~ 拾四ノ刻 逆参 ~
廃屋の立ち並ぶ村の中を抜けると、そこには奇妙な洞穴が口を開けて待っていた。
「ここね……。この先にあの娘が……嶋本さんがいるはずよ」
右手の指でフーチの鎖を摘まんだまま、皐月がじっと穴の奥を見据えて言った。入口には木製の格子が備え付けてあり、その一部は閉会が可能な作りになっている。人工的に作られたのは明らかだったが、洞穴そのものは自然にできたもののようだった。
先頭を行く皐月が、強引に格子を開け放つ。鍵の類はかかっておらず、おまけに木枠は既に腐っていたようだ。乱暴に扱ったことで、格子の一部はいとも容易く乾いた音を立てて外れてしまった。
「おいおい。あんまり、乱暴にしない方がいいんじゃないの?」
後ろで見ていた魁が、苦笑しながら口にした。皐月はそれには構わずに、手持ちの小さなペンライトで穴の中を照らしてみた。
闇の向こうから吹き出す冷たい風が、皐月の横を音もなく通り過ぎる。季節に関係なく、こうした洞穴の空気は冷え切っているのが普通である。もっとも、この村の陰湿な気と混ざったそれは、単に冷たいだけではない。心の底から人を凍えさせるような、なんとも言えぬ不快な感じがする。
「行くわよ……」
そう言いながら、後ろを一瞬だけ振り返り、皐月は洞穴の中に足を踏み入れた。残りの者も、それに続く。最後に大柄な総司郎が格子に手をかけたことで、腐った木屑がパラパラと音を立てて舞い散った。
「ううっ、寒っ! 冷蔵庫の中っていうほど大袈裟じゃないけど……それでも、ちょっと涼し過ぎるわね……」
両腕を抱えるようにして、照瑠は身体を少しだけ震わせた。ふと、辺りを見回してみると、天井から石柱のような物が伸びているのが目に入った。大きさはさほどではないが、ここが天然の洞穴――――この場合は、既に洞窟と呼んだ方が正しいのかもしれない――――であることを示すには、十分過ぎるものだった。
こんな場所に、果たして本当に亜衣がいるのだろうか。皐月や芽衣子の力を信じていないわけではないが、それでも照瑠は不安になる。洞穴の空気が妙に冷たいこともそうだったが、何よりも、入口に嵌められていた格子のような物が気にかかる。
あれは、この洞穴を使っていた村の人間が、後から作った物だろう。では、いったい何のために、あんな格子を作ったのか。考えられることは色々とあったが、照瑠にはこの場所が、何か牢獄のような場所ではないかと思えて仕方がなかった。
そう、ここは土牢だ。天然の横穴を利用した、土と岩でできた牢獄なのだ。
もし、亜衣がこの場所にいるとするならば、一刻も早く助け出してやりたいと照瑠は思った。懐中電灯の明かり無しでは、ここは一面の闇である。好き好んでこんな場所に入る者などいないはずだから、きっと閉じ込められているに違いない。
自分達の足音に混じり、どこから水の流れる音が聞こえてくる。先頭を行く皐月が、滑らないように注意しろと声をかけてきた。思わず足下を見やると、なるほど、確かに水が流れており滑りやすくなっている。天然の湧水だろうか。流れる水の筋はいつしか一つになり、照瑠達の進む道の横に、小さな水たまりのような泉ができていた。
「着いたわ。どうやら、ここが最深部みたいね」
突然、皐月が立ち止まって照瑠達の方に振り返った。その手に握るペンライトの明かりは前にしたまま、何やら少しばかり困った顔になっている。
「う、嘘……。また、格子……?」
ペンライトの明かりが照らす先を見て、照瑠も言葉を失った。彼女ばかりでなく、その場にいる人間の殆どが、目の前にある物を見つめたまま立ちすくんでいた。
光の先に現れたのは、これまた頑丈そうな格子だった。入口の物と同じく木製のようだが、今度は出入りするための扉に鍵がかかっている。外の物は朽ち果てて壊れてしまっていたが、こちらは未だ健在だ。錆びつき、既に以前の面影を失ってはいるものの、しっかりと封印としての役割を保ち続けている。
これでは先に進めない。この先に亜衣がいるとしても、今の自分たちには手も足も出ない。鍵を持っているわけでもなく、何か道具があるわけでもない。ピッキングの才能でもあれば別なのかもしれないが、果たしてここまで錆びついた鍵が、本当に針金や釘などで開くのかも微妙だ。
「そんな……。ここまで来て、亜衣ちゃんを助けられないなんて……」
雪乃が力なく俯いた。居場所を見つけたところで、牢獄の鍵を開ける術がなければどうにもならない。諦めにも似た感情が、その場にいる全員の中に広がってゆく。そんなときだった。
突然、照瑠の背中から、ふっと青白い光が飛び立った。それは小さく、吹けば消えてしまうほどの弱いもの。照瑠自身、その光が自分の背中から現れたことにさえ気づいてはいない。
それは言うなれば、一匹の青い蛍だった。いきなり現れた奇妙な光に、その場にいる全員の視線が集まった。だが、それを気にすることもなく、蛍は牢獄の鍵にそっと降り立つ。青白い光が溶け込むようにして消えてゆくと、金属の軋むような音がして鍵が外れた。
洞穴の中に、重たい音が響き渡った。地面に転がった鍵に、全員の視線が集中する。
「な、なにこれ……。どうして、急に鍵が……」
「さあね。でも、今はそんなことに構っていられないわ。この先に嶋本さんがいるんだったら、急いだ方がよさそうね」
驚く照瑠を他所に、皐月が格子の扉を開けながら言った。先に進むと、何やら奥からすすり泣くような声が聞こえてくる。ペンライトの明かりを頼りに足を進めると、果たしてそこには、照瑠達の良く知る少女の姿が現れた。
「あ、亜衣……」
目の前にいる自分の級友。その変わり果てた姿に、照瑠は思わず絶句した。
両手と両足、その全てに、赤い刃が深々と食い込んでいる。芽衣子に憑依していた少女の霊が使っていた、赤い蛍を変化させたものと同じだ。
口の周りには、これは蛍を数珠繋ぎにしたものだろうか。口枷のようにして顔にまとわりついたそれのせいで、亜衣は呼吸をすることさえ自由にできないようだった。
「照……瑠……」
照瑠の姿を見て、亜衣がそっと顔を上げた。喉の奥から掠れたような声で、辛うじてそれだけ口にする。その顔は涙と鼻水で濡れ、見るに堪えない状態だ。髪は乱れ、小さな身体を寒さと痛みに震わせて、瞳からは生気の色が消えかけていた。
「た……助……けて……」
赤い口枷に邪魔されながら、亜衣は懇願するようにして呟く亜衣。その声からは、以前の明朗で快活だった彼女の面影はない。その身を壁に磔にしている赤い刃。その力によって魂を削られ、命の灯が徐々にだが確実に弱まっている。
「ひ、酷い……」
もう、これ以上は見ていられない。雪乃が顔を手で覆い隠し、思わず亜衣から顔を背ける。自分の友人が、こうまで凄惨な仕打ちを受けたこと。その現実を直視するのは、こういった物を見慣れていない雪乃には辛すぎた。
泣きそうになる雪乃の横で、照瑠は奥歯を噛み締めながら拳を握った。
許せない。今までも、恐ろしい力を持った霊的な存在をたくさん見てきたが、ここまで残酷な仕打ちをする者は見たことがない。
こんなことをする者は一人しかいない。芽衣子に憑いていた、あの赤い着物を着た少女の霊だ。何の目的で亜衣を攫ったのかは知らないが、監禁するだけなら牢に閉じ込めるだけでも十分である。それなのに、あの霊は亜衣に、ここまで酷い仕打ちをした上で放置した。そうやって、他人が苦しむのを見て楽しんでいるのだ。真相はどうあれ、照瑠にはそうとしか思えなかった。
「待っててね、亜衣! 今、助けてあげるから!!」
皐月や魁の意見を聞いている暇などなかった。照瑠はそう言って駆け出すと、亜衣を拘束している赤い刃に手を添える。
ふと、隣に目をやると、そこにはミイラ化した男の遺体が転がっていた。思わずぎょっとして身を竦めたが、今はそんなことに構っている暇はない。何もしてこない死体など、怖がっている場合でもない。
全身の意識を掌に集中させ、照瑠はそこから癒しの力を注ぎ込んだ。皐月の身体から、赤い刃を取り去ったときと同じやり方だ。
赤い蛍は死の使い。この村にある伝説を信じるならば、連中は陰の気の塊のような存在である。ならば、それとは反対の力を持つ癒しの気を注ぎ込めばどうなるか。答えは既に、皐月を助けたときにわかっていた。
ジュッ、という火の消えるような音がして、亜衣の左手に刺さっていた刃が消えてなくなった。照瑠の癒しの気を受けたそれが赤煙となって消滅すると、亜衣はその体重をいきなり照瑠に預けて来た。
