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~ 壱ノ刻   失踪 ~

 夕方の病院は、思っていたよりも人が少なかった。


 病院のロビーを通り抜け、九条照瑠くじょうあきるは白塗りの階段を上がって友人のいる病室へと向かった。


 彼女の友人、加藤詩織かとうしおりのいる部屋は、この病院の五階にある。エレベーターを使えば早いのだが、照瑠はどうにも、あの独特の空間が苦手で仕方がなかった。我慢すれば乗れないこともないが、箱が上に昇って行く際の妙な浮遊感が、幼い頃から慣れなかった。


 車も電車も酔わないのに、エレベーターだけは駄目だ。最近は随分と慣れてきたが、一部の古いエレベーターには相変わらず耐性がない。


 現に、東京に行った際に訪れたマンションやテレビ局のエレベーターは問題なかったのに、この病院のエレベーターではいつも酔う。立てなくなるほど酷くはないが、それでも降りた後、場合によっては頭の奥に妙な頭痛が残るときがある。


 こんなとき……それこそ、決して気分が晴れやかでないときに、わざわざ苦手な物に乗る必要はない。そんなことを自分に言い聞かせながら、照瑠は独り目的の病室へと向かって行った。


 階段の踊り場を抜け、突き当たり角をL字に曲がる。似たような部屋ばかりで迷いそうになるが、記憶力には自信がある。数人の看護婦や見舞客と擦れ違ったところで、照瑠は目的の部屋に辿り着いた。


「失礼します……」


 この病室には、今は友人の詩織以外は寝かされていない。そう、わかっていても、これは普段からの癖なのだろうか。周りに気を使うような言葉が、自然と口から出てしまう。


「あっ……。なんだ、九条か」


 突然、病室の中から声がした。中に入ってカーテンの向こう側に目をやると、声の主がそこに座っていた。彼女の同級生であり、詩織の彼氏でもある少年。長瀬浩二ながせこうじだ。


「長瀬君……。長瀬君も、詩織のお見舞いに来てたんだ」


「まあな。一応、俺だってこいつの彼氏なんだしさ……。別に俺がいたって、何ができるってわけでもねえんだけどな」


 自嘲気味に鼻で笑って、浩二は照瑠から少しだけ目を逸らした。ヘアバンドで押さえた茶色い髪が、微かに揺れて口元にかかる。


 浩二の言わんとしていることが何なのか。それが痛いほどよくわかるだけに、照瑠はそれ以上何も言えなかった。浩二は一見して遊び人のような風貌だが、それはあくまで外面だけだ。中身は意外なほどしっかりしており、弟の面倒見が良い頼れる兄としての顔や、恋人のことを大切にする純粋な部分も持っている。


 もっとも、浩二がそんな風に変わっていったのも、元はと言えば詩織のお陰と言える部分が大きかった。昨年の夏、ある事件に巻き込まれたことをきっかけに交際を始め、二人はお互いのために、今までの自分を徐々に変えていったのだから。


 元々、詩織は照瑠と同じ、文芸部に所属する大人しい少女だった。そんな彼女ではあったものの、浩二と付き合い始めてからは、少しばかり年頃の女の子のファッションというものにも気を配るようになった。彼女の格好がダサいために、浩二が周りから馬鹿にされる。そんなことが、どうしても許せなかったというのが主な理由だ。


 その一方で、浩二は今までと比べ真面目になり、不良行為のようなことからは足を洗っていた。確かに、外見は遊び人のままだが、少なくとも素行の点ではかなり変わった。飲酒や喫煙などには手を出していなかったし、部活動にも積極的に参加するようになった。その結果、元々の運動神経の高さや長身も相俟って、今ではバスケ部のエースとして活躍している。


 なんだかんだで、二人は今時、珍しいほどの純愛なのだ。そんな二人の大切な時間が、一瞬にして奪われた。その原因が自分にもあるが故に、照瑠は浩二にかけてやれる言葉が見つからない。


 昨日の夕方、友人の嶋本亜衣しまもとあいの家で、数学の宿題をやっていたときのことだ。突然、謎の郵便物が配達され、亜衣は調子に乗って中身を開けた。そして、中から出て来た正体不明のビデオテープを再生し、それが詩織を死へのカウントダウンを待つだけの眠り姫へと変えるきっかけとなった。


 ビデオの中に封印されていたのは、邪悪で淀んだ黒い意思。見た者全てに恐るべき災いを降り注ぐ、驚異的なまでの邪念が込められた記録映像。


 あの映像の正体が何で、いったいなぜ、自分たちの下に送り届けられたのか。照瑠自身、その謎については未だわからない。だが、自分も含めて三人の人間がビデオの中に封じ込められた負のオーラに襲われたのは、変えようのない事実だった。


