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~ 終ノ刻   出立 ~

 明けない夜が終焉を迎える。


 巨大な三柱鳥居の前で、紅と照瑠、それに皐月や亜衣を始めとした仲間たちは、空高く昇って行く光の柱を見つめていた。三角形に組まれた鳥居の天井の部分から、まるで天空へと続く道のように、青白い光が伸びている。時折、小さな光の粒子を撒き散らしながら、柱は曇天の雲を貫いている。


 柱の正体は、無数の蛍の群れだった。夜魅原村の伝説にある、常世へと向かう清らかな魂。浄化された死者の化身が、彼らの在るべき場所へと帰ってゆく。


 そうしている間にも、鳥居の下には森の中からたくさんの赤い蛍が集まって来ていた。だが、死の使いとして忌み嫌われる存在であった彼らからも、今はもう邪悪な気配は感じられない。


 集まった蛍達は、まるで何か見えない力に導かれるようにして、鳥居の入口に吸い込まれてゆく。三方向に設けられた入口から中へ入ると、彼らの禍々しい赤い輝きは失われ、清らかな青い輝きへと変わってゆく。


「みんな……帰ってゆくのね……」


 浄化されてゆく蛍達の姿を見て、照瑠がぽつりと呟いた。この地に巣食っていた邪神が完全に倒れた今、彼らは既に闇の眷属ではない。邪悪な束縛から解き放たれて、本来の姿へと戻り、帰ってゆくのだ。


 もしかすると、あの中には狂ってしまった雛の心もいるのかもしれない。雛の想い人であったお白様。生贄として短い生涯を終える運命にあった少年の魂も、あの輝きの中にあるのかもしれない。


 これで、本当に終わったのだろうか。村を覆う闇が消えたことで、全ての魂は救われたのだろうか。


 できることなら、照瑠は雛に直接訊いて確かめたかった。しかし、どれだけ彼女が語りかけようとしてみても、返事はまったく返ってはこない。


 有澤雛の良心ともいえる魂は、照瑠に全てを託して消えてしまった。照瑠自身の力の一部となって、人であった頃の記憶は、全て失ってしまったのかもしれない。


 最後に、邪神の体内で照瑠に力を授けたとき、雛は何を思っていたのだろう。自分の身を犠牲にすることで村が救われるのが、彼女の望みだったのだろうか。


 できることなら、そうあって欲しい。そして、狂気から解き放たれた雛の本当の魂が、今度こそ少年と結ばれるようであって欲しい。立ち昇る光の柱を見つめながら、照瑠は胸の前で固く拳を握ってそう願った。


 やがて、全ての蛍が柱となって消えたところで、東の空から白い光が射し始めた。空を覆う雲は晴れ、地図から消されてしまった村に、本当の夜明けがやって来る。


「あっ! ちょっと……あれ、見てよ!!」


 昇る朝日に目を覆いつつも、亜衣が鳥居を指差して叫んだ。見ると、巨大な三柱の鳥居が凄まじい速度で朽ち初め、見るも無残な姿へと変わってゆくところだった。


「なるほどね。この村を支配していた存在が消えたから、時間の流れも元通りになったってことか」


 朽ち果てて行く鳥居を前に、魁がなにやら独り納得したような顔をして言った。


 今までの夜魅原村は、通常の空間とは時間の流れさえ異なる特異な場所。だが、その空間を生み出していた存在が消えたことで、時間の流れもまた普通に戻ったのだろう。そして、今まで抑えつけられていた時の流れがまとめて訪れてしまったことで、三柱の鳥居は完全に以前の姿を失ってしまったのだ。


 いや、鳥居ばかりではない。辺りを見回すと、そこには以前の広々とした高台の様子はなく、あちこちに草の生える荒れた場所と化していた。それだけでなく、ここに登るための石段もまた、そこら中から草を生やしてボロボロになっている。


 年数にして、実に五十年は下らない。もしかすると、百年近くあるかもしれない。それだけの時の流れが一度に訪れ、夜魅原村にはかつての面影を残すものは何もなくなった。暗闇の中、ようやく訪れた本当の光。しかし、村の住人が全て蛍になってしまった今となっては、その光も既に意味を成さないのだ。


 禁断の儀式を行った結果、地図から消えてしまった村。そこは、再び光の降り注ぐ場所となっても、やはり地図から消えた村のままだった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



――――東京。


 数々のネオンサインが輝く街の一角に、その小さな店は隠れるようにして立っていた。店の大きさはさほどではないが、看板は随分ときらびやかだ。ショーウィンドウに並べられている宝石やアクセサリーの数々が、そこがジュエリーショップであることを物語っている。


 看板には発色のよい蛍光ピンクで、≪ジュエリー鳴澤≫と書かれていた。店の中には、今は客の姿はない。店員もおらず、まるで無人の店舗のように、しんと静まり返っている。


 突然、店の電気が消え、看板のライトもまた光を失った。鈍い機械音と共にシャッターが降りて、店じまいの時間であることを告げる。


「ふぅ……。とりあえず、今日はここまでって感じかしらね?」


 店のシャッターが完全に降りたところで、鳴澤皐月は小さな溜息を吐きながら呟いた。


 退魔具師である皐月には、ジュエリーショップの店長という表の顔がある。もっとも、普段は店の方を芽衣子に任せきりにしていることが多く、彼女自身は常に退魔具の素材を求めて日本中を回っていることが多い。


