~ 拾弐ノ刻 真打 ~
屋敷を抜けると、そこには相変わらずの深い闇が広がっていた。
フーチの導きが示すままに、皐月は亜衣の行方を探る。他の者達も、始終無言のまま後を追う。
皐月のフーチが示した先が、屋敷の中ではなく外だったこと。これには一瞬だけ面食らう者もいたようだが、皐月本人はそこまで驚いた様子は見せなかった。それは魁も同じことで、何やら納得の行かない表情を浮かべつつも、今は黙って皐月に従っている。
彼らは既に気づいているのだ。謎のビデオの送付と犬崎紅の失踪に始まった今回の事件が、全て何者かによって仕組まれていたということを。自分達がこの村を訪れたのが、決して偶然などではないことを。
屋敷の門の前に置かれていた亜衣の携帯電話とて、思い返せば罠の可能性の方が高かった。芽衣子が屋敷に消えたことも、恐らくは皐月と照瑠を屋敷に誘い込むためのものだろう。あの屋敷を訪れた者がことごとく赤い蛍に、照瑠や総司郎に至っては、それらが集まって誕生した白髪の悪鬼に襲われたことを考えれば、誰かの思惑が介在していないと思う方が不自然だ。
ここにいる全員は、何者かの意思によって意図して集められた者。その目的は未だ定かではないが、芽衣子や亜衣が消えたことからして、相手がこちらに好意を持っているとは言い難い。
闇の死揮者。皐月と魁の頭の中に、その言葉が同時に浮かんで来た。この村に自分達を集めたのは、あのビデオを送り付けた人間と同じはずか、もしくはその関係者か。そしてそれは、東京で起きた心霊特番のプロデューサー変死事件にも繋がっている。
心霊映像の隙間に祟りをもたらす映像を挟み込み、それを用いて人を殺す。しかも、その祟りが特定の人間にだけ及ぶように、巧妙な霊的細工まで施して。そんな力を持った者を相手にして、果たして自分達は勝てるのか。そして、未だ行方をくらませたままの紅は、本当に無事なのだろうか。
考えていても仕方がない。フーチが右へ行くように方角を示したことで、皐月を気を取り直して歩き出した。今はとにかく、亜衣と芽衣子を見つけ出すことに集中しよう。その上で、村の儀式に関する謎を探りつつ、紅を見つけて協力を仰ぐ。敵の手の内で踊っているというのは歯痒かったが、今は自分達にできることを成すしか道はないのだから。
それから、どれほど歩いただろうか。やがて彼らは、村の中でも随分と開けた場所に到着した。辺りは相変わらず閑散としていたが、皐月や魁、それに総司郎は、この場に何かが潜んでいるということに気づいていた。
「広場か……。でも、単にお祭りをするための場所ってわけじゃなさそうね」
「まったくだ。屋敷の中で奇襲を仕掛けたことといい……待ち伏せなんて、いちいちやることが姑息だね」
口では余裕を装いながらも、その顔は決して笑ってはいない。皐月も魁も、全身から普段とは異なる猛々しい気を放ちながら、戦う姿勢へと移行している。
「来ますよ、先生……」
総司郎が、拳を握り締めて警戒心を強める。ザク、ザクという枯れ木と落ち葉を踏む音が、鬱蒼とした森の中から響いて来る。
暗闇のカーテンを押しのけるようにして、それはすっと現れた。一瞬、その場にいた全員の目に緊張が走る。闇の中から現れたのは、およそ廃村には相応しくない都会風の服を着た女性。栗色の巻き毛と健康的な色の肌に反し、どんよりと濁った瞳は実に不釣り合いだ。
「芽衣子……」
霊撃恨を引き伸ばして構え、皐月がその女性の名を呟く。もっとも、今の彼女が自分の知る周防芽衣子でないことくらいは、皐月とて十分に承知している。
「うふふ……。お揃いで、どこへ行くつもりなのかしら? これから楽しい楽しい宴が始まるっていうのに……参加しないなんていう無粋なことはしないわよね?」
口元をゆるく笑みの形に歪め、芽衣子は舐めるようにして全員の顔を見回した。あまりに異様な空気に、雪乃が怯えて後ろに下がる。すかさず浩二と照瑠が彼女を庇うようにして前に立ったが、そんな二人もまた、完全に芽衣子の放つ気に飲まれていた。
「君かい? つまらない策略を企てて、俺達をこの村に呼び寄せたのは?」
鉄扇を構え、尊大な態度で魁が芽衣子を睨んだ。その目は芽衣子の瞳を見てはおらず、完全に明後日の方向を向いている。いや、この場合は、芽衣子の後ろにいるもう一人の相手に視線を向けていると言った方が正しいのか。
「あら? 中途半端な力の持ち主しかいないと思ったけど、中には少しだけできる人もいたみたいね。まあ、私が必要としているのはあなたじゃなくて、もっと他にいるんだけど……」
「言ってくれるじゃないか……。そっちこそ、こんな三流のシナリオで、俺を出し抜けると思ってたのかい? 何が目的かは知らないけど、俺は自分にされたことは、十倍にしてお返ししないと気が済まない性質でね。君がどんな霊なのかは興味ないし……大人しく、ここで始末されてくれないか?」
互いに睨みあったまま、魁も芽衣子も動かない。既に、話し合う余地などない。この戦いが避けて通れないことくらい、お互いにわかりきっている。
その口元に手を添えて、芽衣子がふっと息を吐いた。放たれた吐息に乗って、その口から赤い蛍が吐き出される。亜衣を連れ去り、屋敷で亡霊を呼び出して照瑠や雪乃達を襲わせた、この村に伝わる死の使いだ。
蛍が地面を叩き、亡者を呼び出すのが合図となった。霊撃棍を握り締め、皐月が真っ先に飛び出して行く。狙いは最初から決まっている。雑魚の亡霊や蛍ではなく、芽衣子に取り憑いている少女の霊のみ。