 あのとき、自分は亜衣と詩織の二人を救おうと、持てる限りの力を使って頑張った。九条神社の跡取りとして、癒し手の巫女として崇められるヒーリングの力。その全てを用いて詩織と亜衣の二人を助けようとしたが、今一歩のところで力が及ばなかった。


 邪念と癒しの力。相反する正と負の力のぶつかり合いは、当然のことながら力の強い方が勝つ。照瑠自身、日々の修業で力を上げてはいたものの、ビデオに込められし邪悪な意思は、彼女のそれを凌駕していた。


 唯一、不幸中の幸いと言えるのは、二つの力が互いに対消滅のような関係にあったことだ。詩織と亜衣、二人の中に入り込んだ負のオーラの一部は、照瑠の送り込んだ癒しの気によって消滅した。もっとも、その反動は照瑠自身の身体をも蝕み、気がついたときは病院のベッドの上だった。また、霊的な攻撃に対しての耐性の関係から、完全に救えたのは、亜衣の方だけとなってしまった。


「ねえ、長瀬君……」


 しばしの沈黙を破り、照瑠が再び口を開いた。名前を呼ばれ、浩二が少しだけ顔を上に向けて照瑠を見る。その隣では、目元を包帯で覆ったままの詩織が、ほとんど寝息を立てずに眠り続けている。


「ごめんなさい。私がついていながら、詩織をこんな目に遭わせちゃって……。あのとき、私にもっと力があれば……亜衣だけじゃなくって、詩織だって助けられたのに……」


「なんだよ、いきなり。言っとくけど、俺は別に、お前のことを恨んじゃいないからな。それに、九条だって、危険を承知で詩織のことを助けようとしてくれたんだし……。感謝こそすれ、お前を恨むのが間違いだってことくらい、俺にだってわかってるぜ」


「で、でも……」


「だから、気にすんなって言ってんだろ? そんなこと言ったら……俺だって、こいつに何もしてやれないのは、変わりないんだからさ」


 最後の方は、だんだんと声が小さくなっていった。男として、自分の好意を寄せる少女一人救えない。そんなやるせなさ、もどかしさが、浩二からいつもの強気な口調を奪っていた。


 徐に椅子から立ち上がり、浩二はベッドに寝かされている詩織を見る。相変わらず呼吸は弱々しく、病室に響く心電図の音だけが、規則的に耳に響いてくる。


 詩織の胸元には、紙でつくられた首飾りのようなものがかけられていた。よくよく見ると、それは紙の人形を一繋ぎに繋げたもの。何らかの呪いに使うものだろうか。丸い頭と四角い手足が特徴的な、典型的な人型である。


 繋げられた人型は、全部で十二。その内のいくつかは、既に周りが黒化して、焼け焦げたようになっている。比較的綺麗な物であっても、その一部には、どれも黒い染みのような斑点が現れている。まるで、カビが徐々に侵蝕するかのようにして、その黒い染みは少しずつだが確実に紙人形を蝕んでいた。


「なあ、九条……」


 今度は浩二の方から口を開いた。先ほどとは違い、照瑠の方を真っ直ぐに見据えている。


犬崎けんざきのやつから聞いたよ。詩織の首から下がってるあれ……身代わりみたいなもんなんだってな」


「うん。それなら、私も聞いたわ。あの人形が、詩織の代わりに霊傷の全てを引き受けているって」


「ああ。でも……正直、俺はそれでも不安で仕方がねえぜ。あいつの……犬崎の力を信じないってわけじゃないんだけどさ。今に、人形がいっぺんに黒い染みに覆われて、詩織のやつが死んじまったらって思うと……」


「長瀬君……」


 浩二の言葉を聞きながら、照瑠も詩織の胸元に置かれた人形を見た。昨日、彼女の様子を見たときと比べても、明らかに黒化が進んでいる。ほとんどの人形は白い部分が多かったが、それでもこのまま黒化が進めば、一週間と持たないだろう。


 全ての身代わりを失ったとき、彼女の中にある負の波動は、直接彼女を蝕むことになる。そして、彼女の魂がその力に負けたとき……。それは、魂の傷が肉体にまで影響を及ぼし、詩織が見るも無残な粉砕死体になることを意味している。