 たまに、彼女にしかできない仕事の依頼が来ることもあるが、数日もあれば直ぐに仕事を終えられる。宝石の加工やアクセサリー類の修理も大変だが、退魔具を作るのと比べれば随分と簡単な仕事だ。


 店の奥に続く廊下を歩き、皐月は仕事場として使っている部屋の扉を開けた。相変わらず、辺りにはゴチャゴチャと色々な物が転がっている。宝石をカットするための道具やアクセサリーを修理するための道具に混じり、退魔具を作るための道具までが一緒くたになって散らばっている。


「まったく……。あの子ったら、相変わらず整理が下手なんだから!!」


 散らばった道具を元の場所に戻しながら、皐月は呆れた顔をして言った。


 仕事場は芽衣子に任せていることが多いが、なんというか、彼女はいつになっても片付けが下手だ。夜魅原村の事件に関わったことで、仕事が溜まってしまったのはわかるが、こうあちこちに色々な物を散らかされてはたまらない。


 こうなったら、今日は少しばかり説教をしてやる必要があるか。柄にもなく、そんなことを考えながら、皐月は芽衣子の姿を探す。が、仕事机の前で突っ伏している彼女を目にしたところで、そんな気持ちは吹き飛んでしまった。


 自分の腕を枕代わりに、芽衣子は軽い寝息を立てて眠っていた。その横にあるのは、明日までに仕上げねばならない依頼品。本当は皐月が自分で仕上げようと思っていたものだったが、芽衣子は自分の分だけでなく、皐月の仕事まで代わりに終わらせていた。


 夜魅原村の探索では、最初を除いてまったくと言っていいほど役に立たなかった芽衣子。ドジで臆病で泣き虫で……おまけに己の欲望に極めて忠実な同性愛者。本当にどうしようもない性格の持ち主なのだが、なかなかどうして、気の利くところもあるようだ。


 そっと、芽衣子を起こさないように注意しながら、皐月は自分の着ている上着を脱いでかけてやった。こんなところで寝ると、風邪をひくわよ。そう、言ってやりたがったが、あまりに気持ちよさそうに寝ているので、もうしばらくは寝かしておいてやることにした。


 仕事部屋を立ち去ろうとして、皐月は後ろからなにやら呟くような声がしたのに気がついた。声のする方へと顔を向けると、そこでは彼女の上着をかけてもらった芽衣子が、なにやら幸せそうな顔をして笑っている。


「うぅん……。駄目ですぉ、お姉様ぁ……。」


 だらしなく涎を垂らしながら、芽衣子は妙な寝言を呟いている。大方、また夢の中で、皐月とあんなことやこんなことをしているのだろう。先ほど、少しでも気が利くと思ってしまったのが、なんだか情けなくなってくる。


「むふふ……。今度はもっと、激しいチューしましょうねぇ……お姉様ぁ……」


 寝言にしては妙にはっきりとした呟きに、皐月は思わずぎくりと肩を竦めた。


 夜魅原村で、芽衣子に憑いた悪霊を祓うべく、神水を口移しで強引に飲ませたこと。憑依中の記憶を失っている故に、恐らくはバレていないと思うのだが、本当のところはわからない。もし、あのことが芽衣子に知れたら、それこそ面倒な事態になり兼ねない。


 藪蛇をつつかないように、皐月はそのまま何事もなかったかのようにして立ち去った。表の仕事が終わっても、まだ裏の仕事が残っている。


 夜魅原村での一件は、皐月に新たな退魔具を作らせる決意を固めさせていた。今までは、単に霊と戦うことに特化した武器を作っていたが、それだけでは駄目だ。


 今の自分に足りないもの。それは、より強力な護りの力を持った、攻防一体の武器を作る力だ。霊能者と一口に言っても色々な人間がいる以上、攻撃に特化した退魔具だけでは、中には使いこなせない者もいる。照瑠や芽衣子のように、戦いに不向きな者を闇の力から守るためには、強力な護りの力を秘めた退魔具を作る必要がある。


 かつて、皐月の父は己の妻を救えなかったことを後悔し、それから自身の作る退魔具を攻撃に特化させてきた。自分はその父の意思を継いだ上で、今度は自らの手で新しい退魔具を作ってゆかねばならないのだ。


 夜魅原村のような場所は、あれで最後とは言い切れない。怨霊や祟り神による心霊事件も、全てが無くなったわけではない。闇の中で、心弱き者を手ぐすね引いて待ち構えている向こう側の世界・・・・・・・の住人がいる以上、退魔具師の仕事は終わらないのだ。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



「うん。やっぱり、なんだかんだで、我が家ってやつが一番落ち着くね」


 バスローブ姿のままソファーに腰掛け、御鶴木魁はワイングラスを片手に呟いた。


 夜魅原村の事件を経ても、彼の根元の部分が変わることはない。富と名声を得て、楽しく気ままに暮らすこと。その反面、自分のプライドを傷つけた相手には容赦をしない。自他共に認める、完全な自由人である。


