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~ 拾参ノ刻  純想 ~

 広場の中央、かつては篝火が焚かれていたであろう場所で、紅と芽衣子は無言のまま対峙していた。


 漆黒の気を纏う刀の先を突きつけたまま、紅が徐々に芽衣子との距離を詰めてゆく。だが、対する芽衣子は微動だにせず、その瞳をどんよりと濁らせたまま、不敵な笑みを浮かべている。


 風が雲を流し、その切れ間から束の間の月明かりが注がれた。青白く、幻惑的な光を受け、芽衣子が紅にふっと呟く。


「確かに、このままでは私の負けかもね。でも……今のあなたに、私をこの娘の身体から追い出す術があるのかしら?」


 芽衣子の顔が、にやりと歪む。彼女は、いや、彼女の中にいる者は知っているのだ。このまま紅が自分を倒せば、芽衣子もまた死んでしまうことを。あの悪鬼と同じように、力でねじ伏せようとすれば、芽衣子もまた助からないということを。


 憑依した人間の肉体を盾に取る。あまりに卑怯で、かつ姑息なやり方だったが、それでも効果は絶大だった。案の定、紅はそれ以上芽衣子に近づこうとはせず、刀の先を下に降ろして踏み止まった。もっとも、その眼光だけは未だ鋭く、目の前に佇む芽衣子の中に巣食う者を睨みつけてはいたが。


「まずいわね……」


 様子を見守っていた皐月が、口元を指で隠すようにして言った。確かに、彼女の知る紅の力は物凄いものがある。芽衣子に憑依した霊体とて、やって引き剥がせないわけではない。紅と、彼の使役する黒影の力を持ってすれば、人間に憑依した霊体を強引に離脱させることも不可能ではないのだ。


 だが、人に憑依した霊を引き剥がすということは、同時に憑依されている人間にもまた多大なる負担をかけてしまう。相手が低級な動物霊や、本能のままに行動するような霊体であれば、負担を軽減することも可能だ。霊の力が弱ければ魂にかかる負担も少ないし、相手が感情を持たない化け物のような存在であれば、色々と外におびき出すような手段もある。


 それに比べ、芽衣子に憑いている霊はどうだろう。見たところ、何らかの明確な目的を持って、彼女に憑いていることは明白である。その上、力も非常に強く、ちょっとした下級神くらいには匹敵するのではないだろうか。直接戦闘は得意でないようだったが、悪鬼や蛍を同時に操り、果ては蛍の形状まで変化させて使いこなしていたことからして、相当の力を持っていることは確かだ。


 このまま強引に調伏でもさせようものなら、それは芽衣子の魂に深い傷を負わせることになりかねない。最悪の場合、照瑠の力を持ってしても癒せない程の深い霊傷を負い、二度と再びまともな生活が送れなくなってしまうかもしれない。


 以前、自分が火乃澤町を訪れたばかりの頃の事件を思い出し、紅にはそれ以上迂闊な手出しが出来なかった。倉持優香。蛇神の祟り神であるトウビョウによって魂を傷つけられた彼女は、今もなお昏睡状態が続いている。魂の深い部分に刻まれた傷は、時に人間の精神さえ破壊し、その修復は容易ではない。


 紅と芽衣子は、互いに見合ったまま動かなかった。紅には芽衣子を無傷で救う術がなく、芽衣子の中に巣食う者は、正攻法では紅を倒すほどの力がない。膠着した状況に、その場にいる全員に焦りの色が浮かんでいた。


 このままでは、時間だけが無駄に過ぎてしまう。この空間の性質――――外の世界よりも時間がゆっくりと流れること――――を考慮した場合、これ以上はあまり時間を無駄にできない。いくら祟りの元凶を叩き、この村から脱出できたところで、詩織の命の灯が消えてしまった後では意味がない。


「ねえ……。さっき、私に飲ませてくれた水だけど……まだ、いくつか持ってるかしら?」


 皐月がちらりと横目で魁に視線を送った。


「神水かい? 悪いけど、あれもタネ切れでね。そこの二人に護身用で渡したのが全部だから、後はそこにいる少年が持ってるので最後さ」


 後ろで紅の様子を見守っていた浩二に目を移し、魁は大袈裟に肩をすくめてみせた。今さら、あんなもので状況を変えることができるものか。自分の腕には自信があったが、だからこそ誇張はしない。そう言わんばかりの口調だった。


「へえ、そう。だったら話は早いわ。そこの君……長瀬君とか言ったかしら? 悪いけど、あなたの持っている神水を、私に貸してくれないかしら」


 皐月が髪を翻し、後ろに向き直って浩二に訊ねた。先ほどの魁の口調など、あまり意に介していないようだった。


「えっ……? ま、まあ、別に構わねえけどさ。でも……観鶴木先生には悪いけど、今さらこんな水でなんとかなんのか? 犬崎だって、あの芽衣子って人に手が出せないみたいなのによ」


「だからこそよ。確かにこのままじゃ、いくら紅ちゃんでも芽衣子を傷つけずに助けることなんて無理でしょうね。だけど、いくら強力な霊体でも、力が弱まれば話は別よ。なんとか芽衣子に憑いているやつを弱体化させて……そうすれば、後は紅ちゃん次第ってことになるわね」


