~ 九ノ刻 合流 ~
光の射さない倉の中で、魔封じの護符が宙を舞う。地の底から呼びだされた亡者の群れを、青白い炎が次々に包み込んで無力化する。
「ふぅ……。まったく、次から次へと……。ほとんど、台所に巣食うゴキブリね」
迫り来る亡者の群れを霊撃棍で斬り捨てながら、皐月は額の汗を拭って口にした。
時間として、先ほどから十分と経過していない。その間に、彼女は八体近い亡者を倒していたが、それでも敵は次から次へと湧いてくる。赤い蛍が地を叩く毎に、まるで何事もなかったかのようにして、新たな亡者が現れるのだ。
正直、これには皐月もたまらなかった。どれほど自分の武器が優れていても、どれほど相手の知能が低くとも、数の暴力には敵わない。やがて、体力が尽きたところで、そこが即ち自分と仲間の終焉となる。
「照瑠ちゃん、援護お願い! 大元を叩かないと、このままじゃ追い詰められるわ!!」
その瞳を正面に向けたまま、皐月は自分の後ろにいるであろう照瑠の名を叫んだ。その言葉に、照瑠もまた無言まま頷いて、なにやら拳銃のようなものを取り出した。
「おい、九条! なんだよ、その銃みたいなやつ!?」
およそ、高校生の少女が持つにしては、あまりに不釣り合いな武器だ。思わず浩二が叫んだが、照瑠は返事をする代わりに、その銃口を目の前にいる亡者たちの群れに向けて、迷うことなく引鉄を引く。
衝撃も反動も、殆ど生じることはなかった。ただ、甲高い金属音のような音と共に、光の弾が発射される。その光が命中するたびに、亡者たちが呻き声を上げて膝をつく。
「皐月さんから借りたの。霊能者専用の銃だってね」
ようやく余裕を取り戻したところで、照瑠が浩二の質問に答えた。もっとも、その目は未だ亡者どもの群れに向けられており、ゆっくりと説明しているだけの時間はないようだったが。
九条神社の巫女として修業を積んでいるとはいえ、照瑠はそもそも戦うことを専門としていない。そんな彼女が放つ弾は、当然のことながら足止め程度の役割しか果たさない。例え命中させたとて、急所を確実に撃ち抜いたわけではないのだ。足を撃たれ、腕を失いつつも、亡者たちはその動きを止めることはない。
照瑠が強い力を持っていても、それはあくまで彼女の得意とする分野、ヒーリングにおいての話だ。こと、戦闘で役に立たないということは、皐月も十分に承知している。
いつまでも、亡者の群れ相手に遊んでいる場合ではない。照瑠が足を止めておいてくれている間に、こちらは敵の大元を断つ。
繰り出される亡者の腕をすり抜けて、皐月はその後ろにいる赤い蛍に狙いをつけた。そもそもは、あれが亡者を呼び出した元凶。ならば、あれを叩けば、これ以上の亡者を召喚されることもない。
霊撃棍の切っ先が、空を切る鋭い音と共に繰り出される。狙い澄ました突きの一撃が、赤く輝く蛍を捕えて打ち砕く。
「まずは一匹か……。でも、悪いけど、チマチマ潰すのは性に合わないのよね」
残る蛍たちが後退して行くのを見て、皐月は護符をまとめて取り出した。単なる悪霊の類にしては、あの蛍たちは随分と知恵が回る。それに、まるで何者かに統率されているかのように、連中の連携には無駄がない。
このまま逃がして、新たな亡者を呼ばれたらことだ。狙いさえほとんどつけず、皐月は手にした護符を蛍に向かって投げつけた。その内の数枚は虚しく地に落ちただけだったが、残る数枚が蛍を捕え、破魔の力を持つ炎で焼き尽くしてゆく。
これで半分。後は残る蛍たちを、霊撃棍で薙ぎ払えばいい。仮に、全てを倒せなくとも、数で不利になれは相手は逃げ出すだろう。およそ、知性など感じられない様な外観をしているが、そのくらいの判断であれば、あれは容易にやってのける。