赤い蛍が、その身を躍らせ大地が爆ぜる。邪悪な呼声に誘われて、今は亡き村人の慣れの果てが、次々と現れては皐月の前に立ち塞がる。
「どきなさい!!」
実力は、誰から見ても明白だった。
皐月の振るう霊撃棍の一撃は、現れた亡者の群れを次々と薙ぎ倒してゆく。全てを倒す必要はない。ただ、芽衣子まで届くだけの道が作れればいい。そう割り切っているからこそ、思考を剥奪された亡者では皐月を止められない。蛍に操られるだけの人形では、数の暴力以外に今の皐月を止める術はないのだから。
「へぇ、少しはやるじゃない。だったら……あなたには、彼に相手をしてもらおうかしら?」
亡者の群れが次々に倒されても、芽衣子は未だ不敵な笑みを浮かべたままだった。再び口から赤い蛍を吐き出して、今度はそれらを自分の目の前で固めてゆく。集まった蛍は徐々に人の姿を成し、一瞬の後に白髪の悪鬼へと姿を変えた。
「あれは……!?」
照瑠と総司郎が、思わず同時に口走った。あの悪鬼は、屋敷で自分達を襲ってきたのと同じものだ。怨霊と集合霊の性質を併せ持ち、霊毒を秘めた爪を持つ危険な相手。蛍の供給が成される限りは倒すことのできない、恐るべき力を持った大悪霊。
あれは魁の言っていたように、本当にお白様と呼ばれた生き神のなれの果てなのか。答えを出す暇さえもなく、悪鬼は亡霊の群れを薙ぎ倒して進む皐月に襲いかかる。
ガラスを擦ったような不快な音がして、皐月の霊撃棍と悪鬼の爪がぶつかり合った。肉体を持たない相手の攻撃にも関わらず、棍を通じて物凄い衝撃が伝わり皐月の手を震わせる。邪悪な霊気、恐るべき陰の気の力がそのまま霊的な圧力となって、皐月の魂に直接響いているのだ。
たまらず距離を取った皐月だったが、今度はその隙を亡者達が逃さなかった。獲物が不利になったとばかりに、次々と不気味な呻き声を上げて皐月へと手を伸ばす。
「……っ! 悪いけど、気安く触らないでくれるかしら? あんた達なんかに触られたら、それだけで魂が穢された気がしてならないわ!」
懐から数枚の護符を取り出し、皐月はそれを亡者の群れに投げつけた。狙いなど、最初からつけてはいない。少しばかり、自分があの悪鬼と戦うまでの足止めになれば、それでいい。
護符の貼りついた亡者達の身体が、徐々に溶けてなくなってゆく。それでも、やはり相手の方が数は多い。数体の敵を倒したところで足止めになどならず、皐月は徐々に追い込まれてゆく。
悪鬼の爪が頬を掠め、皐月は思わず唇を噛んで傷口を拭った。霊による攻撃で出血することはないが、この痺れるような痛みはやはり好きになれない。霊的な毒に対して抗う術はないとわかっていても、身体は本能的に防御の反応を示してしまう。
「うふふ……。威勢がいいのは最初だけかしら? 口では偉そうなこと言っていながら、大したことないのね?」
亡者の群れの向こう側で、芽衣子が不敵に笑っていた。もっとも、そんな芽衣子の姿を見ても、皐月の闘志が消えることはない。
「それはこっちの台詞よ。あなたこそ……まさか、相手が私だけと思ってるわけじゃないでしょう?」
再び霊撃棍を構え、皐月はその切っ先を芽衣子に向ける。すかさず数体の亡者が飛び込んで来るが、それらは皐月の後ろから飛び出してきた、太く力強い腕によって払われた。
「独りで飛び出し過ぎっすよ!」
腕に刻まれた退魔の刺青を光らせながら、皐月の横に総司郎が並び立つ。続けて二人の後ろから、怒涛の如く紙人形の群れがなだれ込んで来た。鳥、獣、それから人。様々な姿をした人形たちは、そのどれもが小さな兵隊として、目の前の亡者に群がってゆく。
「総ちゃんの言う通りだよ。あんたがどれだけ強いか知らないけど……ミイラ取りがミイラになったら、元も子もないんじゃないの?」
経文の刻まれた鉄扇を構え、魁がややもすると皮肉を込めた口調で言った。
「お生憎さま。後ろでじっと静かにしていられるほど、柔な性分じゃないのよね」
「やれやれだ。それじゃあ俺は、後方支援に回らせてもらうよ。どっちにしろ、生身でやり合うのは好きじゃないしね」
「ご自由にどうぞ。せめて、私が芽衣子を正気に戻すまでは、連中の相手をしていてくれると助かるんだけど……」
「ああ。できるだけ、努力させてもらうよ」
袖口から新たな式神を放ちつつ、魁は苦笑して皐月に答えた。その隣では、照瑠が慣れない腕で照準を合わせながら、必死に霊撃銃の引き金を引いている。狙いは滅茶苦茶だが、こうも敵が群れている状況では、こんな援護であってもないよりマシだ。
数だけであれば、敵の方が圧倒的に有利な戦い。しかし、この場にいる誰しもに、負けるという考えは存在しなかった。皐月の霊撃棍が、総司郎の拳が亡者の群れを薙ぎ倒し、照瑠の射撃と魁の式神が無防備な雪乃や浩二に迫らんとする亡霊達の足を止める。
その雪乃や浩二でさえ、魁から手渡された神水を片手に身構えている。万が一のときは、この小瓶の中身を敵に全てふりかけてやろう。自分の身くらいは自分で守る。既に、他人に頼って何かを成そうという気持ちは欠片も無い。
次々に倒れてゆく亡者の群れを見て、若干の焦りを覚えたのだろうか。芽衣子に支持されるままに、白髪の悪鬼が再び皐月に襲いかかった。深淵の如く深い闇を両目に湛え、その奥底で赤い瞳を不気味に輝かせ、獣にも似た雄叫びを上げて爪を振るう。
耳障りな高音が鳴り響き、皐月は震える手で霊撃棍を握り締めた。衝撃が腕を伝わって肩まで届き、思わず後ろに下がって間合いを取る。
「このっ! 邪魔するな!!」