「先生……。ところで、次の仕事はちゃんと見つかったんっすか?」


 魁と向かい合うようにして座っていた総司郎が、不安そうに訊ねた。


 少し前までは、魁と総司郎はテレビの心霊番組に顔を出すことが多かった。が、彼らの看板番組であった≪奇跡空間ミラクルゾーン≫は、東京での事件以降、打ち切りに近い状態で放送を止めていた。当然、魁にとっても仕事が減ってしまったことになり、今までのようにガンガン稼ぐというわけにもいかなくなってくる。


 もっとも、表の仕事が減ったことなど、今の魁にとってはどうでもよいことだったのかもしれない。彼もまた、夜魅原村で起きた事件が、全て終わったとは思っていなかったのだから。


「まあ、その辺はトーコちゃん達がなんとかしてくれるでしょ。彼女と、後は……篠原さんって言ったかな? あの二人の女の子達が、知り合いの地方局に話を持ちかけているらしくてね。しばらくは、そっちの方の仕事で食いつないで行けるだろうから、総ちゃんがあれこれと心配する必要はないよ」


「そういえば、そんな約束をしてたっすね。でも……今までの仕事と違って、ちゃんとした収入になるって保証は……」


「おいおい、心配症だな。言っておくけど、俺は別に表の世界から顔を引っ込めるつもりは全然ないよ。ただ、これから先は、ちょっと色々と個人的に忙しくなりそうだからね。久しぶりに初心に返ったつもりで……しばらくは、修業の合間を縫って仕事をするようになるだろうね」


「修業……? 珍しいっすね。先生の口から、そんな言葉が出るなんて」


「まあね。俺もたまには、自分を磨き直してみたいって思うこともある。あの外法使いと、それから今回の事件を仕組んだやつ。あいつらに、まとめて色々な借りを返してやるには、俺もそれなりに力をつけとかないと駄目だと思うからさ」


 グラスの中に残ったワインを一気に飲み干して、魁はにやりと笑って見せた。冗談半分に言っているように見えても、その瞳だけは真剣だ。それがわかったのか、総司郎もそれ以上は何も言わず、黙ってソファーに腰かけているだけだった。


 夜魅原村の事件を通して、魁は己の未熟さを痛感した。いや、実際には未熟だったのではない。自分の持っている力の種類が、あまりにアンバランスなことに気づかされた。


 犬神と妖刀を操る外法使い、犬崎紅。自ら退魔具を開発し、時にそれを振るって戦場にも立つ鳴澤皐月。強大な癒しの力を秘めた少女、九条照瑠。そして、まだまだ半人前とはいえど、類稀なる霊視能力を持った周防芽衣子。


 自分の力が、彼らと比べて劣っているとは思わない。しかし、こと霊的な存在と戦うことになった場合、さすがに式神を操るだけでは少々力不足だ。今までは、戦いは主に総司郎に任せていたが、これからは自分も少しは力技を身につける必要があるのかもしれない。


 生身の戦いは好きではない。それはなにより、魁自身が何度も口にしていたこと。では、そんな自分にとっての力技とは何なのか。答えは既に、魁の中で決まっていた。


 古来より、陰陽師は時として、強大な力を持つ鬼でさえも使役する者がいたという。紙人形に自分の髪の毛を詰めて作った、安易な量産品ではない。本当に本物の神霊を己の手駒とし、自在に操ることができる者がいたというのだ。


 犬崎紅は、下級とはいえ、犬神という祟り神に近い存在を従えていた。では、同じような芸当が、自分にできないはずがない。


 グラスに新しいワインを注いで、魁はその色と香りを確かめるように軽く回す。まだ見ぬ新たな力への渇望を抑えつつ、魁はグラスの中に映った自分の顔を眺めて苦笑した。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 荒れ果てた廃村を、二人組の男が歩いていた。一人は、中年だが精悍な身体つきをした男。もう一人は、眼鏡をかけたスラリと背の高い優男。初夏が近い季節だというのに、どちらも黒いコートに身を包んでいる。およそ、山間部に残された廃村には相応しくない格好だ。


「ふぅ……。ようやく、ここまで来れましたね」


 高台のような場所で、優男の方が大きく伸びをして言った。心地よい山の風に当てられて、辺りの草木がさやさやと揺れる。草はそこら中に生い茂っており、ここが人の手を離れて久しい場所であることを物語っている。


「それにしても……」


 半壊した石段と、見るからに倒壊寸前な古びた鳥居。その二つを交互に見比べながら、優男は眼鏡の位置を指で直す。


「地図から消えた村。まさか、本当にあるとは思ってませんでしたけどね。もっとも、ここには既に亡霊の類が漂っている様子はないみたいですけど」


 眼鏡の男、氷川英治ひかわえいじが、もう一人の精悍な男に向かって言った。


「ああ、どうやらそのようだな。今回の件は、俺達が後始末をする必要もないだろう。もとより、地図から消えた廃村だ。このまま朽ち果てて、山の中に帰るのを待っていればいい」


 崩れた鳥居を横目で見ながら、香取雄作かとりゆうさくは黒いソフト帽を片手で抑えて氷川に答えた。半壊した鳥居は、既にその役目を完全に終えてしまったのだろうか。かつては三本の脚を持っていたであろうそれは、既に奥の柱が折れて見る影もない。


