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~ 四ノ刻   呼声 ~

 その日の晩、亜衣は湯船につかりながら、今日の犬崎邸であったことを思い出していた。


 無人となった紅の家で見つけた謎の手帳。使われなくなってから久しいと思われる、書斎の中で見つけたものだ。


 埃の積もった机の上に転がっていた、黒い合皮の表紙を持つ手帳。それを手に取ってみたとき、確かに亜衣はこの目で見たのだ。手帳の表紙に、突如として二つの目玉が現れ、それが彼女のことを睨みつけたのを。


 あれは、いったい何だったのだろう。極度の緊張から来る、一種の幻覚のようなものだったのだろうか。都市伝説マニアを自称し、時に廃屋探検まで行ったことのある自分としては、さすがにそれはないと思いたい。


 それでは、あの目玉の正体は何なのか。正直なところ、それは亜衣にもわからない。その上、今の亜衣にはそれ以上に、気になっていることがたくさん存在したのだから。


「ねえ、ゆっきー。ゆっきーは、今日、私が犬崎君の家で見つけた手帳のこと、どう思う?」


 同じ浴室で身体を洗っている雪乃に向かい、亜衣は首まで湯船につかった状態で訊ねた。


「どう思う、か……。正直なところ、私にもわからないかな。亜衣ちゃんと違って、私、そういう話は全然詳しくない方だから」


「そっか……。まあ、そりゃそうだよね。ごめん、変なこと訊いて」


「別にいいわよ。亜衣ちゃんだって、照瑠ちゃんや犬崎君のことが心配なのは、同じ気持ちなんだしね」


 身体を洗う手を止めて、雪乃は軽く微笑みながら亜衣に答えた。亜衣は口元からぶくぶくと泡を出しながら、鼻先まで湯船の中に沈めてゆく。


 雪乃が亜衣の家に泊まることになったのは、ほとんど成り行きからだった。お忍びに近い状態で火乃澤町まで帰って来てしまったため、今の雪乃には泊まる場所がない。事務所は元より、両親にさえこの件は伝えていないため、下手に家に帰ろうものならば、逆に騒ぎが大きくなる。


 県内のホテルに泊まっている魁を頼るという手もあったが、さすがにそこまでは甘えられない。半ば、強引に着いて来たようなものなので、ここでホテル代まで出してもらうのは気が引ける。


 それに、立場は違えど同じくテレビに露出して、それなりに顔の売れている者同士。下手に県内のホテルに入るところを目撃でもされたら、それこそ三流雑誌やスポーツ新聞の記者に何を書かれるかわかったものではない。


 結局、現状では亜衣の家に泊まるのが一番良いということで、雪乃もそれを了解した。亜衣の両親も、雪乃とは昔からの知り合いである。亜衣が「ゆっきーは、今日はお忍びで来ている」と伝えると、彼女の宿泊に関しては秘密にするという約束を、快く了承してくれた。


「ねえ、話は変わるんだけどさ……」


 亜衣が、再び顔を湯船の中から出して訊ねた。


「ゆっきーは、どうして犬崎君を探すのに同行しようなんて考えたの?」


「ど、どうしてって……。それは……」


 身体に着いた泡を流したところで、雪乃は胸元に手を置いて言葉を詰まらせた。ふいを突かれた質問だったので、答えを用意していなかったのか。


 いや、そうであれば、彼女が紅を探すのに同行する理由がなくなってしまう。単なる気まぐれや思いつきで行動するほど、雪乃は浅はかな少女ではない。そのことは、何よりも彼女を良く知る亜衣が、一番知っていることだ。


「亜衣ちゃんは……どうして、そんなことを訊くの?」


 質問に質問で返す形で、雪乃は静かに俯いた。やましいことを隠すというよりは、恥ずかしがっていると言った方が正しい態度だ。旧友の微妙な変化を、亜衣も敏感に感じ取った。


「どうしてって……そんなの、ゆっきーが心配だからに決まってるじゃん。私達みたいな一般人と違って、ゆっきーは芸能界でも顔の売れてる、トップアイドルの一員なんだよ。そんな子を、どんな危険が待ってるかもわかんない冒険に、成り行きで撒き込むわけにいかないじゃん」