普段の落ちついた口調さえも捨て、皐月は棍を構えて悪鬼へと踏み込んだ。だが、悪鬼とて黙ってやられているはずもない。迫る皐月を正面に捕え、今度はその口から無数の赤い蛍を放出する。放たれた蛍はそのまま霊的な弾となり、流星の如く皐月に降り注ぐ。
逃げ場はない。気が付いたときには、皐月は咄嗟に判断して棍を縦に構えていた。全てを防ぐことはできなくとも、急所への直撃くらいは避ける。そのつもりで棍を盾にしようと身構えたが、それは要らぬ心配だった。
先ほどとは異なる、大銅鑼を叩いたような鈍い、しかし力強い音。両腕の刺青を赤々と発光させながら、総司郎が皐月の前に割り込んでいた。
「てめえの相手は俺っすよ……」
全身から白い煙を立ち昇らせて、総司郎が既に穴だけとなった両目を悪鬼に向ける。皐月を庇って受けたダメージは、そこまで深刻なものではない。初めて屋敷の中で戦ったときは手こずったが、これは二戦目。霊毒を含む攻撃でなければ、既に気の流れを操って受け流すだけのタイミングはつかんだ。
「悪いわね。それじゃあ、その白髪頭は任せたわ!!」
総司郎の肩を叩き、皐月は軽く微笑んで見せた。もっとも、既に光を失ってしまった総司郎にとっては、それはさしたる意味を持たない。ただ、目の前の悪鬼にだけ意識を集中させ、無言のまま拳を握り締める。
鍛え抜かれた脚が大地を蹴ったとき、悪鬼もまた咆哮と共に総司郎に襲いかかった。爪の鋭い一撃が総司郎の胸元を狙うが、それは手刀によってはたき落とされる。次いで、今度は髪の毛を絡みつかせようと伸ばす悪鬼だったが、総司郎はそれさえも見抜いていた。
「二度も同じ手は食わないっすよ……」
繰り出される白髪を握り締め、総司郎がにやりと笑う。髪から伝わる負の波動が掌を蝕み、ピリピリとした痛みさえ感じる。が、それさえも気にかけず、総司郎は悪鬼の腹に痛烈な一撃をお見舞いした。
何かの爆ぜるような音がして、総司郎の拳が悪鬼の身体にめり込んだ。その部分からほとばしるのは、赤く輝く無数の光。鮮血ではない。悪鬼の身体を成していた蛍の群れが、まとめて粉砕されたのだ。
「まだ……終わりじゃないっす……」
体勢を整える時間など、初めからくれてやるつもりはない。ましてや、再生などさせてなるものか。立て続けに、総司郎は右と左の拳を凄まじい速度で叩き込んでゆく。その度に銅鑼を叩くような音が響き渡り、悪鬼が苦悶の雄叫びを上げる。
狙いなど、まともにつけてはいなかった。ただ、敵が再生するよりも早く、より多くの連打を叩き込む。屋敷での戦いでは一撃必殺に拘り過ぎて不覚を取ったが、戦いは、何も力の強さだけで決まるものではない。
怒涛の連打の前に、とうとう悪鬼の身体がボロボロに崩れ落ちた。攻撃を受けつつも再生を試みていたようだが、それでも間に合わなかったのだろう。最後の一撃を受けたところで、悪鬼の身体は大きくのけぞって宙を舞う。そのまま芽衣子の足下に転がった悪鬼は、既に身体の半分以上を失っていた。
「ちっ……」
全身から煙を上げて倒れている悪鬼の姿に、芽衣子が思わず舌打ちをする。仕方なく、口から蛍を呼び出して、それを悪鬼の身体に回す。
総司郎にやられた傷が、瞬く間に修復されてゆく。それでも、あれだけの連打を受けたのだ。そう簡単に全てを治すことはできず、悪鬼の身体には未だにあちこち穴が空いている。そして、そんな芽衣子の不意をつくようにして、彼女の真横に一陣の影が舞い降りた。
「辿り着いたわ……」
霊撃棍を携えて、皐月が横目で芽衣子を見る。芽衣子もまた、悪鬼の修復に回そうとしていた蛍を手に乗せて、皐月の方へと向き直った。
「悪いけど、そろそろ芽衣子を返してもらうわよ。その娘はあなたの玩具じゃない。何が目的か知らないけど……人の身体を乗っ取るような霊を、黙って見過ごすほどお人好しじゃないのよね、私」
「そう……。でも、私がこの娘に憑いたのは、元はと言えば、この娘にも原因があるのよ? それを棚に上げて、今さら出て行けなんて……そっちこそ、随分と虫のいい話じゃない?」
霊撃棍の先端を向けられて迫られても、芽衣子は何ら動じなかった。いや、この場合は、芽衣子の中にいる者が動じていないといった方が良いのだろうか。
「この娘、物に残された記憶を読み取る力があったみたいね。でも、残念……。中途半端な力で私の意識が残った日記なんかに手を出したから、こんな目に遭ったのよ」
「日記……。まさか!?」
「そう……。あなた達が最初に訪れた家は、私の住んでいた家よ。そこにあった日記帳……。この娘はそれに手を出したのね。未熟な力の持ち主だけに、日記に残された記憶と一緒に中に入り込んで、身体を乗っ取るのは簡単だったわ」
芽衣子の顔に、邪悪な笑みが浮かんで見えた。この村に来て、最初に赤い蛍に襲われた比較的大きな屋敷。そこで見つけた日記帳から、芽衣子が何かを感じ取っていたこと。そのことが、皐月の脳裏にもまざまざと蘇る。
芽衣子が何を見て、何を感じていたのか。それは、皐月にもわからない。だが、いくら半人前とはいえ、芽衣子とて多少は自分の力を制御するための術を持っているのだ。仕事上、中には危険な物の鑑定をする必要もあるだけに、少々のことでは魂を揺さぶられたりはしないはず。
「なるほど……。どうやら、あなたが芽衣子に見せた記憶は、よほど苦しく重たいものだったみたいね。でも……それがどうしたって言うの? どんな理由があっても、あなたのやっていることは許されざる行為よ。死者が生者の肉体を好き勝手にするなんて……そんなこと、私は絶対に許さない!!」