「長瀬君! 悪いけど、亜衣のことを支えてあげて! この子、もう自分じゃ立てないみたいだから!!」
しなだれかかってきた亜衣の身体をなんとか受け止めて、照瑠は浩二の名を呼んだ。可哀想だが、彼女を支えながら戒めを解くような器用な真似はできない。涙と鼻水で乾いた顔を優しく撫でて、照瑠は一言、「大丈夫だから」と亜衣に告げた。
「おい、九条! 嶋本のやつ、本当に助かるんだろうな!?」
亜衣の身体を支えながら、浩二が叫ぶ。だが、それに答えることもなく、照瑠は足の戒めを解きにかかった。
亜衣の脚に刺さっている刃は二つ。今度は片手ではなく、両手を使わねば潰せない。汚れた小さな運動靴ごと包み込むと、照瑠は再び掌に全身の意識を集中させた。
熱い、全身の神経を焼くような痛みが、自分の腕を通して伝わって来る。単に気を送り込むだけでなく、刃の持つ陰の力を自分の中に取り込んで、それを浄化しているからだろう。
己の身を犠牲に魔を祓う。正直なところ、これは照瑠にとっても危険な賭けだった。単に力を使うだけでなく、自分の肉体や、場合によっては魂までも傷つけてしまう。腹痛や頭痛を治すのとは違い、浄霊に近い作業だからだ。
指の隙間から赤い煙が昇り立ったのを見て、照瑠はそっと手を離した。これで三つ。残るは右手と、口を縛る戒めのみ。
「早くしろ、九条! 嶋本の身体、死人みたいに冷てえんだ! 急がねえと、マジでヤバい!!」
「わかってるわよ、そんなこと! こっちだって……これでも急いでるんだから!!」
浩二に急かされ、照瑠はついカッとなって叫んでいた。もっとも、そう言っている自分自身、既に呼吸が荒い。立て続けに力を行使しているためか、心身共に消耗が激しい。
もう、これ以上は時間をかけていられなかった。自分の力が持たないというのもあるが、それ以上に、亜衣が苦しむ顔を見たくない。
口と右手、それぞれに手をかざし、照瑠は全身の力を集中させた。両目を瞑り、深く息を吸い込んで、自分の中にある霊気の流れを感じ取る。己の身体に宿る癒しの気。それを両手に全て注ぎ、同時に赤い刃の持つ陰の気を受け入れる。
陰の気が腕に入って来る度に、照瑠は身体が熱くなってゆくのを感じていた。しかし、ここで負けては話にならない。今、亜衣を救えるのは自分だけ。その想いが、彼女に倒れることを許さない。
やがて、右手と口の戒めも消滅したところで、亜衣は崩れるようにして浩二の胸の中に倒れ込んだ。壁から解き放たれたものの、その呼吸は酷く弱々しい。瞳にも光がなく、身体は氷のように冷たくなっている。
「亜衣、しっかりして! 亜衣!!」
肩を揺すり、懸命に呼び掛ける照瑠の声にも、亜衣は反応しなかった。まさか、間に合わなかったのか。最悪の事態が頭をよぎる。
「退いて、長瀬君! このままじゃ亜衣が……亜衣が死んじゃう!!」
身体を受け止めている浩二から強引に奪うようにして、照瑠は亜衣を引き離した。そのまま彼女を優しく寝かせ、左手を持ち上げて脈を測る。
自分の指を通して、微かな鼓動が感じられた。まだ、亜衣は死んではいない。しかし、その命の灯は、確実に弱くなっている。
もう、手段など選んではいられなかった。照瑠は亜衣の胸元に手を添えると、残る全ての力を持って、彼女の魂に意識を集中させていった。
「止めなさい、照瑠ちゃん! それ以上力を使うのは、あなたに負担が……」
「わかってます、そんなこと! でも……ここで亜衣を助けられるのは、私だけなんです!!」
制止する皐月の言葉さえ振りきって、照瑠は亜衣の霊脈を探る。自分の力がどこまで持つのか。そんなもの、最初から保証などない。それでも、ここで亜衣を失うようなことがあれば、自分は絶対に後悔する。
自分に残された全ての力。照瑠はそれを、亜衣の全身に注ぎ込んだ。肉体だけでなく、魂の傷さえも回復させる。そうしなければ、傷ついた亜衣を救うことは決して叶わない。
「お、おい……。九条……」
ただならぬ照瑠の様子に、側に立っていた浩二は言葉が出なかった。いや、彼だけでなく、そこにいる全員が、固唾を飲んて照瑠のことを見守っていた。
腰まで伸びた髪が逆立って宙を舞い、掌から微かに金色の光がこぼれ出す。照瑠が今までに見せたことのない、強力な癒しの力だ。修業中の身でありながら、ここまでの力が出せるのは、彼女の生まれ持った才能か。それとも、友人を助けたいという強い想いがそうさせるのだろうか。
やがて、照瑠の手から光が消えたところで、亜衣が微かに呻いて目を覚ました。その顔にはうっすらと赤味がさし、瞳には生気が戻っている。完全に回復したわけではないのだろうが、少なくとも、亜衣を死の淵から救うことはできたようだった。
「あ……照瑠……?」
半分、寝ぼけたような顔で、亜衣がゆっくりと起き上がった。身体の節々に痛みは残っていたが、自分で起き上がれない程ではない。
「亜衣……。よかった……」
ほっと息を吐きながら、照瑠はそれだけ呟いた。そして、糸が切れた人形のように、そのままゆっくりと横に倒れる。慌てて浩二が駆け寄ると、照瑠は軽い寝息を立てて、そのまま静かに眠っていた。
「力を使い過ぎたのね……。しばらくは、休ませてあげましょう」
倒れた照瑠の身体を抱え起こし、皐月はそっと壁にもたれかけさせた。思えば、ここに来るまでも、照瑠は随分と力を使っていた。三柱鳥居の写真に残された記憶。それを探る際、芽衣子が負の波動の影響を受けないように、彼女にかかる負担を中和する役割を担っていた。
時間がないのはわかっている。しかし、このまま照瑠に無理をさせるのは、さすがに皐月も気が引けた。それに、いくら助け出せたとはいえ、亜衣も全快というわけではない。今しがたまで死の淵を彷徨っていた彼女にもまた、あまり無理はさせられない。
身体を起こしたばかりの亜衣の顔を、雪乃が心配そうに覗き込んだ。その隣に芽衣子の姿を見て、亜衣は一瞬だけ悲鳴を上げて身を竦めた。
「ひっ……。め、芽衣子……さん……? 本当に、本当に本物の芽衣子さん!?」
「本物って……なにかあったんですかぁ?」
自分が憑依されていたときの記憶は、当然ながら芽衣子にはない。怪訝そうに首を傾げる芽衣子だったが、亜衣にとっては話は別だ。なにしろ、彼女は亜衣をこの洞窟の壁に、赤い刃で打ち付けた張本人なのだから。
「大丈夫よ、嶋本さん。何があったのかは知らないけど、ここにいるのは普段の芽衣子よ。彼女に憑いていた少女の霊は、私達で追い払ったから安心して」
「そ、そうですか……。あぁ、よかったぁ……」
皐月の言葉に、亜衣がほっと胸を撫で下ろした。思わず気が抜けて再び倒れそうになるが、雪乃が肩に手を置いてくれたことで、なんとか倒れないように踏ん張れた。
「大丈夫、亜衣ちゃん? どこか、まだ痛むところなんてない?」
「うん、平気……。まだ、ちょっと手足が痺れる感じがするけど……自分で立てないって程じゃないよ。ただ……ちょっと……」
「どうしたの?」
「うん……。実はね……」
だんだんと、亜衣の顔が赤くなってきた。恥ずかしそうに俯きながら、亜衣は這うようにして雪乃の傍へやってくる。時折、自分の下半身を隠すようにして、雪乃になにやら耳打ちした。
「おい、どうしたんだよ、嶋本。なんか、まだ具合悪いところでもあんのか?」
横から浩二が怪訝そうな顔をして訊いてきたが、亜衣はそれには答えなかった。雪乃もそれは同様で、ただ亜衣の話だけに黙って耳を傾けている。
「なるほどね。でも、あんな怖い目に遭ったんだから、仕方ないよね……」
「うぅ、面目ない……。でも……どうしたらいいかなぁ……」
魁、浩二、そして総司郎。その場にいる男性陣の顔色を窺うようにして、亜衣は彼らの顔をちらちらと見ながら呟いた。見兼ねた雪乃は立ち上がると、今度は皐月に耳打ちする。先ほどの亜衣と同じく他の人間には聞こえないように、そっと小声で囁いた。
「あの……。と、いうわけなんで……申し訳ないんですけど、一緒に来ていただけませんか?」
亜衣に代わり、雪乃が身体を小さく丸めて皐月に訊ねた。いったい、さっきから何の話をしているのか。訳もわからず首を傾げている男性陣を他所に、皐月はそっと亜衣の肩に手を置いた。
不安げに顔を上げた亜衣に、皐月は軽く微笑んで答える。自分に全て任せておけ。彼女の顔が、そう告げていた。
「ねえ、あなた達。ちょっと悪いんだけど、私たちはこれから少し外の空気を吸って来ようと思うの。その間、照瑠ちゃんのことはお願いね」
「なっ……!? 外の空気って……また、あの赤い蛍に襲われたらどうすんだよ!!」
