~ 伍ノ刻 禍村 ~
嶋本亜衣達が火乃澤町を出てA県に到着した頃には、既に時刻は昼を過ぎていた。
犬崎紅の家から発見された謎の手帳。その間に挟まっていた地図を基に、亜衣達はここまでやってきた。地図は東北地方の、それも最北端と呼ぶに近い場所の物である。特徴的な半島の地形から、それがA県のものであると、社会に疎い亜衣や浩二達でも直ぐに気がついた。
「ふぅ……。とりあえず、目的の場所には近づいたね。まずは、一歩前進ってところかな?」
どんぶりの中の蕎麦をすすりながら、亜衣が正面に座っている浩二と雪乃へと顔を向けた。
今、三人はとある町の蕎麦屋にて、軽い昼食を摂っているところだ。魁と総司郎が付近の聞き込みに出掛けている間、とりあえず腹ごしらえをしておけということだった。
地図に書かれていた、夜魅原という謎の文字。これが目的の場所、例の三柱鳥居のある場所を示していることは、容易に想像がつく。照瑠が見つけたという写真の裏にも書いてあったのだから、これは間違いないだろう。
謎の文字が意味するものは、地名のようなものだろうか。原の字がある以上、高原のような場所を連想してしまうが、そこが今でも原野であるとは限らない。
地図にあった場所から推測すると、そこはむしろ、深い山の奥にある場所と考えた方が正しかった。原の字の意味するところが何なのかは、正直なところ、わからない。ただ、あまりに珍しい地名故に、どこかの集落の名前であろうことは、大よその見当がついていた。
そもそも、あの三本脚の鳥居がある場所ならば、絶対に人の手によって開かれた場所に違いないのだ。鳥居は確かに詩織を死の淵へ追いやった元凶かもしれないが、それとて、まさか妖怪が造ったわけでもなかろう。なんらかの人工物である以上、夜魅原と呼ばれる場所もまた、絶対に人の手が入っている場所のはずである。
三人が一通り蕎麦を食べ終えたところで、ガラガラと店の戸が開く音がした。見ると、そこには総司郎と連れた魁が、例の如く白いスーツ姿で立っていた。
「あっ、御鶴木先生! 何か、情報ありましたか!?」
魁の姿を見るや否や、雪乃が期待に目を輝かせて叫んだ。もっとも、その期待は魁が無言で首を横に振ったことで、すぐさま打ち砕かれてしまったのだが。
「残念だけど、収穫なしだね。村の役場に問い合わせても、夜魅原なんて場所は聞いたこともないって言われたよ。一応、郷土資料館とか……他にもヒントになりそうな場所は探してみたけど、手掛かりになりそうな物は、何も見つからなかった」
「そ、そんな……。それじゃあ、私達、ここで行き止まりってことですか?」
「まあ、普通に考えればそうなるね。役場や資料館の人に、過去の資料から夜魅原と呼ばれる場所について探させるにしても、今日明日で見つかるってもんじゃないだろう。下手をすれば、一週間か……場合によっては、それ以上かかる可能性もある」
「一週間!? そんなの、待ってる暇なんてありませんよ!!」
「ああ、そうさ。でも、この辺は過疎が進んでいるから、昔はあっても今はなくなった集落も多いみたいでね。その中から目的の場所を探すとなると、こりゃ随分と骨が折れる話になる。結局、俺たちで地図を見て、×の印のついている場所まで行って探すしかなさそうだ」
大袈裟に両手を広げたまま、魁はうんざりしたような表情で椅子に腰かけた。店の奥から現れた店員に適当な物を注文すると、コップの中の水を口にして、何やら眉根に皺を寄せていた。
「どうしたんですか、先生?」
露骨に不快感を露わにしている魁に、雪乃は怪訝に思って訊ねた。普段は何事にも余裕を持って当たる魁が、こうも不愉快な顔をするとは。いったい、何事かと思ってしまうのも無理はない。
「いや……。よく、山の水は美味しいなんて言うけど、ここの店のはイマイチだな。水道水の臭さが全然抜けてない。いくら田舎の蕎麦屋だからって、浄水器くらいつければいいものを……」
「そ、そうですか。私には、違いがよくわかりませんでしたけど……」
「ふーん。ま、俺の嗜好なんて、今の君達にはどうでもいい話だろうね。それに、今、問題にしなければならないことは、どうやって地図の場所を見つけるかってことなんだし」
何やら口の中を舌で拭うようにしながら、魁は水の入ったコップをテーブルの脇に退けた。この様子では、蕎麦の味にも期待はできそうにない。が、問題なのはそこではなく、これから先、どうやって目的の場所を見つけるかということだ。
後少しのところまでやってきて、こんな田舎の村で行き止まり。そんな不安が、この場にいる全員の頭の中に浮かんできた。いつもは楽観的な亜衣でさえ、やけに神妙な顔つきになっている。
「どうした、嶋本。珍しく、難しい顔しやがって」
