くやってくれる。あの夏の日に、自分を奇妙な心霊現象から助けてくれたのと同じように。そして、君島家を鬼の呪縛から解き放ち、その忌まわしき因習と、骨肉の争いの連鎖を断ち切ってくれたように。
とにかく、今は彼らを信じよう。他に何ができるわけもないが、今となってはそれだけが、自分達にできる唯一のことではないかと思えてならなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
熊笹に覆われた林道を抜けると、そこには開けた場所が広がっていた。
嶋本亜衣を追いかけて、石畳の道を走り続けること数十分。魁と総司郎、そして雪乃と浩二の四人は、奇妙な広場へと足を踏み入れていた。
いったい、ここはどこだろう。見たところ、なにやら小高い丘のような場所である。山と山の間、まるで大地をくり抜いて作られたような小さな盆地が、丘の下に広がっている。
「先生……。ここは……」
柄にもなく武者ぶるいをして、総司郎が魁に訊ねた。魁は無言のまま頷くと、改めて丘の上から眼下の光景を一望する。
そこに広がっているのは村だった。先ほど、自分達がいた場所と同じように、既に廃村となって久しいようだ。もっとも、こちらは家の作りもかなり古く、それ故に、随分と昔に廃村となったらしい。麓の村は近年でも生き残っていたが、山奥の村は、とっくの昔に人が絶えてしまったということだろうか。
丘の上に吹き上げる不気味な風を受けて、魁は思わず懐から取り出した鉄扇で顔を隠した。
間違いない。恐らく、ここが地図に記されていた、夜魅原という場所だろう。この、なんとも言えぬ禍々しい気を含んだ風。こんな物が吹いている時点で、ここに巣食う悪意の強さとやらも、また容易に想像できる。あの、ビデオにあった三柱鳥居があるとすれば、この場所である可能性は極めて高い。
唯一、問題だと思われるのは、この村に流れる陰の気が強過ぎることだった。
通常、霊感の持ち主というのは、普段から常に幽霊が見えているわけではない。霊視にしてもそうだが、一瞬見た程度であれば、少しばかりの違和感を覚える程度である。その違和感の正体が何なのか、霊を見ることに意識を集中させることで、初めて幽霊の姿を拝むことができるのである。
霊の接近に関してもそれは同じで、普通は霊がその辺を漂っていたとしても、そう気にならない物である。ただ、あまりに近くに寄られると、さすがに意識を集中させていなくとも感づくことはできる。増してや、それが強い悪意を持った存在であれば、見たくなくとも目の前にビジョンとして現れてしまう。
ところが、この村に漂う陰の気は、それらの違和感を全てかき消してしまっていた。強いて言うならば、村その物が違和感の塊と言った方が正しいか。木を隠すには森の中ではないが、これでは相手が接近するまで、こちらもその存在に気づけない。周りにどんな霊がいたとしても、近づかれるまでは、その気配を感知することができそうにない。
正直なところ、これは非常にまずい状態であると言えた。あの、赤い蛍に関しては、魁や総司郎の霊感さえもくぐり抜けて現れた。しかし、同時に浩二や雪乃にさえ姿が見えたため、普通の霊的な存在とは異なる、何か特殊な物であるということはわかる。
問題なのは、むしろ普通の幽霊たちだ。この先、どんな浮遊霊や不浄霊、場合によっては悪霊が潜んでいるかわからない。それらの存在に接近されるまで気づけないということは、素人の少年少女を同行させるには、さすがに危険すぎる場所だといえた。
「ふぅ……。悪いけど、君たち。やっぱり君たちは、今からでも車に戻った方がいい。これから先は、俺の霊能力でも感知できない程に、霊気が濃い場所に入ることになる。そんなところを歩いていて、仮に何かの奇襲に遭ったら……正直、俺でも完全に対処できるかどうか難しい」
いつになく慎重に、魁は雪乃と浩二に向かって告げていた。彼らの身を案じる気持ちもあるが、それ以上に、ここから先の探索では、純粋に足手まといになる可能性の方が高かったからだ。
「おい、なんだよ、それは!? それじゃあ、約束が違うじゃねえか!!」
自分のことを見くびられたと思ったのか、浩二が途端に声を荒げた。だが、対する魁も、今度は妥協するような素振りを見せない。互いに一歩も引かず、しばしの間にらみ合いが続く。現実的に考えれば魁の方が正しいのだろうが、浩二にも引くに引けない理由はある。
「あ、あの……」
突然、二人の均衡を破るようにして、雪乃が間に割って入った。
「なんだよ、長谷川。まさか……お前、ここに来て怖くなっちまったのか?」
「違います! ただ、御鶴木先生の言っていることも、少しは正しいのかと思って……」
「結局、同じことじゃねえか。言っておくが、俺は絶対に帰らないからな。どうしても怖いってんなら、お前だけさっきの道を戻って、車の中で待ってろよ」
「そう、ですね……。そう、できればいいんですけど……」
何やら意味深な顔をしながら、雪乃は切れ切れに口にした。いったい、雪乃は何を言いたいのか。訝しく思った浩二が雪乃の後ろに目をやると、彼もまた口を大きく開け、呆然とした顔になって立ちつくした。
「み、道が……。道が、なくなってやがる……」
そこには、あるはずの道が消えていた。先ほど、自分達が通り抜けて来た、熊笹に覆われた細長い林道。確かに使われなくなって久しい道だったのかもしれないが、それでも見失うような道ではない。
これはいよいよ、本当にまずいことになってきた。その場にいる全員が理解して、それぞれの顔に緊張が走る。
「なるほど……。どうやらこの件は、随分と手の込んだことをするやつが絡んでいるようだね。これじゃあ、こちらとしても戻るに戻れない。全員で、先に進んで答えを確かめるしかなくなったってことか……」
顔では平静を保ちながらも、魁は実に不愉快そうにして、鉄扇を胸元にしまいながら言った。
この空間は、どうやら自分が思っている異常に、特殊な位置づけにあるらしい。初めは単なる忌み地だと思ったが、この村はそれ以上に危険な場所だ。
霊気が濃いのは土地の特性ではなく、空間そのものが歪んでいるからだろう。現世に存在していながら、常世の空気の漂う場所。黄泉の国との狭間に位置する、生と死の境界線とも言える不可解な空間。人々の記憶から忘れ去られ、山奥でひっそりと獲物を待つ、村自体が魔物と化した死の世界。
正に、≪地図から消えた村≫の伝説その物だ。嶋本亜衣から聞いた話を思い出し、魁は改めて丘の上から村を見降ろした。
村の中は、ところどころに白い霧が立ち込めている。その中に、時折、ちらちらと赤い光が舞っているのが見てとれる。
赤い蛍。亜衣を連れ去った謎の存在は、この村を根城にしているということか。すると、その赤い蛍に導かれた亜衣は、この村のどこかにいるはずだ。まずは彼女を探し出し、それから村を脱出する方法を考える。三柱鳥居のことに関しては、残念ながら後回しだ。
村から吹き上げる陰の気を含んだ風を受け、魁の髪が静かに揺れた。この先で自分達を待つ者は、いったいどのような存在なのか。未知の世界、未知の相手を前にして、さしもの天才陰陽師も、自分の身体が強張っているのを感じずにはいられなかった。