「さあ……。最後の仕上げに入るわよ」
再び霊撃棍を構え、皐月は自分の呼吸を整えた。動力として用いられている水晶の力に、更に己の力を上乗せする。互いの欠点を補うようにして混合した力が、棍の表面に刻まれた梵字を赤く発光させてゆく。
消えてなくなれ。そう、心の中で叫びつつ、皐月は手にした棍を横薙ぎに払った。棍に込められた強力な霊気は、一振りしただけで霊的な風圧さえ巻き起こす。直撃を受けなかった蛍でさえ、その勢いに押されて吹き飛んだ。
これなら行けるか。勝利を確信し、更に駄目押しの一撃を放たんと皐月が踏み込む。さすがに敵わないと思ったのか、今度は蛍たちも手向かいせず、素早く後ろに下がって逃げ出した。いや、逃げ出すかに見えた。
「えっ……!?」
皐月の瞳が、一瞬だけ大きく見開かれる。逃走を試みたかのように見えた蛍たちだったが、それが誤りであったことは、彼女も既に気づいていた。
一匹ずつは、大きいものでもピンポン球サイズでしかない赤い蛍。それらが一点に集まって、今や巨大な球体を形成している。スイカ程もあろうかというボールと化した蛍の群れは、そのまま先ほどと同じように、ゆっくりと床に舞い降りて地を叩いた。
――――トン、トン、トン……。
音などしていないのに、はっきりと耳に何かが響いた。蛍の動きに呼応して、倉の床が今までになく大きく盛り上がる。地の底から溢れんばかりにして現れた影は、すぐさま半透明の亡者の姿へと変化する。
また、仕切り直しか。うんざりした表情を浮かべて霊撃棍を構える皐月。しかし、呼び出された亡者の群れたちは、そのまま彼女に襲いかかるようなことはせず、溶けるようにして一カ所に集まって行く。その中心では巨大な球体と化した赤い蛍が輝いており、再び影に戻った亡者たちを飲み込んでゆく。
「ちょっと……。マジなの、これ?」
口元は笑っていたが、皐月の目は笑っていなかった。呼び出された亡者たちは一カ所に集まり、あの赤い蛍を核として新たな怪物となっていた。
今、皐月の目の前にいるのは、実に奇怪な霊だった。その全身は、様々な人間が寄り集まって構成され、一種の樹木のようになっている。枝のように張り出した部分は、果たして腕か、それとも触手なのだろうか。その一本一本でさえも、呼び出された亡者たちの身体で作られているのだから趣味が悪い。
敵の身の丈は、既に天井に届きそうなほどに巨大だった。この狭い倉の中で、あの巨体は却って不利ではないか。そう思った皐月だったが、その考えは、敵の繰り出す一撃を避けたところで打ち消された。
数体の亡者が絡み合って出来た、巨大な触手が皐月に迫る。なんとか身を翻して避けたものの、後数秒、反応が遅れていたら危なかった。本体は鈍重で動きが遅いかもしれないが、腕として機能する触手の速度は決して侮れるものではない。
「皐月さん!!」
照瑠が叫び、怪物に向かって銃を放つ。しかし、数発の光の弾が直撃したものの、怪物は平然とした様子で微動だにしない。
「これは、ちょっとヤバいかもね……。あの幽霊どもの壁をブチ破って、中にいる蛍を潰さないと駄目ってことかしら?」
自分の頬を一滴の汗が伝わったことを感じ、皐月は油断なく霊撃棍を構えて後ろに下がる。単なる悪霊ならまだしも、ここまで強大な怪物は、自分の力だけで倒せるかどうかも定かではない。
人間樹木。そう呼ぶに相応しい体躯をした異形の怪物が、粘性の高い液体が絡みつくような音を立てながらゆっくりと迫る。右手に棍を、左手に新たな護符を握り締め、皐月もまた覚悟を決めて対峙した。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