皐月の言葉に、浩二が目を丸くして叫んだ。しかし、皐月はそれには取り合わず、あくまで自分のペースで話を進める。
「それは大丈夫よ。紅ちゃんほどじゃないけど、私だって少しは戦えるわ。さっきの戦いで、それは証明済みじゃない?」
「け、けどよ……」
「大丈夫だって言ってるでしょ。それに、この子だって病み上がりみたいなものだからね。まずは外の空気でも吸わせて、気持ちを落ち付けさせてあげたいから」
「まあ、確かにそれはそうかもしれねえけど……。だったら、俺や御鶴来先生も一緒に行った方が……」
「ありがとう。でも、照瑠ちゃんを守る人だって必要よ。あの子が目覚めるまで、悪いけど一緒にいてあげてちょうだい」
さらりと流すようにして、皐月は浩二の申し出を断った。魁と、それから総司郎にも了解を求めるような視線を送る。もっとも、目の見えない総司郎にとっては、あまり意味のないことであったが。
「仕方ないね。それじゃあ、俺達はここで、お姫様が眠りから覚めるのを見守っているとするよ。でも、なるべく早く用は済ませてきてくれ」
珍しく、魁は皐月の意見に反論をしなかった。こちらも事情は理解した。無言のまま、魁は表情だけでそう答える。皐月は一瞬だけ驚いた顔になったが、直ぐに気を取り直して亜衣の目線に顔が来るように腰を落とした。
「それじゃ、今からちょっと外まで行きましょうか? 女だけだったら、あなたも平気でしょ?」
「は、はい……。まあ……」
「だったら話は早いわ。それと……悪いけど、芽衣子は今回お留守番ね。そこの陰陽師の先生と一緒に、照瑠ちゃんのことを見張ってて」
最後の最後に、皐月は駄目押しで芽衣子のことを指差しながら言った。自分だけ仲間の枠から外されて、芽衣子はなにやら不満そうに顔を膨らませる。
「酷いですよぉ、お姉さまぁ! なんで、私だけ留守番なんですかぁ!?」
「仕方ないでしょ。あまり大人数で動いて、敵に見つかったらどうするの? 私と違って、あなたは戦力外なんだから……少しは大人しくしていなさい」
「で、でもぉ……」
「それとも、またさっきみたいに、変な霊に憑依されてもいいの? あのときは紅ちゃんがいてくれたから助かったけど……今度、同じことが起きたら、私だけで助けられるっていう保証はないわよ?」
「うぅ……。わかりましたよぉ……」
胸の前で指と指を合わせながら、芽衣子は残念そうに俯いた。そのまま直ぐに後ろを向いてしまったことからして、どうやら不貞腐れてしまったようだ。
さすがに、少し可哀想なことをしたか。多少の後ろめたさを感じた皐月だったが、それよりも今は亜衣だ。ここで芽衣子に構っていたら、余計に話がこじれて仕方がない。それに、彼女を同行させることは、色々な意味で面倒なことになりそうなので嫌だった。
皐月は雪乃にも声をかけると、二人で亜衣を挟むようにして洞窟の入口に引き返して行く。亜衣の背丈が低いこともあり、こうして見ると、小学生と連れた保護者のように見えなくもない。
曲がりくねった通路を進み、皐月は水音を頼りに目的の場所を探した。その間、亜衣は始終黙ったままだ。そんな亜衣の横に、雪乃が心配そうにして寄り添っている。
(えっと……確か、この辺だったわよね)
洞窟の中ほどで、皐月は立ち止まって辺りを見回した。円を描く様にしてペンライトを動かすと、その明かりの先に小さな水たまりが見える。洞内を流れる湧水が溜まってできたものだ。
「あった、あった。ほら、ここなら誰もいないから……今の内に、あそこの水溜りで洗ってきちゃいなさい」
皐月がライトの光を当てて亜衣に水の場所を示した。亜衣はその光を頼りに、おずおずと前に進んでゆく。普段の彼女からは想像もできない、どこぞのお姫様のような足取りで。
赤い刃の刺さっていたときの痛みが、まだ脚に残っているのか。いや、それはない。確かに痺れるような感覚は残っていたが、歩けないという程ではない。
では、彼女がこうまでして大人しくなっている理由はなにか。それを知っているだけに、皐月も雪乃もあえて何も口には出さない。
「ねえ、亜衣ちゃん。なんだったら、私達、終わるまで後ろ向いてようか?」
「うん……。そうしてくれると助かるよ……」
首だけ後ろを振り返った亜衣が、申し訳なさそうな顔で呟いた。
(まあ、こればっかりは仕方ないよね。亜衣ちゃんだって、一応は女の子なんだし……)
以前、風呂場で胸を揉まれそうになったときのことを思い出し、雪乃はなにやら苦笑しながら亜衣に背を向けた。デリカシーのない一面もあるが、それでもやはり、亜衣だって女の子なのだ。いくら下ネタ好きとはいえ、恥ずかしいものは恥ずかしいのだろう。
しばらくすると、後ろから衣服の擦れるような音がして、続いて何かを洗うような水音が聞こえて来た。最後に、再び衣服の擦れる音がして、亜衣の足音が徐々にこちらに近づいてきた。
「お、終わったよ、ゆっきー。もう、こっち向いても平気だよ……」
周りにいる者達だけに聞こえる程度の声で、亜衣がそっと後ろで呟いた。皐月と雪乃が振り向くと、そこには先ほどと変わらぬ亜衣の姿がある。
亜衣の顔は、少しだけ水で濡れていた。涙と鼻水を洗い流したのは確かだが、実はそれだけではない。ここからは見えない部分もまた、亜衣はしっかりと洗っていた。
「ごめん、ゆっきー。なんか、こんなことに付き合わせちゃって……」
「いいわよ、別に。それに、お礼だったら皐月さんにも言ってあげて」
「うん……。どうも、この度はお世話になりましたです……。でも……まさか、この歳になって、自分で自分の下着を汚しちゃうなんてね……」
はぁっ、と情けない溜息を吐いて、亜衣はがっくりと項垂れた。洗った下着が肌にべったりと貼りついて、それだけで不快な気持ちにさせられる。水に濡れた下着は冷たく、このままでは腹を冷やしてしまいそうだ。ズボンではなくスカートだったため、一見して粗相をしたことが、外から気づかれ難いのは不幸中の幸いか。
「さて……。やること済ませたんだったら、もう戻るわよ。あまり遅いと、他の人達に変な心配かけちゃうかもしれないからね」
皐月が手にしたペンライトで、洞窟の奥を指して言った。亜衣は二、三度顔を横に振るって気を取り直すと、そのまま黙って頷いた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
薄暗い洞窟の中で、浩二は独り、ぼんやりと天井を仰いでいた。
静かだ。皐月と雪乃が亜衣を連れて行ってから、辺りには水の音だけが響いている。魁も芽衣子も、それに総司郎も、この場に残された者達は、誰一人として口を開こうとしない。まあ、ここで無駄口を叩いても意味がないことは、浩二も十分に理解はしていたが。
ふと、横に顔を向けると、そこには首を鎖で繋がれた一体のミイラが転がっていた。改めて目にすると、やはり少々薄気味悪い。亜衣を助けることで夢中になっていたので、今まではその存在を忘れていた。
ここが牢獄のような場所であることを考えると、このミイラは恐らく、ここに繋がれていた罪人なのだろう。だが、いったいどのような罪を犯したら、こんな場所に監禁されることになるのだろう。
勉強は得意ではなかったが、今の日本で、このような仕打ちを人にして許されるはずがない。その程度のことであれば、浩二も知っている。
では、この男はなぜ、こんな場所に繋がれているのだろう。思わず気になって目を凝らすと、ミイラの足下に何かが転がっているのに気が付いた。
「なんだ、こりゃ? なんかの手帳か?」
泥だらけになったそれを拾い上げ、浩二は怪訝そうな顔をして中を開く。果たして、彼の予想は正しく、それは一冊の古びた手帳だった。
手帳に書かれている文字は、残念ながら、その殆どが読めるような状態になかった。長い年月の間に、洞窟内の湿気にやられてしまったのだろう。特に、表紙の付近にあるページは酷く、少し触れただけでボロボロと紙が崩れ落ちてしまった。
「っと、ヤベえ!! 慎重にページめくんねえと……ボロいなんてレベルじゃねえな、こりゃ……」
咄嗟に手帳から指を離し、浩二は慌ててページをめくろうとしていた手を止めた。改めて手帳の端を指で摘まむと、今度は慎重にそれを開いてゆく。迂闊に引っ張ればそれだけで紙が破れそうで、浩二の顔にも緊張が走る。
手帳の、ちょうど真ん中に当たるページを開いてみると、そこは辛うじて無事だった。書かれた文字もしっかりと残されていたが、残念ながら、それでも浩二には読めなかった。
「げっ……。なんなんだよ、この漢字交じりの古文みてえなの。なんかの暗号か?」