 警視庁公安部第四課零系。通称、死霊・・管理室。彼らの仕事は、一般の警察では手に負えないとされる、心霊事件の隠蔽と事後処理である。香取も氷川も、その零系に所属する捜査員だ。


 二人が犬崎紅から連絡を受けたのは、東京でのプロデューサー変死事件が終わってから、実に半月も経たない内のことであった。紅とはその事件で知り合い、互いに連絡先を教え合ってはいたものの、まさかこうも早く連絡を受けることになるとは思わなかった。


 連絡を受けた当初は、香取も紅の話に思わず耳を疑った。地図から消えた村。死人蛍の跋扈する異界。三柱鳥居に封印されし邪神。そして、全てを裏で操っていた、闇の死揮者という男の存在。


 口裂け女やこっくりさんと比べても、あまりに荒唐無稽な話である。それでも、あの紅が冗談で自分に連絡を取って来るとは思えない。香取は半信半疑ながらも、部下の氷川を連れて現場へと向かったのである。


 夜魅原村までの道のりは、紅に言われた通りに進めば直ぐに見つかった。麓の集落跡からさらに奥、森の小道を抜けたところに、朽ち果てた村は確かに存在していた。まるで、今まで見つからなかったことが不思議なくらい、村は平気な顔してそこにあった。


 禁断の儀式によって、地図から消えてしまった村。その村も、祟りの根源である邪神が消え去ったことにより、今では完全に平和な静けさを取り戻している。三柱鳥居が崩壊した今、この村と常世を繋ぐ術もない。やがて、村を覆う大自然に飲み込まれる形で、この村は今度こそ本当に、平和的に地図から消えるのだろう。


「もう、この村には目ぼしい物もないようだな。一通りの調査が終わったら、さっさと東京に引き返すぞ」


 終わった事件に興味はない。そう、言いたげな様子で、香取は一足先に崩れかけた石段を下ってゆく。だが、事件は完全に終わったはずなのにも関わらず、香取の顔は晴れなかった。


 夜魅原村のような場所は、ここで最後というわけではないだろう。この国には、まだ人に知られることのない歴史の影の部分がある。もし、それが何かの拍子で現代に蘇ったとき、残念ながら今の自分達に抗う術はない。


 また、紅の話にもあった闇の死揮者、真狩紫苑。彼については、香取達もまだわからないことが多過ぎる。


 紅は香取に言った。闇の死揮者は、己の中に巣食う闇に人間の魂を食らわせるため、あえて彼らを闇に堕とすような真似をするのだと。闇に染まり、負の感情で埋め尽くされた魂を食らうことが、死揮者にとっては何よりの至福となるのだと。


 己の欲望を満たすため、人を言葉巧みに操り闇に堕とす。聞いているだけで胸糞の悪くなってくる相手だと思ったが、香取はそれ以上に、紫苑という男に対する底知れぬ恐ろしさも感じていた。


 自分の餌を食らうためだけならば、何もここまで手の込んだ真似をする必要はない。東京のプロデューサー変死事件にしても、なぜ、あそこまで巧妙な細工を施す必要があったのか。負の感情で埋め尽くされた魂を食らうだけであれば、わざわざこんな周りくどいことせずとも可能なはずだ。


 死揮者の狙いは他にある。長年、この仕事を続けて来た香取の勘が、そう告げていた。紫苑という男の真意は不明だが、彼が今も、この日本のどこかでよからぬことを企んでいることは確かなのだ。それを突き止め、彼の企みを阻止する手段を見つけない限り、自分達に真の平穏は訪れない。


 東京に戻ったら、まずは上に色々と打診せねばならないことがあるだろう。零系の新たな人材確保。犬崎紅と、彼の滞在している火乃澤町という場所の調査。そして、真狩紫苑という男の行方も追わねばならない。


 事件は終わったのではない。むしろ、これからが本当の始まりだ。そんな言葉を頭の中に思い浮かべながら、香取はポケットから取り出した煙草を咥えて火をつけた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 収録の終わったテレビ局の楽屋で、雪乃は大きく伸びをして息を吐いた。


 雪乃が東京に戻って来たとき、既に外の世界では五日ほどの時間が経過していた。村まで辿り着くまでの時間を合わせたとしても、感覚的には二日ほどの時間しか経っていないように感じられる。ある程度の覚悟をしていたとはいえ、まさか五日も無断で音信不通になってしまうとは。今になって、自分の浅はかな行動が、少々恨めしく思えてきた。


 夜魅原村は、時間の流れが通常の空間とは違っている。紅や魁などから雪乃も簡単に聞かされていたが、未だに少し信じられない。特定の場所だけ時間がゆっくり流れるなど、まるで浦島太郎の竜宮城だ。もっとも、あの村にいたのは美しい乙姫などではなく、世にもおぞましい亡者の群れや邪神の手先だったのだが。


 人気アイドルが五日も行方不明になっていたことで、事務所の方ではかなり大きな騒ぎになっていたらしい。その辺りは、マネージャーである高槻が上手く立ち回ってくれたことで事無きを得た。一応、公式の発表では、酷い風邪にかかって寝込んでしまったということになっている。