「ありがとう、亜衣ちゃん。でも、これは私が自分で決めたことだから。だから、心配しなくても平気だよ。それに、危険があることくらい、私だってわかってるし……」


「わかってるって……。いったい、どうしちゃたのさ? 昔のゆっきーは、こんな無謀なことに自分から首を突っ込むような子じゃなかったじゃん。もしかして、アイドルデビューしたことで、妙な度胸がついちゃったとか?」


「そうじゃないの……。ただ、犬崎君が行方不明って聞いたとき、私は私にできる限りのことがしたいって……そう、思っただけだから……」


 だんだんと、雪乃の顔が赤くなってきた。風呂場の熱気に当てられたからというには、先ほどから湯船に浸かっている亜衣と比べても、随分と紅潮している。普段はあまり見せることのない雪乃の表情に、亜衣は自分の友人が、何を思っているのかを理解した。


 間違いない。雪乃は紅に気があるのだ。本人の口から直接聞いたわけではないが、これは紛れもない事実だろう。そうでなければ、雪乃が自分の仕事さえもかなぐり捨てて、紅の捜索に同行しようなどと言い出すはずがない。


 唯一、亜衣が気になったのは、雪乃がなぜ、紅のことを意識するようになったのかだ。


 雪乃と紅が出会ったのは、昨年のクリスマスから正月にかけてのこと。彼女の依頼を受ける形で、紅は巨大な蟲の化け物と化した、彼女の事務所の元社長を退治することになった。その際、紅は身を呈して雪乃達を守ったのだが、それがきっかけだったのだろうか。


 吊り橋効果。そんな言葉を思い出して、亜衣はふと不安な気持ちになった。


 危険を伴うような場所で男女が出会うと、その際の動揺や昂奮を恋愛感情のそれと勘違いし、そのまま自分が相手のことを好きであると錯覚してしまうというものだ。


 雪乃も紅も、確かに最後は同じ危険を共有した仲ではある。が、しかし、紅はあくまで仕事の一環として怪物を退治しただけであり、雪乃に対して特別な感情を抱いていたわけではない。亜衣はその場にいなかったため、あくまで照瑠や雪乃から聞いた範疇での話なのだが、この件だけで雪乃が紅を意識するのは、いささか性急過ぎると思えてならなかった。


「あのさ、ゆっきー。犬崎君のことなんだけど……ゆっきー、もしかして犬崎君に気があるの?」


 遠回しな言い方をせず、亜衣はあえて、単刀直入に訊いてみた。案の定、雪乃はますます動揺した様子になり、手に持っていたタオルを落として固まった。


「えっ……!? ど、どうして、そんなこと訊くの?」


「どうしても何も、ゆっきーの顔に書いてあるんだもん。だいたい、犬崎君に特別な感情を持ってなきゃ、今回の同行の件だって出てこなかったでしょ?」


「う、うん……。それは……確かに、そうなんだけど……」


 意外にあっさりと、雪乃は自分の紅に対する気持ちを認めた。これには亜衣も拍子抜けしてしまったが、ここで納得してしまうわけにはいかない。一時の気の迷いのような感情で、友人を危険に撒き込むわけにはいかないからだ。


「ねえ、ゆっきー。ゆっきーは、どうして犬崎君のことが好きになったの? やっぱり、例の事件で命を助けてもらったから?」


「それも、ちょっとはあるかな。でも……本当は、犬崎君に初めて会ったとき、言われた言葉のせいかもしれない」


「犬崎君がゆっきーに言った言葉? なんだっけ、それ?」


 亜衣の目が、丸く開かれたまま宙を泳いだ。彼女も知っている通り、紅はぶっきらぼうで口が悪く、かなり無愛想な人間だ。決して悪意を持ってやっているわけではないのだが、それでも妙な誤解を招き易い。


 そんな紅が、雪乃に初めて会ったときに言った言葉とはなんだろう。残念ながら、亜衣もそこまで覚えていない。ただ、初対面の人間が紅のことを気に入るとは到底思えないため、少しばかり不思議には思ったが。


「私が初めて犬崎君に会ったときのこと、覚えてる? 私が、歌を歌えなくなるなら死んだ方がマシ、なんて言ったら、物凄く怒ってさ。死ぬ覚悟を決めるくらいなら、生きる覚悟を決めろ、みたいなこと言いだして、私にお説教してきたのよね」


「ああ、そう言えば、そんなこともあったね。確かにあの時の犬崎君、いつもとは随分と雰囲気が違ったし。普段はぼーっとしてることが多いけど、珍しく感情的になってたからね」