どんぶりに残されたつゆをすすりながら、浩二が何の気なしに訊いてみた。普段であれば例の如く、「むぅ、失礼な!!」というお約束の台詞を言って食ってかかってくるものの、今日の亜衣はやけに真面目な顔をしたままだ。何やら彼女なりに考えるものがあるようで、表情を変えようとはしなかった。
「なんだよ。いつになく、今日は静かじゃねえか」
どんぶりの中身を飲み干して、浩二は再び亜衣に向かって言った。すると、亜衣は静かに頬杖をつき、何やら意味深な口調で浩二に答えた。
「別に……。ただ、ここまで来て目的の場所が、≪地図から消えた村≫かもしれないってのが、ちょっと気になっただけだよ」
「はぁ? なんだ、その地図から消えたなんとかってのは?」
「長瀬君、知らないの? まあ、これも私が知ってる都市伝説の域を出ない話なんだけどね。≪地図から消えた村≫の話と言えば、マニアの間では、それなりに有名なんですぞ」
微かな笑みを浮かべながらも、亜衣はそれを口元で両手を組んで隠した。その目がにやりと笑ったことを、隣にいた雪乃もまた見逃さない。これは、亜衣が彼女の専門分野の話をする際に見せる、独特な勿体をつけた語り方なのだ。
「≪地図から消えた村≫って言うのはね……文字通り、今は地図の上に書かれることのなくなった村のことだよ。離農、過疎、その他にも色々と原因はあるんだろうけど、東北とか山陰の辺りに多い話だね」
「へぇ、そうなのか? でも、それと今回の件と、いったい何が関係あるんだ?」
「さっき、御鶴木先生が言ってたじゃん。この辺も過疎が進んでいるから、今は無くなってしまった集落も多いって。だから、私達が目指すのがそういった場所なんだとしたら、≪地図から消えた村≫ってのも、あながち嘘じゃないでしょ」
「なるほどな。まあ、確かに、そう言われりゃそうなのかもしれないけど……」
目の前のどんぶりを脇にどかし、浩二がなにやら納得のいかない顔をして呟いた。
嶋本亜衣の別名は、火乃澤高校の≪歩く都市伝説百科≫だ。そんな彼女が、わざわざここにきて話をするような内容である。きっと、浩二には想像もつかない都市伝説に違いない。
所詮は噂話の類。信憑性にはいささか欠ける話とはいえ、気にならないと言えば嘘になる。それに、単に離農や過疎で廃村となった村の話ならば、亜衣がここまで気にかけるというのも妙な話だ。
「ねえ、亜衣ちゃん。その、≪地図から消えた村≫の話って……やっぱり、怪談か何かなの?」
浩二に代わり、今度は雪乃が亜衣に訊ねた。心なしか、その声は少しばかり震えていた。
「う~ん……。怪談の類かって訊かれると、正直困るね。そうとも言えるし、そうじゃないとも言える……。ちょっと、微妙な話なんですな、これが」
両腕を胸の前で組んで、亜衣は何やら悩んだような顔になる。いつもは饒舌に妖怪だの幽霊だのといった話を語る彼女だが、今回ばかりは何から話せばよいのか迷っているようだった。
「ねえ、二人とも。二人は、杉沢村の話って聞いたことない? これも≪地図から消えた村≫の話の一つで、結構有名なやつなんだけど?」
「杉沢村? そんな村の名前、初耳だぜ」
いきなり話をふられ、浩二がすっとんきょうな声を上げた。雪乃も杉沢村という名前は初めて耳にするようで、何も言わずに首を振って亜衣に答えた。
「そっか。まあ、確かにちょっと、古い話ではあるんだけどね……。昔、杉沢村って呼ばれた小さな集落があってね。その村にいた一人の青年が、ある日突然、鉈だか鎌だか斧だか……とにかく、物騒な凶器を持って、いきなり村人を皆殺しにしちゃったんだ」
「村人皆殺しって……。そいつはまた、随分とぶっ飛んだ話だな」
「そうだね。その男の人も、精神病か何かを患っていたって話もあるから、私達みたいな一般人には理解できない考えあってのことなんだと思うよ。ただ、殺された方からしたら、たまったもんじゃないだろうけど……」
最後の方で言葉を濁し、亜衣はにやりと笑って二人を見る。これから先の話に、否が応でも興味を引かせたい。そう思ったとき、亜衣がよく見せる仕草の一つだ。
「村人が全員殺されちゃったせいで、杉沢村は廃村になっちゃったんだ。当然、地図からも抹消されて、今ではそんな村なんかないよ。でも、村の跡は残っているみたいで、そこに迷い込んだ人は、殺された村人の怨霊に襲われて死んじゃうって話なんだよね」
さらりと流して話した亜衣だったが、浩二や雪乃は真剣に亜衣の話を聞いていた。
一人の狂人の凶行によって、地図から抹消された杉沢村。あまりに不気味で不可解な話ではあるが、妙なリアリティがあることも確かである。少なくとも、学校の怪談レベルのお化け話とは、明らかに一線を画している。怨霊の住処になっている廃村というだけでも恐ろしいが、それ以上に、村人を皆殺しにした男の精神状態が、何より恐ろしく思えてならない。
「ねえ、亜衣ちゃん……。その、杉沢村の話って、本当にあった話なの?」
不安を隠しきれない様子で、雪乃が亜衣に訊ねた。紅に対する想い故に今回の捜索に同行した雪乃だったが、正直なところ、怖い話の類はそこまで得意ではない。