霊撃棍を大きく振りかぶり、皐月は芽衣子に向かってそれを振り降ろした。もう、戯言を聞かされるのは十分だ。これ以上、芽衣子の身体を好きにさせてなるものか。
振り降ろされた一撃が、芽衣子の額を正面にとらえる。その一方で、芽衣子もまた手にした赤い蛍を握り締め、その光を細長く伸ばして刃と変えた。
赤い光で作られた刀身が、皐月の霊撃棍を受け止める。悪鬼の爪とぶつかりあったときと同じ、ガラスを引っ掻いたような不快な音が鳴り響く。
「やるわね……。でも、勝負はこれからよ?」
鍔迫り合いの姿勢のまま、皐月は棍に更なる力を込めて芽衣子を押す。しかし、芽衣子もまた不敵に笑いつつ、左手にも蛍を握り、それを新たな刃へと変える。
横薙ぎに払われた攻撃を、皐月は咄嗟に後ろに引くことで回避した。鼻先を赤い光が掠め、負の霊気による圧力を受けて、肌がピリピリと痛む。そんな皐月の姿を前にして、芽衣子は二つの赤い刃を手にしたまま狡賢い笑みを浮かべていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
陰の気を乗せた風の舞う高台から、男が一人、村の様子を眺めていた。
いや、正確には一人ではない。彼の傍らには、一匹の黒猫が寄り添っている。タールのような艶やかさを持つ漆黒の毛並みと、煌々と輝く金色の瞳を携えて。
「始マッタネ……紫苑」
突然、男の後ろから声がした。いつの間にか、先ほどの猫の姿がかき消えて、代わりに赤い中華服に身を包んだ少女が立っていた。
「そうですね。でも、手出しは無用ですよ、マオ。僕達の目的は別にあります。彼らと不用意に接触することは、無用な混乱を生む原因となり兼ねませんからね」
「デモ、アノ女、押サレテル……。コノママ負ケタラ、ドウスルノ?」
「それは心配ないでしょう。あの娘の勝敗に関係なく、彼は僕のところへ現れますよ。それに……押されているというのは、果たしてどうでしょうか?」
その男、真狩紫苑の口元が、少女を試すように緩く曲げられた。主の言いたいことがわからず、少女は小首を傾げたまま紫苑の前へ出る。高台の上から改めて広場の光景に目をやると、そこでは相変わらずの激しい攻防が繰り広げられている。
皐月と芽衣子。ぶつかり合う両者の実力は、完全に伯仲していると言えた。二振りの刀を持つが故に芽衣子の方が一見して有利に思えるが、それでもともすれば、皐月の方が芽衣子を押しているようにも思える。
芽衣子に憑いた霊は元々戦いが得意でないのか、それとも皐月の腕が確かなのか。恐らく、その両方なのだろう。
金属の爆ぜるような音がして、赤い蛍が姿を変えた刃が芽衣子の手から弾き飛ばされた。そのまま宙を舞って大地へと突き刺さった刃は、そのまま淡い光となって消えてしまう。その隙を逃さず、皐月の強烈な突きが芽衣子の腹部を捕え、芽衣子は思わず呻いて膝をついた。
これでやったか。思わず棍を降ろした皐月だったが、顔を上げた芽衣子の姿に、ぎょとしてすぐさま身構える。瞬間、頬の辺りを赤い光が掠め、火傷のような痛みが肌を襲う。
芽衣子は倒れてなどいなかった。彼女の中に潜む邪悪には、先ほどの攻撃はまったく届いてなどいなかったのだ。
(駄目か……。せめて、私にも紅ちゃんみたいに、犬神のような存在を使役する力があったらね……)
奥歯を噛み締め、再び霊撃棍を構える皐月。やはり、人間に憑依した霊体を無理やりに引きはがすというのは、相当に力の要る仕事だ。紅のような下級神を使役することができれば話は別だが、人間の力でそれを成すということは、それなりの実力が伴わねばならなくなる。
人間の肉体は、それそのものが霊的なフィルターとしても作用する。それは時に霊の攻撃に対するささやかなクッションともなってくれるが、同時に憑依した霊体に対しても一種の障壁として作用する。
見たところ、芽衣子に憑依している霊は、背後霊などの類とは根本的に異なっているようだった。彼女は芽衣子の身体を完全に乗っ取り、しかし芽衣子の魂と融合するという選択はしていない。あくまで芽衣子の肉体の最深部に潜みつつ、本人の魂の力を強引に抑え込んで操っているのだ。
正直なところ、ここまで強力な霊体とは、皐月も戦った経験などなかった。普通の浮遊霊程度であれば、仮に人間の肉体がフィルターとして働いたとしても、強い陽の気の一撃を食らわせることで引きはがすことが可能だ。
先ほどの霊撃棍の一撃で、並みの亡霊であればとっくに芽衣子の肉体から離れている。ところが、芽衣子の身体の中に巣食う少女の霊は、その一撃でさえも耐え抜いた。このまま下手に戦っても、それは不用意に芽衣子の身体を傷つけるだけで終わってしまう。物理的にではなく、より霊的に強力な一撃を食らわせ、芽衣子の肉体からあの少女を追い払わねばならない。
一撃必殺。持てる力の全てを棍に込めて、全身全霊で芽衣子の中に巣食う霊体に叩きつける。今の自分にできることは、残念ながらそのくらいしか見つからない。
呼吸を整え、皐月は棍にゆっくりと自分の体内の気を流し始めた。棍の動力として働いている水晶の力と、皐月自身の力。それぞれは弱い力であったとしても、二つを合わせれば並みの霊木刀の力を凌駕する。それこそ、紅のような強い力の持ち主が振るったときのように、爆発的な威力を発揮させることさえ可能となる。
棍を下段の構えで持ち、皐月はあえて無防備な姿を晒して見せた。こちらから仕掛けては、それだけで気の流れが乱される。相手が仕掛けて来た一瞬の隙に合わせて技を返すこと。それでしか、限界まで凝縮した霊気の波動をぶつける術はない。