「うん。でも、たぶん、それがあの人の本当の姿なんだと思う。それに……私にあそこまで真っ直ぐ意見してくる人なんて、初めてだったから……」


 最後の方は、少し照れ臭そうにして雪乃は言った。


 芸能界で仕事をするようになってから、今までも自分のことを応援してくれる人は大勢いた。しかし、その誰もが雪乃のことを持ち上げるだけで、彼女を本気で叱ってくれるような人間は、残念ながらいなかった。


 雪乃のことを心底大切に思っている、マネージャーの高槻でさえ、あまり雪乃を叱るようなことはしない。彼は確かに業界でも珍しい程に良識のある人間だが、それでも少々過保護すぎるところもある。彼にとって、雪乃達アイドルは守るべき対象であり、本当に必要に駆られるまで、叱責という形で成長を促すようなことはしようとしない。


 正直、最初に紅に言われたときは、雪乃もかなり腹立たしい気持ちになった。業界のことも知らず、自分の苦しみさえわからない人間が、いきなり何を言い出すのか。そんな感情が湧いてこなかったと言えば、それは嘘になる。


 だが、事件を通して紅と関わってゆく内に、雪乃はだんだんと彼という人間がわかってきた。


 常に人を避けるような態度と、ともすれば周りに冷たい印象を与えかねない口調。彼が必要以上に他人との関わりを求めていないことは明白だったが、その半面、誰よりも命というものを大切にしていることも確かだった。


 事件の最後、紅は自らの命を賭けて、怪物と化した雪乃の事務所の元社長を退治した。人間でも妖怪でもない、二つの存在が入り混じって生み出された、異形の化け物。普通に考えれば、人の敵う相手ではない。それでも紅は、負傷しながらも雪乃達を守り、最後まで自らを省みず戦い抜いた。


 自分を本気で叱ってくれて、自分を本気で守ってくれた。何もかも、雪乃がアイドルとしてデビューしてから、初めてのことだった。それらの記憶が雪乃の中で徐々に固まってゆく内に、彼女の中で淡い恋心に変わっていったのだろう。


「なるほどねぇ……。ま、確かにそう言われると、ゆっきーが惚れるのも無理ないか。犬崎君、あれで黙ってれば、結構なイケメンだし。口が悪いのが欠点だけど、悪人ってわけでもないからね。その辺のチャラチャラした男なんかよりは、よっぽど頼りになるとは思いますな」


 浴槽から身を乗り出して、亜衣は独り納得したような顔をした。その途端、雪乃が返事をする代わりに、小さなくしゃみをして亜衣に答えた。


 いくら初夏に近い季節とはいえ、さすがに風呂場で長話をしていては身体も冷える。亜衣に促される形で、雪乃も自分の身体についた泡を落とし、そのまま湯船へと身体を鎮めた。


 ザッ、という水音と共に、湯船からお湯が溢れ出した。亜衣の家の浴槽は、一般家庭の物にしては、それなりに広い物を使っている。が、それでも温泉や銭湯の湯船とは違い、さすがに高校生が二人も入ると少し狭い。


「ふぅ……。なんか、こうしてゆっきーと一緒にお風呂入るってのも、久しぶりのような気がしますな。たぶん、小学校の林間学校のとき以来かもね」


「そうね。高校生になってからは、お仕事も忙しかったし……。東京の事件のときは、皆を私のマンションに泊めたけど……あのときはゴタゴタしてて、こうやってゆっくりお話することもできなかったしね」


「だよね。私も照瑠も、それからまゆさんも、み~んな適当にシャワーで済ませて、最後は部屋に雑魚寝だもん。泊まりがけの女子会ってのとは、確かにちょっと違いましたなぁ……」


 両腕を頭の後ろで組み、亜衣はぼんやりと考えた。


 雪乃の言う東京での事件とは、彼女が亜衣を通して紅に依頼をした件である。雪乃が偶然にも知り合った篠原まゆ。彼女の出演していた番組のプロデューサーが、眼球破裂によって変死したという恐るべき事件だ。


 思えば、あの事件に関わったからこそ、例のビデオが送られて来たのではあるまいか。少なくとも、亜衣にはそう思えてならない。


 紅が行方不明になる少し前に、亜衣も事件の全貌については紅から聞いていた。ビデオの邪念から解放され、病院で目覚めたとき、紅の口から簡単に事の経緯を説明されていたからだ。