魂の鼓動が消えて行く。
薄れゆく意識の中、弓削総司郎は、目の前の悪鬼に対してなんとか一矢報いようともがいてみた。両腕と両足、それに首にまで絡みついた髪の毛は、力で切れるものではない。ならば、全身の霊気の流れを駆使して拘束から逃れようと試みるが、どうにも身体に力が入らない。
赤い蛍の集まって生まれた悪鬼は、言うなれば強大な陰の気の塊そのものともいえた。そんな相手に捕えられれば、当然のことながら気を練ることさえ難しくなる。体内に流れる霊気の奔流を寸断され、魂さえも、氷のように冷たい悪意によって浸食される。
悪鬼の髪が、するりと伸びた。総司郎を拘束したときとは違い、その先端が鋭い針のようにまとまった。
いよいよ、止めを刺すつもりか。あの先端がこちらの心臓を貫くことはないだろうが、魂の核と呼べる部分を貫かれれば、さすがに助からないだろう。肉体よりも先に精神が滅びる。その苦痛は、身体が傷を受けたときのそれとは比べ物にならない。
何もできないまま、それでも総司郎は最後の抵抗とばかりに、己の霊気を一点に集中させ始めた。
相手が魂の核を貫いてくるというのであれば、こちらはそこに霊気を集中してやる。手足と首の自由を奪われ、身体の隅々まで陽の気を送り込むことは既に不可能。しかし、魂の中心、核と呼べる部分に陽の気を集中させることならば、辛うじて可能だ。
敵の一撃が己の身体を貫いたとき。反撃の機会はそこにある。魂を貫かれた際に、最後の抵抗として集中させていた陽の気を逆流させれば、相討ちくらいには持ち込めるはずだ。
(先生……。こんなところで、申し訳ないっす……)
そう、心の中で呟きながら、総司郎はゆっくりと全身の力を抜いた。
気が、魂の中心部へと集まってゆく。手足の感覚が無くなる代わりに、胸の中が熱く激しく躍動しているのを感じる。
束ねられた悪鬼の髪が、とうとう総司郎の胸に狙いを定めた。これで最後だ。いよいよ覚悟を決めた総司郎だったが、次の瞬間、鋭い音と共に何かが飛来し、迫り来る悪鬼の髪を切り裂いた。
「えっ……。あっ……?」
気がつくと、総司郎は髪の毛の拘束から解き放たれ、床に大の字になって転がっていた。先ほどの一撃は敵の前髪だけでなく、両手と首を拘束していた髪さえも切り裂いたということか。
霊の攻撃や霊の肉体には、当然のことながら物質的な存在は影響を与えることが難しい。ただの刀で幽霊を斬ることは不可能であり、普通の人間では幽霊の身体に触れることもまた不可能。
もっとも、そうは言っても、霊的な存在に干渉する仕掛けがあれば話は違ってくる。足の拘束も解けたところで、総司郎は訝しげな顔をしたまま起き上がる。
盲目の彼にはわからなかったが、玄関の柱に銀色の鉄扇が突き刺さっていた。その表面に経文のようなものが描かれ、霊に対する武器としても使えるという代物。そんな鉄扇を持っている人間は、この夜魅原村に潜入した者の中ではただ一人。
「大丈夫かい、総ちゃん?」
総司郎が振り向くより先に、彼の肩に手が置かれた。
「せ……先生……。俺……」
「ああ、気にしなくていいよ。総ちゃんは、よくやってくれたと思うよ。うん、ホント、マジでさ」
未だ手足の感覚が完全に戻らない総司郎に代わり、その男、御鶴来魁が前に出た。先の鉄扇は、他でもない彼の使っていた物だ。生身での接近戦を嫌う彼ではあるが、それでもいざとなれば、扇一つで悪霊を捌く。多数の式神を使役して戦うその力は、総司郎に勝るとも劣らない物がある。
「ま、それでも、俺が来なかったらちょっとヤバかったかな? その分、コイツにはしっかりとお礼をしてやんないとね……」
口元を笑みの形に歪ませつつも、そう言う魁の目は笑っていなかった。