来るなら来い。そんな心づもりで身構える皐月だったが、その一方で、芽衣子もまた皐月から距離を離した。左手に残された赤い刃さえも捨て、芽衣子はにやりと笑って見せる。あまりに不可解な行動に、皐月は怪訝そうな顔をして芽衣子に問う。
「どうしたのかしら? 大人しく、降参する気にでもなった?」
皐月の問いに、芽衣子の中に巣食う者は答えない。ただ、その顔に邪悪な笑みを湛えたまま、ふっと息を吐く様にして新たな蛍を吐き出してゆく。
一匹、二匹……。瞬く間に、芽衣子の周りは無数の蛍に包まれた。いくつもの赤い光が彼女の周囲を飛び回り、まるで火の粉か何かを浴びているようにも見える。
「……行け」
そう、芽衣子が呟いたのが始まりだった。彼女の周りを飛ぶ蛍達が、一斉に鋭い刃のような形へと姿を変えた。赤いガラスの破片のようになったそれは、芽衣子の指差した方向目掛け、物凄い速度で飛んでくる。
「……っ! こいつ!!」
飛来する無数の赤い刃。それを捌くことだけで、皐月は精一杯だった。無防備な姿を晒していたことが災いし、肩や脚をいくつか切られた。血は出ていないが、それでも魂が、霊気の流れをつかさどる霊脈が傷つけられたことが、はっきりと感じられる。一つ一つはかすり傷のようなものだが、これが蓄積すればどうなるか……。答えは、口に出さなくともわかっている。
気を集中させていた霊撃棍を構え直し、皐月はそれを振るって赤い刃を叩き落とす。中にはまったく見当違いの方向へ飛んでゆくものもあるが、それらにはあえて構うことをしない。ただ、自分の急所を狙って繰り出される攻撃だけを、棍を盾代わりにして防いでゆく。
霊撃棍に赤い刃がぶつかる度に、ガラスの割れるような音がした。刃それ自体の強度は、決して高い物ではないのが幸いだ。少し強い霊気を込めた武器であれば、ぶつけるだけで十分に相殺できる。
やがて、全ての刃が尽きたところで、皐月は改めて芽衣子の中にいる者を睨みつけた。
「はぁ……はぁ……。それで、お終いなのかしら?」
頬を伝わる汗を拭いながらも、決して余裕がないことは態度に出さない。もっとも、既にこちらもかなり力を消耗しているということは、向こうも気づいているかもしれないが。
「ええ、お終いね。でも……それは私じゃなくて、あなた達のことだけど……」
「強がりもいい加減にしたらどう? あなたの放った赤い刃は、全部私が叩き落としたわよ。今のがあなたの切り札だって言うんなら……ちょっと、使いどころを間違えたかもね」
「使いどころ、か……。本当に、そう思ってるのかしら?」
赤い刃を全て失ってもなお、芽衣子は不敵な態度を崩さない。この先に、まだ何か隠し玉を持っているのか。皐月も油断なく霊撃棍を握り締め、徐々に芽衣子との距離を詰める。
「確かに、あなた達は強いわ。でも……全員が全員、私と戦える力があるってわけじゃないわよね。お荷物になるような人達には、この際、さっさと退場してもらった方がいいと思うわ」
「なんですって!?」
皐月の背中を、冷たいものが走り抜けた。まさか、先ほどの攻撃は……。そう思って彼女が後ろを振り向いたとき、そこに浮かんでいたのは絶望的な光景だった。
「避けて!!」
そう言うが早いか、皐月は芽衣子に背を向けて駆け出した。敵に後ろを見せることの愚など、十分に承知している。それでも、今はこうして走らなければ、もっと見たくない現実を見せつけられることになる。
皐月の目に映ったもの。それは他でもない、浮遊する複数の赤い蛍。刃へと姿を変えたそれが、亡者の群れを抑える照瑠や魁の真上を漂っている光景だ。
あの攻撃は、最初から皐月を狙ったものではなかった。芽衣子の中に潜む者の本当の狙い。それは自分達のような霊能者ではなく、力を持たない一般人。照瑠や魁の後ろで事の成り行きを見守っている、雪乃と浩二の二人だ。
皐月の言葉に反応し、今まで亡霊と戦っていた魁が慌てて式神を呼び戻す。数体の式神が盾となって赤い刃の雨に立ち向かうが、それでも防ぎきれるものではない。
刃と相殺する形で消滅した式神の向こうから、新たな刃が降り注ぐ。その切っ先が捕えるのは、怯えて脚がすくんだ雪乃の顔。恐怖にひきつったその瞳に、真紅の凶器がはっきりと映る。
「危ない!!」
間一髪、雪乃と刃の間に滑り込むようにして、皐月がその身体を盾にした。瞬間、燃えるような痛みが彼女の背中を襲い、皐月の口から思わず呻き声が漏れる。
「ふぅ……。どうやら……間に合ったわね……」
額に脂汗を浮かべ、皐月は雪乃に微笑んで見せた。だが、その顔には既に余裕の色は見えない。なぜなら、雪乃を襲ってきた三本の赤い刃が、深々と背に刺さっていたのだから。
「あ……あぁ……」
目に涙を浮かべ、雪乃が口元を手で覆って声を漏らした。何かを言おうとしても、言葉になどできなかった。
「大……丈夫? どこか……怪我なんて……して……ないわよ……ね……」
切れ切れの声で、皐月は雪乃の身を案じて言葉をかける。そして、雪乃が辛うじて頷いたのを見て、その場にがっくりと倒れ動かなくなった。
「皐月さん!!」
霊撃銃を放り投げ、照瑠が皐月に駆け寄った。慌ててその身体に手をやると、幸いにもまだ温かい。背中に残る赤い刃は痛々しいものがあったが、命の灯までは消えていない。
「ごめんなさい! 私のせいで……私のせいで……!!」
雪乃が泣きながら、何度も同じ言葉を繰り返す。自分のせいで、皐月が倒れた。その現実を目の当たりにしてしまい、溢れる感情が抑えきれなかった。