そこにあったのは、見たこともない漢字の混ざった文章だった。恐らく、戦前に使用されていたものだろう。
「なあ……。あんただったら、これ、読めんじゃねえのか? ちょっと、代わりに読んでくれよ」
自分では手に負えないと思ったのか、浩二は古びた手帳を横にいた芽衣子に突きつけた。いきなりボロボロの手帳を押し付けられ、芽衣子はしばし面食らった様子で、大きな目を瞬きさせたまま固まっていた。
「えっと……。なんですか、これ?」
「なんか、そこのミイラの足下に転がってやがったんだ。ちょっと気になって読もうとしたんだけど、全然読めねえ」
「う~ん……。残念ですけど、私にもわからないです。私、こういうの専門じゃないんで……」
「専門じゃないって……あんたも犬崎や皐月さんと同じで、この手の話に詳しいんじゃなかったのかよ!?」
「そんなこと言ったって無理ですよぉ! 私はお姉様と違って、漢字とか古文とか、そういうの全然駄目なんですぅ!!」
顔をふぐのように膨らませて、芽衣子が手帳を浩二に突き返す。皐月と同じ退魔具師だというのに、これでまともに仕事が務まるのか。いや、それ以前に、そんなことは威張って言うべきことなのか。
いろいろと納得のいかない部分があったが、それでも浩二は仕方なく引き下がった。
ここで芽衣子に文句を言っていても始まらない。こうなれば、読めそうな部分だけでも読んでみるか。そう思って浩二が再び手帳を開こうとしたとき、後ろから伸びて来た手がそれを奪った。
「へぇ……。なんか、随分と面白そうなもの持ってるじゃない」
手帳を奪ったのは魁だった。そのホストのような容姿とは裏腹に、魁は手帳をパラパラとめくり、その中身を流すようにして目を通してゆく。
「お、おい……。あんた、その手帳の中身が読めんのかよ」
「聞き捨てならないな、少年。言っておくけど、俺だって一応は陰陽師の末裔で通ってるんだぜ? 世間じゃ色々と偽物が出回っているみたいだけど、元々陰陽師ってのは学者でもあるんだ。多少の学がなかったら、この仕事はまともに務まらないさ」
「へ、へぇ……そうなのか。霊能者って言っても、色々あんだな」
「そういうことだ。で、気になる手帳の内容だけど……こいつはまた、随分と貴重な物を見つけてくれたね」
魁がにやりと笑う。何やら面白い展開になってきた。そんなときに、彼が決まってみせる表情だ。
「貴重な物って……いったい、何が書いてあるんだ?」
「まあまあ、慌てない。こういうのは、焦っても何の得にもならないよ。なんだったら、読みながら説明するけど……それでも構わないかい?」
なにやら悪戯っぽく笑う魁だったが、浩二は笑わなかった。ただ、首を縦に振り、頷いて答える。ここで自分が何か意見をしたところで、この男の調子が変わらないことは既に知っている。
「それじゃ……まず、この手帳の持ち主について話そうか。こいつの持ち主は、たぶんそこでミイラ化している男だね。仕事は民俗学者だ。もっとも、亡くなったのは戦前みたいだから、現代の人じゃないのは確かだけど」
「民俗学者……って何だ?」
「おいおい、しっかりしてくれ。民俗学者ってのは、簡単に言えば昔からの風習や伝統文化なんかを調べる人間のことさ。まあ、君達が学校で勉強する歴史の教科書なんかには、決して出てこないような内容を研究していることがほとんどだけどね」
「あっ、私それ知ってますよ。なんか、遺跡とか発掘して、古代文明のすっごいお宝をゲットしてくる人ですよねぇ!!」
芽衣子が横から口を挟む。その瞳はいつになく自信に輝いているが、対する魁は額に手をやり、呆れた顔で溜息を吐いていた。
「はぁ……。君、あの退魔具師の人の助手だっけ? 君が言っているのは、どっちかといえば考古学者の仕事じゃないか?」
「えっ……? 私、なんか勘違いしてましたかぁ?」
「勘違いもなにも……考古学者と民俗学者じゃ全然仕事の種類が違うんだよね。君、なんか珍しい力を持ってるみたいだけど……もう少し、色々と世の中について勉強した方がいいんじゃないの?」
「うぅ……。そんなにはっきり言わなくてもぉ……」
胸の前で指と指の先を合わせ、芽衣子が少しだけ顔を俯かせた。魁はそれに取り合わない。時に毒を混ぜて鋭い指摘を加える辺り、彼自身は気づいていないが、紅に似ている部分もある。
「先生……。それで、その民俗学者の手記には、いったい何が書いてあるんっすか?」
場の空気を察し、総司郎がすかさず話を元に戻した。この辺り、さすがは魁の弟子だ。例え目が見えずとも、自分の師が何を求めているのかを瞬時に察してくれる。
「こいつは、この学者が生前に調べた記録みたいなもんだね。どうも、この村について色々と調べていたようだけど……前の方は、汚れたり破れたりしていて読めたもんじゃないな」
「だったら、読めるところだけでいいっす。目の見えない俺には、どっちにしろ読めませんし」
「そうだったね。じゃあ、総ちゃんのためにも、ここは俺が今風の言葉に直して読んでやるとしますか」
総司郎だけでなく、浩二と芽衣子にも目配せをして、魁はまた例の笑みを作って見せた。それぞれが持っている懐中電灯やペンライトの明かりを集め、それで手帳を照らす。この村に関する記述は手帳の中ほどに残されていたようで、痛みが比較的少ないのは幸いだ。
薄暗い洞窟の中で、手帳の中身に全員の視線が集まる。一瞬、浩二が照瑠の方へと顔を向けたが、彼女は未だ目を覚ます様子はない。そのまま隅の方へと視線を移すと、先ほどのミイラと目が合った。
仄暗い、深淵の底に繋がっているような二つの穴が、じっと浩二を見つめている。それは、死してなお何かを伝えたいと願った、哀れな民俗学者の生前の想いを訴えているようでもあった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
村の高台に続く石段を、犬崎紅は黒影と共に登っていた。
先頭を行くのは、黒猫に姿を変えた一人の少女だ。彼女の言葉から察するに、恐らくは紫苑という人物の使役する魔物なのだろう。その身を猫に変える力を持った妖怪、猫鬼。紅の使役する黒影と同じく、彼女もまた人間ではない。
石段を登るにつれ、だんだんと空気が重たくなってゆくのが感じられた。紅の傍らに付き添う黒影の顔にも、徐々に警戒の色が強くなってきている。時折、低い唸り声を上げながら、黒影はその顔に怒りの色を露わにして牙を剥く。
いや、これは怒りではない。紅にはそれが、はっきりとわかった。
黒影は怒っているのではなく、怯えているのだ。この先に待っている者が、今までの相手とは格の違う存在だとわかっているから。己の中に残る犬としての本能が、自分とその主の危険を知らせているから。
こんなことは、紅にとっても初めてだった。これまでも多くの向こう側の世界の住人を相手にしてきたが、黒影が怯えることなど一度もなかった。あの、神代の時代より封じられし魔物、紅が火乃澤町を訪れるきっかけを作った八ツ頭を相手にしたときでさえ、ここまで強い警戒の色を示してはいなかった。
これはいよいよ、覚悟を決めるときが来たか。闇薙の太刀を握り締め、紅は高ぶる気持ちを鎮めようと意識を集中させた。
高台の上に向かって吹き上げる風が、石段の脇にある木々を揺らす。まるで、巨大な魔物に蹂躙されているかのように、木々の梢は激しい音を立てて葉を散らす。
やがて、石段が終わりを告げたところで、紅の目の前に巨大な鳥居が姿を現した。三本の脚を持つ奇妙な形状。まるで何かの祭壇を思わせるような、不思議な建造物だ。
鳥居から放たれる強い陰の気を感じ、紅と黒影は足を止めた。これまでになく強い負の波動が、肌を通して魂を刺激する。肉体というフィルターを持ってしても受け流せない程に、その力は強い。
もし、これを映像に仕込んだ上で、何らかの細工を施して波動に一定の指向性を持たせたらどうだろうか。その矛先を微妙に調整することで、東京で起きた事件のように、特定の人間だけを殺害することも可能だろう。もしくは、照瑠や亜衣、それに詩織を襲った呪いのビデオのように、人間にだけ作用する一種の無差別殺戮武器としても用いることができる。
こんな物が、未だこの日本に残されていたのか。目の前の鳥居に潜む邪悪な存在に、紅は改めて戦慄を覚えた。自分の故郷の近くで封印されていた、八ツ頭などの比ではない。
だが、それにも増して紅と黒影を動けなくさせていたのは、鳥居の前に佇む一人の青年に他ならなかった。