 こんなとき、いったい自分はどうすればいいのだろう。犬崎紅けんざきこう――――彼女達を救ってくれた、退魔の力を持つ少年である――――の話によれば、詩織の霊傷は、既に魂の核と呼べるような部分にまで達しているとのこと。故に、今さら癒しの気を送り込んだところで、それでは完全に彼女を救うことはできないという。


 紅の話では、詩織の霊傷を直す方法はただ一つ。この負の波動を発している大元の原因。それを叩くことでしか、根本的な解決に至らないと言う。


 だが、その肝心な犬崎紅と、照瑠は昨日の夜から連絡が取れないでいた。あの、紅のことだ。素っ気ない態度を取りつつも、きっとどこかで詩織を助けるための術を探っているに違いない。ぶっきらぼうで口は悪いが、それらの態度が紅の仮面でしかないことを、照瑠は今までの付き合いから知っている。


 病室を去る際に、紅は照瑠に言った。あかの一族の務めとして、ビデオを送った人間を見つけて叩き潰すと。それは即ち、詩織の身体を蝕む祟りの根源を断ち、彼女を助けるということに他ならない。


 今までも、こういった心霊事件の際に、紅は照瑠の知らないところで動いていることがよくあった。いつも自分一人で考え、抱え込み、そして解決する。なんだか信用されていないような気がして、内心では不服に思っていたこともある。


 だが、それでも紅は、どんなときでも、必ず事件を解決してくれた。報酬の有無を気にする素振りを見せるものの、結果としてタダ働きになることも多い。そんなときでも、紅はその辺りを適当に流し、最後は何事もなかったかのようにして、教室の机に突っ伏して爆睡する姿を見せていた。


 きっと、今回だって、紅に任せていれば大丈夫だ。そう思いたいのは山々なのだが、それでも目の前の詩織を見ていると、どうしても気持ちが抑えきれなくなってしまう。自分にも、何かできることがあるのではないか。そう考えると、いても立ってもいられなくなる。


「ねえ、長瀬君。それじゃあ、私はもう行くね。なんか、ここにいても、私にできることってないみたいだし……」


 だんだんと気まずい雰囲気になってきて、照瑠は浩二にそう告げた。浩二は「そんなことはない」と言ってくれるものの、それが気休めでしかないことは、照瑠自身もよくわかっていた。


 詩織のことを浩二に頼み、照瑠は独り病室を出る。この後は、同じ階の別室に入院している、亜衣のところにでも行ってみようか。もっとも、彼女の両親から聞いた話では、見舞客からもらった果物を食べまくっていたらしいので、こちらは問題なさそうだが。


 ふっと溜息をついて、照瑠は廊下に備え付けられていた椅子に腰かけた。こうして待っているだけの時間というのが、一番もどかしく感じられる。紅は、今どこで何をやっているのか。もしかすると、また一人で、勝手に危険を背負いこもうとしているのではないか。


 せめて、連絡くらいよこしてくれればいいものを。そんな想いが、照瑠の胸をよぎったときだった。


 自分の隣に気配を感じ、照瑠は思わず顔を上げて横を向いた。何の気なしに顔を向けると、そこには自分と同じ学校の制服を着た、一人の少女が座っていた。


「えっ……? 入間さん……!?」


 目の前にいる相手の姿を見て、照瑠の目が途端に丸くなった。


 入間美月いるまみつき。以前、自分と紅が関わった心霊事件の一つ、≪ジョーカー様事件≫で知り合った少女だ。占いやジンクスの類が好きで、都市伝説オタクの亜衣とは奇妙な交友関係を結んでいる。


 そんな彼女だったが、今では亜衣以外の友人との付き合いも薄くなり、クラスメイトとも距離を置いていた。その理由の一つとして、彼女の友人が植物状態になってしまったことが挙げられる。


 美月の友人、倉持優香くらもちゆうかは、≪ジョーカー様事件≫の主犯だった。彼女は持ち前の霊媒師としての才能を生かし、自らの身体に低級霊を降臨させ、その力を我が者にするという荒技をやってのけた。


 だが、最終的には己の力に溺れ過ぎてしまい、自分でも制御することのできないくらいの強力な怨霊を呼び出してしまった。そして、その怨霊――――紅は、はぐれ神と呼んでいた――――に体内の気の流れ、霊脈をズタズタに傷つけられ、意識不明の重体になってしまった。


 紅の話では、これでも結果としてはマシな方なのだということだ。損傷した魂は容易には元に戻らず、場合によっては一生回復しないこともある。が、処置が遅れていれば、それこそ身体を内から怨霊に蝕まれ、そのまま命を断たれていたとの話だった。