 ビデオに映っていた三柱の鳥居は、プロデューサーを変死に追いやった原因と同じ物。その鳥居がある場所を捜し出し、そこに巣食う魔物を退治しなければ、加藤詩織も変死したプロデューサーと同じ末路を迎えてしまう。


 そんなことは、なんとしても阻止したい。そのためにも、紅の協力はどうしても必要なのだ。自分には大した力があるわけでもないが、自分がまったく無関係なわけでもない。いつも紅や照瑠に全てを任せてしまっていては、≪歩く都市伝説百科≫の名が廃る。


 自分だって、やるときはやるのだ。現に、あの御鶴木魁を呼び出すことにも成功したし、事件に関係しそうな場所の地図も見つけることができた。それだけでも、今日は十分な収穫だ。もっとも、今の亜衣にはそれ以上に、雪乃が紅に対して抱いている想いの方が、気になって仕方なかったのだが。


「ねえ、ところでさ。ゆっきーは、犬崎君を見つけたら、その後はどうするつもりなの? やっぱり、その場で愛の告白とかしちゃうつもりなわけ?」


 ほんの少しだけ意地悪な笑みを浮かべ、亜衣は雪乃の腕を指で突いた。咄嗟に訊かれ、雪乃は狼狽しながら目を丸くする。あまりに急なことで、答えを考えていなかったのだろうか。


「そ、それはさすがに、私もちょっと……。ただ、犬崎君が困ってるなら、私だって力になりたいの。あの犬崎君が行方不明だなんて……やっぱり、ただ事じゃないとは思うし……」


「おやおや、随分と控え目ですなぁ、ゆっきー。犬崎君恋しさに、わざわざ火乃澤町まで戻ってきた勢いは、どこへ行ってしまったのやら」


「仕方ないわよ……。それに、犬崎君には照瑠ちゃんがいるじゃない。照瑠ちゃんも、私にとっては大切な友達だし……。だから、私が勝手に犬崎君に手を出すのは、さすがに照瑠ちゃんに悪いしね」


「なんだ、そんなこと。だったら、心配は御無用ですぞ。なにしろ犬崎君は、究極の朴念仁ですからね。照瑠殿が犬崎君をどう思っているかは知らないけど……とりあえず、二人は別に、恋人同士でもなんでもないよ」


「えっ……! そ、それ、本当!?」


 雪乃の目が、再び大きく見開かれた。自分の予想していた答えとは違うことを言われ、嬉しさ半分、驚きも半分といったところだろうか。


「こんなこと、嘘吐いてどうするのさ。だいたい、照瑠も素直じゃないところがあるからね。あんな調子じゃ、二人は爺さん婆さんなるまで一緒にいたとしても、恋愛に発展することはないだろうね」


「そ、そうなんだ……。私、てっきり、二人が付き合ってるんじゃないかとばっかり思ってた」


「それが、そういうわけではないんですなぁ……。だから、ゆっきーも泥船、もとい大船に乗ったつもりでいていいと思うよ。第一、ゆっきーは私なんかと違って、脱いだら凄いナイスバディだからね。なんだったら、いっそのこと犬崎君を見つけたら、照瑠より先に誘惑しちゃえばいいじゃん。持ってる武器は、最大限使う。これ、兵法としては常識ですぞ」


 何やら得意げな表情になりながらも、亜衣は雪乃の胸元をしっかりと見据えながら語って聞かせた。その言葉の意味することと、彼女の視線の先にあるもの。それらが何なのかを知って、雪乃は慌てて自分の胸元を腕で隠した。


「ちょ、ちょっと、亜衣ちゃん!? そんなにしげしげと、胸ばっかり見ないでよ!!」


「なにさ。女同士なんだし、別に恥ずかしいことなんてないじゃん。だいたい、私なんかゆっきーとは違って、まな板みたいにつるつるのぺったんこなんですぞ。身長だけじゃなくて、胸まで小学生並みなんだから……正直、ちょっと羨ましいですなぁ……」


 深い溜息と共に、亜衣は力なく呟いて項垂れた。自然と目線が自分の胸元に向けられるが、そこにはあるべきはずの物がない。雪乃は元より、同級生でもスレンダーな部類に入る照瑠はおろか、下手をすれば地元の小学生にさえ負ける。あまりに貧相な身体つきに、自分でも時折、とてつもない自己嫌悪に陥りそうなときがある。