黒いスーツに身を包んだ、およそ廃村には似つかわしくない格好。年齢は、まだ二十代だろうか。穏やかに微笑む口元とは反対に、その瞳には氷のような冷たさを湛えている。
案内役の黒猫が、青年の前にスタスタと歩いて行った。猫は青年の足下で止まると、一声だけ鳴いて顔を上に向ける。
「ごくろうさまです、マオ。もう、あなたは下がっていなさい」
青年が、猫に優しく語りかけた。その声があまりに柔らかいものだったので、紅は思わず面食らった。
魔性の者でありながら、目の前の青年は一見して穏やかで温かみのある雰囲気を身に纏っている。氷の刃を思わせる冷たい瞳と目を合わさなければ、誰も彼のことを悪人だとは思うまい。
だが、だからこそ、あの青年は危険な存在なのだ。悪意を剥き出しにして襲いかかって来る魑魅魍魎の類とは違う。人の心の隙間を狙い、逃れようのない誘惑を囁いて、人間を魔道に堕とす悪魔と言った方が正しい。
「やあ、ごくろうさん。この場合は……初めまして、と言った方がよろしいのでしょうか?」
あくまで紳士的な態度を崩さず、青年は紅に語りかける。しかし、紅はそれに答えず、黒影と共に青年を睨みつけている。
「貴様、何者だ。俺をここへ呼び出したからには、何か企みがあってのことなんだろう?」
「これは、これは……。企みなどと、そんな大それたものではないですよ。僕はただ、自分自身の感情に基づいて、色々と実験をしていただけです」
「とぼけるな! 東京での事件、そして今回のこと……。いや、それ以前にも火乃澤町で起こった、様々な事件。それらの全てに貴様が関わっていることは、既にこちらもつかんでいる。貴様が裏で……俺達のような人間の間で、なんと呼ばれているのかもな!!」
普段はあまり見せることのない、強く激しい口調。紅は断言するようにして、そう言い切った。
別に、確証があるわけではない。火乃澤町で起きた様々な事件に、闇の死揮者が絡んでいたこと。そんな証拠はどこにもない。こうして強気に出ることで、少しばかり相手に揺さぶりをかけようとしただけだ。
「ほう……。僕のことを、少しはご存知のようですね。これは話が早い」
紅の言葉に怯みもせず、青年はさらりと流すようにして言った。相変わらず、その顔には余裕の色が満ち溢れている。自分の行いが相手に知られていることなど、何ら問題ではない。そんな青年の態度が、彼を包む空気を一際不気味なものにしていた。
「僕の名前は真狩紫苑。君のような人達の間では、闇の死揮者という名で知られています」
「やはり、貴様が死揮者か……。ならば、貴様の目的は何だ。なぜ、貴様は自分で人を呪わずに、素人に呪具を渡して闇を広めようとする!?」
「なぜ……ですか? まあ、こちらにも色々と事情がありましてね。一言で説明するのは難しいのですが……今回に限っては、ちょっとした試験だったとでも言わせていただきましょうか?」
「試験だと?」
「ええ、試験ですよ。僕の後ろにある、この鳥居。こいつの下に潜んでいる者の力を試してみたかった。まずは、それが一点でしょうか?」
紫苑の口が、にやりと歪む。鼻から下だけを笑みの形にして、彼は煽るような視線を紅に向ける。
粘性の高い液体に包まれているような感じがして、紅は思わず顔をしかめた。そう、液体だ。目の前にいる男の顔。それがまさしく、紅には液体の塊のように見えた。そこにあるのは確かなのに、自由自在に姿を変え、決してつかむことのできないもの。紫苑の顔を改めて見て、紅が真っ先に感じたのがそれだった。
「既にお気づきかもしれませんが、この鳥居は邪悪な存在へと通じる入口になっています。なぜ、そのような力を持ったのかについては……かつて、この村を襲った悲劇について、説明せねばなりませんね」
「下らん話はいい。貴様の考えが何であれ、俺は貴様を止める。例えその結果……俺自身が、人殺しの汚名を着せられることになってもな」
「おやおや、勇敢なことだ。でも……本当によろしいのですか? この鳥居の中に潜む邪悪。その正体もわからずに、どうやって祟りを解くつもりなんです?」
今にも刀を抜かんとする紅を前にしても、紫苑は相変わらずの余裕な態度を続けていた。主導権はこちらにある。それがわかっているからこそ、紫苑はあくまで自分のペースで話を進める。絶対的な強者の余裕。未だ己の力の片鱗さえ見せないでいることが、返って凄味を増している。
「わかった……。まずは、そちらの話を聞かせてもらおう。貴様を止めるのは、それからでも遅くはないからな」
「賢明な判断です。やはり、君は僕が見込んだだけのことはある人間ですね……」
ほうっという音と共に、紫苑の口から一筋の吐息がこぼれ落ちる。口から放たれた息にどす黒い何かが混ざっているような気がして、紅は再び眉根を寄せた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
薄暗い洞窟の中、御鶴木魁はミイラ化した男の手帳を静かにめくって語り出した。生前、この男が手帳に書き記したこと。それを他の者に――――こと、視力を失い文字を読むことのできない総司郎に――――伝えるために。
「さて……。それじゃあ、君達にもわかる言葉にして読んでやろう。こっちの都合で余計な話を端折るかもしれないけど、その辺はご愛嬌ってことで」
場の空気を少しでも和らげようと、魁はわざとおどけた口調で言ってみせた。しかし、浩二や芽衣子を始め、誰も笑う者はいない。自分自身、やはり人を笑わせるセンスはないのかと、魁は複雑な顔になって苦笑する。
手帳のページを破らないように気をつけながら、魁はそこに記された内容を読み上げていった。初めは何のことはない記録だったが、そこに書かれている内容は、徐々に彼らの想像もしなかったような物へと変わっていった。
――――7月16日。
とうとう、かねてから噂に聞いていた、夜魅原村の場所に関する情報を得ることができた。おぼろげな場所まではわかっていたが、具体的な場所までは、これまでに何度調べても判明はしなかった。近隣の村の住民に訊ねても、なぜか巧妙にはぐらかされてしまっていたのだ。
いったい、あの村では何が行われているのか。今はまだ知る由もないが、きっと、民族学的に見ても価値のある秘祭が行われているのは確かだ。日本人の土着信仰研究における、新たな一ページが開けることを、私は願ってやまない。
――――7月22日。
山麓の村人から半ば強引に情報を訊き出して、私は夜魅原村へと到着した。山奥にある昔ながらの集落ということで覚悟はしていたが、それにしても随分と古い造りの建物が多い。いったい、この村はいつから時が止まってしまっているのだろうか。恐らく、江戸よりもはるか昔から、この村の建築様式は変化をしていないのではないかと思われる。
まあ、どちらにせよ、民族学的に見ても価値のある集落であることには変わりがない。このような歴史的価値のある場所は、できればこれからも、あまり外の文明に触れずに残っていて欲しいものだ。
――――7月28日。
この村を訪れてから、既に六日ほどが経過した。山奥の村は排他的な場所が多いが、この村の人間は比較的好意的だ。
村で行われている祭りに関しても、何ら問題なく聞き出すことができた。なんでも、魂送りとか言う祭りらしく、この村で行われている盆の行事らしい。ここ、夜魅原村に残る蛍の伝承と合わせ、興味深い話である。
もっとも、私もこれで、村の全てがわかったとは思っていない。いかにこの村の住人が、表面上は私に親しくしていたとて、その仮面の裏に隠された真の顔を私は知らない。
麓の村の住人達が、しきりにこの村の場所を隠そうとしたこと。その謎を突き止めるまで、私はこの村の調査を続けたいと思う。
――――8月4日。
魂送りを迎える季節が近づいてきた。どうやら、今年は例年になく不吉な年のようで、村人たちの様子が世話しない。村の伝承にある、死を呼ぶ赤い蛍の話を、そこかしこで聞くようになった。
不穏な空気が流れ始めてはいるが、私としては都合がいい。やはり、私の思っていた通り、この村には何かがある。魂送りだけでなく、もっと人に隠さねばならない、真の秘祭が存在する。それこそが、私が求めていたものだ。村の人々には悪いが、もうしばらくは、独断で調査を進めさせてもらおうと思う。
――――8月9日。
魂送りに関して、少しばかり奇妙な話を手に入れた。通常の魂送りは先祖の魂をあの世へと帰すものらしいが、その反対に、逆参りという儀式もあるらしい。