「ちょっと、雪乃! いつまで着替えに時間かけてるのよ!!」


 楽屋の外から、自分の名前を呼ぶ声がする。雪乃は慌てて返事をすると、手早く舞台での衣装から普段着へと着替えを済ませる。


 最近のアイドルは着替えも楽だ。ほとんど学校の制服同然の衣装で歌うこともあり、よほど凝った舞台でなければ着替えも随分と簡単にできてしまう。


 着替えを済ませて楽屋の扉を開けると、そこに雪乃の所属しているアイドルグループ、T-Driveのメンバーが待っていた。鈴森夏樹すずもりなつき鳴海咲花なるみさきか。二人とも、T-Driveが今のように売れる前からの付き合いである。


「もう、相変わらずマイペースなんだから! 勝手に行方不明になって、散々迷惑かけたんだから、少しは自覚しなさいよね!!」


 開口一番、強気の突っ込みを入れてくるのは夏樹だ。チームのリーダーとしての責任感故、どうしても口調が荒くなることが多い。根は決して悪い人間ではないのだが、少々沸点が低いのが玉に傷。


「まあまあ。そういう夏樹さんも、そんなに怒ってばっかりだと、今にファンの人がいなくなっちゃいますよ。アイドルは笑顔が基本! そう、高槻さんも言ってました!!」


 夏樹の顔を下から見上げるようにして、咲花がにやりと笑って見せた。屈託のない笑顔を見せつけられると、夏樹もさすがにそれ以上は何も言わない。根っからのマイペースである雪乃と、常に能天気な咲花。二人を相手に真正面からぶつかっても、最後はいなされてしまうことを知っている。


「あっ、でも……そう言えば、雪乃さん」


 身体を独楽のようにくるりと回し、咲花が雪乃の方に顔を向けた。


「あの、犬崎さんって人。結局、雪乃さんとどうなったんですか?」


「えっ……! そ、それは……」


「ごまかさなくたっていいですよぉ。雪乃さんが犬崎さんのこと好きだってこと、咲花にはちゃ~んとお見通しですから!」


 何やら期待に満ちた視線を、咲花は雪乃に送って来る。もっとも、その期待に沿うような答えを持っていないだけに、雪乃の方は随分と複雑な表情になってはいるが。


「ごめんね、咲花。私……結局、犬崎君には何も言えずに終わっちゃったの」


「えぇぇぇぇっ! それ、本当ですかぁ!? なんで!? どうして!?」


「だって……。あの二人の間に……犬崎君と照瑠ちゃんの間に割って入るの、やっぱり私じゃ無理だなって思っちゃって……」


「そ、そんなぁ……。最後の最後で逃げちゃったら、今までの苦労がパーじゃないですか! 今からでも遅くないから、メールでもなんでも使って、まずは告白してみたら……」


「大丈夫よ、咲花。それに、もういいの。よくよく考えてみたら、私達はアイドルだもんね。下手にスキャンダルの種を抱えるようなことしたら、それこそ高槻さんに迷惑かけることになっちゃうわ」


 しょんぼりと項垂れている咲花の頭を撫でて、雪乃はあやすようにそう言った。咲花の隣では、それを聞いた夏樹が呆れるような顔をして溜息を吐いている。自分の想い人をおっかけて、行方不明騒動を引き起こした人間が言うことか。そんなことを言いたげに、右手で額を抑えている。


「本当にごめんね、みんな。なんか、色々と迷惑かけちゃったのに、期待してたような結果に終われなくて」


「まったくよ! まあ、それでも一応は、こうして無事に帰って来てくれたんだしね。この借りは、これから先の仕事でちゃんと返してもらうってことで……覚悟してなさいよ、雪乃?」


「うん、わかってる。それじゃあ、明日もお仕事がんばろうね、夏樹ちゃん」


 意味深な含み笑いをぶつけてくる夏樹に、雪乃は輝くような笑顔で返した。本当は、完全に踏ん切りがついたわけではない。自分は今でも紅が好きだ。その考えは変わらないが、雪乃はそんな自分の気持ちを、そっと心の奥にしまい込んだ。


 夜魅原村で、紅と照瑠が再会したときのこと。二人の様子を見ていた雪乃は、その間に強い絆のようなものがあることを、改めて実感させられた。一見して喧嘩友達にしか見えない会話であっても、それでさえ互いを信頼しているからできること。紅の前で、なかなか本当の想いさえ告げられない自分とは雲泥の差だ。


 それに、あの三柱鳥居の下に潜んでいた恐るべき邪神。黒い人間の身体を寄せ集めたような怪物を倒したのは、他でもない紅と照瑠だったのだ。


 これは、後から聞いた話になるが、なんでも二人は互いの力を合わせることで、邪神を体内から破壊することに成功したらしい。紅一人では暴走する闇に食われてしまうところを、照瑠が横から癒しの気を送って支える。そうすることで、二人は神さえも殺す力を発揮し、夜魅原村の明けない夜に終焉を打った。


 愛の力が奇跡を呼ぶ。そんな物は、安っぽい幻想だという人間もいる。そんな物で全てが上手く行くのなら、世の中に不幸な人間はいないということになってしまう。


 だが、それでも、雪乃は確かに感じていた。紅と照瑠。二人の中にある確かな絆が、あの村を覆う闇を祓ったのだと。彼らが力を一つに合わせなければ、全員があの村で死んでいた。