「ねえ、亜衣ちゃん。その……確かに、今は仕方ないかもしれないけど……亜衣ちゃんにも、いつかきっと、ちゃんとした成長期が訪れるわよ」


 気まずそうにしながらも、雪乃は亜衣に慰めに近い言葉をかけた。ほとんど気休めだったが、この場合、何を言ってよいのかは雪乃にもわからない。


「本当に? 本当に、ゆっきーはそう思う?」


 俯いたまま、亜衣がいつになく小さな声で訊き返す。その声に、どこか邪悪な笑みのような物が含まれていると思えるのは気のせいか。


「う、うん……。まあ、ね……」


 急に、風呂場の空気が変わった。その微妙な変化を感じ取った雪乃は、何やら身の危険を感じて言葉を切った。


「ほうほう。だったら、まずは後学のために、私も色々と勉強せねばなりませんなぁ……」


「べ、勉強? それ、どういう意味なの?」


「そんなの決まってるじゃん! ゆっきーの胸元にある、その豊かなブツ! それを揉ませていただくのだぁ!!」


 いきなり浴槽の中で立ち上がり、仁王立ちになって叫ぶ亜衣。童話に登場する魔王よろしく、腰に手を当てて高らかな笑い声を上げている。


「さあ、そうと決まれば、さっそく身体検査開始ですぞ! ふっふっふ……。言っておくけど、この距離だったら逃げられないからね。ゆっきー、覚悟ぉ!!」


「えっ! ちょっと!? や、やめてよ、亜衣ちゃん!!」


 湯船の中で、二人の少女達による乱闘が始まった。いや、実際には、ただじゃれ合っていると言った方が正しいか。それでも、彼女達が暴れるたびに浴槽から湯がこぼれ、風呂場には二人の少女の叫び声がこだまする。


 水の溢れる音、壁を叩く音、そして少女達の黄色い声。それらが合わさって一種の騒音となりかけたとき、唐突に風呂場のドアが開かれた。


「こら、あんた達! いつまでもお風呂で遊んでないで、さっさと出ちゃいなさい!!」


 そこにいたのは、他でもない亜衣の母だった。顔を真っ赤にして、明らかに怒っているのがわかる。突然の乱入者に、雪乃だけでなく亜衣の動きもぴったりと止まっていた。


「だいたい、こんな時間にお風呂で騒いだら、近所迷惑だってのがわからないの!? それに、お湯もこんなにこぼしちゃって……。高校生にもなって、本当にしょうもないんだから!!」


 先ほどまで賑やかだった風呂場に、今度は亜衣の母親の剣幕が響き渡る。人のことを言う前に、自分のその声の方が、よっぽど近所迷惑になるとは思わないのか。ふと、そんなことを思った亜衣だったが、この場でそれを言うのは藪蛇だろう。


 仕方なく、亜衣はシャワーで足りなくなった分のお湯を湯船に足し、そのまま小さくなって風呂場を出た。その横では、なんとか貞操を守りきれた雪乃が、ほっと安堵の溜息を吐いていた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 田舎町の駅前にあるビジネスホテルにしては、そこは随分と洒落た造りになっていた。


 備え付けのベッドに腰を下ろしたまま、御鶴木魁は手にした紙人形を弄びながら窓の外を眺めていた。


 東京のそれとは違う、静かな夜景。駅前の歓楽街近くには赤やピンクの光も見えるが、そこを過ぎると、急に光の数が少なくなる。黄色やオレンジの小さな光が、ぽつぽつと、まるで蝋燭の火でも灯しているかのように、まばらに散らばっているだけだ。


 夜景の見える町並みの向こう側には、高い山々がそびえ立つのが目に入った。随分と開発が進んでいるとはいえ、所詮は田舎の町だ。駅前を抜けて十数キロほど進んで行けば、もうそこは、人の手を離れた大自然の領域となる。


「お茶が入りました、先生」


 差し出されたカップを受け取って、魁は無言のままそれを口に運んだ。決して味の良い物ではなかったが、喉を潤すには調度よかった。


 ふと、自分の隣に目をやると、そこでは総司郎が自分の分のお茶を入れているところだった。彼の両目は完全に光を失っているはずだったが、それにしては慣れた手つきで、こぼすこともなくお茶を入れている。