 事件が終わり、優香が病院に入院した時点で、美月は今までの交友関係をほとんど断ってしまっていた。元より、うわべだけの付き合いのような友人も多かったので、事件を通して彼女達の本音を聞いてしまったというのも大きかったのだと思われる。以来、照瑠もそれ以上は彼女に干渉せず、見守るような立場を取り続けていた。


「久しぶりだね、九条さん。今日は、誰かのお見舞いに来たの?」


 まるで、昔馴染みの友達に話しかけるようにして、美月は照瑠に声をかけてきた。学校にいるときは互いに距離を置いていたというのに、今日はどういう風の吹き回しだろうか。


「えっと……。友達が、ちょっと入院しててね。それよりも、入間さんはどうしてここに? やっぱり、倉持さんのお見舞い?」


「うん。でも、こんなところで会うなんて偶然だね。学校でも会おうと思えば会えるけど……いざ話そうとすると、クラスが違う人とって、あまり話をしないよね」


 なんのことはない、他愛もない会話を交わしてゆく。これが普段の学校での話だったら、もっと弾んだ気持ちで話せたかもしれない。


「ねえ、九条さん」


 突然、美月が照瑠から目を逸らして訊ねてきた。顔は正面に向けたまま、それでも言葉だけは照瑠に投げかけてくる。


「私ね……今度、九条さんに会ったら、一言お礼を言っておこうと思ってたんだ」


「お礼?」


「そうだよ。九条さん……あの後、優香のところに、何度か来てくれたんだよね」


「えっ……。どうして知ってるの!?」


 自分の秘密をいきなり言い当てられたような気がして、照瑠は思わず大きな声を上げてしまった。が、直ぐにここが病院だと気づき、他の見舞客や看護師に睨まれる前に口元を押さえた。


「実は、優香のお世話をしてくれている看護婦さんから聞いたんだ。私と同じ学校の子が、最近になってお見舞いに来てくれるようになったってね。それで、もしかしてと思ったんだけど……やっぱり九条さんだったんだ」


「うん、まあ……。一応、私も何かの役に立てればって思ってね。でも、結局は、あまり意味がなかったかもしれないけど……」


 ところどころで言葉を濁しつつ、照瑠は申し訳なさそうに俯いた。照れ隠しなどではなく、これは照瑠の本心だった。


 実は、巫女としての修業を始めてから、照瑠は優香のことを見舞うようになっていた。無論、他の友人には気づかれないように、彼女だけで病室を訪れていた。


 心霊事件に巻き込まれ、植物状態になってしまった倉持優香。そんな彼女のことを、もしも自分の中に宿る不思議な力で救えたら。そんな想いから、照瑠は優香の病室を、時間を見つけては訪れるようになっていた。一週間に僅か一度。その程度のことではあったものの、自分の力を使って誰かを助けたいという想いに偽りはなかった。


 もっとも、実際に優香を助けられたのかと聞かれれば、それに対しては自信を持って頷くことはできない。確かに、照瑠は優香の魂が受けた傷を癒そうと力を使っていたが、それでも傷は相当に深い。結局、満足な成果を得られぬまま、独り寂しく病院を去るだけだった。


 優香のことを隠れて治療しようとしていたのは、美月には教えていない。確実に助けられるという保証がないのに、無駄な希望を抱かせたくないという理由からだ。そのため、今日、この場で美月に声をかけられるまでは、彼女に自分のやっていたことを気づかれていたなど夢にも思っていなかった。


「ごめんね、入間さん。なんか、変な期待持たせちゃって……。いくら私に不思議な力があるって言っても……肝心なときに役に立たないんじゃ、何の意味もないよね」


 別に謝る必要などないのに、照瑠は美月に謝った。自惚れと言われて笑われるかもしれなかったが、そうしなければ、自分の中の罪悪感に押しつぶされてしまいそうで怖かった。


「別に、九条さんが謝る必要なんてないよ。優香のことは、私にも責任があるしね……。だから、あんまり思い詰めない方がいいよ」


「うん。ありがとう」


「いいの、いいの。こういう時は、お互い様でしょ。それに、優香のことなんだけど……九条さんの力、まったく役に立ってないってわけでもないみたいだよ」


「どういうこと?」


「この前、優香のお見舞いに行ったときなんだけど……。あの子、私が手を握ったら、ほんの少しだけど握り返してくれたんだ。お医者さんの話じゃ、意識不明の植物状態だってことだけど……。これって、もしかしたら治り始めてるって証拠じゃない?」