 初恋は失恋に終わりぬ。そんな言葉を思い出しながら、雪乃は夏樹や咲花と一緒に長い廊下を歩いて行った。寂しい気持ちも多少はあるが、それでも立ち止まっている暇はない。


 自分はトップアイドル、T-Driveの一員だ。勝手な行動でファンや仲間に迷惑をかけた分は、これから先の仕事で返さねばならない。それに、一緒に歌ってくれる人や、応援してくれるファンがいるからこそ、自分はこうして立っていられる。だからこそ、その気持ちにきちんと応えるために、今は何も考えずに歌いたい。そう思うのだ。


 春先の残雪が溶けるようにして、≪雪≫の芸名を持つ少女の恋もまた淡く消えた。しかし、自分の気持ちにしっかりと向きあい、決着をつけた彼女にとって、それは決して悲しいバッドエンドにはならなかった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 夏の季節が近づくと、東北は冬の寒さが嘘のように暑くなる。まだ、初夏に近い季節ではあったが、その日の東北は随分と陽射しが強かった。


 火乃澤町にある駅のホームで、照瑠は特急列車の前にいた。ホームにいるのは彼女だけではない。嶋本亜衣に入間美月、長瀬浩二といった友人達もまた、照瑠の横に並ぶようにして顔を揃えている。


 浩二の隣には、既に全快した加藤詩織の姿もあった。紅と照瑠が祟りの根源である邪神を倒したことで、彼女もまた死の祟りから救われていた。


 詩織が病室で目を覚ましたのは、実は本当にぎりぎりのところだったらしい。何でも、最後の依代である紙人形が朽ち果てるまで、残り僅かというところまで侵食されていたのだから。後少し、照瑠と紅があの邪神を倒すのが遅かったら……。その先は、できれば考えたくはない。


 なにはともあれ、これで事件は一応の決着を見た。東京のプロデューサー変死事件から続く悪夢は、誰一人死ぬことなく終焉を迎えた。ほとんど奇跡といってよい結末に、当人である照瑠や亜衣達も、未だにこの事実が信じられなかった。


「そろそろ電車が出る時間だな。それじゃあ、俺はもう行くぞ」


 発車時刻の迫る特急列車に足をかけ、赤い瞳がちらりと照瑠の方へ向けられた。白金色の髪が風になびき、漆黒のコートの裾が音を立ててはためく。


 犬崎紅。昨年の梅雨時にふらりと現れた奇妙な少年は、これまた唐突に照瑠達へと別れを告げた。自分がここで成すべき仕事は既にない。夜魅原村から帰るなり、紅はそう言って荷物をまとめ、学校もさっさと辞めてしまった。


 あの、邪神の体内で、照瑠は有澤雛の魂の欠片を自らの力として吸収した。それは今も彼女の身体の中にしっかりと残り、照瑠自身の力の一部として存在している。


 紅は言った。霊的に高い素養を持った人間が、力の使い方を誤って闇に飲まれてしまうこと。それを防ぐのが、彼にとっての贖罪なのだと。火乃澤町に留まったのも、照瑠が真に己の中にある力を使えるようになるまで、影ながら彼女を守るためだったということを。


 雛の力を得たことで、照瑠は晴れて九条神社の巫女として覚醒した。欠片とはいえ、それでも古来より禁断の儀式を執り行っていた家系の少女。その良心ともいえる部分を吸収したことで、照瑠は自身の力に潰されることなく力を目覚めさせることに成功した。


 自分がなぜ、分不相応なまでに強大な力を使えるようになったのか。それは照瑠にもわからない。もしかすると、雛の良心は照瑠の中で、彼女自身の力をコントロールするための触媒のような役割を果たしているのかもしれない。


 事実の程は不明だったが、照瑠にはなぜか、そう思えて仕方がなかった。照瑠の中にあるはずの雛の魂。それは既に照瑠の一部となってしまったのか、話しかけても何も語ってくれることはない。


 もっとも、そんな照瑠にも一つだけわかっていることがある。


 犬崎紅に、火乃澤町に留まる理由がなくなったこと。照瑠が真の力に目覚めた今、紅が彼女を守る必要はない。


 照瑠の持つ強大な陽の気の前には、並みの悪霊などいとも容易く浄霊されて祓われてしまう。火乃澤町に流れ込む陰の気にしても、照瑠が再び結界を張り直すことで、完全に遮断することが可能だろう。 


 かつて、彼女の母や祖母がそうしていたように。古来より、この土地に伝わる癒しの護り手として、先祖の造り出した封印を見守り続けていたように。太古の昔より続く守護としての役割は、今は照瑠へと受け継がれていた。


「はぁ……。なんか、現れるときもいなくなるときも、本当に唐突だよね、犬崎君って。私はてっきり、このまま照瑠とくっついて、この街に永住するのかと思ってたのにさ」


 大袈裟に深い溜息を吐いて、亜衣が大きく項垂れる。そんな彼女を見て苦笑する紅だったが、亜衣にしてみれば、まったく面白くないことこの上ない。


 雪乃が手を引き、その一方で照瑠と今まで以上に親密になれた矢先、自分の暮らしていた村へと帰ってしまうとは酷過ぎる。他人の恋愛を観察してにやにやしたい亜衣にとって、この結末はバッドエンド以外の何物でもない。