棒立ちのまま、しかし右手だけをすっと横に伸ばし、魁は不敵な笑みを湛えたまま静かに呟く。
「食らい尽くせ……」
ともすれば、目の前の悪鬼の放つ悪意さえも、そのまま跳ね返してしまうほどに冷たい口調だった。普段の飄々とした態度は、既になりを潜めている。表向きは平静を装いつつも、明らかに怒っているのが後ろにいる総司郎にもわかった。
瞬間、魁の服の袖口から、無数の紙人形が飛び出した。護符に用いられる紙を使用して作られた、特殊な折り紙の人形たち。鶴と、人と、それから狼と……。様々な種類の式神が現れ、怒涛のように悪鬼へと押し寄せる。
無数の敵に身体を蝕まれ、悪鬼が吠えた。爪を振り回し、その身に貼り付いた式神を払いのけようとするが、その程度では魁の式神は止まらない。一体では大した力も持たない紙人形だが、彼らの真髄は集団で敵を蹂躙することにこそある。圧倒的な数の差で、敵の芯まで食らい尽くす。己が敵と認識した相手に、御鶴木魁と彼の眷属は容赦をしない。
全身から青白い煙を立ち上らせ、たまらず悪鬼は自らの身体を赤い蛍にして拡散させた。仮に再生を試みても、それが追いつかないことを知っているのだろう。悪鬼を構成していた赤い蛍は、玄関の壁や天井に残る隙間へと、それぞれが慌てた様子で散っていった。
「あちゃぁ、逃げられちまったか……。総ちゃん、大丈夫だった?」
服の袖に式神を回収しつつ、魁は首だけを後ろに傾けて総司郎に訊ねた。先ほどの冷徹な空気は既になく、普段の魁に戻っていた。
「すいません、先生。俺としたことが……相手をぶっ飛ばすことだけ考え過ぎて、油断したっす……」
「ああ、いいよ、無理しなくて。総ちゃんのことだから、たぶん少し休めば大丈夫だろうとは思うけど……それでも、かなり手酷くやられたみたいだからね」
柱に突き刺さったままの鉄扇を抜き、魁はそれを懐にしまう。肉体的な損傷は見られなかったが、それでも目の前の総司郎が消耗しているということは、魁から見ても十分にわかる。
過去の事故で光を失い、その代わりとして卓越した霊感を得るに至った総司郎。気の流れをコントロールする術に関しては、恐らく自分よりも上だろうと魁は思う。
そんな彼を、ここまで消耗させた相手なのだ。あの悪鬼の正体がなんであれ、油断のならない敵であることは確か。今回は奇襲で不意を突いて優位に立てたが、正面から戦えば、果たしてどうなるか。生身で戦うのは好まないとはいえ、恐らく無傷では済まないはずだ。
「ねえ、ところで総ちゃん」
未だ謎は多く残っていたが、魁はとりあえずそれを飲み込み、左手に持っている巻物のようなものを差し出した。もっとも、盲目の総司郎にとっては、それが果たしてなんなのか、見ることも読むこともできないのだが。
「総ちゃんには読めないと思うけど、一応、こんなもんを二階で見つけたんだよ。何かの役に立つと思って、拝借して来たんだ」
「これ……何かの巻物ですか?」
魁の差し出した巻物を手に取り、総司郎が訝しげな表情のままそれを弄ぶ。両手で巻物の感触を確かめることで、その質感から何かを感じ取ろうとしているようだった。
「ま、そいつの中身に関しては、今は後回しだ。それよりも、他の二人はどこに行ったんだ? まさか……赤い蛍にさらわれちゃったとか言わないよね」
「それは大丈夫っす。俺があの悪鬼と戦っている間に、二人はちゃんと逃げましたから。たぶん……この玄関の右手にある廊下へ逃げたかと……」
「なるほどね。こんな村で、何の力も持たない一般人だけにするのは危険かもしれないけど……まあ、状況が状況だし、仕方がないか」