魂送りは、最後に山の高台を囲むようにして存在する道を時計回りに歩き、そこに神鏡を奉納することで終わるという。では、その反対である逆参りとは何か。名前からして、恐らくは参拝の順路を逆に行うというものなのだろうか。
興味は尽きないが、今日の調査ではここまでしか情報を得ることができなかった。明日、改めて調査の続きを再開しようと思う。逆参りとは別に、まだ本当の秘祭に関する情報が、村人たちによって伏せられている可能性もあるのだから。
――――8月12日。
ついに、この村――――隠され――――秘祭――――。だが、今と――――己の行い――――後悔――――。
この村――――生き神――――お白様。――――神代の世界の住人――――儀式、白禊。その詳細――――知って――――土牢に――――まった。やはり、この村に――――秘密――――儀式――――。――――知って――――私を――――逃がさない――――。
今、私――――土牢に―――れながら、辛う――この手記―――書き―――る。何も見え――――酷―――字に―――がいないが――――私は――――。
――――●月×日(日付は文字が掠れていて読めない)。
喉が―――水―――近くにあ―――届かな――――。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「これは、言わばゲートなんですよ」
巨大な鳥居を背にしたまま、紫苑が紅に告げた。
「我々の世界とは異なる世界……。常世を始めとした様々な異界と、現世を繋ぐ門なのです」
ふっと、音もなく振り返り、紫苑は高々と聳え立つ鳥居を見上げる。三柱の鳥居。どこから入っても社に辿り着くことはなく、中央で天を仰げば、その先に見えるのは三角形をした空へと繋がる入口だけだ。
これはゲートである。そう、紫苑は紅に告げた。彼の言う通り、三柱の鳥居は一種の門なのだ。本来、鳥居は神域への入口を示すもの。それを重ね合わせ、空間を囲うようにすることで、霊的な特異点を生み出すこともできる。それこそ、門としての特性をいかんなく発揮する、異なる世界への入口を。
「かつて、この村で行われていた儀式、魂送り。この門を使い、死者の魂を常世へと帰す儀式です。しかし……それだけでは、この鳥居が邪悪なる者の住処になることはありません。お盆の最後に先祖の霊を常世へ帰すだけならば、京都の山でもやっていますからね」
「当然だ。鳥居が常世へのゲートであったとしても、それだけで陰の気を発する存在にはなりはしない」
「その通りです。そして、あなたも薄々は気づいているのでしょう? この鳥居が、単に常世への道を示すだけではなく、他の世界へと通じる出入口としての役割も持っていたということを……」
再び正面に向き直り、紫苑が紅に訊ねた。紅はそれには答えず、紫苑の動きから目を離さずに静止している。一見して大人しく話を聞いているように思われたが、その瞳からは警戒の色が消えることはない。
「この鳥居が、いつ、誰の手によって作られたのか。それは僕にもわかりません。ただ……ここで行われていたある儀式。それが、些細な闇を強大な邪神へと変えてしまったんです」
「邪神だと!? では、やはり、あの祟りの元凶は……」
「ええ、そうです。この村を死人の徘徊する場所へ変え、常世の時間の流れからも隔絶し、赤い蛍を操ってあなた方を襲わせた者。それこそが、この巨大な鳥居に太古の時代より巣食う、大いなる邪悪な存在なのです」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
洞窟の暗がりの中で、魁の言葉に全員が耳を傾けていた。気がつくと、亜衣や皐月、それに雪乃の姿もある。どうやら用事を済ませてきたらしく、彼女達もまた、いつしか魁の話を聞く側に加わっていた。
「さて……。これで手記に書かれていることは全てだ。最後の方は、字が滅茶苦茶に重なって読めなかったけど……まあ、ヒントとしては十分だったね」
ボロボロの手帳を閉じ、魁は飄々とした口調で言ってのける。もっとも、顔は笑っているものの、その目は真剣そのものだったが。
ミイラ化した民俗学者が残した手記。この村で行われていた秘密の儀式。その中でも魁が気になっていたのが、逆参りと白禊の二つだった。
「君達も気づいていると思うけど……」
周りを囲んでいる者達の顔を、魁はぐるりと見回した。洞窟の隅で眠っている照瑠は、まだ目を覚ます様子はない。
「かつて、この村で行われていた儀式。それが原因となって、この村は死者の巣窟になったと考えるのが正しいんじゃないかな?」
「どういうことですか、それ?」
雪乃が首を傾げる。途中から話に加わったためか、どうにも魁の言いたいことがわからない。
「いいかい。この民俗学者の手記によれば、まず、この村には禁断の儀式があった。それが、魂送りとは反対の性質をもつ逆参りだ。魂送りの儀式を逆順で行うってやつだったが……その結果、何が起こるかは、魂送りの性質を考えれば話が早い」
「魂送りの性質? まさか……!?」
皐月の顔に、驚愕の色が浮かんだ。魂送りが死者の魂を常世へ戻す儀式だとすれば、逆参りとはその反対。死者の魂を、こちらの世界に呼び出す儀式ということになる。
この村が、死霊の跋扈する怨霊の巣になってしまったこと。恐らくそれは、過去に何者かが逆参りを行ったからなのだろう。その結果、村は時間も空間も歪められた、常世とも現世ともつかない異界と成り果てた。そして、村の住人達は闇に飲まれ、赤い蛍に操られるだけの亡者となってしまったのだろう。
「逆参りが異界とこちらの世界を繋ぐ儀式なら、それをやって呼び出せるのは、本来は先祖の霊のはずだ。でも、残念なことに出て来たのは、あの赤い蛍だったみたいだね。この村の伝承にもある、死の使い。まったくもって、とんでもない物を呼び出してくれたやつがいたもんだよ」
手帳を片手に、魁はうんざりした様子で首を振る。異界と現世を繋ぐ逆参り。それが失敗したからこうなったのか、それとも最初から定められていたことなのか。
いや、それ以前に、いったい誰が、何の目的で逆参りなどという禁忌を犯したのだろう。今となっては、それを知る術などない。
だが、この村を覆う恐るべき闇が、逆参りという儀式によってもたらされた物である可能性は高い。そしてその事実は、あの鳥居が恐るべき祟りの元凶となった理由も、また語っているといってよい。
逆参りで繋がった異界の先、そこにいたのは先祖の霊などではなく、もっと邪悪で恐ろしい存在だったのだろう。それが現生に姿を現しかけたことで、この村は恐るべき死の祟りを受けることとなった。村全体が、それこそ詩織が受けたものなどとは比べ物にならないほどに強烈な祟りを受けて、完全に死の世界へと姿を変えてしまったのだ。
「うぅ……。なんか、とんでもないことになってきましたよぉ……。私達、ちゃんと生きて、この村から出られるんですかぁ……?」
皐月の隣で、芽衣子が泣きそうな顔になっている。そんな彼女を諭すようにして、皐月はそっと口を開いた。
「確かに、彼の言っていることが本当なら、私達はとんでもないものを相手にしようとしていることになるわ。なにしろ、その力の一端が解放されただけで、村一つ滅ぼしてしまうような相手だもの。でも……逆参りが魂送りの反対ってことなんだったら、まだ望みはあるわよ」
皐月が含みのある笑みを浮かべ、魁もそれを見て軽く頷く。他の者達が呆気に取られる中、二人には既に、この村の闇を祓うための方法が見えていた。
逆参りが魂送りの反対ならば、反対の反対をやればいい。即ち、魂送りの儀式を行うことで、この村に溢れている赤い蛍達を異界へと追い返すのだ。そうすれば、この村の歪んだ時空も元に戻り、外の世界に出ることもできるだろう。鳥居の中に潜む邪悪。加藤詩織を死の淵に追い込んだ存在の力も、再び封じ込めることができるかもしれない。
禁断の儀式で闇の扉が開いたのであれば、それを閉じることも可能なはず。そして、それはこの村を脱出するための鍵となり、果ては詩織を救うための手段にもなる。
暗闇の先に、希望が見えてきた。明けない夜の終わりを告げる鐘が鳴ったような気がして、皐月は自分の身体に力が戻るのを感じていた。
だが、彼らは未だ気づいてはいなかった。この先に待っているのは希望ではなく、より強大な絶望であることを。闇の死揮者、真狩紫苑の恐るべき企みもまた、最後の局面を迎えようとしていたことを。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