 浩二から神水を受け取り、皐月はそれをしっかりと握り締めた。未だ怪訝そうな顔をしている浩二を他所に、小瓶の蓋に手をかけて、ゆっくりと紅に近づいてゆく。


 芽衣子と対峙する紅。その横に、皐月は無言のまま並び立った。その手にあるのは神水の入った小瓶のみ。霊撃棍さえ持たずに現れたことで、これには紅だけでなく、芽衣子の中にいる者も驚いているようだった。


「なんのつもりだ、皐月さん。あの女を助けるための方法でも、見つかったのか?」


「まあ、そんなところね。そういうわけで……悪いけど、紅ちゃんはしばらくの間、芽衣子の動きを止めておいてくれないかしら?」


「わかった。だが、本当に大丈夫なのか? そんな水程度では、あの女から憑依している霊を引き剥がすことはできないぞ」


「その辺は大丈夫よ。退魔具師の本領、どんな道具も使いようってところ、見せてあげようじゃないの」


 先ほど、赤い刃を受けて倒れたとき傷は、既に皐月の中に残っていないようだった。照瑠の力と、雪乃が飲ませてくれた神水の効果だろうか。本来であれば決して浅くない傷を負っているはずなのに、皐月は自分の身体が妙に軽快に感じられた。


「いくぞ、黒影。とりあえず、やつの動きを止める」


 皐月に言われ、紅が刀を構え直して前に出た。その瞳に、もう迷いの色はない。


 自分ができなくとも、皐月には何か策があるようだ。ならば、今はそれに賭けてみる。彼女が決して根拠のない思いつきから行動するような人間でないことを、何より紅自身が知っているのだから。


 刀身を纏う黒い気を開放し、紅は不思議な紋様を描く様にして太刀を振るった。刀身が空を切るたびに、それから発せられる黒い気が炎のように揺らめいて動く。無数の触手のように伸びた気の先端は、それ自体が何か別の生き物のように、芽衣子を絡め取ろうと身をくねらせる。


 右頬を掠めるように黒い気が伸び、芽衣子は思わず後ろに下がって距離を取った。互いに手出しをできないはずだったのに、いきなり攻撃に出られたことで、迎え撃つ準備ができなかったのだろう。


 その口から二体の蛍を呼び出し、芽衣子はそれを掌の上で刃に変える。赤い二つの凶刃が、紅の振るった太刀をしっかりと受け止める。


「なるほど、それが貴様の技か。だが……霊体によって作られた刃など、闇薙の太刀の前には無力だ」


 攻撃を受け止められても尚、紅は冷静な態度を崩さなかった。その言葉通り、闇薙の太刀を覆う黒い気は、芽衣子の持っている二つの刃を瞬く間に侵蝕してゆく。どのような形をしていようと、霊的な存在など全て餌に過ぎない。そう言わんばかりに、貪欲に赤い刃を貪り食う。


「ちっ……」


 漆黒の気が自分の腕に伸びる前に、芽衣子は刃を捨てて逃げ出した。これ以上は、戦っても無駄だと思ったのだろうか。およそ、普通の人間の運動能力では考えられないような高さまで跳躍し、紅と大きく距離を離す。そして、更なる追撃を受ける前に、彼女は紅に背を向けて一目散に走り出した。


「逃がすな、黒影!!」


 逃げる芽衣子を追うようにして、紅の影がぬぅっと伸びる。月明りに照らされたその色は、夜の闇より更に深い。伸びた影は芽衣子の足下に絡みつくようにして広がり、やがてその頭部を巨大な犬の物に変えていた。


 犬の頭を持った影が、逃げる芽衣子の影に食らいつく。影が影に噛みついているという、一見してシュールな光景。だが、それでも効果は絶大だったのだろうか。影を噛まれた芽衣子は影と同じ部分を抑えて叫び、とうとうその場に膝をついた。


 影潜り。赫の一族の使役する犬神は、己の主となる者の影と同化する。それだけではなく、時に影のまま移動して、様々な力を行使することも可能だ。影の姿で相手の影を襲うことで、金縛りや原因不明の激痛を引き起こさせる。一種の呪いに近い技でさえ、紅は自在に使いこなしていた。


 己の影を縛る呪縛を解き放とうと、芽衣子が再びその手に赤い蛍を握る。刀の形にする余裕はなかったようで、辛うじてガラスの破片程度の刃を作りだし、それで紅の影を差し貫こうと力を込める。


 だが、それよりも早く、今度は影が大きく地面から盛り上がった。巨大な犬の頭部、犬神としての本来の顔を現した黒影は、そのまま芽衣子の身体を縛りつけるようにしてまとわりつく。全身は流動的な影のような姿のままに、その頭だけを犬のものにして、芽衣子の身体に覆い被さった。


「は、離せ!!」


 身体の自由を封じられ、芽衣子は懸命に抵抗を試みた。が、黒影の前では、それも虚しい抵抗に過ぎない。彼女の中に巣食う者の力がいかに強くとも、力を押さえ込まれてしまえば手も足も出ない。