口元に手を添えながら、魁は右手に伸びる廊下の向こう側に目をやった。廊下は途中でゆるやかに曲がっているようで、そこから先はどうなっているのかもわからない。ただ、これで全ての悪意が去ったわけではないことは、魁とて十分に承知している。
ここにいるだけでも、廊下の奥から随分と禍々しい気の奔流が漂ってくるのが感じられる。この屋敷が、あの赤い蛍の根城であるとするならば、どこへ行こうと安全な場所などありはしない。
「行くよ、総ちゃん。まだ、完全復活ってわけにはいかないかもしれないけど……ゆっくり休んでいる暇はなさそうだ」
「そうっすね……。あの二人、無事だといいんですけど……」
脱ぎ捨てたアロハシャツを拾い上げ、総司郎はサングラスの位置を直して頷いた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
鳴澤皐月は焦っていた。赤い蛍を核として生まれた集合霊。その厄介な攻撃の前に、思いの外に手を焼かされていた。
敵の本体は、恐らくあの赤い蛍が集まったもの。今までの戦いからも、それは間違いない。亡者は確かに蛍によって呼び出されるが、決して彼らだけで現れたことはない。その上、蛍が土や壁を叩けば、何度でもそこから湧いてくる。
そんな亡者たちをかき集め、蛍たちは一つの巨大な樹木のような怪物へと変貌していた。周りの亡者は本体ではなく、一種の霊的な操り人形なのだろう。本体はあくまで赤い蛍。そして、それを攻撃するためには、あの亡者の壁を突破することが不可欠となる。
複数の亡者が絡み合ってできた腕が、横薙ぎに皐月に襲いかかってきた。すかさず腰を縮めてかわすと、彼女の頭の上すれすれを、人の胴を二つほど束ねた厚さを誇る触手が通り過ぎる。霊に物理的な干渉ができないとわかっていても、思わず冷たいものが背中を走るのを感じてしまう。
あんな重たい一撃を食らってしまっては、恐らくただの霊傷では済まない。植物状態になるまで魂を削られてしまうか、それとも記憶まで吹き飛ぶほどに、魂に深い損傷を負ってしまうか。どちらにせよ、一発でも食らえばそれで終わりだ。
立て続けに繰り出される攻撃を捌きながらも、皐月は徐々に部屋の隅に追い詰められていった。敵の本体は動きも鈍く、先ほどからほとんど動いていない。部屋の狭さも相俟って、自由に動けているとは言い難い。
触手の重たい一撃が、真上から一直線に振り降ろされる。後ろに照瑠たちがいる以上、下手に避ければ彼女たちに当たる。
不気味に蠢く肉の塊。それが伸びて形作られた触手を、皐月は真正面から霊撃棍で受け止めた。
重い。物理的な攻撃でないにも関わらず、全身に鈍い痛みが走り、皐月はそのまま後方に吹き飛ばされる。集められた亡者たちは強大な負の力の塊となって、恐ろしいまでの霊気の圧力を放っている。
このまま戦えば、いずれは負ける。敵の急所を狙って打ち据えたいところではあるが、こうも立て続けに攻撃を繰り出されてはたまらない。
「ならばっ……!!」
続けざまに放たれた一撃を、皐月は渾身の力を込めて薙ぎ払った。霊撃棍が青白い光を纏い、複数の亡者が集まってできた触手を斬り落とす。水晶に込められた霊気と己自身の霊気。二つの陽の気を混合させた一撃は、逆に相手の霊気を押し返して斬り捨てる。
肩で呼吸をしながらも、皐月は構えを崩さずに、霊撃棍の先端を敵に向けたまま睨みつける。相手の中心部ともいえる核は、あくまであの赤い蛍なのだ。この程度の損傷で怯むほど、柔な敵でないことくらいは承知している。
「再生する前に仕留める!!」
斬り落とされた触手を蠢かせている敵に向かい、皐月の足が地面を蹴った。幸い、あの敵はこれ以上の亡者を呼ぶことができないようだ。ならば、体制を整えられる前に押しきれば行ける。