「長瀬君! 私の代わりに、あのお化け達を撃って! 皐月さんは、私が助けるから!!」
泣き叫ぶ雪乃を横目に、照瑠もまた浩二に向かって叫ぶ。いきなり名前を呼ばれ、浩二はしばし狼狽した様子でその場に固まった。
「早く! あれは、霊能者じゃなくても使えるって、皐月さんが言ってたの! だから、長瀬君にだって使えるはずよ!!」
詳しい説明などしている暇はない。矢継ぎ早にまくしたて、照瑠は皐月の背中に刺さっている刃へと手を添える。浩二が銃を拾うのさえ待たず、全身の気を赤い刃に向けて集中させる。
ヒーリング。九条神社の巫女として、自分が今は亡き母親から受け継いだ能力。紅や皐月のように、戦うための力ではない。だが、それでも、方法次第では人を救うこともできるはず。そう信じて、今まで修業をしてきたはずだ。
刃に触れた瞬間から、照瑠は自分の手に焼けるような痛みを覚えていた。想像していた以上に、この蛍の持つ陰の気は強い。しかし、ここで負けてしまっては、皐月を救うことなどできはしない。
このまま力でぶつかっても駄目だ。陰と陽の気がぶつかり合えば、そこに待っているのは互いの破滅。こちらの力が相手を上回れば、それは相手を潰すことに繋がるだろう。が、消滅するのは相手だけでなく、自分もまた同じこと。
力に力で応じても意味はない。それは癒しではなく、単なる調伏に過ぎない。ならば、自分の行うべきことは何か。答えは既に、照瑠の中で決まっていた。
「うっ……」
自分の腕を通して伝わる不快な感触に、思わず顔しかめる照瑠。皐月の背に刺さった赤い刃は、徐々に照瑠の手に吸収されるようにして、だんだんとその大きさを縮めてゆく。
陰の気を潰すのではなく、己の中に受け入れて、その力を徐々に分解する。力をぶつけて打ち消すのではなく、己の身を通して浄化する。それこそが、癒し手として崇められてきた九条神社の巫女の力。癒しの気を送るだけでなく、時に人の中に巣食う闇を預かって、自分自身の身体を持って清めるのだ。
「あ、照瑠ちゃん……」
震える両腕で赤い刃を吸収する照瑠の顔を、雪乃が心配そうに覗き込んだ。もっとも、今の照瑠に、それに答えているだけの余裕はない。少しでも意識を途切れさせれば、それだけで全身を陰の気の毒気にやられてしまいそうだ。
照瑠の呼吸に合わせ、だんだんと赤い刃が縮んでゆく。その後ろでは、魁や総司郎、それに霊撃銃を持った浩二が、亡霊や蛍から照瑠達を守って戦っている音がする。
事の全てを終えたとき、照瑠はそのまま皐月の背中に両手をついて息を吐いた。思った以上に消耗が激しく、呼吸が荒い。
「よかった……。上手くいった……」
額の汗を拭い、照瑠はそのまま皐月の隣に腰を降ろした。これでなんとか、皐月の魂が酷い霊傷を受けること避けられた。もっとも、これで全てが終わったわけではないことは、照瑠も十分にわかってはいたが。
袖口から新たな式神を放つ魁の横で、浩二が霊撃銃に向かって悪態を吐いている。拾ってから数発は使えたが、どうやら弾が切れてしまったらしい。動力に用いられている水晶板の霊気を使い尽くせば、霊撃銃は単なるガラクタ以下の代物に過ぎない。
「弾切れかい? だったら、早く下がった方がいいぞ、少年」
そう言いながら、魁の顔からも余裕の色は消えていた。これまでの戦いで、既に式神を使い尽くしてしまったのだ。残されたのは、未だ戦場で果敢に特攻を仕掛けている僅かばかりの式神と、後は経文の刻まれた鉄扇のみ。生身でやり合うことを良しとしない魁にとって、これだけの数の敵を扇だけで相手にするのは少々厳しい。
「先生こそ、あまり前に出ないでください。こういう殴り合いは、俺の役目っすから……」
いつの間にか、総司郎も魁のところまで下がってきていた。白髪の悪鬼との戦いで、彼にもまた力の余裕はない。その悪鬼も、既に十分な時間を経て、砕かれた身体の部位を再生させている。
多勢に無勢だ。敵の増援は無尽蔵。その上、戦力は半減させられ、戦う術も徐々に失いつつあるという現状。そのことが、徐々に全員の中から冷静な判断力を奪ってゆく。ここで終わるのかもしれないという想い、絶望の二文字が、それぞれの頭の中に浮かんでくる。
魁と総司郎の間をすり抜け、亡者の内の一体が照瑠に襲いかかった。普段であれば、いくら照瑠でも難なく反応できる程度の動き。それでも、体力を消耗した今の彼女には、亡者の毒牙を避ける術はない。
「九条! 長谷川!!」
武器無しの浩二が、今にも襲われそうになっている照瑠達の姿を見て叫んだ。慌ててポケットから神水を、魁からもらった護身用の小瓶を取り出そうとするが、間に合わない。
振りかぶられた死人の手に、照瑠が思わず目を伏せる。隣にいた雪乃と抱き合うようにして、痛みに耐えるように身体を強張らせる。
時間の流れが物凄く遅く感じられた。人は命の危機に直面したとき、普段とは異なる感覚で物事を感じることがあるのだろうか。
こんなところで、自分は力及ばず死んでしまう。紅にも会えず、詩織も助けられず、亜衣も見つけられないまま。何一つ成すべきことを成せないまま、無残にも虚しく散ってしまう。
だが、照瑠の命を奪おうと迫る亡者の一撃は、果たして彼女を捕えることは永遠に叶わなかった。
次の瞬間、眩い光と共に、青白い炎の塊が亡者を包んで焼き払った。一瞬、何が起きたのかわからず、照瑠と雪乃はその場で顔を見合わせる。
「あれは……」
死者を焼きつくす青い炎。その色に、その力に、照瑠は確かに見覚えがある。いや、照瑠だけでなく、雪乃もまたその存在を知っている。