 とうとう年貢の納め時だ。動きを止められた芽衣子に、皐月がそっと近づいてゆく。その手に神水の入った小瓶を握り締め、芽衣子の中にいる者と正面から対峙する。


「さあ、遊びの時間は終わりよ。そろそろ、芽衣子の身体を返してもらおうかしら?」


「へぇ……。あなた、そんなにこの娘が大事なの? あなたにとって、この娘はそこまでして助けなきゃいけない人ってこと?」


 芽衣子の中にいる少女の霊が、困惑した表情で皐月に訊ねた。


 ここで芽衣子諸共に自分を始末すれば、全ては後腐れなく終わるはず。そう思っていた少女の霊にとって、皐月の今の行動は理解し難いものがある。なぜ、彼女がここまで芽衣子にこだわるのか。助けられないなら、いっそのことまとめて倒してしまう方が、最良の策ではないのだろうか。


「そうね……。確かに、芽衣子はちょっと変わった娘よ。女の子のくせに女の子が好きで、おまけにドジで間の抜けたところもあるわ」


 小瓶の口を開け、皐月が芽衣子に迫る。口では色々と言っているが、その口調には、どこか芽衣子に対する親しみと信頼が込められている。


「でもね……そんな娘でも、この娘は私の大事な助手なのよ。だから、あんたなんかには絶対に渡さない。あんたが現世で動くための肉体の代わりになんて、絶対にさせないわ!!」


 毅然とした態度で言い放ち、皐月は小瓶の中に入っていた神水を一気に飲み干した。いや、正確には飲み干したのではない。神の力の宿りし水を口に含み、動けなくなった芽衣子の顔を両手でしっかりと抑え込んだのだ。


「な、なにをするつもりだ! そんな水如きで、私を祓えるとでも思ったか!!」


 皐月の行動がまるで理解できず、芽衣子の中にいる者が芽衣子の口を借りて叫んだ。それでも皐月は何ら躊躇わず、芽衣子の頭をしっかりと押さえつけている。


 次の瞬間、その場にいた全員の目が、皐月と芽衣子の二人に釘付けとなった。


 芽衣子の頭を押さえつけたまま、皐月は自分の唇を芽衣子の唇に重ねていた。一瞬、何が起きたのかわからず、様子を窺っていた照瑠や雪乃だけでなく、芽衣子自身もまた両目を丸くして固まっている。そして、そんな周りの人間達に構うことなく、皐月は自分の口の中にあるものを、強引に芽衣子の口の中に流し込んだ。


 皐月の口に含まれた神水が、芽衣子の中に注ぎ込まれてゆく。口で口を塞がれ、吐き出すことさえ許されない。口の中にある全ての神水を芽衣子に強引に飲ませたところで、皐月はようやく彼女から離れ、勝ち誇った表情で口元を拭った。


「さ、皐月さん……!?」


 いったい、何が起こったのか。皐月は芽衣子に何をしたのか。まったく意味がわからず、照瑠が狼狽した声を上げた。その隣では、雪乃も顔を真っ赤にして、両手の指の隙間から様子を窺っている。


 黒影によって動きを封じられた芽衣子の唇を、皐月は強引に奪ってみせた。美女が美女の唇を奪う。そういった類のことが好きな人間にはたまらない光景なのだろうが、普通の者からしてみれば、やはり一種異様なものがある。


 芽衣子が同性愛者であることは照瑠達も知っていたが、まさか皐月にもその気があったのか。思わず自分の目を疑いたくなる照瑠だったが、目の前の皐月は至って冷静だった。


 神水を飲まされた芽衣子の身体から、黒影がゆっくりと剥がれるようにして離れる。もう、拘束する必要はないと判断したのだろうか。果たして、その考えは正しく、やがて芽衣子は喉元を抑え、苦悶の表情となって膝をついた。


「あ……あぁ……」


 両目をカッと見開き、その口からだらしなく涎を垂らし、全身を震わせて苦しむ芽衣子。まるで毒でも飲まされたかのように、何かを吐き戻そうと懸命に舌を出している。


「お、おのれ……。貴様……よくも……」


 そう、毒だ。皐月の飲ませた神水は、人間にとっては力を与える霊薬ともなるが、悪霊に対しては猛毒である。魁の話では、これを浴びた亡霊は、硫酸を浴びたようにして溶けてなくなってしまうとのこと。そんなものを、体内に直接流し込まれればどうなるか。後は誰にでも簡単に想像がつく。


 肉体というフィルターを持ってしても、体内という空間は一種の特別な領域である。神水が肌に触れた程度であれば問題ないが、身体の中に直接注ぎ込まれれば、人間の肉体も完全にはフィルターの役割を果たさない。皐月によって飲まされた神水は、そのまま芽衣子の全身を駆け巡り、今やその身体に巣食う少女の亡霊を物凄い速度で蝕んでいるのだ。


「か……身体が……焼け……る……」


 もはや少女の霊に、抵抗するだけの力は残されていなかった。皐月が紅に、後は任せたという視線を送る。紅は無言で頷くと、今一度黒影を流動的な塊へと変化させ、悶え苦しむ芽衣子に向けて放った。


 細長い、黒い水のようになった黒影が、芽衣子の鼻と口から体内へと侵入する。神水によって弱体化した今、少女の霊に黒影の力を抑える術はない。その身体を大きくのけぞらせ、芽衣子は天高く手を上げて叫び声を上げた。