その切っ先を自分の後ろに隠すようにして、皐月は霊撃棍を脇に構えた。居合の構えだ。持てる限りの力を全て乗せ、これで相手の胴体部を核ごと切り裂く。それ以外に、あの巨大な人間樹木の怪物を倒す術はない。
だが、勢いをつけて放たれるはずだった皐月の一撃は、果たして敵の胴を斬り捨てることは叶わなかった。
「なっ……!? しまった!!」
敵の懐に飛び込もうとした皐月の脚に、数体の亡者が絡みついていた。先ほど斬り落とした触手から、分離したものだろう。その魂を完全に断たれなかったものだけが行動を再開し、皐月の後ろから襲いかかったのだ。
本体から切り離された敵の一部は、決して動くことはない。そんな常識的な考えに囚われたことが、今になって悔やまれた。霊的な存在に既存の常識は通用しない。それは自分でもわかりきっていたことなのに、なぜここにきて油断してしまったのか。
否、別に油断をしていたわけではない。ただ、自信の焦りが生んだ結末だ。相手を舐めていたわけではないからこそ、一撃の下に倒そうと気持ちが逸った。その結果、後ろへの意識が疎かになり、自ら敵の術中にはまってしまった。
人間樹木から伸びる、残り三本の不気味な触手。人間が絡み合ってできたような肉塊が、一斉に皐月に向けて放たれる。
あれを食らえば命はない。そう、頭でわかっていても、皐月は動けなかった。脚に絡みついた亡者の手から、恐ろしいまでの冷たい気が流れ込んで来る。肉体を通し、魂を直に侵蝕されて、気の流れが乱され力が抜ける。
眼前に迫る肉塊を前に、皐月は思わず目を伏せたまま顔を背けた。残念ながら、ここまでか。この仕事をしている以上、常に死と隣り合わせな経験もしてきたが、やはり人間は己の死を直視することを本能的に避けようとするものなのだろうか。
唸りを上げて、三本の触手が皐月を狙い襲いかかる。真上と、右と、それから左、あらゆる方向から攻撃を仕掛けられ、もはや避ける術はない。
「皐月さん!!」
後ろで照瑠の叫ぶ声がした。その声を最後に、皐月は今度こそ自分の命が終わりのときを迎えるのだと覚悟を決めた。
ところが、そんな皐月の考えとは反対に、敵の攻撃が彼女の身体を捕えることは決してなかった。
いったい、何が起きたのか。恐る恐る、皐月は閉じた目を開けて、正面の敵に顔を向ける。そこにあった光景が目に飛び込んできた瞬間、皐月は思わず目を丸くして、しばしそのままの姿勢で立ち尽くしてしまった。
「やれやれ……。どうにか、間に合ったようだね」
白いスーツを着たホストのような男が、なにやら鉄扇のようなものをひらひらとさせながら苦笑していた。その服の袖から放たれるのは、これまた奇妙な紙人形。鳥や獣の姿をした折り紙たちが、目の前の敵に貼りついて動きを止めていた。
いったい、これは何なのか。答えを出す暇もなく、今度は皐月の脚に絡みついていた亡者たちを、強烈な拳の一撃が吹き飛ばす。霊に物理的な攻撃は通用しないという法則を無視し、亡者たちはその顔面を醜く溶解させながら、部屋の向こう側まで転がって消えた。
「大丈夫っすか?」
皐月の隣に、今度はなにやらヤクザのような風体の男が立っていた。青を基調としたド派手なアロハシャツを着ており、その瞳はサングラスで覆われている。廃村にはいささか不釣り合いな格好といえたが、その顔は至って寡黙そのもの。男が鍛え上げられた肉体を持っていることは、服の上から見ても容易に想像がつく。
まくった袖から覗く太い腕。そこに光る梵字の刺青を目にしたとき、皐月も男がただの人間ではないということを悟った。
自らの肉体に退魔の梵字を刻み、それを媒体にして力を発動させる。道具に頼ることはなく、己の肉体そのものを武器とし戦う、幽霊を殴ることのできる人間だ。