「安心してよ、ゆっきー。杉沢村の話ってのは、たぶん作り話だろうからさ。昔は色々な心霊特番で取り上げられたこともあったけど、結局見つからなかったみたいだしね。たぶん、単にダム工事か何かで地図から消されちゃった村の話と、他の怪談話が組み合わさって出来た話じゃないかって結論に落ち着いているよ」
「そうなんだ。だったら、お化けの出る廃村の話っていうのは、結局は噂話なのね?」
「む……。確かに、杉沢村だけに限って言えば、そういう言い方もできるかもしれないけど……。事は、そう単純な話じゃないんだよ、ゆっきー」
「どういうこと?」
「私も杉沢村の話は、たぶん誰かの創作なんだと思う。でも、似たような話は他にもあるし、何より、この話の基になったと思われる本来の話は、本当にあった話に間違いないんだから」
「マ、マジかよ!? それじゃあ、村人皆殺しってやつも、あれは全部本当の話なのか!?」
雪乃が返事をするより先に、浩二がテーブルを叩いて叫んでいた。その声が、あまりに大きかったからだろうか。雪乃があわてて浩二を制し、そこで初めて、浩二も決まりが悪そうに背中を丸めて小さくなった。
「わ、悪ぃ、嶋本。なんか、いきなり叫んだりして」
「別に構わないよ。こんなこと、慣れた人でなければ、驚かないで聞けって方が無理だもんね。それに、長瀬君の言う通り、モデルになった事件でも村人が大勢殺されたってことは同じだし」
「やっぱ、殺されたってのはマジなのか……。で、それ、いったいどれくらい前の話なんだ? まさか、ここ四、五年の間に起きた事件ってわけじゃねえんだろ?」
「うん。杉沢村の基になった事件は、今から六十年以上も昔、日本が戦争中に起きた話なんだ」
「せ、戦争中!? そんなもん、歴史の教科書にだって書いてなかったぜ?」
亜衣の話に、浩二の目が再び丸くなった。彼女の口調からして、随分と昔の話だと覚悟はしていたが、まさか日本が戦争をしていた時代にそんなことがあったとは。これには雪乃もかなり驚いたようで、息を飲んだまま亜衣の方を見つめて固まっていた。
もっとも、亜衣だけは実に慣れた様子で、そのままさらりと流すように話を続けた。
「日本の農村が、今みたいに誰でもウェルカムな状態になったのって、実は随分と最近のことなんだよね。戦争でアメリカに負けて……確か、農地改革だっけ? あれが行われる前は、随分と閉鎖的な集落も多かったんだよ」
「閉鎖的な集落か……。でも、それと村人皆殺し事件と、いったい何の関係があるんだ?」
「おっ、なかなか良い質問ですな、長瀬君。農村が閉鎖的なことと、男の人がいきなり村人を殺しまくったこと。この二つは、一見して関係がないようで、実は大いに関係があるんだよ」
ドラマに出てくる探偵のようにして、亜衣は浩二の前で指を左右に振った。なんだか馬鹿にされたような感じがして、浩二が少しばかり顔をしかめる。さすがにこの程度でヘソを曲げることはしないものの、この手の話に疎い浩二としては、聞いているだけというのはどうにも歯がゆい。
「閉鎖的な農村なんかではね。その村の中で浮いた存在になっちゃうと、村中から虐められるなんてことも平気で起きたんだ。私達の通うような学校で起きる虐めでさえ、自殺者が出ることだってあるんだよ。それが、村ぐるみでの虐めに発展したら、どうなるか……。後は長瀬君やゆっきーでも、だいたいの想像はつくんじゃない?」
「村ぐるみの虐めってことは……その、虐められていた男ってやつが、逆切れして村人を殺しまくったってことか?」
「その通り。これ、≪津山三十人殺し≫って呼ばれてる、本当にあった事件なんだ。昔は戦争中だったから、国民に不安を与えないために事件が隠蔽されたけど……こういった話を完全に葬ることなんて、例え国でもできないものなんだよ」
亜衣が、確信を持ってすっぱりと言い切った。確かに、例え国家であろうとも、大勢の人が殺された猟奇殺人事件を闇に葬るようなことはできないだろう。戦中のゴタゴタの最中ではわからないが、平和になれば、話は別だ。
身内を殺された遺族が、無念から人に己の恨みを話すこともあっただろう。また、何よりも、こういった話題は、それそのものが格好の噂話の種になる。誰かが隠そうとしたとしても、人づてに話が集落の外へ漏れないとも限らない。ネットの普及した今ほどではないにしろ、戦後と言えば既に近代。いつまでも、江戸時代かそれ以前の時代のように、閉鎖された陸の孤島が存在できるような環境ではないのだ。
「戦後、この話は世間にも伝わって、それはやがて、ある作家の耳に届くことになったんだ。それが、何を隠そう、あの横溝正史大先生! 推理小説で、名探偵金田一耕介って名前聞けば、二人とも思いだすんじゃないの?」
「金田一? あの、爺さんの名前がどうたらって決め台詞のやつか?」