「あ……あぁぁぁぁっ!!」


 およそ、その美しい顔には似つかわしくない、老人の金切り声のような不快な悲鳴。同時に芽衣子の背中から、無数の赤い蛍が現れて一斉に飛び去った。蛍達には既に戦う意思はなく、それぞれがバラバラに、夜の森の中へと散ってゆく。


 やがて、全てを終えたところで、芽衣子の口からどろりとした黒い物が吐き出された。それは地面を走るようにして、するすると紅の影に一体化する。仕事を終えた黒影が身体から離れると、芽衣子はがっくりと腰を折り、そのまま目の前の大地に倒れ伏した。


「芽衣子!」


 倒れた芽衣子の傍に、皐月が慌てて駆け寄った。それにやや遅れる形で、照瑠達もまた芽衣子の傍に走り寄って周りを取り囲む。皐月に抱き起こされた芽衣子は、その腕の中で静かに、しかし安らかな顔をして眠っていた。


「しっかりしなさい、芽衣子!」


 皐月が芽衣子の肩を揺らし、その頬を軽く叩く。しばらくすると、芽衣子は眉根を寄せて声を上げ、ゆっくりと目を開いて皐月を見た。


「あれぇ……。お姉さまぁ……」


 ぼんやりとした顔で、未だ夢から覚めやらぬ様子のまま芽衣子が呟く。少女の霊に憑依されていた際の記憶はないのだろうか。だとすれば、それはそれで幸いだ。例え操られていたとはいえ、自分の手で皐月を傷つけたなどということが知れれば、芽衣子は酷い自責の念に駆られるに違いない。


「気が着いたのね。よかった……」


「えっと……。私、今まで何してたんですかぁ? それに、なんか知らない人達が増えてるような気がするんですけどぉ……」


 ほっと胸を撫で下ろす皐月を他所に、芽衣子はまだ寝ぼけたことを言っている。覚醒するまでに時間がかかるのか、それともこれが普段の彼女なのか。半々と言ったところなのだろうが、今はこれでも構わない。呆けている芽衣子の瞳には、既に先ほどのような深い闇の色は見られない。


「やれやれ……。とりあえず、一人目は助けることができたって感じかな。まったく……可愛い顔して、随分と人騒がせなお嬢さんだよ」


 少し離れた場所で、魁が露骨な嫌味を述べてくる。紅の登場によって見せ場を全て持って行かれてしまったことで、行き場のない不満を抱えてしまったからだろうか。もっとも、今はそんな彼の言葉に耳を貸す者はなく、皐月も雪乃も、それに浩二も、意識を失った芽衣子のことを心配そうに見つめている。


「さて……。取り込み中のところ悪いが、いくつか質問をさせてもらってもいいか?」


 その手に握られた刀を鞘に納め、唐突に紅が訊いてきた。相変わらずのぶっきらぼうな口調。およそ、場の空気を読むということを知らないのだろうか。


「訊きたいこと、ね……。その言葉、そっくりそのまま返すわよ、犬崎君」


 照瑠もまた、いつもの調子に戻って紅に問い返す。彼がなぜ、何の音沙汰もなく消えたのか。それを知りたいのは彼女もまた同じだ。


「あなたが何を考えているのか知らないけど、いきなり黙って消えることないじゃない。詩織のことで相談しようと思って家を訪ねてみれば、犬崎君はどこにもいないし……。こちとら、皐月さんに頼み込んで、ようやくこの村を探し当てて……随分と危険な目にも遭ったんだからね!」


「そいつはご苦労なことだな。だが、誰も俺を探してくれなどと頼んだ覚えはないぞ。変に首を突っ込まれて危険な目に遭われたのでは、こっちとしても迷惑なんだがな……」


 照瑠の言葉に、紅は淡々とした口調で切り返す。あまりに人の気持ちを考えていない態度と言葉に、さすがの照瑠も頭にきた。


 自分の口から言葉が出るよりも先に、次の瞬間には、照瑠は紅の頬を思い切り叩いていた。乾いた音が、村の広場に響き渡る。予想に反して大きな音が出てしまったのか、その場にいた全員の視線が紅と照瑠に集まった。


「馬鹿! いいかげんにしなさいよ! 探してくれと頼んだ覚えがないですって!? 私が……私達が、どれだけ犬崎君のことを心配したと思ってるのよ! 皐月さんも……雪乃も……みんな、みんな、あんたのことが心配だったから、追いかけて来たんでしょ!!」


 気がつくと、照瑠の目には涙が浮かんでいた。自分の気持ちは、どうして紅に伝わらないのだろう。誰も彼のことを拒絶などしていないのに、なぜ、こうも彼は自分を粗末に扱うのだろう。


 自分で自分が情けなかった。照瑠にとって紅の存在は、ただの友人と呼ぶには少々特殊なものがあったはずだ。恋愛感情というのも少し違う、絶対的な信頼と呼べるものだろうか。色々と複雑な気持ちが入り混じり、上手く言葉で表現できないものの、彼が照瑠にとって大切な存在になっていたことは紛れもない事実だ。


 そんな自分の抱いている気持ちを、紅はまったくわかってくれる様子がない。いったい、彼はその本心で何を思い、考えているのか。時折、それがわからなくなることが、今の照瑠には不安で仕方がなかった。