 研ぎ澄まされた感覚と、後は経験によるものなのだろう。そう、頭ではわかっていても、やはり魁は感心せずにはいられない。確かに、総司郎の霊感を開発したのは自分だが、それでもまさか、ここまで器用に日常生活を送れるようになるとは思っていなかった。


 生まれ持った鋭い直感を鍛え上げることで、霊的な感覚を使って物事を見る。恐らく、彼の頭の中に映っている世界は、健常者のそれとは随分と異なる物に違いない。時には不自由を感じることもあるのだろうが、総司郎は、それに対して文句の一つさえ口にしない。ヤクザのような外見に反し、彼が奥手で辛抱強い人間であることを魁は知っている。


「ねえ……。ところで、総ちゃん」


 紙人形を弄ぶ指先を止め、魁は正面の窓を見つめたまま訊ねた。


「総ちゃんは、今日のお化け屋敷で見つかったアレ、どう思う?」


「アレ、ですか……? もしかして、女の子達が見つけてきた、あの手帳のことっすか?」


「そう。埃まみれの部屋に置いてあった、あの妙な手帳だよ。ご丁寧に、中には謎の地図まで入ってたっていうね」


 何やら意味深な含み笑いをしつつ、魁は総司郎の方へと顔を向けた。こちらの表情など見えないはずなのに、総司郎の顔に少しばかりの緊張が走った。


「あの手帳、最初に見つけたチビちゃんの話だと、なんでもいきなり表紙に目玉が現れたそうじゃないか。こりゃ、てっきり呪いのトラップか何かと思ったけど、どうもそんな感じもしないし……。俺とは違った世界を見ている総ちゃんなら、何か別の物を感じたかと思ってさ」


「別の物っすか……。すいません。正直、俺にもよくわかりませんでした。ただ、目玉が表紙に現れたときの現場に居合わせていたら、また違ったのかもしれないっすけど……」


「そっか。まあ、総ちゃんがそう言うなら、それはもういいや。手帳と地図は俺の方で預かってるけど、やっぱり俺も、な~んにも感じないしね。それに、俺はそんなことよりも、もっと気になってることがあるし……」


 半分ほど中身を飲み干したカップの隣に、魁は先ほどまで手にしていた紙人形をそっと置いた。口元からふっと漏れた息で、紅茶の表面が軽く波立った。


「今回の件、俺から見ても、随分と出来過ぎていると思うんだよね。あの外法使いが連絡もなく行方不明になって、その屋敷を調べてみたら、謎の写真や手帳が転がっている。しかも、写真の方は例のプロデューサー変死事件に絡んだ鳥居の物だし、手帳は表紙に目玉が現れるような代物だ。そんな物が、ご丁寧にも探せば直ぐ見つかるような場所に置いてあるなんて……。どう考えても、偶然で片付けるには不自然な点が多過ぎるよ」


「確かに……。言われてみれば、そうっすね」


「だろ? 写真の話にしても、手帳の話にしても、作為的な物を感じずにはいられない。案外、こっちは追いかけているつもりなのに……逆に、誰かに呼び寄せられているのかもしれないね」


「それは、誰かの罠ってことっすか?」


「さあね。そこまでは、さすがに俺もわからないさ。ただ、今回の件が誰かによって仕組まれたことなら、そいつは随分と話を作る才能のあるやつだね。もっとも、あくまで素人と比べたらって程度で、俺からすれば、まだまだ二流の域だけどさ」


 両手を大きく広げ、魁はそのままベッドに倒れ込むようにして寝転んだ。天井でぼんやりと輝いている蛍光灯を眺めながら、そのまま両手を頭の後ろに持っていって考える。


 プロデューサーの変死事件を発端に、相次いで起こる謎の心霊事件。その全てが、例の三本脚の鳥居と、夜魅原と書かれた場所に繋がっている。


 あの鳥居は、いったい何の目的で立てられたのか。そして、夜魅原と呼ばれる土地で、自分達を待ち受けているものは何なのか。闇の中で不気味に手招きする何者かの影を感じながらも、魁は余裕の態度を崩そうとはしない。


 犬神を使う外法使い、犬崎紅。彼に借りを返そうと思って長谷川雪乃の相談に乗ってみたが、これは随分と話が大きくなってきた。が、それはそれで、魁にとっても面白い。


 自分が本当に借りを返さねばならない相手。それは紅ではなく、あのプロデューサー変死事件の裏で暗躍していた、謎の青年に他ならない。事件の主犯であったADの男に入れ知恵し、こちらの存在を利用して、捜査の撹乱まで目論んだ狡猾な男だ。