「それは、小説の世界観を借りて、半分二次創作みたいな感じで描かれた漫画じゃん。私が言ってるのはオリジナルの方。本物の小説家が書いた、探偵小説の方だよ」
「それなら、私は知ってるわ。前に、おばあちゃんの家に行ったとき、何冊か本棚に置いてあったのを見たことがある」
何やら勘違いをしている浩二に代わり、雪乃が答えた。
「へえ。ゆっきーのおばあちゃん、推理小説が好きだったんだ。それじゃあ、その金田一シリーズの中に、≪八つ墓村≫ってのなかった? これが、さっきの≪津山三十人殺し≫をモデルに書かれたって言われている小説なんだけど……」
「ごめんね、亜衣ちゃん。実は、私も表紙をパッと見ただけで、中身までは読んでないの」
雪乃が申し訳なさそうに頭を下げた。別に、謝る必要などなにもない。ただ、こういった状況になると、彼女はつい自分の方から遠慮がちに引いてしまう。
「ま、その辺に関しては、仕方ないところもあるだろうね。ゆっきーも、推理小説なんかには興味ないだろうし……。実際、≪八つ墓村≫の話だって、あくまで冒頭に少しだけ実在の事件の名残を感じさせるだけで、後半部分はほとんど別物の話だしね」
自分から話を振ったものの、亜衣は事件と小説の関係についてさらりと流し、それ以上は説明しようとしなかった。
雪乃が≪八つ墓村≫の小説に少しでも目を通してくれていれば、説明もかなり簡単になっただろう。だが、知らないものは仕方がないし、そもそも≪八つ墓村≫の話は、今回の都市伝説には関係ない。あくまで、伝説の裏事情を知るための予備知識といったところだ。
地図から消えた村の都市伝説で、亜衣が本当に気にしていること。それは何も、実在の事件との関連だけというわけではない。彼女が本当に気にかけていること。それこそが、彼女が雪乃と浩二の二人に語りたかったことでもある。
「杉沢村の都市伝説も、その辺は似たようなものなんだよ。確かに≪津山三十人殺し≫の事件がモデルにされたような感じもするけど、実際に比べてみると、やっぱり別物の話なんだよね。殺した人数が三十人から皆殺しに変えられてたり……。私が言うのもなんだけど、結構な尾ひれがついてると思って間違いないですぞ」
「ふうん……。だったら、杉沢村の話ってやつも、結局は誰かが作った嘘の話ってことだろ? それなら、何も気にする必要はないんじゃねえの?」
「うん、そうだね。確かに長瀬君の言う通り、これがぜ~んぶ創作だったら、何にも気にすることはないと思うよ」
創作という部分をことさら強調して、亜衣はあっけらかんとした顔のまま語る。いったい、彼女は何を考えているのだろう。
亜衣の言っていることを整理すると、杉沢村の話というのは、どうやら誰かの作った創作らしい。そして、そのモデルになった事件として、戦中に起きた≪津山三十人殺し≫の影響があるのもまた事実。≪地図から消えた村≫の怪談は、実際にあった猟奇的な事件を基に、オカルトな要素を加えて作られたものに過ぎないということになる。
では、それにも関わらず、亜衣がこの話を気にする理由はなんだろう。話の展開がまるで読めず、雪乃と浩二は怪訝そうな顔をして、次の言葉が亜衣の口から出るのを待つばかりだ。
「なあ、嶋本。さっきから、話の展開が読めねえんだけど……。結局、その≪地図から消えた村≫の話ってのは何なんだ? 誰かの作った怪談話なのか? それとも、本当にあった話だって言いたいのか?」
しびれを切らし、浩二が少々苛立った声で訊ねた。元より頭を使うことは苦手なだけに、こういった話をあれこれと聞かされても、いまいち頭の中で整理が追いつかないのだ。
「まあまあ。ここは焦っても仕方ないですぞ、長瀬君。人の話ってのは、最後まで聞いて、初めて真意がわかることだってあるんだからね」
「でも、正直なところ、私も亜衣ちゃんが何を言いたいのかわからないわ。その……杉沢村っていう村の話が作り話なら、どうして今さらになって気にするの?」
あくまで落ち着いた口調で話す亜衣に、雪乃も浩二を庇うようにして言った。彼女は浩二とは違い幾分か聡明なところもあるが、都市伝説の話となると、やはり頭がついてゆかない。
「うむ、よくぞ聞いてくれましたぞ、ゆっきー。まあ、確かに杉沢村の話に限って言えば、単なる作り話ってことで終わるんだろうね。ただ、この話が生まれた経緯まで考えると、そう笑ってもいられないよ」
「どういうこと?」
「さっき、津山の話のところでも言ったけど……昔の日本の農村って、私達が思っている以上に閉鎖的なところも多かったんだよ。そういった中には、昔から他所の村からも差別されてきた人達が作った集落なんかもあってね。大量殺人や猟奇殺人とはちょっと違うけど……変な都市伝説の基になりそうな、得体の知れない儀式なんかを行っていたところもあったって聞くよ」
「得体の知れない儀式? なんなの、それ?」