「わかった……。ならば、俺がなぜお前達の前から姿を消したのか、それを語ることにしよう。そうすれば、お前も納得してくれるか?」


 叩かれた頬を庇いもせず、紅はそっと照瑠に告げた。照瑠はそれに答えない。自分の中に渦巻く感情を、まだきちんと整理できていないからだろうか。その目に涙を溜めたまま、じっと紅の顔を見つめているだけだった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 村の広場に、生温かい風が吹く。月の明かりが再び雲に隠されて、重たい闇が辺りを包む。


「さて……。それでは、何から話したものか?」


 照瑠や皐月達を前に、紅はあくまで落ちつき払った口調で訊ねる。照瑠に叩かれた頬は赤く腫れていたが、さして庇うような様子も見せない。怒っているのか、それともこの程度の痛みなど気にならないのか。その本心は、本人以外には誰にもわからない。


「まず、犬崎君が、どうして私達の前から消えたのか……。それを教えてくれない?」


 訊きたいことは山ほどある。それでもなんとか気持ちを整理し、照瑠はまず初めにそれを訊いた。彼が何を思って自分達の前から姿を消したのか。それを知りたい思いが強かった。


「俺が消えた理由か……。簡単に言ってしまえば、誘われたからだな」


「誘われた? 誰に?」


「今回の事件の首謀者だ。奴は自ら様々な呪いの道具や手法を作りだし、それを使って人を闇に陥れる。闇の死揮者コンダクターという名を出せば、俺のような人間の間では聞き覚えのあるやつもいるはずだ」


 照瑠に告げながら、紅はちらりと皐月と魁の方を見た。皐月には思い当たる節があるようで、途端に顔つきが険しくなる。魁は、こちらは死揮者という名に聞き覚えはないのだろうか。一言、「初耳だね、それは」と交えつつも、心当たりがないわけではないようだった。


「そもそも今回の件の発端は、俺が東京でのプロデューサー変死事件に関わったことが原因だ。あの事件……いや、あれだけでなく、火乃澤町で起きていた様々な事件。その殆どの裏側に、死揮者の影があったと言っていい」


「ちょ、ちょっと待ってよ! それじゃあ、今までの事件は全部、その闇の死揮者ってやつが黒幕だったってわけ!?」


「断定はできない。だが、可能性としては考えられる。それに、東京の事件と今回の事件が繋がっていること……。これだけは紛れもない事実だ」


 驚く照瑠を他所に、紅はすっぱりと言ってのけた。今までの事件の裏に、死揮者の影があったこと。これは薄々、紅も気づいていはいたことだ。照瑠は気づかなかったかもしれないが、恐らくは間違いない。


 火乃澤町に来てからというもの、紅の関わった事件は呪いや禁術に関するものが多かった。いや、そのほとんど全てが、呪詛絡みの事件だったと言っていい。昨年の夏に起きた君島邸事件。紅は直接関わってはいないのもの、あの事件以来、呪詛関係の事件が火乃澤町で多発していた。


 呪いや禁術。これらは人がもたらす災いであり、妖怪や祟り神、魑魅魍魎の引き起こす心霊事件とは訳が違う。相手はあくまで人間だけに、場所に関係なく起こり得る可能性がある。その反面、呪詛や禁術に詳しい知識のある者が確固たる力を持って行使せねば、何ら霊的な現象を引き起こすには至らない。


 そんな事件が、こうも立て続けに起こるという現実。常識的に考えても不自然極まりなく、それ故に、死揮者の影を感じるのは至って普通のことだった。


「加藤が倒れた日の夜、俺は奴の操る使い魔のような存在に出会った。そこで、奴の存在と今回の事件の原因を知らされ、この村までやってきたというわけだ」


「原因? それって、あの三本脚の鳥居のこと?」


「そうだ。あの鳥居は、ただの鳥居じゃない。この村に伝わる秘密の儀式……。本来は、それに使われるための物だった」


「秘密の儀式か……。それ、御鶴木先生が見つけた巻き物にも書かれていたわね」


 屋敷での出来事を思い出し、照瑠は独り、口元に手をやって考えた。


 かつて、この村で行われていた秘祭。魂送りと呼ばれるそれは、元々は盆の季節に先祖の魂を常世に帰すためのものだったはず。では、そんな祭りに使われていた鳥居が、あそこまで邪悪な存在に成り果てたのはなぜだろうか。


「この村の鳥居が、なぜ邪悪な祟りを撒き散らす存在に変わってしまったのか。それは、俺にもわからない。ただ、あの鳥居が今はかつての機能を果たしていないこと。そして、そこに潜む何者かの眷属が、何かよからぬことを考えていること。それだけは間違いない」


 紅の目が、ちらりと芽衣子に向けられる。彼女に憑いていた少女の霊。赤い蛍を操るあれが、鳥居に潜む邪悪の眷属だと言うのだろうか。


 赤い蛍は死の使い。この村に古くから伝わる伝承にあった一節である。亡者の群れを呼び覚まし、ときに一つに集まって悪鬼と化すことからして、これは決して単なる迷信などではない。古来より恐れられた、常世からの使者。人の世界の理を越えた存在であるということは、この村に来てから嫌というほど見せつけられた。


「俺がこの村に来てから、死揮者の配下は姿を消してしまった。代わりに俺を迎えてくれたのが、お前達を襲っていた、あの赤い蛍の群れだ。連中が何を考えているのか知らないが……奴らは執拗に俺を狙い、何かを成そうとしているようだったな」