 美月が優しく笑った。これは気休めなどではない。こんなことで人を騙せるほど、美月は嘘の上手い少女ではない。


 自分のやっていたことが、少しでも意味があったのか。それは照瑠にもわからなかったが、少なくとも、倉持優香が快方に向かっているというのは本当らしい。と、いうことは、このまま修業を続けて巫女の力を完全なものにすれば、彼女の意識を再び眠りの淵から呼び覚ますことも可能かもしれない。


 両手を広げ、照瑠は自分の手の平をまじまじと見る。一見して何の変哲もない手の平だが、そこから放たれる癒しの気は、確かに人の魂を浄化し、癒す力がある。


 一年前、まだ向こう側の世界・・・・・・・との関わりなどなかった頃は、自分にこんな不思議な力があるとは思わなかった。だが、あの犬崎紅と出会ってから、彼女自身もまた様々な心霊事件に関わったことで、その価値観を大きく変えることになっていた。


 自分の力を使い、もっと多くの人を助けたい。今は亡き自分の祖母や母が、かつてそうしていたように、自分も九条神社の跡取りとしての力を身につけたい。その一心で、今まで修業に励んだ結果、照瑠自身も驚くほどの早さで力を覚醒させていった。


 このまま行けば、倉持優香は助かるかもしれない。だが、それでは、同じように眠り続ける加藤詩織はどうなのだろう。優香のように根気よく接して行けば、彼女を助けることも可能なのではないか。


 いや、やはりこればかりは、いくら自分の力を持ってしても不可能だろう。魂の核にまで伸びた祟りを打ち破るには、紅の言っていた通り、その根源を根元から断つ以外に方法はない。


 開いた手の平を再び閉じて、照瑠は亜衣の部屋であったことを思い出した。詩織と亜衣、二人の友人を助けるために、その身体に癒しの気を送った自分。その自分に向けて、二人の中を侵食し続ける邪念のようなものが、一斉に照瑠の方へと向かってきた。自分の体内を、どす黒く淀んだ気で蹂躙されるあの感覚は、忘れようにも忘れられない。


 今、自分が詩織に癒しの気を送ったところで、あの悪夢の再来になるのは目に見えている。それがわかっているだけに、照瑠は何も言えないまま、自分の無力さを噛み締める他になかった。


「ねえ、九条さん。ところで、話は変わるんだけど……」


 口を噤んだまま拳を握りしめている照瑠を見て、美月が怪訝そうな顔をして訊ねた。


「えっ!? あっ、ごめん。ちょっと、ぼんやりしてたかも……」


「大丈夫? それよりも……私、あの事件のときに私や優香を助けてくれた人に、まだちゃんとお礼を言ってないんだよね……。本当は、もっと早く言わないといけなかったんだろうけど……なんか、話しかけ難くてさ」


「それ、犬崎君のこと? だったら平気よ。あいつ、そんな細かいこと気にするような性格じゃないし……。それに、最近は学校も休みがちで、携帯に電話かけても全然出ないし」


「携帯に出ないって……。それ、ちょっと心配じゃない?」


「だから、平気だってば。この前だって、家にプリント届けに行ったら、何食わぬ顔してソファーの上で踏ん反り返ってたんだから」


 大袈裟に肩をすくめ、照瑠は呆れたように言ってのけた。無論、心の奥では紅を信じているからこそ、こんなことも平気で言うことができる。詩織のことに関しても、紅が彼女を見捨てるような真似をしないことは、照瑠自身が一番良く知っている。


 だが、そうは言っても、不安がないのかと聞かれれば、自信を持って返事をできそうにないものまた事実だった。


 そもそも、今回の事件に関しては、その全貌を紅からまったく聞かされていない。東京での事件が一段落して、紅が照瑠達の住む火乃澤ほのさわ町に戻ってきた。そう、連絡があった矢先のことだったのだから。


 心霊事件が起きたとき、紅は決まって事件の最後に全てを自分の口から語る癖がある。しかし、それまでは完全に秘密主義を貫き通しているのかというと、一概にそうとも言い切れない。主に、依頼人の質問に答える形でのことだったが、自分の所見を淡々と述べた上で、独自に調査を開始するのが常だった。