巨大な三柱の鳥居を背に、紫苑は犬崎紅を前にして淡々と語り続けていた。赤い瞳と漆黒の瞳。対峙する両者の視線は互いを捉え、時が止まったかのようにして動かない。
「かつて、この鳥居で行われていた儀式は二つ。一つは、先に僕が説明した魂送り。そして、もう一つが、邪神の怒りを鎮めるために行われていた儀式、白禊。あなたと同じ、白髪赤眼の霊能者……この村で、表向きは生き神とされて崇められていた人間を生贄に、その血を捧げることで邪悪なる者の胎動を抑えようとする儀式です」
「白髪赤眼の霊能者か……。ならば、あの女に憑いていた霊が俺を欲したのも、邪神の生贄にするつもりだったということか?」
「そうですよ。この空間が現世より隔離されてから、邪神は常に飢えていました。ですから、あなたのような人間が訪れたことは、向こうとしても都合がよかったのでしょう」
「よく言う……。貴様は最初から知っていて、俺をここに呼び寄せたのだろう? 白髪赤眼の霊能者を狙う、亡霊達の巣食う村だ。貴様にとって邪魔者である、俺を始末するには絶好の場所だったんだろうな」
その腰に構えた闇薙の太刀に手をかけて、紅は少しだけ前に足を踏み出した。白髪赤眼の霊能力者。この村で生き神として扱われていた人間が、実は単なる生贄だったこと。それを知っていたからこそ、紫苑は自分をここへと招いたのだ。
この村の生き神が、自分の一族とどのような関係を持っていたのか。それは、紅にもわからない。ただ、赫の一族と呼ばれる家系は、犬崎の家だけでないことは確かだ。もしかすると、遠い昔、この地にも自分と祖を同じくする人間が人知れず暮らしていたのかもしれない。
もっとも、今となってはそんなことなど、紅には些細なことでしかなかった。敵の思惑がわかった以上、これより先は戯言に付き合うつもりはない。残された時間は僅か。目の前の相手を斬り、加藤詩織を救うべく、鳥居に潜む邪神を倒す。それだけだ。
「結局、貴様は俺を殺したかっただけということなのだろう? まったく、色々と回りくどいことをしてくれる。そんなに俺を始末したいのであれば、正面から向かってきたらどうなんだ?」
「始末、ですか……。どうやら、随分と誤解をなされているようですね。確かに僕は、君をここへ招きはしました。しかし、始末をしたいというのはどうでしょうか?」
「貴様……何が言いたい?」
「君を始末するだけであれば、そこにいるマオに頼めばよいことです。彼女、こう見えても強いんですよ? それこそ、君の操る犬神に勝るとも劣らない程にはね」
自分の傍らに佇む少女へ、紫苑は一瞬だけ目をやった。マオと呼ばれた少女、彼の使役する猫鬼は、一見して人間の少女と見分けのつかない姿をしている。だが、その瞳だけは暗闇の中で、煌々とした輝きを見せている。
「僕が君をここへ招待したのは、君の力を試すためです。最初に言ったはずですよね? 今回の件は試験であると……。だから、僕はこの場所を使って、君のことも試させてもらいました。君が僕の同士になるに、相応しい力を持った存在か否か。それを、確かめさせてもらうためにね……」
紫苑の瞳が、人を闇に堕とすときのそれに変わった。深淵よりも深く、しかしどこか甘美な香りさえ漂わせてきそうな、底の見えない真っ暗な目だ。
「ふざけるな! 俺は、貴様が今までに誘惑し、闇に堕として来た人間とは違う! 赫の一族の末裔として……貴様の闇は、この俺が消滅させる!!」
もう、これ以上は我慢ができなかった。紅は闇薙の太刀を鞘から引き抜くと、そのまま紫苑目掛けて駆け出した。
紫苑は言った。これは一種の試験だと。紅が、自分のところに下るのに相応しい人物かどうか。それを見分けるための物だったと。
だが、仮にそうであったとしても、この男の行いを許すわけにはいかない。彼の送り付けたビデオのせいで、加藤詩織は未だに生死の境をさまよっている。東京では多くの人間が死に、それ以前にもたくさんの人間が、この男のせいで闇に堕ちて消えていった。
この男は祟りの元凶ではない。しかし、ここで彼を見逃す理由もない。何を企んでいるのかは知らないが、ここで彼を逃してしまえば、いつまたどこで闇の力に手を染める人間が現れないとも限らない。
躊躇いは、既になかった。相手は人の形をしているが、既に人としての領域を踏み越えてしまっている。それに、紫苑と名乗るあの男を倒さねば、祟りの元凶である邪神には辿り着くことなどできはしない。
突然、強い風が吹き、紅と紫苑の間に赤い影が舞い降りた。今まで紫苑の傍らで、固まったようにして動きを止めていたマオだ。
「紫苑ノ邪魔スル者、消ス……」
金色の瞳が大きく見開かれ、鋭い眼光が紅を捕えた。瞬間、少女の手が巨大なグローブのように膨れ上がり、鋭い爪が空を切った。
頬にチリチリと焦がすような熱気を感じ、さすがの紅も足を止める。後少し前に出ていたら、そのまま首を引き裂かれていただろう。少女の姿をしていても、それはあくまで借りの姿。猫鬼としての本性を剥き出しにした今、彼女の力は黒影にさえも匹敵する。
「行け、黒影!!」
紅の叫ぶ声に応え、黒影がマオに飛び掛かった。虎ほどもある巨体が中華服の少女に迫り、鋭い牙の生えた顎が、彼女の頭を砕かんと開かれる。
ガッ、という鈍い音と共に、黒影の牙は空気を噛んだ。攻撃が当たる瞬間、マオはギリギリのところでひらりと身を翻し、黒影の一撃を避けていた。
黒影が低い唸り声を上げて、徐々にマオとの距離を詰めてゆく。対するマオもまた、両手を巨大な猫の爪へと変化させ、黒影のことを迎え撃たんと身構える。
ここは任せた。そう、視線だけで伝え、紅は再び走り出した。正面に紫苑の姿を捕えたまま、太刀の力を解放する。
黒い、蛇のようにうねる闇が、白銀の刀身から放たれた。あらゆる魂を貪欲に食らい、己の糧とする呪われし刀。人間、悪霊、そして妖怪や悪魔のような存在まで、全ての魂を食らい尽くす犬崎家に伝わりし最終兵器。
のたうつ闇を一つに収束させながら、紅はそれを思い切り正面から叩きつけた。斬り裂くと同時に闇に魂を食わせてやる。呪いを撒き散らし、人を闇に堕とすことを生業とする者など、情けをかけてやる必要はない。
黒い気を纏った刃が、静かに、しかし力強く降り降ろされた。時間が途端にゆっくりと流れ、まるで静止画をコマ送りで見ているような感覚に陥る。紅の手に握られた闇薙の太刀は、確実に紫苑の頭を捕えて両断する。そのはずだった。
「なっ……馬鹿な!?」
それ以上は、何も言うことができなかった。
己の頭を目掛けて降り降ろされた太刀を、紫苑は素手で軽々と受け止めていたのだ。線の細い優男にしか見えないというのに、その力は驚く程に強い。まるで、反発する二つの磁石のように、刀身が見えない力に跳ね除けられて動かない。
「ほう……。これが君の武器ですか? なかなか、面白い物を持っていますね」
片手で刀を抑えたまま、紫苑は微動だにせず言った。その腕からは、いつしか黒い闇が溢れ出している。紅の操る闇薙の太刀。それが放つ黒い気と、まったく同じような冷たい闇が。
「貴様……。まさか、その腕は……」
「ええ。君も感づいているでしょうが……君の使う刀に潜んでいるものと同じもの。それを、僕は身体の中に持っているんですよ」
「なん……だと……」
両手に伝わる痺れのような物を感じながら、紅は辛うじてそれだけ口にした。
紫苑の腕から溢れ出る闇が、闇薙の太刀の闇を押し返している。いや、押し返すというよりも、互いに反発していると言った方が正しかった。
確かに、闇薙の太刀の闇は、あらゆる魂を貪欲に食らう。しかし、己の力と同質の存在だけは、食らうことができないようだった。その宿り主を異にしていても、力としての本質は同じ。さすがに共食いをすることはできず、反発する磁石の極のように、それぞれの力は互いに侵蝕し合うことを避けていた。
「君の刀が貪欲に魂を欲するのと同じように、僕の中の闇もまた、常に飢えと渇きに悩まされています。しかも困ったことに、こいつはグルメでしてね。人間の魂の負の部分……恨みや妬みなど、強い負の感情を抱いた魂しか、食べようとはしないんですよ」
「なるほどな……。貴様が呪具を使って人を闇に堕とす理由。それは、自分自身の闇に与える餌を確保するためだったというわけか」
「本当は、他にも理由があるのですが……まあ、簡単に言ってしまえばそんなところですね。ですが、今となっては、僕自身も人の負の感情の味を覚えてしまいましてね。己の中の闇が飢えているのか、それとも僕自身が飢えているのか……正直なところ、もうわからなくなってしまいました」