「何かを成そうとしている? それ、犬崎君にもわからないの?」


「ああ。残念だが、身を隠しながら村の情報を探るので精一杯だったんでな。お前達を助けに来ることができたのも、あそこまで騒ぎが大きくなったからだ。そうでなければ、今までのようにお前達が来たことさえ気づかず、普通に通り過ぎていたかもしれない」


 恐ろしいことを、紅は平気でさらりと言ってのける。別に、助けを期待していたわけではない。しかし、こうもはっきりと言われると、聞かされている方からすれば背筋が寒くなる。彼が助けに現れたのは、あくまで騒ぎを聞きつけたから。要は、偶然ということだ。


 もし、あのまま紅に気づかれず、赤い蛍と亡者の群れに襲われていたら。そう考えると、あまり心中穏やかではいられない。


 もっとも、芽衣子の身体を乗っ取った霊は、紅を待っているような節も見られた。彼女の口にした生贄・・という言葉が照瑠の頭をよぎる。あの口ぶりからして、狙いは元から紅だったとでもいうのだろうか。


「ねえ、犬崎君。あの幽霊……芽衣子さんに憑いていた女の子の霊って、いったい何者なの?」


「さあな。やつの考えなど、俺には興味はない。俺の目的は、あくまで加藤にかけられた祟りを解くことだ。あの鳥居の中に潜む邪悪。あれを倒せば全ては終わる」


「倒すって……犬崎君、あの鳥居の正体が、あなたにはわかっているって言うの?」


「ああ、そうだ。だが、あれはお前達の手に負える相手じゃない。赫の一族の末裔として、あれの始末は俺が着ける。それが俺にできる、お前達を巻き込んでしまったことへの……贖罪だ」


 最後の方は、少しばかり言葉に力が入っていなかった。


 贖罪。その言葉は、紅にとっては特別な意味を持つ。かつて、己が救えなかった一人の少女のこと。その影を、今もなお紅は背負って生きている。


「おいおい、随分なこと言ってくれるね、君。最後の最後にひょっこり現れて、美味しいところだけかっさらおうってのか? そういうの、俺は好きじゃないんだよね」


 紅の発現が自分を見下しているものだと受け取ったのか、魁が挑戦的な視線を紅に投げかけて来た。もっとも、その程度で動じるほど、紅は柔な少年ではない。反対に魁を睨みかえすと、至極冷静な口調で切り返す。


「あんたは確か、東京でも会った陰陽師か。何の縁かは知らないが、あの鳥居に手出しをするのは止めておいた方がいい。今のあんたが勝てるほど、あの鳥居に潜む邪悪は甘い相手じゃない」


「言ってくれるじゃないか。だけど、君の方こそ、俺の力を見くびっているところがあるんじゃないのか? 互いに持っている霊能力には、そこまで差があるようには感じられなんだけどさ」


「確かにな。しかし、それは力の性質や武器の性能まで考慮した結果ではないだろう? さっきの戦いで、あんたは手持ちの式神をほとんど撃ち尽くしたはずだ。それとも、また同じような相手が現れたら、今度は身一つで戦えるとでも言うつもりか?」


 淡々とした口調で、紅は魁に正論を述べる。さすがにこれは図星だったのか、魁もそれ以上は言葉に詰まって何も言えなかった。


 陰陽師とは、本来は宮中で暦を作成するために雇われた占星術師や風水師のようなもの。ゴーストバスター的な仕事はあくまで副業であり、彼の本職とするものではない。それに、紅の言う通り、手持ちの式神は既に撃ち尽くしてしまった。残された鉄扇だけで戦えと言われれば、さすがの魁にとっても苦しいものがある。


「話はわかったわ、紅ちゃん。でも、私たちは、まだあなたと一緒に鳥居の邪悪を祓うわけにはいかないの。この村で消えた人は、芽衣子だけってわけじゃないみたいだから……」


 照瑠と魁に代わり、今度は皐月が紅に向かって言った。さすがにこれは、紅にとっても意外だったのだろう。落ちつき払っていた彼の顔に、少しばかりの驚きが現れた。


「そこの長谷川さん達の話だと、あなたのクラスメイトの嶋本さん。あの子が蛍に誘われて、この村で消息を断ったらしいのよ」


「嶋本が!? あいつ……あれほど向こう側の世界・・・・・・・の事件に関わっていながら、まだその危険性がわかっていなかったのか……」


 舌打ちと共に、紅が苦い顔をした。この場に皐月や照瑠、それに浩二だけでなく、雪乃や魁といった人間までが顔を揃えていること。それにはきっと、亜衣の手引きがあったはず。自ら≪人脈の亜衣ちゃん≫なる異名を自称する彼女の口添えがなければ、ここまでのメンバーが一同に会するのは難しいはずだ。


 照瑠達の姿を見たとき、なぜ最初に気づかなかったのか。照瑠と亜衣は、腐れ縁のような奇妙な絆で結ばれた仲だ。照瑠がこの場にいるのであれば、亜衣の姿があってもおかしくはないはず。戦いにばかり集中して、肝心のことを見落としていたのが、今になって悔やまれる。