 だが、今回に限って、そういった一連の行動がまるでない。詩織の首に時間稼ぎの依代を施した後、紅は照瑠との連絡を完全に断ってしまっていた。


「行こう、入間さん……」


 正面を見据えたまま、照瑠はいきなり口にして立ち上がった。隣では美月がぽかんと口を開けている。照瑠が何を考えているのか、急にはわからないと言った感じだった。


「ちょっと……。行くって、どこへ?」


「決まってるじゃない。犬崎君の家よ。私もちょっと、聞きたいことがあるし……入間さんだって、ちゃんとお礼をしたいって言ってたじゃない」


「それは……確かにそうだけど……」


「だったら話は早いわよね。あいつの家、私は前に行ったことがあるから……。暗くならない内に、ちょっと様子を見に行かない?」


 そう言ってから、照瑠は自分でも随分と強引な誘い方だと思った。以前の自分なら、相手に対して遠慮して、こうまで積極的に何かをしようと誘うことはなかったように思われる。これも一重に、自分の周りを取り巻く奇妙な友人達の影響か。そう考えると、なんとも言えぬ複雑な気持ちだ。


 もっとも、このまま何もしないで時が過ぎるのを待っているだけというのは、やはり我慢できないのも事実だった。犬崎紅が、何を考えて動いているのか。それを曖昧にしたままにしておくというのは、現実に背を向け、逃げ出そうとしているのに等しいと思えたからだ。


 夕暮れ時の病院に、窓から赤い光が射す。そろそろ太陽が山の向こうに沈み、街は夜の世界へと姿を変えようとしている。


 紅の家のある場所を考えると、あまり遅くなってから訊ねるのはよくないと思った。女子高生が二人だけで歩き回るには、彼の家のある場所は、あまりに寂しく人気がない。


 逸る気持ちを抑えながら、照瑠は美月と一緒に病院を後にした。一瞬、詩織と同じく入院中の亜衣のことが気にかかったが、直ぐに彼女が見舞客からもらった食べ物を元気にほうばっていたという話を思い出して気を取り直した。


 亜衣のことは、今はいい。紅も、彼女ならば大丈夫だと言っていた。本当に気がかりなのは、未だ目を覚まさない詩織のことと、何よりも紅がどこにいて何をしているのかということである。


 自分は確かめねばならない。そんな使命感のような物に突き動かされ、照瑠は美月と一緒に紅の家へと向かって歩き出した。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 照瑠と美月が紅の家のある場所に着いた頃には、既に太陽の半分以上が山の向こうに隠れていた。東の空にはうっすらと白い月が浮かび、街を染めていた赤い夕焼けの色も引いてゆく。初夏に近い季節だとはいえ、さすがにこの時間になってくると外も暗くなってくる。


 古い一軒家の立ち並ぶ、山の麓のさびれた住宅街。女子高生が二人だけで歩き回るには、時間的にもあまり良い場所とは言えない。火乃澤町は決して治安が悪いわけではなかったが、痴漢や変態といった輩はどんな街にでもいるものだからだ。


 気がつくと、いつしか二人は口数も少なくなり、ただ目的の家を目指して歩いていた。紅の家はバス停からそう遠く離れていなかったような気がしたが、なぜだか今日は、やけに遠くに感じて仕方がない。


 互いに無言のまま、足音だけが人気のない通りに響いている。美月の手には、駅前のケーキ屋で買ったケーキの箱が入った袋が握られている。それが時折、袋の中で揺れている音がして、その度に美月はケーキが崩れないかと不安そうな顔をする。


 美月のケーキは、紅に対してのお礼として買ったものだった。照瑠は気を使わなくて良いと言ったが、美月は絶対に買うと言って譲らなかった。今まで、それこそ一年近くの間、満足にお礼も言わなかったこと。それが彼女の中で、いつしか大きな罪悪感となってくすぶっていたのかもしれない。


 程なくして、二人は目的の屋敷に辿り着いた。赤錆びに覆われて朽ち果てた門を見て、美月が怪訝そうな顔をする。本当に、こんな場所に人が住んでいるのか。そう言いたげな表情で、照瑠のことを見つめてくる。


「ねえ、九条さん。このお化け屋敷が、犬崎君の家ってことでいいの?」


「ええ、そうね。私も信じたくないけど……残念なことに、現実なのよ」


「でも……確かここって、この辺でも有名な幽霊屋敷じゃなかった? なんか、廃墟とか探検する人の間で、一時期に噂になったこともあるらしいわよ」


「その話は、私も知ってるわ。もっとも、妖怪も幽霊も廃墟マニアも、全部あいつが追っ払って自分の根城にしているみたいだけどね」


 軽い溜息をつきながら、照瑠は門の前に一歩を踏み出してこぼした。およそ馬鹿馬鹿しい話だが、紅は確かにこの廃屋を借り受けて、自分の家として使っている。実際、幽霊の類は完全に彼が追い出したらしく、照瑠も屋敷から邪悪な気配は感じない。