「よくやった、黒影……」
亡霊の跋扈する広場に響く、聞き覚えのある抑揚のない声。間違いない。この声は、確かに彼のものだ。照瑠達が待ち望んだ、彼女達の知る限りでは最強の霊能力者。詩織を救う鍵を握る、赤い瞳の外法使い。
闇の中から、黒い獣を従えた少年がゆっくりと姿を現した。白金色の髪と白い肌、そして赤い瞳を携えて、少年は静かに照瑠と雪乃の前に立つ。
「け、犬崎君……」
震える声で、照瑠は少年の名を呼んだ。他にも言いたいこと、訊きたいことは山ほどあったが、何から言い出せばよいのかわからなかった。
「下がっていろ、九条。この化け物どもは、俺が始末する……」
照瑠に背中を向けたまま、その少年、犬崎紅は普段通りの無愛想な口調で言ってのけた。相変わらずの尊大な態度。しかし、今はそんな彼の一挙一動が、なぜか懐かしく思えて仕方がない。
「まずは、雑魚を始末するか……。薙ぎ払え、黒影!!」
紅の言葉を受け、その隣に佇む漆黒の獣が大きく吠えた。村々に響き渡る咆哮に、一瞬、亡者達の動きが止まる。格の違いを見せつけるように、雄叫びがそのまま強力な霊気の圧力となって放たれる。
犬神。忌まわしき外法によって作られながら、使い方によっては人界を守るための力ともなる。流動する影のような肉体と、あらゆる霊を焼き払う破魔の炎の力を持った、赫の一族に使役されし下級神。その存在は、異端にして強力。主の命に忠実に、敵に対しては容赦をしない。
咆哮によって怯んだ亡者の群れに、黒影は再び破魔の炎を吐き出した。その場にいる全ての敵を焼き払うように、横薙ぎに青白い炎が闇を染めてゆく。
やがて、炎が消え去ったとき、そこには亡者達もまた姿を消していた。後に残されたのは、芽衣子と白髪の悪鬼のみ。赤い蛍も、それによって呼び出された亡霊達も、全てが焼き払われた後だった。
「残るは貴様らだけだ。悪いが、そちらと遊んでいる場合ではないんでな。問答無用で消えてもらう!!」
周防芽衣子の中に潜む者。それに向かって、紅はきっぱりと言ってのけた。白布の巻かれた鞘から刀を引き抜いて、その切っ先を芽衣子と悪鬼に向ける。封印を解き放たれた銀色の刃。その身から放たれるどす黒い気が、飢えた獣のようにのたうっている。
圧倒的な力の差。それをまざまざと見せつけて、紅は芽衣子と悪鬼に迫った。お前達に勝ち目はない。そう言わんばかりの気迫で距離を縮めてゆくものの、芽衣子もまた諦めてはいない。
「うふふ……。ようやく現れたわね、生贄さん……」
本番はこれからだ。そんな風にも受け取れる笑みを浮かべながら、芽衣子は獲物を前にした獣のよに、赤い舌を出して唇を舐めた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
口元を伝わる冷たい感触に、皐月はゆっくりと目を開いた。
全身の感覚を確かめるようにして、皐月は拳を軽く握る。気を失っていたにしては、妙に身体が軽い。自分は確か、あの赤い蛍が変化した刃にやられ、倒れてしまったのではなかったか。
「やれやれ、気がついたかい? まったく、無茶をしてくれるね」
上から見下ろすようにして、魁が呆れた表情を浮かべている。それは、己の身を顧みずに少女達を庇った皐月の行動に対するものか、それとも気付けによって直ぐに意識を取り戻した、彼女のタフさに対するものなのか。恐らく、その両方だろう。
「あの……。さっきは、ありがとうございました」
皐月の隣で申し訳なさそうにしているのは雪乃だ。彼女の手には小さな瓶が握られており、その中身は既にない。口元が濡れていることからして、彼女が瓶の中身を皐月の飲ませたのだろうか。
「別に、気にしていないわ。そっちこそ、怪我がないみたいでなによりだわ」
「あ、はい……」
「ところで……その瓶に入っていたのって、ただの水なの? なんか、妙に身体が軽いんだけど……」
未だ自分の身体に起きていることが信じられず、皐月は怪訝そうな顔で雪乃を見た。その問いに答えたのは雪乃ではなく、先ほどから皐月のことを見降ろしている魁だった。
「その瓶の中身、俺の作った神水ってやつだよ。怨霊相手なら毒になるけど、人間が飲んでも毒じゃない。まあ、そこの彼女……照瑠ちゃんって言ったっけ? 彼女の持つ癒しの力には負けるけど……気付けくらいには役に立ったかな?」
「ふうん……。神便鬼毒酒みたいな物かしら?」
「まあ、そう考えてもらって構わないね。もっとも、いきなり力が五倍に跳ね上がるなんてことは、さすがにないんだけどさ」
鬼退治の説話に登場する神酒の名前を引き合いに出されたことで、魁は珍しく謙遜した口調になって答えた。皐月に雪乃が飲ませたもの。それは彼女が魁から護身用に渡されていた、あの神水だったのだ。
「ところで……」
ゆっくりと腰を起こし、皐月は足下に転がっていた霊撃棍を拾って立ち上がる。
「あの娘は……芽衣子はどうなったの? それに、あの赤い蛍の群れや、亡霊達は?」
「ああ、それね。そいつらだったら、あそこで彼が相手してるよ。確か、あんたとも知り合いなんだっけか?」
「彼……? もしかして!?」
魁の言葉に思い当たる節があるのか、皐月は急に顔を上げ、魁の指差した方に目をやった。その先にある光景を前にしたとき、彼女はしばし、息をすることさえ忘れてしまう。
広場の中央で、自分や魁、それに総司郎に代わり芽衣子と戦う一人の少年。白金色の髪と白い肌、それに燃えるように赤い瞳を持ち、傍らには漆黒の犬神を従えている。