紫苑がにぃっと笑う。ここに来て、紅は初めて自分の背中に冷たい物が走るのを感じていた。
こちらの絶対的な切り札は、紫苑の前には通用しない。今まで、どんな的であろうと斬り捨て、飲み込んで来た闇薙の太刀が、この男の前では子どもの玩具にも劣る力しか発揮できない。
「くっ……」
両手の痺れる感覚に耐えきれず、紅は仕方なく身を引いた。一度、距離を取って体勢を立て直すか。そう思って後ろに下がったつもりだったが、紫苑はそれを許さなかった。
相手の靴が土を蹴る音。それが聞こえたと同時に、紫苑の身体が紅の目の前から消えていた。後方に凄まじい殺気を感じ、紅は慌てて後ろを振り向く。が、彼が向き終わるよりも先に、紫苑の蹴りが紅の脇腹を捕えていた。
鈍器で叩かれたような一撃に、紅の身体が宙を舞う。その繊細な肉体からは想像できないほどに、紫苑の繰り出した一撃は重たい。一瞬、呼吸さえできなくなり、紅は彼方に飛びかけた意識を辛うじて気力で繋ぎとめた。
「かっ……はっ……」
両手と両膝をつき、紅の身体が小刻みに震えた。全身から力が奪われ、思うように霊気を練ることさえも叶わない。たった一撃で、肉体だけでなく魂さえも震わせる。これほどまでに、闇の死揮者の力は強大なものだったというのだろうか。
「やれやれ……。僕は、暴力は好きではないんですが……どうやら、まだ君の目は死んでいないようですね」
脇腹を抑え、刀を杖代わりにして立ち上がろうとする紅に、紫苑はつかつかと歩み寄る。自分を見上げる紅の瞳が、まだ敗北を認めていないこと。それを知った紫苑の顔が、邪悪な色に染められる。
「いいでしょう。ならば、君の心に残された、僅かばかりの希望……。それを、摘み取ってあげましょうか」
再び風の音がして、紫苑の身体が紅の視界から消える。そして、紅が立ち上がるよりも早く、その身体がボールのように高く、激しく蹴り上げられる。
それから先は、一方的な展開だった。目で追うことさえ敵わず、気を感じ取る暇さえ与えられない。ただ、何もできないままに、ひたすら殴られ、蹴られ続けた。
衝撃が身体に走る度に、紅の全身を耐えがたい苦痛が襲う。殴られてから気づいたことだが、不思議と肉体的な痛みは少ない。それよりも、魂そのものを削られている、不愉快な感覚の方が強かった。
これは同じだ。自分の振るう闇薙の太刀と同じ、魂を削り、食らうという行為。太刀を引き抜いた際に感じられるそれと同じものが、紫苑の脚や拳から伝わってくる。
やがて、紅の手から太刀が離れたのを見て、紫苑は攻撃の手を止めた。まるで、初めから一歩も動いてなどいなかったかのようにして、鳥居を背にすっと立っていた。
「無様なものですね……。しかし、どうにも解せません。君はなぜ、そうまでして人を守ろうとするのですか? 我々は元より闇の住人です。光を求めることなど、決して許されない運命だというのに……」
「貴様と……一緒に……するな……。闇を用いて闇を祓う……。それが……俺の……贖罪だからな……」
「なるほど、贖罪ですか。しかし、皮肉なものです。口では贖罪と言いながら、君は結果として、表の世界の人間を向こう側の世界の住人と関わらせるきっかけを作ったに過ぎない。君が、本当に独りで孤独に戦っていたのであれば……あの少女達も、君を追ってはこなかったでしょう」
「なん……だと…」
苦悶に顔を歪めながらも、紅はふらふらと立ち上がる。あれだけ一方的にやられたのに、どこにそんな力があったのか。自分でも、それが不思議でならなかった。
「今回の件は、君を試す意味合いもあったと言いましたよね。でも、それだけでは面白くない。余計な登場人物は、この際まとめて消えてもらおうかと思いまして……。君があの街を発つと同時に、君の家に少しばかり細工を残しておいたんですよ」
「細工……だと……。ならば……九条達が俺を追って来たのは……」
「ええ。全て、僕の考えたシナリオというわけです」
勝ち誇ったようにして、紫苑は紅にそう告げた。その途端、何かの倒れるような音がして、紅はそちらに顔を向けた。見ると、なにやら黒い塊が、ボロきれのようにして丸まっている。
「御苦労さまです、マオ。久々の戦いでしたが、腕は鈍っていないようでなによりです」
少女の頭を紫苑の手が軽く撫でる。彼の横に立つ猫鬼の少女、マオは、紅の傍で丸まっている塊に冷ややかな視線を送っている。
ボロ切れの正体は、黒影だった。紅に道を開けるため、マオを引きつけるために戦った黒影もまた、彼女の力の前に敵わなかった。
確かに、黒影の力は強大だ。下級とはいえ、それでも神。並みの悪霊程度であれば、軽く滅してしまうだけの力はある。
だが、そんな黒影の攻撃とて、当たらなければ意味はない。巨大な熊を蜂の群れが倒すように、マオはそのスピードを生かし、黒影を徹底的に翻弄したのだ。その上で、徐々に力を削るように、確実に傷を与えていた。力の上では黒影に劣る部分もあったが、スピードでは完全にマオの方が上手だった。
「これでわかったでしょう? 君が勝つ確率は、万に一つもありません。大人しく、僕と一緒に来た方が、身のためだと思いますが……」
「ふざ……けるな……。誰が……貴様などと……」
「不思議な人ですね、君は。白い肌と赤い瞳。生まれながらにして、太陽の下をまともに歩けない宿命を背負っているはずなのに、なぜそこまで光に惹かれるのです? 君が生きるべき世界は、光の射さない暗黒の世界しかないんですよ?」
「確かに、そうなのかもしれないな……。だが、例え光に拒絶されたとしても……俺は……俺の意思で闇を祓い続ける……。宿命だからと諦めて……闇の力に飲まれる時が……本当の敗北だと思っているからな……」
「ならば、仕方がないですね。少々勿体ない気もしますが……君には最後に、僕の実験の材料になってもらいましょう」
最早、立っているだけで精一杯。そんな紅に向け、紫苑は冷めた表情になって手をかざした。彼の身体に巣食う闇の力。その一端を解放し、紫苑はそれを紅にぶつける。触手のようにうねる闇に飲まれた瞬間、紅の身体が激しい痙攣と共に崩れ落ちた。
勝負はついた。いや、最初から勝負になどなっていなかった。圧倒的な力の差を見せつけ、紫苑は倒れた紅の足下から刀を拾う。彼の使っていた闇薙の太刀。その中に巣食う闇の力に、紫苑もまた興味を抱いていた。
「なるほど。やはり、この太刀からは、僕と同じ力を感じます。ですが……これは少々悪食な力ですね。誰彼見境なく魂を食らうとは、その品性を疑います」
刀身に現れている闇を眺めながら、紫苑は吐き捨てるようにそう言った。倒れた紅の手から鞘も奪い、刀をしっかりとその中に納める。自分と同質でありながら、ある意味ではより貪欲な力。それに何やら下品な物を感じ、紫苑はそれ以上触れていたいとは思わなかった。
刀の闇が、鞘に施された封じ布の力で抑えつけられてゆく。戦いを終えた紫苑もまた、その身に宿る闇を納めてゆく。
だが、次の瞬間、物凄い風と共に紫苑の手から闇薙の太刀が奪い取られた。いや、風ではない。何かもっと強く、黒いものが、鞘ごと太刀を巻き上げたのだ。
「アイツ……。マダ、動ケタカ……!!」
紫苑の手から太刀を奪った者を見て、マオが苦々しい表情を浮かべた。太刀を奪ったのは、他でもない紅の使役する犬神、黒影だ。黒影はそのまま太刀を咥えると、風に混ざって森の中へと消えてゆく。
「ドウスル、紫苑? 追ウノ?」
「放っておきなさい。手負いの犬神如き、一匹で何ができるわけでもありません。それに、あの太刀と僕は、どうも相容れない存在みたいですからね。似た者同士は憎み合う。昔の人の言ったことは、なかなかどうして的を射ていますよ」
「ダッタラ、コノ男ハ? 仲間ニナラナインダッタラ、私ガ殺シテモイイ?」
「いいえ、駄目です。本当は本意ではなかったのですが……どうせなら、最後まで彼には役に立ってもらうことにしましょう。この村に伝わる禁断の儀式……真の逆参りの糧としてね」
「真ノ……逆参リ……?」
「ええ、そうです。もっとも、その最後を僕達が見届けることはできませんけどね。この鳥居の下に巣食う者が本当に蘇れば、いかに僕とてこの空間から自由に出ることは難しくなります。そうなる前に、僕達は一足先に、撤退した方がいいでしょう」
紅を殺さんとするマオをなだめ、紫苑は倒れた紅の身体へと手を伸ばす。そして、その身体をいとも容易く抱えると、巨大な三柱鳥居の中央へと運び込んだ。