 そろそろ夜になるという時間に、こんな廃屋に女の子二人で入る。普通なら躊躇するところだが、美月と違い、照瑠は躊躇わなかった。


 錆びついた門に手をかけて、照瑠はそっと前に押した。金属の軋む嫌な音がして、朽ち果てた門が口を開ける。


 ふと、横に目をやると、門の脇に備え付けられた表札が目に止まった。ひび割れた石作りの柱に、間に合わせのように貼り付けたカマボコ板。その表面に、これまた間に合わせのように、犬崎と書かれた文字が掘られている。


 なんというか、実にシュールな光景だと照瑠は思った。以前に訪れたときも感じたが、紅は相当なまでの貧乏根性の持ち主だ。表札など、知っている人間が読めればいい。そんな声が聞こえてきそうな気がして、照瑠は少しばかり苦笑した。


「ほら、行こうよ、入間さん。早くしないと、今に真っ暗になっちゃうわよ」


「う、うん……。でも、本当に大丈夫なの?」


「それなら心配無用よ。別に、誰も住んでない廃屋に侵入するわけじゃあるまいし……。それに、いざ中に入って見ると、意外に綺麗なものよ?」


「そうなの? だったら、平気かな……」


 そろそろと、足下を確かめるようにして、美月も門をくぐり中へと入った。二人して扉の前に立ち、まずは照瑠が戸を叩く。


「ごめんください!!」


 中にいる紅に聞こえるように、照瑠は普段よりも大きな声で叫んだ。


 返事はない。照瑠と美月は顔を見合わせ、今度は二人揃って叫んでみる。


「ごめんください! 犬崎君、いるなら返事してよ!!」


 やはり、返事はない。もしかすると、紅は留守なのではないか。そう思い、照瑠が扉に手をかけると、彼女の予想に反して取っ手がするりと回った。


「えっ……? ドアが開いてるの……?」


 意外だった。あの用心深い紅が、鍵もかけていないなど。もしかすると、鍵が壊れているのかとも思ったが、見たところ、そういうわけでもなさそうだ。


 以前、ここに来た際には、彼の使役する犬神が道案内をしてくれた。恐らく、鍵もその犬神が開けてくれたのだろう。そういえば、あのときも玄関の扉は開いており、照瑠は普通に家の中に入ることができた。もっとも、それは紅が鍵をかけ忘れていたわけではなく、彼の犬神が照瑠たちを呼んでいたからかもしれないが。


 しかし、今はそのときのように、何かの意思に導かれているような感じがしない。ドアに関しても最初から開け放たれていたようで、何か不思議な力を持って、鍵が自然に開いたというわけではない。


 いったい、これはどういうことだろう。恐る恐る、照瑠と美月は家の中に足を踏み入れる。屋敷の中は物音一つしないほどに静まり返り、なんとも言えぬ閑散とした空気が漂っていた。


 もしかすると、本当に誰もいないのではないか。そんな考えが頭をよぎり、照瑠は改めて家の中を見回してみた。


 くすんだ色の壁。クモの巣の張った天井。およそ、人が暮らしているとは思えない様子だが、床の埃だけは比較的きれいに掃除してある。窓も、ガラスこそ割れているものの、ガムテープで補修した跡がある。


 では、この不気味なまでの静けさは、いったいどうしたことだろう。先ほどから、屋敷の中には誰も住んでいる気配がしない。いや、確かに人の手が入った跡はあるものの、今は完全な空き家に戻っていると言った方が正しいか。


 そっと靴を脱いで、照瑠は屋敷の中に足を踏み入れた。床がぎしっという音を立てて軋み、隣にいた美月が一瞬だけ肩を震わせた。


 この先の部屋、正面から見て奥にある扉の向こう側。そこが紅の使っている部屋だったことを思い出し、照瑠は早足で歩きだした。


 古びた茶色い扉に手をかけて、照瑠はそれを勢いよく開ける。別に、そこまで焦る必要などないというのに、この妙な感じはなんだろう。


 固く、立てつけの悪い扉が、重たい音を立てて開かれた。扉の向こう側から、古びたソファーが顔を覗かせている。それ以外には、家財道具の類はほとんどない。相も変わらず、殺風景な部屋だった。


「犬崎君、いるの?」


 部屋の中を見回しながら、照瑠は訊ねた。その言葉に答える者はいない。部屋の中はガランとしており、誰かが隠れているような様子もない。


 いったい、紅はどこへ行ってしまったのだろう。訝しげに思いながらも、照瑠は部屋の中へと足を運んだ。美月もその後ろに続き、二人は改めて紅のいたであろう部屋を見る。


 その半分が空のまま、部屋の片隅に放置された書棚。紅が使っていたであろうソファーはあちこちが破れ、中から綿のような物が顔を覗かせている。テーブルの上には、これは彼の食事の跡だろうか。パン屑の乗った白い皿が、無造作に置かれていたるだけだ。