 今時、攻略難易度が最高とされる恋愛ゲームのキャラクターだって、こんな理不尽な去り方はしないだろう。そんな紅に、亜衣はとうとう≪最強のフラグクラッシャー≫という異名を授けた。


 死亡フラグも恋愛フラグも、あらゆるフラグを破壊しまくりながら突き進む、掟破りの外法使い。様々な都市伝説の知識を持つ彼女からすれば、正に目の前にいる紅の存在は、新たな都市伝説そのものだ。


「でもよ、犬崎。お前……本当に行っちまうのか? 俺達を巻き込んだってことで責任感じてんなら、そんなのは気にすんなよな」


 名残惜しそうな顔で、浩二もまた紅に訊ねる。しかし、紅はそれも苦笑して流すと、相変わらず淡々とした口調で切り返した。


「心配するな、長瀬。俺は別に、お前達に負い目を感じて街を去るわけじゃない。ただ、赫の一族として追わねばならない相手ができた。そういうことだ」


「それで……そいつを追っかけるために、まずは自分の村に返って修業するってか? まあ、そこまで決意が固いんだったら、俺も止めはしねえけどさ……」


「ああ。そういうお前も、これからは自分の女くらい自分で守れ。加藤のように一途なやつは、今の世の中では貴重な存在だからな」


 何やら年寄り臭い台詞を吐いて、紅は詩織と浩二の顔を交互に見比べた。互いに周囲も認める公認の仲だというのに、やはりストレートに言われると恥ずかしいのだろうか。詩織も浩二も急に赤くなって顔を下に向け、それ以上は何も言わなくなった。


「あと……それから入間」


 ふと、思い出したようにして、紅は美月の方へと顔を向ける。いきなり名前を呼ばれ、困惑した表情で紅を見る美月。まさか、自分の名前を呼ばれるとは思ってもいなかったのだろう。


「倉持の話は、九条から聞いた。今までは少しずつだが、快方に向かっているそうだな」


「うん。こっちこそ、今までお礼の一つも言えなくてごめんね。犬崎君がいなかったら、私も優香も今頃はどうなってたことか……」


「礼なら俺よりも九条に言え。こいつが修業しながら倉持を癒し続けていなければ、あそこまで回復することはなかったはずだ」


 照瑠がこっそり、意識不明となった倉持優香を助けようと病院に通っていたこと。何気なく告げた紅だったが、照瑠も美月も思わず目を丸くして言葉を切った。


 このことは、照瑠と美月の二人だけが知る秘密だったはず。それなのに、なぜ紅はそんなことまで知っているのか。まさか、彼もまた優香のことを気にかけて、病院に顔を出していたとでもいうのだろうか。だとすれば、初めて出会ったときと比べ、随分と彼も丸くなったものだ。


 もっとも、自分と美月の秘密を知られたとて、それは大したことではない。それに、あの不器用で無愛想な紅のこと。真実はどうだったのかなど、決して自分の口からは語らないに違いない。


「ねえ、犬崎君」


 気を取り直し、照瑠は改めて紅の名を呼んだ。列車の発車時間は、既にそこまで迫っている。


「犬崎君は、もう火乃澤町に遊びに来るつもりってないの? 用が済んだから、これでさよならなんて……それって、なんだか随分と素っ気ないんじゃない?」


「そうかもしれないな……。だが、俺とお前では、互いに歩むべき道が違う。お前は光の当たる世界で、癒しを求める者達に救いの手を差し伸べ続ければいい。俺は俺で今まで通り、裏の世界で闇を用いて闇を祓う。それが、赫の一族の末裔として、俺が成さねばならないことだ」


「そっか……。でも、戻って来たくなったら、いつでも帰って来ていいんだからね! 短い間だったかもしれないけど……犬崎君にとっては、この火乃澤町だって、もう第二の故郷みたいなものじゃない?」


 泣いて別れるのは嫌だ。だからこそ、照瑠は精一杯の笑顔を作って訊ねたが、紅はそれには答えなかった。特急列車の発車を告げる警笛が鳴り響き、いよいよ別れの時がやってくる。


「時間だ。そろそろ俺は行くぞ」


「うん……。それじゃあ、またね……犬崎君!!」


 シュッという空気の漏れるような音がして、照瑠の目の前で列車の扉が閉まる。紅を乗せた特急列車は瞬く間に駅を離れて行き、直ぐに遠くの小さな点となって見えなくなった。


「あ~あ……。これで、本当に犬崎君とはお別れなんですかなぁ? なんだか今までのことも、ぜ~んぶ夢だったように思えてきましたぞ」


 両腕を頭の後ろで組んで、亜衣がそんなことを口にした。確かに、紅と出会ってからの日々は、驚きと非常識の連続だった。今でこそ霊的な存在の力を信じるに至っている照瑠達だが、これが普通の高校生として暮らしているだけだったらどうだろうか。きっと、向こう側の世界・・・・・・・の真実など何も知らずに、のほほんと構えて生きていたに違いない。


「まあ、そう言うなよ、嶋本。あいつにだって、事情ってやつがあんだからよ」


 浩二が亜衣の頭に軽く手を乗せて叩く。長身の浩二からすれば、亜衣の背丈など小学生のそれと変わりない。露骨に子ども扱いされてむくれる亜衣だったが、それを見た他の者達は、くすくすと笑っているばかりだった。