「誰だか知らないけど、助かったわ。もっとも、呑気に自己紹介していられるような状況じゃないみたいだけど……」
脚の感覚が戻って来るのを確かめつつ、皐月は現れた男、弓削総司郎をちらりと横目で見て言った。
敵は、まだ完全に倒れたわけではない。総司郎にも、それがわかっているのだろう。わかっているからこそ、彼もまた構えを解くことなく、目の前の怪物と対峙する。
粘液の絡みつくような不快な音がして、人間樹木の化け物は、その身体を成す亡者ごと己にまとわりつく折り紙の動物達を払い落とした。切り離された亡者たちは、抗う間もなく折り紙の獣に蹂躙され、無念の表情を浮かべて消えて行く。
これはチャンスだ。皐月は再び霊撃棍をしっかりと握り締め、横にいる総司郎に目配せをした。言葉で伝えなくとも、彼もまた霊と戦うための術は知っているはず。今、この状況を利用しないで、目の前の怪物を打ち倒す術はない。
自らの身を削ることで、折り紙の獣による拘束から逃れた人間樹木。しかし、それは同時に、本体の防御力を著しく低下させることにもなる。現に、複雑に絡み合っていた亡者の群れには隙間が生まれ、そこから内部で輝く巨大な赤い蛍の姿が顔を覗かせている。
「仕掛けるわよ!!」
そう言うが早いか、皐月は獲物を狩る際の山猫のように駆け出した。その身を低く屈め、しかし決して速度を落とすことなく、触手の攻撃を掻い潜って懐に潜りこむ。そんな彼女に続く様にして、総司郎もまた拳を握り締めて怪物に殴りかかった。
青白い光を乗せた棍と、赤く光る梵字の浮かんだ剛腕。二つの攻撃が同時に炸裂し、倉の中に物凄い轟音が鳴り響く。金属製のバケツの底を貫通したような、鈍く重たい破裂音。霊的な物体が霊的な攻撃を受け、辺りに自らの気を撒き散らしたときの音だ。
皐月と総司郎。二人の攻撃によって、人間樹木の胴体部に巨大な穴が開けられた。その奥で輝くのは、亡者を呼び出した赤い蛍。怪物の本体であり、急所でもある。
「照瑠ちゃん、今よ!!」
「えっ!? は……はい!!」
突然名前を呼ばれ、照瑠は思わず固まったまま返事をした。自分がなぜ、ここで名前を呼ばれたのか。その意味を理解するのに数秒を要したが、直ぐに自分の手に握られている物の存在を思い出して真っ直ぐに構える。
金属と木。二つの部品が複雑に入り混じった奇妙な銃。霊撃銃と呼ばれるそれを構え、照瑠は慎重に狙いを定めた。
自分は戦いのプロではない。ましてや、拳銃などまともに握ったことさえない。それでも、今、この場で怪物に止めを刺せるのが自分しかいないとすれば、躊躇っている暇はない。チャンスは一度。しかし、的は巨大。たとえ素人であったとしても、あれならば外す方が難しい。
甲高い金属音のような銃声が、倉の中に響き渡った。それと同時に、照瑠の手に握られた霊撃銃から、青白い光の弾が放たれる。その光は吸い込まれるようにして怪物の胴へと向かい、その中で輝く赤い蛍を、一撃の下に打ち抜いた。
悲鳴。絶叫。その、どちらとも取れる壮絶な雄叫びを上げ、怪物の身体が瞬く間に崩れ落ちてゆく。核となる赤い蛍を失って、その身体を保つことができなくなったのだろう。
怪物の身体を形作っていた亡者たちが、そのまま溶けるようにして地面の中へと消えていった。並みの浮遊霊と比べれば強い力を持っていたのだろうが、統率者を欠いた今となっては、彼らなど烏合の衆に過ぎなかった。
「ふぅ……。なんとか終わったわね……」
額の汗を拭きながら、皐月がほっと溜息をついた。かなり消耗しているのか、霊撃棍を杖のようにして体重を預けている。その横では彼女を助けた総司郎もまた、肩で息をしながら呼吸が整うのを待っていた。