 これは少々面倒なことになったと紅は思った。本当なら、適当に理由をつけて照瑠達を村から出し、決着は自分一人で着けるつもりだった。仮に、村から出ることができなくとも、あの鳥居に近づけたり、これ以上の危険に巻き込むことはしないで済むと思っていた。


「事情はわかった。だったら、嶋本の捜索はそちらに任せる。俺は俺で、鳥居の邪悪を祓うための準備をしなければならないからな。時間を無駄に使っていられない今、手分けして出来ることをするのが最良の策だと思うが?」


 自分の感情を悟られないようにしつつ、紅はあくまで平静を装って提案した。反論されるかと思っていたが、意外にも彼に意見する者は現れない。時間が無駄に使えないという一言が、彼の言葉に説得力を帯びさせたのだろうか。


「確かに、紅ちゃんの言う通りね。このまま嶋本さんを放置して、彼女に万が一のことがあってからでは遅いし……。ここは、私達と紅ちゃんで、手分けして動いた方がいいのかもしれない……」


 時折、髪をかき上げるような仕草を見せながら、皐月はフーチを片手に呟いた。


 亜衣の携帯電話は、まだ皐月の手の中にある。これを使って亜衣を探しだすことが出来るのは、現状では皐月ただ一人。しかし、その皐月もまた、先ほどの戦いでかなり消耗してしまっている。照瑠の力や魁の神水に助けられたとはいえ、決して無傷というわけではない。


 現状の消耗した戦力では、下手に個人行動を取れば自滅に繋がる。唯一、それが許されるのは、未だ余力を残しているであろう紅だけである。


 仕方がない。こうなったら、ここは紅の提案を呑んで動くしかない。皐月は芽衣子に亜衣の携帯電話を手渡すと、ここに来た時と同様の方法で居場所を探った。物に残された記憶を読み取れる芽衣子の力と、ビジョンを頼りに物の場所を探す自分の力。その二つが合わされば、この陰の気に満ちた村の中でも、亜衣を探す精度が上がる。


「ねえ、犬崎君」


 去り際に、照瑠がふと紅の方へ振り向いて名を呼んだ。


「なんだ、九条。あまり遊んでいる時間はないぞ。お前達は、大事にならない内に、嶋本のやつを見つけ出せ」


「わかってるわよ、それは。でも、一つだけ言わせて」


 紅の顔を真正面に見て、照瑠はすっと息を吸い込んだ。これから告げる言葉は、なんとしても彼に聞いて欲しい。


「犬崎君は、さっき私達を巻き込んだって言ってたでしょ。でも、そんなことは別に気にしなくて構わないわよ」


「構わないだと? 自分から好き好んで危険に身を晒すなど、馬鹿のやること以外の何物でもないぞ」


「そうじゃないわよ、もう! 私達は、別に巻き込まれたわけじゃない。自分の意思で……私達自身が詩織や犬崎君を助けたいって思ったから、ここまで来たの。誰かに強要されたわけじゃない。使命とか、義務とか、そんな重たいものでもない。自分の気持ちに正直になって動いた。それだけよ……」


 ほとんどまくし立てるようにして、照瑠は早口で紅に告げた。途中、「余計な御世話だ」と言われるかと思ったが、珍しく紅は、何も言わずに照瑠の言葉を聞いていた。


 自分が紅をどう思っているか。いや、自分だけではない。ここにいるほとんどの人間が、彼のことを友人として、仲間として、大切な相手だと思っている。そのことを、なんとかして伝えたかった。


 気持ちというのは、いざ言葉にしてみると、案外と伝わり難くなるものである。全てを言い終えてから、照瑠は自分の言葉の稚拙さと遠回りさに、今さらになって気がついた。


 見ての通り、紅はあの通りの性格だ。ぶっきらぼうで口が悪く、一般人とは少々ずれた感覚を持つ。そんな紅に、果たして自分の想いは伝わっただろうか。


 互いの瞳を見つめあったまま、照瑠も紅も動かなかった。真剣な眼差しを向けたまま、照瑠は紅からの言葉を待つ。普段であれば冷たい素振りで一蹴されているはずだったが、今日に限って、紅はそれをしなかった。


 照瑠の言葉に答える代わりに、紅は口元を少しだけ緩ませて苦笑した。馬鹿にしているというよりは、呆れているといった方が正しいのだろうか。もっとも、その瞳には軽蔑の色は見られない。普段、彼がほとんど見せることのないような、親しみを込めたそれがそこにあった。


「ふっ……。相変わらずだな、お前も。自分の心配よりも、他人の心配ばかりする。俺と違い、戦う術など持たないのだから、もう少し自分を大事にしたらどうなんだ?」


「その言葉、そっくりあなたに返すわよ。犬崎君こそ、いつも人の気も知らないで無茶ばっかりして……。今回だって、どれだけこっちが心配したか」


「それはすまなかったな。ならば、お互い様ということで……それは加藤と嶋本の二人を、それぞれが助けることで帳消しだ。お前も、それから他の連中も、全員で生きてこの村を出る。絶対にだ」


「うん。絶対にね」


 紅の言葉に、照瑠は首を大きく縦に振って頷いた。紅もそれに、無言で頷いて答える。


 心身ともに、既にくたびれ果てているというのに、照瑠は自分の心の底から力が湧き上がって来る気がしてならなかった。結局、なんだかんだで、自分は紅に力を貰っているのかもしれない。