「ゆっきーは、こういう話には疎いかもしれないけど……例えば、人柱ってのは聞いたことある?」
亜衣の言葉に、雪乃は無言で頷いた。その程度のことならば、彼女もなんとなくだが聞きかじったことはある。
人柱。古来より、氾濫する川や長続きする日照りの被害を食い止めるため、人間を神の生贄に捧げて行われたとされる忌むべき儀式。その際に人柱とされる者は、ほとんどが大罪を犯した者か、もしくは被差別部落の住人だったと言われている。
科学の未開だった時代では、自然の中に怒れる神の姿を見て、畏敬の念を込めて崇め奉ったことだろう。その一環として、神に生贄を捧げる儀式が生まれたとしても、何ら不思議なことではない。
問題なのは、その生贄として捧げられる人間が、生まれ持って贄となる運命にあるということだ。同じ人間でありながら、差別を受ける階級の血筋に生まれたが故に、人柱として殺される。そんな理不尽なことが、昔の日本では普通にまかり通っていたのだから恐ろしい。
「閉鎖的な農村なんかでは、正直、何が起きていたかわかんないからね。人柱の他にも、例えば食いぶちを減らすために、小さな子どもを合法的に間引くような慣習とか、飢饉の際に人肉を食べることを良しとするような慣わしとか……。酷いのになると、成人の儀式とか言って、一定の年齢になった女の子を村の男で手籠めにしちゃうような儀式なんてのもあったって聞くよ」
「うげ……。間引きに食人に、それから手籠めって……。その話、本当にマジなのかよ……」
「まあ、私も色々なところで拾った情報を基に話しているから、本当のところはどうだか知らないよ。中には話を盛って作られたのもあるだろうけど……全部が全部、嘘だったってわけでもないんじゃない?」
ガラスのコップに注がれた水を口にして、さらりと流すようにして亜衣は話していた。それを聞いている浩二や雪乃は、ただ何も言わずに俯いたままになっている。
人が人の尊厳を、罪の意識なく奪う儀式。伝統や慣習という免罪符の裏に隠された、底知れぬ悪意のような物を垣間見たような気がして、何とも言えぬ嫌な気分にさせられる。
これが食事中ではなく、食後であって本当によかったと浩二は思った。男の自分でも、嫌悪感を隠せないような話なのだ。こんな話を食事中に聞かされたなら、さすがに自分でも蕎麦を食べ続ける自信はない。ましてや、これが雪乃ならば、そのままトイレに駆け込んで吐き戻している可能性もある。
「ねえ、亜衣ちゃん。その話が本当なら……もしかして、私達が向かおうとしている場所も、そんなことがあったって言うんじゃ……」
恐る恐る、雪乃は声を震わせて亜衣に訊ねてみた。だんだんと、亜衣の話したいことがわかってきたからだろう。心の中に溜め込んでいた不安が、一度に溢れ出て来ているようだった。
「うん、まあね。私や加藤さん……それに、ゆっきーが東京で関わった心霊事件に共通するのって、変な鳥居の映像でしょ? その鳥居が何を意味しているのかは知らないけど、たぶん、ろくなことに使われていなかったんだと思うよ」
「ろくなことって……。まさか、その鳥居で、さっき亜衣ちゃんが言っていたような儀式が行われていた可能性があるってこと?」
「さあ、そこまではわかんない。でも、あの神の右手を持つ照瑠の力でも助けられないほど、加藤さんにかけられた祟りは強力だったわけだからね。≪地図から消えた村≫にある、何やら得体の知れない鳥居……。普通に考えても、かなりヤバい物ってことだけは確かだよ……」
最後の方は、亜衣自身も言葉を濁しながら語っていた。杉原村の話ほどではないにしろ、彼女の話が本当であれば、例の鳥居はかなりの曰くを持っているのは確かだろう。いったい、なぜそこまで強力な邪念を抱くに至ったのかはわからないが、相当な過去を持っているのではあるまいか。
鳥居の謎を解くために、忽然と姿を消した犬崎紅。そして、その後を追って街を去った九条照瑠。少しでも二人の力になりたいと思って、亜衣も浩二も、それから雪乃もここまでやってきた。が、今になって、少しばかり後悔の念が浮かんで来たのもまた事実。
せめて、もう少しだけ準備ができていれば。そんな考えが、ちらりと頭の隅を掠めてしまう。邪念の込められた鳥居相手に、素人がどこまで何を準備できるのか。そう訊かれると身も蓋もないのだが、不安がないと言えば嘘になる。
ところが、そんな浩二や雪乃を他所に、亜衣は突然顔を上げ、普段の調子に戻って喋り出した。
「まあ、そんな危険もあるからして、私は御鶴木先生に助けを乞うたのですよ。ねえ、先生?」
椅子に座ったまま首だけを後ろに傾けて、亜衣は今しがたまで蕎麦を食べていた魁と総司郎の方へ向かって言った。それを聞いた魁は、多少の苦笑を混ぜつつも、蕎麦を食べていた箸を置いて亜衣へと向き直る。