 呪いや祟りの知識に長け、あまつさえ、その力を難なく素人に貸すことさえ可能とする。並みの呪殺師じゅさつしでは考えられない、今までにないタイプの相手だ。


 正直なところ、魁は他人と事を構えることは、あまり好きな方ではなかった。争い事は面倒臭いと思っていたし、亡霊以外の相手をするのは、そもそも彼の本業ではない。


 だが、それでも魁にはプロデューサーの変死事件を企んだ男に、一矢報いねばならない理由がある。彼が最も嫌うこと。その一つに、自分が他人に利用されることが含まれる限りは。


「さあて……。明日の出発が、果たして吉と出るか、それとも凶と出るか……。久々に陰陽師らしく、風の流れと星の動きに訊いてみるってのはどうだい、総ちゃん?」


 懐から新しい紙人形を取り出して、魁はそれを蛍光灯の明かりに透かしながら言った。総司郎はそれには答えず、サングラスの向こう側にある二つの黒い穴を、じっと魁の方へと向けているだけだった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 翌日の早朝、駅前には昨日と同じ顔ぶれが揃っていた。


 その身の丈に不釣り合いな学生服姿の少女は、嶋本亜衣だ。背中には、なにやら色々と詰め込まれた、リュックサックを背負っている。これから危険を孕むかもしれない人探しをするにしては、随分と砕けた格好だ。少なくとも、知らない者が見たら、遠足か修学旅行へ行くのだと勘違いされるかもしれない。


 彼女の隣には、長谷川雪乃も控えている。普段、彼女が着ているワンピースとは違い、こちらはデニムのジーンズに麦わら帽子を被っている。お忍びということで、人目を引かない格好にしたのかもしれないが、それにしても地味ではある。ただ、動き易さという点では、亜衣の学生服よりは格段に上だろう。


「さて……。とりあえず、時間だね。今回の捜索に同行するのは、君達だけってことでいいのかな?」


 ロータリーに停められたメルセデスの外車に背中を預け、魁が二人の少女を交互に見て言った。


「えっと……。実は、長瀬君が、まだ来てないんだよね。昨日の様子じゃ、一緒に行く気満々ってッ感じだったけど……」


「おいおい。こんな日に限って遅刻かい? 彼、かなり遊んでそうな雰囲気だったけど……やっぱり、そういうところはルーズなわけ?」


「いや……。長瀬君に限って、そんなことはないと思うけど。ああ見えて、長瀬君、かなり加藤さんのことには入れ込んでたし……」


 あんたが言うな。ホストのような格好の魁に、下から見上げるような視線を送りながら亜衣は思った。


 確かに、浩二は遊び人のような格好をしているが、決して性格まで不真面目なわけではない。なにより、詩織が倒れた時に最も憤慨していたのは、他でもない浩二のはずなのだ。


 紅や照瑠の前では平静を装っていたようだが、その内心は腸の煮えくり返る想いだっただろう。現に、今回の事件の犯人を一発殴らねば気が済まないという言葉を、亜衣も浩二の口から聞いている。


 そんな浩二が、今日に限って遅刻などするはずがない。そう、心の中では思っていても、やはりどこか不安は残る。まさか、本当に寝坊でもしてしまったのではあるまいか。ふと、そんなことを考えたとき、亜衣の後ろから聞き覚えのある声がした。


「よう、待たせたな」


 そこにいたのは浩二だった。思わず「遅いじゃん!!」と突っ込みを入れようとした亜衣だったが、目の前に立つ彼の姿を見て、しばし開いた口が塞がらなかった。


 浩二は髪を切っていた。肩までありそうだった長髪は、完全に短く切り揃えられている。丸坊主というわけではないのだが、随分と思い切ったことをしたものだ。


 前髪を押さえていたヘアバンドも、今は身につけていなかった。押さえるべき前髪さえも切ってしまったのだから、これは当然と言えば当然か。


 生え際付近まで髪を切り揃えたためか、こげ茶色に染まっていた彼の頭は、今やほとんど黒一色になっている。毛先にほんの少しだけ色が残っているが、それ以外はまったく手をつけていない状態だ。新しく生えてきた髪に関しては、新たに染め直すことさえしなかったらしい。