「おいおい、ムキんなるなって。それに、俺はこれで犬崎のやつと、本当にお別れだなんて思ってないぜ。あの気まぐれ野郎のことだからな。きっと、またいつか、何かの拍子にふらっとこっちに戻って来たりすんじゃねえの?」


「そうね。なんだか私も、そんな気がするけど……九条さんは、どう思う?」


 詩織が照瑠に、その大きな丸い瞳を向けてきた。照瑠は言葉こそ返さなかったが、既に自分の中での答えは決まっていた。


 犬崎紅とは、また会える。いや、絶対に会いたいと思っている。だからこそ、照瑠はあえて最後の言葉に、『またね』という一言を選んでやった。


 永遠の別れを意味する『さよなら』ではなく、再会の約束を秘めた言葉。果たして、その気持ちは紅に伝わったのか。その答えは、照瑠だけが知っている。


 特急列車の窓ごしに、紅は軽く微笑みながら、照瑠に小さく手を振っていた。不器用で無愛想な紅が見せた、彼なりに精一杯の答え。それが再会の約束であることを願い、照瑠は列車の去ったホームの上で髪を撫でる初夏の風を感じていた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 列車がトンネルを抜けると、既に外の世界は夜の帳が降りていた。


 窓越しに見える三日月を眺めながら、紅は思い詰めたようにして溜息を吐いた。


 闇の死揮者、真狩紫苑。夜魅原村を脱出した後も、彼の行方は相変わらず不明のままだった。今、あの恐るべき力を持った男が、果たしてどこで何をしているのか。それは紅にもわからない。


 だが、あの男がこの世界の裏で、密かによからぬことを企んでいる。それは紛れもない事実であると、紅は心の内で確信していた。


 真狩紫苑が人を闇に堕とす理由。それは一重に、己の食糧となる淀んだ魂を手に入れるため。だが、果たして本当にそれだけで、彼は今回のような大事件を引き起こそうと考えたのだろうか。


 強い負の感情を抱いた魂など、今の日本にはたくさん転がっているはずだ。それこそ、社会に対する絶望から身勝手で理不尽な怒りまで、探せばいくらでも見つかるはず。彼は自分の中に潜む闇がグルメだと言っていたが、それでも単に食事をするだけであれば、餌には事欠かないはずなのだ。


 闇の死揮者が、人々を闇の世界に誘う理由。それが、単なる食事を越えたところにあるのではないかと、紅にはそう思えて仕方がなかった。


 紫苑は言った。今回のことは、ちょっとした試験の意味合いも兼ねていると。それは紅の力を試すという意味であると同時に、あの三柱鳥居の底に潜む邪神の力を試すという意味も持っていた。ならば、彼がそこまでして、あの鳥居にこだわった理由はなんだろう。


 映像を媒体に、特定の人間に祟りを飛ばすという新手の呪い。異界へのゲートとして作られし三柱鳥居と、瘴気の漂う常闇の村。そして、強大な力を持った邪神の存在。


 一見して繋がりのなさそうに見えるものの、あの紫苑のこと。きっと、それら全てを巧みに利用した、新たな呪詛を考えているに違いない。それがいったい何なのか。彼の真意はどこにあるのか。それは、今の紅の考えが及ぶところではない。


(闇の死揮者か……。あいつとは、いつか必ず、再び対峙せねばならないときが来るんだろうな……)


 悩んでいても、仕方ないことだ。窓から見える月が雲に隠れたところで、紅はそっと首を振り自分の頬に触れた。邪神の中で、闇薙の太刀の力を解放したときについた傷。赤い三日月のように裂けた痕は、綺麗さっぱり無くなっていた。


 あのとき、照瑠の力を借りていたとはいえ、紅自身もまた自分の中に強い力が蠢いているのを感じていた。頬に現れた傷は、太刀の力の反動が原因とは思えない。


 もし、力の反動を受けたが故に傷を負ったのであれば、それは決して消えることはないはずだ。それこそ、魂の根元にまで刻まれて消えない、深い傷跡が残るはず。


 自分はまだ、完全に己の中に潜む力を操れてはいない。邪神の体内での一件で、紅はそのことに気づいていた。照瑠の支えがあったとはいえ、一時は闇薙の太刀の中に潜む強大な闇を完全に制御し、邪神という存在でさえ打ち破って見せたのだ。その力を自在に使えるようになれば、あの真狩紫苑とも対等に戦えるかもしれない。


 夜魅原村が邪神の支配下から解放されたことは、紫苑とていつまでも知らないはずはないだろう。強大な祟りを打ち破ったことで、彼は再び、紅にその矛先を向けてくるかもしれない。そして、それらが照瑠や彼女の友人達にも向けられたとき、今の自分では彼女達を守れるという保証はない。


 闇を用いて闇を祓う、赫の一族の末裔。その使命を果たすためにも、今は彼女達の前から去ろうと思う。贖罪と称しながらも、自分の戦いに無関係な人間を巻き込んで危険に晒す。それが許されないということは、紅も十分に理解している。


 列車が再びトンネルに入ったところで、辺りは一面の闇に包まれた。揺れる車両の音と風の音。その二つを聞きながら、紅は二つの赤い瞳を静かに閉じて眠りに就いた。

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