「いや……。なかなかどうして、面白い話だったね。俺も心霊特番なんかで都市伝説を追っかけたこともあるけど……正直、ここまで興味深い話を聞けたのは初めてだ。単なるマニアにしておくには、ちょっと勿体ないくらいだね」
「こ、光栄であります、先生! さすれば、是非とも私めを先生の弟子に……いえ、パートナーにしてくださいまし!!」
「おいおい、なんだそりゃ? 残念だけど、その話なら間に合ってるかな。俺には総ちゃんがいるし、なにより君には霊能力の才能がなさそうだ。俺の仕事の片棒を担ぐくらいなら、せめて幽霊の一匹や二匹、軽く祓える程度の力は持ってないとね」
「むぅ……仕方ないですなぁ。でも、私がこんなときのために、先生を呼んだのは本当だよ。だから、もしも今から向かう場所が呪われた村だったとしても、先生と一緒だったら平気かな、なんてね」
「はぁ……。なんか、勘違いしてないか、君? 俺は確かにあの外法使いを探すことを引き受けはしたけど、君達のボディガードまでは引き受けていない。どうしても危ない目に遭いたくないんだったら、今すぐにでもN県行きの特急列車の切符を買って引き返すか、俺の傍から離れないで行動するかのどっちかにしてくれ」
珍しく呆れ顔になったまま、魁はくしゃくしゃと自分の頭をかいて溜息をついた。
火乃澤町を出るときに、魁は三人に同行する際の覚悟を問うたはずだ。その内、雪乃と浩二からは確かに強い意思のような物を感じたが、この小さい少女からは、そういった類のものが感じられなかった。友達の力になりたいという気持ちは嘘ではないのだろうが、やはりどこか、他の二人に比べると意思が弱かった気がしてならない。
結局それは、今、この場で亜衣が言っていたことではっきりした。彼女はこちらを、完全なボディガードとして使うつもりなのだ。それはできないという話を、もっと念入りにしておくべきだったか。今になって、そんな後悔の念が浮かんできた。
他人に利用されることは、自分がもっとも嫌うこと。しかし、相手はたかが一人の女子高生。そんな相手にいちいち腹を立てていれば、さすがに小さな男と見られてしまう。
自分のポリシーとプライドと、その二つを天秤にかけた結果、魁は最後にプライドの方を優先するという選択をした。どのみち、これから向かう先に、危険が何もないという保証はない。結果として、彼女達を守る必要が出てくることもあるだろう。
もっとも、魁にとってはそれさえも、あくまでついでの仕事に過ぎなかった。こちらの邪魔をしないのであれば、女子高生の一人や二人、周りにいても迷惑ではない。決して彼女達の身を案じていないわけではないが、ここで手の平を返して帰宅を強制するのも、自分を過小評価されそうで嫌だった。
「あれ、先生? お蕎麦、もう食べないの?」
突然、亜衣が身を乗り出して、魁の食べていた蕎麦へと目をやった。どんぶりの中には半分ほどの蕎麦が残っていたが、魁は既に箸を降ろし、それ以上は口にしようとしていない。
「言っておくけど、君の話を聞いて気分を害したわけじゃないよ。ただ、俺の口には、やっぱり合わなかったってだけさ」
「勿体ないなぁ……。エビ天なんか、ほとんど丸ごと残ってるじゃん」
どんぶりの中に浮かんでいるエビの天ぷらを、亜衣が何やら物欲しそうな様子で覗きこんでいる。仕方なく、魁はすかさずそれを小皿の上に取り出すと、そのまま亜衣の鼻先に、押しつけるようにして手渡した。
「そんなに食いたいんだったら、君が全部食べればいい。俺はもう食わないし、会計もこっちで持っておくから、後は好きにやってくれ」
「えっ、本当!? やったぁ! やっぱり、金持ちは庶民と違って太っ腹が一番ですなぁ!!」
ほとんど犬か猫のようにして、亜衣は皿の上のエビ天を、口で咥えて頬張った。あまりに品の無い食べ方に、魁は思わず顔を背ける。子どものすること故に仕方ないとはいえ、どうもこういったノリの人間とは相性が悪い。
先ほど、あれだけ妙な話をしていながら、その直後に平気でエビ天が食べられる。なんというか、底抜けのタフさだと魁は思った。
これならば、このまま同行させても大丈夫か。少なくとも、お化けの一匹や二匹を見ただけでは、彼女は驚きそうにない。一人で遭遇したなら話は別だが、仲間と一緒にいれば意外と平気なのかもしれない。
それに、彼女の話は魁としても、いくつか興味を惹かれる物があったのも事実である。特に、最後の人柱の下り。魁もあれは、可能性としては十分に考えられると思っていた。
人里離れた山奥で待つ、三本脚の奇妙な鳥居。そこに隠された謎が何なのか、まずはそれを解明することが先決だろう。あの外法使い、犬崎紅もまた鳥居の謎を追っているのだとすれば、その謎に近づくことが、紅に近づくための鍵となる。
(さて……。こいつはまた随分と厄介なことになってきたけど、その分、楽しませてもくれそうだね。あの外法使いが謎を解くのが先か、俺があいつに追いつくのが先か……。勝負のわかれ目はそこかな?)