「ちょ……長瀬君。どうしたのさ、その頭!?」


「ああ、これか? 犬崎のやつを探すのは、危険が伴うかもしれないんだろ? だったら、俺だけいつまでもチャライ格好してるわけにもいかないと思ってな」


「で、でも……。まさか、髪の毛を切って来るなんてね。そういうの、普通は何か、自分が大失敗したときにするもんじゃないの?」


「そうさ。俺は、詩織の彼氏の癖に、あいつに何もしてやれなかった。だから、これでいいんだよ。これは俺の……俺なりの、けじめのつけ方なんだからな」


 いつにも増してはっきりとした口調で、浩二はきっぱりと言ってのけた。迷いはない。後悔もない。そう、言いたいのだろう。その目は亜衣と雪乃を通り越し、その向こう側にいる魁に向けられている。


 自分が詩織に何もできなかったこと。これから未知の世界へと向かう覚悟。その全てを、浩二は自分の髪を切るということで体現していた。大袈裟な言い方かもしれないが、今までの過去と決別し、失う物など何もない状態にして、自分で自分に腹をくくらせる。そういう意味も込めていた。


「なるほど、話はわかったよ。初めて見たときは遊び人みたいに思ってたけど、なかなかどうして度胸もありそうだ」


 亜衣と雪乃を押しのけて、魁が浩二の前に出た。それ以上は、互いに何も口にしない。視線を逸らさず、互いの目を見るだけで、何を言いたいのかは明白だったのだから。


 今回の事件には、魁は最初からきな臭い物を感じていた。そんな厄介事に、何の力も持たない素人を同行させる。普通であれば、絶対に考えられないことだ。少なくとも、自分からリスクを背負うような趣味は、魁にはない。


 ただ、それらのリスクを考えても、今、目の前にいる少年の想いを無下にすることは、魁にとっても納得のいかないことではあった。


 別に、浩二の心意気に、今さら感動させられたというわけではない。魁からすれば、浩二の想いなどは青臭いだけの理想論だ。


 それでもなお、魁が浩二を同行させようと考える理由。それは一重に、人の心の持つ強さの部分に期待をしているからでもある。


 霊的な存在を相手にする場合、勝負の決め手になるのは精神力。例え素人であろうとも、強い想いさえあれば、時に悪霊の邪念でさえも跳ね除ける。霊感の強さや退魔具の性能だけが、幽霊や妖怪との勝敗を決める全てではない。


 曲がることなき一途な想い。久しぶりに、そういったものが見せる奇跡とやらを、この目で拝見させてもらおうか。ともすれば気まぐれのような考えだったが、とにかく魁は、浩二が同行することを容認した。


「さて……。それじゃあ、役者も揃ったところだし、そろそろ出掛けようか。言っておくけど、これから先は、どんな危険が待っているか、俺もわからない。引き返すなら今の内だけど……どうする、御二人さん?」


 再び後ろをふり返り、魁は亜衣と雪乃にも確認した。二人とも、その言葉には何も答えず、ただ瞳だけで自分の決意を訴える。


 自分たちは、確かに素人だ。強い霊感の類などないし、幽霊や妖怪と戦えるわけでもない。


 だが、それでも、今こうしている間にも、紅や照瑠は何者かと戦っている最中かもしれない。その中で、今まで以上の危険に晒されて、窮地に陥っているかもしれない。


 手段を選ぶという考えは、既に全員の中から消えていた。なんとしても、犬崎紅を探し出したい。今度こそ、友人として照瑠の力になってあげたい。そして、どんな方法を使ってでも、この手で詩織を助けたい。


 亜衣の、雪乃の、そして浩二の想いは、魁の窺い知ることではない。が、その決意だけはしっかりと伝わったのか、魁は車のドアを開けて、三人を後部シートへと案内した。


「全員、決意は固いようだね。だったら、早速出発しよう。運転は俺がするから、総ちゃんはいつもの通り、助手席で頼むわ」


 総司郎が無言で頷き、その大柄な体を助手席に滑り込ませた。軽いエンジン音と共に、メルセデスの外車が早朝の駅前から発進する。


 法定速度など、端から守る気がないのだろうか。魁の運転する車は瞬く間にその場から消え去り、後には普段と変わらぬ朝の静寂が、駅前のロータリーを包んでいた。

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