間違いない。あれは彼だ。皐月や照瑠だけでなく、この場にいる全ての者が探していた最強の外法使い。己もまた闇の力を使役しつつ、それでも人界を護るために戦いに身を投じる宿命を抱いた、闇を用いて闇を祓う一族の末裔。
「こ、紅ちゃん……」
少年の名を呟き、皐月はしばし、彼の戦いに見惚れていた。芽衣子と、それに彼女につき従う白髪の悪鬼。その二つを同時に相手にしながら、紅は決して遅れを取ってなどいない。そればかりか、彼は圧倒的な力で悪鬼をねじ伏せつつ、徐々に芽衣子を追い込んでさえいる。
「凄ぇ……。犬崎のやつ、こんなに強かったのかよ……」
皐月の隣で、浩二がそんなことを口にした。紅が優れた霊能力者であることは知っていても、彼が戦うところを見るのは初めてなのだ。同級生の普段とは違う姿を前にして、浩二もまた驚きを隠せない。
「まったく……なんていうか、反則的な強さだよね、あれ。ここまで強いとなると、見ているこっちからしても、倒される敵の方が可哀想になっちゃうよ」
鉄扇で顔を仰ぎながら、魁もまた呆れ顔で紅の戦いを観戦している。全ての式神を撃ち尽くしてしまった今、彼には鉄扇しか武器がない。もっとも、生身で戦うことを嫌う性格を抜きにしても、今の紅の戦いに割り込んで行こうとは思わない。あそこまで力の差がはっきりしていると、返って下手な手出しをしない方が良いのではないかとさえ思えてしまう。
白髪の悪鬼が、低い唸り声を上げながら紅に爪を振り降ろす。が、それを容易く刀で捌き、紅はすぐさまお返しとばかりに斬りつける。
どす黒い気に包まれた刀身が、悪鬼の身体を斜めに切り裂いた。その軌跡に沿って、赤い蛍が血飛沫の如く舞い散り爆ぜる。刃ではなく、その身を覆う黒い気の力で斬っているのだ。
闇薙の太刀。紅の家系に代々伝わる、闇を食らいて闇を薙ぐ禁断の武器。その力は貪欲なまでに他者の魂を求め、全てを食らい尽くして己の闇に同化するというもの。故に、使い方を誤れば己が食われてしまうものの、霊的な存在に対しては絶対的なアドバンテージを誇る武器となる。
悪霊かそうでないかなど、闇薙の太刀には関係がなかった。ただ、本能の赴くままに、そこにある魂を食らってゆく。赤い蛍の変化した悪鬼であれど、それは例外ではない。人間、悪霊、それに祟り神。どんな魂でも選好みなく食す、実に悪食な武器なのだ。
このままではまずいと判断したのか、悪鬼が紅から身を離した。その口から赤い蛍を吐き出して、弾として使い牽制してくる。
だが、そんな攻撃でさえも、紅に対してはさしたる抵抗にならなかった。太刀の力を一時的に開放し、紅はその闇に放たれた蛍を捕えさせる。刀身を覆うようにして集束していた黒い気が、瞬く間に無数の触手と化して蛍を絡め取る。
「この程度か? 元は俺と似たような存在だったのかもしれないが……どうやら、自分よりも強い力の持ち主に出会ったことがなかったようだな」
赤い瞳が、悪鬼を正面に捕えていた。相手が誰であれ容赦はしない。立ち塞がるのであれば斬り捨てるのみ。一片の迷いさえもない、強固な意志。
「へぇ、なかなかやるじゃない。でも……私はまだ、あなたを諦めたわけじゃないわよ?」
悪鬼の後ろで、芽衣子がにやりと笑う。その言葉の意味するものがなにか。それを問うよりも先に、芽衣子の放った蛍が赤い刃となって降り注ぐ。
蛍のままであれば、大した力を持つわけでもない。しかし、芽衣子の中に巣食う者は、それらの姿を巧みに変えて操る術を持っている。刃と化した蛍の力は、悪鬼が弾として用いるものとは比較にならない威力を誇る。
「させるな、黒影!!」
迫る刃を前に、紅はその場から動くことをしなかった。刃の群れに紛れるようにして、悪鬼がこちらに白髪を伸ばして来ていたからだ。
ここで下手に隙を見せれば、相手の思う壺になる。ならば、こちらはあえて回避などしない。牽制さえ意味がないということを、今一度思い知らせてやる。
紅の叫びに答え、黒影が大きく吠えて炎を吐いた。亡者の群れを薙ぎ払った際に見せた、何かを焼き尽くす様な炎ではない。断続的に、青白い火球のようにして放たれた炎は、芽衣子の繰り出した赤い刃を次々と相殺する。
悪鬼の白髪を斬り捨てながら、紅は躊躇うことなく前に踏み込んだ。こちらを止める術は既に断った。ならば、後は一撃に全てを賭け、目の前の敵を殲滅するのみ。
漆黒の波動を宿した刃が、悪鬼の身体に深々と突き刺さる。その途端、刀身から溢れ出た闇が瞬時に悪鬼に絡みつき、その自由を徐々に奪って行く。
「遊びは終わりだ。貴様にいかなる力があろうと、こいつから逃れることはできない……」
刀の闇に悪鬼の身体を食わせながら、紅は素早く胸の前で印を結んだ。悪鬼はその身を多数の蛍に変えて逃げようとするが、刀の闇はそれさえも許さない。紅が印を結ぶと同時に黒い気は更なる触手と化し、逃げる蛍たちを余すところなく食らい尽くす。
「……滅」
止めの印を結んだところで、刀身から物凄い量の闇が溢れ出た。それは悪鬼の身体を完全に覆い尽くし、やがてずるずると刀の中に引きずり込んでゆく。調伏というにはあまりに禍々しく、見ている者に畏怖の念を抱かせる光景だった。
やがて、全ての食事を終えたところで、そこには刀だけが残された。あれほど魁や総司郎を苦しめた悪鬼の姿は、既にそこにない。紅の操る闇薙の太刀の力に負けて、完全に食らい尽くされてしまったのだろうか。
「さあ、残すは貴様だけだな」
落ちた刀を拾い上げ、紅がその切っ先を芽衣子に真っ直ぐ向けて言い放った。