 もっとも、そんな彼に甘えるだけで終わろうとは、照瑠も思ってはいなかった。照瑠のことを信じているからこそ、紅は亜衣の捜索にあえて参加せず、こちらに任せると言ってくれたのだ。


 あの、堅物のことである。本当に危険だと感じたら、亜衣の捜索も自分が先頭になって行うと言ってきかないはず。それをすんなり任せたくれたことからして、少なくとも、紅に悪く思われているわけではない。


 本当は、もっと色々と話したかった。しかし、他の仲間を待たせるわけにはいかず、照瑠は慌てて皐月達の後を追いかけた。今は、紅と信頼という絆で繋がっていられる。それが確認できただけでも、照瑠にとっては十分だった。


 やがて、足音が広場から遠ざかり、照瑠達の姿は再び廃屋の立ち並ぶ村の中へと消えていった。後の残されたのは、紅ただ一人。戦いの終わった広場には、先ほどの喧騒が嘘のように、ただ静寂だけが支配している。


 風が再び強くなり、雲の切れ間から月が顔を覗かせた。それに合わせるようにして、紅の影がぬぅっと伸びる。影はそのまま巨大な犬の形を成し、紅の使役する犬神が本来の姿を現した。


 紅と黒影、赤と金の二つの瞳が急に険しいものとなり、周囲の空気が微かに震える。辺りには誰の姿も見えないというのに、紅も黒影も全身から殺気のようなものを立ち昇らせて身構えている。


 本当は、鳥居に潜む邪悪を祓う方法など見つかっていなかった。あれは、照瑠達をこの場から去らせるための方便だ。この村に来て、紅もそれなりに情報は集めていたものの、それも亡者達の追撃をかわしながらのことである。あの鳥居が原因であることは知っていても、その中に潜む邪悪な存在をいかにして倒すか。その方法が、紅には未だ見つけられていない。


 では、それにも関わらず、紅が照瑠達を広場から去らせた理由とはなんだろうか。その答えは、既に紅の直ぐ真後ろまで、足音を忍ばせながら近づいていた。


「そこにいるのはわかっている。早く、姿を見せたらどうだ?」


 視線は照瑠達の去った小道に向けたまま、しかし意識は後ろに向けて、紅は静かに口にした。真横に並び立った黒影は、既に牙を剥き出しにして唸り声を上げている。広場には未だ彼ら以外の姿は見られなかったが、警戒心を露わにしているのは確かだった。


「出色的回答。ヤッパリ、紫苑ガ見込ンダ人。他ノ人トハ、アナタ違ウ……」


 中国語混じりの無機質な声。以前にも聞き覚えのあるそれに、紅はゆっくりと振り返る。片手に持った闇薙の太刀の柄に油断なく手を忍ばせつつも、心は決して乱さない。


 そこにいたのは、赤い中華服を着た一人の少女だった。その目は闇の中で金色に輝き、頭に結われた二つの団子には、無骨な簪のようなものが挿してある。


 あの日、紅をこの夜魅原村へと誘った謎の少女。それが今、再び目の前に姿を現していた。この村へやって来てから姿を消していたが、それがなぜ、今さらになって姿を現したのだろうか。


「今度は何の真似だ。まさか、次は貴様が俺と戦うなどと言い出すんじゃないだろうな?」


「違ウ……。私、紫苑ニ頼マレテ来タ。アナタヲ紫苑ノトコロヘ案内スル。ソレガ、私ノ役目……」


「そうか。それは都合がいい。俺も調度、貴様の主人とやらの顔を拝んでおきたいと思ったところだ」


 月が再び陰り、その光が少しだけ弱くなったところで、紅は少女の持つ金色の瞳を睨み返した。彼女が人でないことは既に明白。ならば、彼女の言う紫苑とやらが、闇の死揮者ということだろうか。



――――チリン、チリン……。



 風がゴウッと吹き、少女の首輪につけられている髑髏の鈴が揺れて鳴った。そして、その音が鳴り終えた次の瞬間、少女は紅の前から姿を消していた。


「ニャオ……」


 喉の奥で噛みつぶしたような、なんとも言えぬ不快な鳴き声。気がつくと、少女のいたはずの場所に一匹の猫が現れて、紅をじっと見つめていた。


「なるほど、猫鬼ビョウキか……」


 猫の首に巻かれた赤い首輪。そこに髑髏の鈴がついていたことで、紅は全てを理解した。


 猫鬼。古来より、呪術師が使い魔として使役する、猫と人の魂が一体化した妖獣である。その作り方は諸説あるが、一部では犬神や蠱毒こどくに通じる部分もあるという。その存在こそ異なってはいるが、外法によって生み出された者という点では、紅の使役する黒影と何ら変わりはない。


 闇の指揮者は、自分と同じ外法使い。ならば死揮者とは、自分自身が決着をつけねばならないのだろう。闇を用いて闇を祓う、赫の一族の末裔として、外法使いの過ちは外法使いが正さねばならない。


 高台への道を歩き出した猫の後を、紅は無言のまま追って行った。黒影も、それに続く。この先に待つ闇の指揮者がどんな人物なのかは知らないが、どのような力を持った相手であっても、紅にとっては彼と対峙しない理由はなかった。

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