ポケットから黒皮の長財布をちらつかせつつ、魁はそんなことを考えた。
犬崎紅には、東京での事件の借りがある。鳥居の謎を先に解くことで、それを返せるというのであれば、やってみる価値は十分にある。
未だ蕎麦を食べ終わらない総司郎を他所に、魁は一足先に全員分の会計を済ませ、そのまま店の外へと出て行った。質の悪い蕎麦を食べさせられたからだろうか。何やら無性に外の空気が吸いたくて、表へ出るや否や、魁は大きく両腕を上へと伸ばした。
山の方から流れてくる自然の香りが、魁の鼻腔を刺激した。こんなに空気が清んでいるのに、なぜ、蕎麦だけが不味かったのだろう。
鳥居の謎や都市伝説の真相以上に、今の魁にとっては蕎麦の味の謎の方が、よっぽどミステリーに思えてならなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
蕎麦屋を出て山道に差し掛かった頃には、もう既に日は山の向こう側に傾き始めていた。
鬱蒼とした森が延々と続く山の道を、場違いな光沢を放つメルセデスが走り抜ける。幸い、まだ道路はきちんと舗装されているものの、こんな場所をこんな時間に車で走る人間は、そういないはずだ。
時折、カーナビの画面に目を通しながら、魁は辺りの様子を注意深く窺いながら車を走らせた。
ここは、名もなき田舎の山道だ。近くに観光地やキャンプ場があるわけでもなく、杉の林だけが延々と続いている。恐らくは、人の手によって植えられたものなのだろう。が、離農と過疎が進み、林業に携わる人間が減った今となっては、完全に放置されている可能性の方が高かった。
地元の人間でさえ、既にほとんど使わなくなったような道なのだ。そんな場所で、地図に書かれた×の印だけを頼りに目的地を探す。目印も何もない状態故に、このまま進んで、果たして本当に目的地に着けるのかという不安が少しだけ頭をよぎる。
やがて、日も完全に落ちたところで、いつしか辺りは杉の林から広葉樹の林に変わっていた。森の空気が変わったことで、助手席に座っている総司郎が、一瞬だけ顔を上げて反応した。
「どうした、総ちゃん? 何か、妙な気配でも感じたかい?」
車の速度を少しだけ落とし、魁が正面を向いたまま訊ねた。
「いえ……。ただ、なんかちょっと、周りの空気が変わったって感じただけっす。今までは、まだ少しだけ人の生きていた跡みたいなのを感じたんっすけど……ここにはそれが、ほとんど感じられないかと……」
「ああ、なるほど、そういうことね。総ちゃんにはどう見えているか知らないけど、今、俺達は杉の林を抜けて、広葉樹の森に入ったんだよ。それも、ただの広葉樹じゃない。大昔からの植生をずっと保ち続けている、俗に言う原生林ってやつだ」
その、ホストのような外見とは裏腹に、魁はなにやら博識なことを語ってみせた。これには、後部座席に座っている三人も意外だったのだろう。亜衣も雪乃も、そして浩二も、なにやら感心した様子で魁の話に耳を傾けている。
「まあ、原生林って言っても、実際はそこまで大袈裟なものじゃない。こうして、人の舗装した道路が真ん中を突っ切っているし、完全に人里から切り離されているわけでもない。あくまで、ちょっと古い時代からある森ってだけだろうね」
さらりと流すように言いながら、魁はカーステレオのスイッチを軽く入れた。何やら聞いたことのないクラシックな音楽が流れ出し、車内の静寂は一瞬にして破られた。
暗く、静かな森の中。同乗者の不安を払拭する目的もあったのだろう。もっとも、気分転換と思っているのは魁だけであり、他の者は完全に、言葉を失って周囲の空気に飲まれていた。
いつしか車は舗装された道を抜け、砂利道のような悪路を走り始めた。カーナビには、一応は道の様なものが示されているものの、ここが正規の国道などでないことだけは確かである。
ふと、窓から外に目をやると、そこには大きな崖が広がっていた。
突然、車が大きく揺れ、車内に少女達の軽い悲鳴が響いた。目と鼻の先に見える崖の底は、暗闇に包まれて下まで見えない。こんなところで道を踏み外して下に落ちたら、絶対に助からないことだけは明白だ。
いったい、自分達はどこに向かっているのだろう。地図とカーナビの表示を照らし合わせながら進んでいるのはわかるが、本当にこれで、目的の場所に辿りつけるのだろうか。
だんだんと、不安ばかりが大きくなってきた。これから先、未知の物が待ち受けていることに対する不安ではない。それ以前に、自分達が正しい道を進んでいるのかどうかという、漠然とした不安と言った方が正しい。
もっとも、ここまで来てしまったからには、最早引き返せないということだけは全員が知っていた。道は車がちょうど一台分しか通れる幅がない。切り返しをするような場所さえなく、ただひたすら前に進む以外には、この暗闇を抜ける術はない。
いつしか車内には、再び静寂が訪れていた。カーステレオから流れるクラシックは既に終わりを告げ、今では車の揺れる音だけが、不規則なリズムを刻んでいる。
「あれ? あそこにあるの、なんだろう……?」
突然、正面に現れた白い影に、亜衣が反応して顔を上げた。それには魁も気づいていたようで、車の速度をゆっくりと落として近づけた。
「へえ……。どうやら、俺達以外にも先客がいたらしいね」