 見たところ、以前に自分が来たときと変わらない。そう、わかってはいるはずなのに、照瑠はこの部屋の中に漂う妙な違和感が気になって仕方がなかった。


 この部屋は、前とはどこかが違っている。それは、紅がいないから感じるのではなく、部屋にそれ以外の変化があったからだ。


 もう一度、よく考えてみよう。僅かな記憶を頼りに、照瑠は亜衣と共にこの部屋を訪れた日のことを思い出しながら、再び部屋を見て回った。


 テーブルも、ソファーも問題ない。床も天井も、確かに古びてはいるが、それだけだ。ガムテープで補修されている窓も、特に何の変化もない。書棚に関しても、本を取り出したり動かしたりした跡は見当たらない。


 やはり、自分の気のせいだったのか。半ば諦めに近い気持ちで、照瑠は何の気なしに壁を見た。すると、そこに止めてあった一枚の写真が、照瑠の視界に飛び込んで来た。


「えっ……? こ、これって……」


 それ以上は、言葉が出なかった。まるで、吸い寄せられるかのようにして、照瑠は壁に貼られた写真に駆け寄った。後ろで美月が何やら叫んでいたが、その声は照瑠の耳に入らなかった。


 壁に貼られた一枚の写真。そこに映っているものは、三本脚の奇怪な鳥居。あの、亜衣の家に送られて来た、呪いのビデオに映っていたものだ。


「どうして……。なんで、これが犬崎君の家に……」


 写真を壁から取り外し、まじまじと眺めながら照瑠は呟く。既に、霊害封じの類を施されているからだろうか。写真を見ても、あのときのように邪悪な気配は感じない。だが、写真の中にある奇妙な鳥居は、間違いなくビデオにあったものと同じだった。


「ちょっと……。どうしたのよ、九条さん?」


 照瑠の急な行動に、美月が少々苛立った様子で訊ねた。その声で我に返り、照瑠は写真を持ったまま、美月の方へと振り向いた。


「あ……うん。実は、この写真なんだけど……」


「なに、これ? なんか、変な形の鳥居だね」


 三柱の鳥居の写真を見て、美月が怪訝そうに首を傾げた。呪いのビデオのことを知らない彼女にとっては、これもただの珍しい鳥居の写真に過ぎない。


 しかし、照瑠にとってこの鳥居は、自分たちを襲った禍々しい負の波動の根源に他ならなかった。その鳥居の写真が、なぜ紅の家の壁に貼られていたのか。そして、肝心の紅は、いったいどこへ消えてしまったのか。


(もしかして……犬崎君、鳥居のことで、何かつかんだの?)


 それ以外に考えようがなかった。きっと、紅は鳥居に関する情報をつかみ、独りで調査に向かったのだ。詩織を助けるため、彼女に恐るべき祟りを降りかけた、あの鳥居に巣食う邪悪な存在を倒すために。


 いつもであれば、紅は吉報と共に、再び照瑠達の下に現れるだろう。だが、今回ばかりは、勝手が違う。その違いに関しては、照瑠も当に気づいている。


 あの紅が、連絡も無しに火乃澤町から消えた。これは何か、異常なことが起きている前触れだ。


 以前、自分の故郷である四国へ帰省する際も、紅は照瑠達にその旨を告げてから旅立った。その上で、自分の代わりに知り合いの霊能者に仕事を頼み、火乃澤町で怪事件が起きた際の保険もかけていた。


 用心深く、用意周到。そんなイメージのある紅が、一切の連絡を断って目の前からいなくなる。これが普通でないことくらい、彼と関わりのある者であれば、照瑠でなくとも容易に想像がつく。


(犬崎君に、なにかあったのかも……!?)


 不安だけが、どんどん胸の中で大きくなっていった。このまま紅が見つからず、詩織が最悪の最後を遂げてしまったら。そう考えると、いても立ってもいられなくなる。


「ねえ、九条さん。この写真、いったい何なの?」


 何も知らない美月が、再び照瑠に訊いてきた。いったい、何から話したものか、照瑠は返答に困って目を逸らす。そのまま美月の持っている写真の裏へと目線を移したところで、照瑠はそこに、マジックで書かれた奇妙な文字を発見した。


 白く、一点の穢れもない写真の裏。そこには乱雑に書き殴られたような字で、≪夜魅原≫という文字だけが残されていた。

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