車を止め、魁がそんなことをぼやきながら扉を開ける。そこにあったのは、一台の白塗りの乗用車。魁のメルセデスほど高級な車ではないが、その車体は随分と新しい。山中に遺棄された盗難車の類などではなく、ここ数日の間に停められたということだけは、素人目に見ても明らかだった。
「おい。これ……火乃澤ナンバーの車じゃねえの?」
後部座席から降りてきた雪乃と亜衣の間で、浩二が車のナンバープレートを見て叫んだ。確かに、そこのナンバーには、亜衣達の住んでいる火乃澤町の名前がある。と、いうことは、これは照瑠や皐月達が、ここに来るために乗ってきた物ということだろうか。
犬崎紅は、独りで車を運転できるはずがない。だが、皐月であれば、それも可能だ。なにより、自分達も彼女達と同様に、夜魅原という謎の場所を目指している。その旅路の果てに、火乃澤ナンバーの車を見つけたとなれば、これはもう間違うはずがない。
やはり、自分達の進んで来た道は正しかったのだ。思わずほっと胸を撫で下ろす亜衣だったが、魁や浩二は油断なく辺りの様子を窺いながら、険しい表情を崩さなかった。
今、自分達のいる場所は、鬱蒼とした森の中。崖はいつしか終わりを告げ、道は再び樹海の中心部へと入っていたようである。
彼らの正面にあるのは、巨大なフェンスのような物だった。フェンスは建てられてから相当の年月が経っているらしく、かなり錆びついて痛んでいる。取り付けられた看板の塗装は既に剥げ落ち、かろうじて、立ち入り禁止の文字が読めるだけとなっている。
入口部分に目をやると、驚いたことに、そこには何の封印も施されてはいなかった。訝しげに思って目線を下に向けると、魁は思わず納得したような顔をして頷いた。
そこにあった物は、やはり同じように錆びついた、古くて頑丈そうな鎖の束。どうやら誰かが既に封印を解いたらしく、その誰かがこの先へ向かったこともまた、容易に想像することができる。
「さて……。どうやら、車で行けるのはここまでみたいだ。ここから先は、本当にどんな危険があるかわからない。それでも、君たちは一緒に来るかい?」
両手をわざとらしく大きく広げ、魁は後ろにいる少年少女達に問いかける。一人くらいは怖気づく者がいると思っていたが、予想に反し、首を横に振る者は誰もいなかった。
「俺は行くぜ、御鶴来先生。あんたと違って、俺には特別な力なんてない。だけど、詩織をあんな目に遭わせたやつは、やっぱり一度、ぶん殴ってやらなきゃ気が済まねえ」
「私も大丈夫です。犬崎君や照瑠ちゃんが大変な目に遭っているなら……私だって、今度は二人の力になってあげたいと思います」
浩二と雪乃が、それぞれに自分の想いを告げる。あの蕎麦屋で亜衣の話を聞いた時に見せた、後悔の念のようなものは既にない。完全にふっきれたわけではないのだろうが、今となっては、再び決意の方が彼らの心の中で大きくなっていた。
「なるほど。そこまで意思が固いなら、俺はもう止めはしないよ。後は、そっちのおチビちゃんだけど……君はどうする?」
「わ、わたしだって、平気だもん! それに、こういうときのために備えて、色々と準備もしてきたんだからね。≪地図から消えた村≫だろうとなんだろうと、行ってやろうじゃありませんか」
声の震えを押し殺して、亜衣も堂々と啖呵を切った。そして、背中に背負っていたリュックサックを下に降ろすと、その中から数本の懐中電灯を取り出して全員に渡した。
「はい、これ。こんなこともあろうかと、人数分用意しておいたんだ。他にも非常食とか救急セットとか、役立ちそうな物を色々と詰めてきたよ」
「へえ、準備がいいな。ただの都市伝説オタクかと思ってたけど、少しは見直したぜ、嶋本」
「むぅ、失礼な! こう見えても、私だってそれなりに考えて行動はしているつもりなんだからね! 何もかも御鶴木先生に任せて、手ぶらで来るほど馬鹿じゃないよ」
リュックサックを背負い直し、亜衣が憤慨した様子で浩二に向かって叫んだ。この調子なら、怯えて足手まといになることもなさそうだ。
苦笑しながらも、魁は再び正面に向き直り、フェンスの先をじっと見据える。
そこに広がっているのは、ただ闇ばかりだった。月明りも、それから亜衣達の手に握られた懐中電灯の光さえも、完全に飲み込む程の深い闇。
闇の向こうから、冷たく陰気な風が吹いてきた。魔獣の爪と牙を連想させる、暗く冷たい肌を刺す風だ。
風が肌に触れると、それはピリピリとした刺激となって、魁の頬に伝わった。初夏も近づき、既に春から夏へと季節が移り変わろうとしているのに、この山道を吹く風は、まるで酷寒の冬の風だ。
この先には、果たしてどんな魔物が潜んでいるのだろう。ただならぬ妖気のようなものを感じながらも、魁はフェンスに備え付けられた扉に手をかけて、躊躇うことなくそれを開け放つ。
錆びついた金属が軋む音が、夜の山に響き渡った。暗闇の中、亡者の悲鳴とも魔物の雄叫びとも取れるような、なんとも不快な音が耳を刺す。
フェンスを抜けて向こう側に入った瞬間、魁は場の空気が一瞬にして変わったことを鋭く察した。後ろを見ると、あの総司郎が、いつになく不安そうな表情を浮かべている。光を失い、視覚以外の感覚が鋭敏になっている彼だからこそ、この場に漂う陰鬱な気もまた強く感じるのだろう。
地図から消された集落へと続く、打ち捨てられた古びたフェンス。それはまさしく、これから先に待つであろう三柱鳥居に潜む、魔物の大口と言っても過言ではないものだった。