「お二人とも、ご苦労さん。特に総ちゃんは、連戦お疲れ様って感じかな?」
戦いが終わったところで、先ほどの白いスーツの男が手を叩きながら歩いてきた。その手に古びた巻き物を握ったまま、実に飄々とした態度を崩さない。あれだけの折り紙の獣を操っていながら、男の方には疲れのようなものがまったく見えない。
「御鶴木先生! 無事だったんだすね!!」
皐月の後ろで、照瑠と浩二に守られるようにしていた雪乃が叫んだ。彼女の心配に反して、その男、御鶴木魁の身体には傷一つない。二階で悪霊の群れに囲まれたことなど、彼にとっては些細な出来事でしかなかったかのように。
「そっちも、無事でなによりだよ。ところで……なんか、新しいメンバーが増えているみたいだけど、彼女たちは何者なの? そっちのお嬢さんは、前にもどこかで会った気がするけど……もう一人のお姉さんは、初めて見る顔だよね」
皐月と照瑠の顔を交互に見比べながら、魁は手にして鉄扇でひらひらと顔を仰ぐ。照瑠とは以前に東京で起きた事件で顔を合わせているが、皐月とは今回が初対面だ。
「鳴澤皐月よ。そういうあなたこそ、何者なの? 助けてくれたのは感謝するけど……いきなり現れて女性に名前を訊くなんて、随分と無粋な人なのね」
「これは失敬。俺としたことが、化け物を追い払うのに夢中になって、女性に無礼を働いてしまうとはね……」
皐月の鋭い口調にも、魁は何ら臆することなく笑って答える。冗談なのか本気なのか、どうにも掴めない男だ。もっとも、この呪われた廃村でこれだけの余裕を見せられる辺り、先ほどの戦闘から判断しても、それに見合った実力を持っているのは確かなのだろうが。
伸ばした霊撃棍を収納し、皐月は魁を横目に見ながら浩二と雪乃の方へと振り返った。魁の素性や目的、その力なども気になるが、今はそれ以上に彼らがここへやってきた経緯を知ることが重要だ。単に追いかけて来たというだけでは、この村を探し当てられた説明がつかない。
「とりあえず、お互いに状況を整理した方がよさそうね。あなた達が、どうしてこの村にやって来れたのか。まずは、そこから教えてくれないかしら?」
皐月の顔が、にやりと笑う。疲労を見せないようにしているのは、彼女の強気な性格故か。
「俺も、それには賛成だね。ここが敵地である以上、互いに情報の出し惜しみをしても意味はないと思うしさ」
もっとも、互いに手に入れた情報が、本当に役に立つ物であればの話だけど。そう、心の中で呟いて、魁もまた鉄扇を懐にしまった。
「それじゃ、最初はそっちから話してくれないか? 俺たちはこの村に来たばっかりで、正直、状況がよくつかめていない。その点、そっちは先に来てたんだから、何か知ってることだってあるんじゃないの?」
探る様な視線で、魁は再び皐月と照瑠を交互に見る。そう言われても、何から話したものだろうか。二人はしばし顔を見合わせて考え込んでいたが、やがて意を決したのか、照瑠が静かに頷いて話し出した。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
高台に、陰の気を含んだ風が吹き抜ける。
三柱の鳥居を構えるその場所に、一人の青年が佇んでいた。青年の足下にいるのは、首に髑髏の鈴をつけた一匹の黒猫。その毛並みはタールを塗りたくったかのような光沢を持ち、艶やかながらもどこか異質で薄気味の悪い雰囲気を漂わせている。
風の音に合わせ、高台にはいつしか数匹の赤い蛍が姿を現していた。一匹、二匹、その数が増えるにつれて、周囲に漂う陰の気もまた濃さを増してゆく。
「待っていましたよ……」
物影から姿を現した女性に、青年は微笑みかけながら呟いた。一見して優しそうに見える表情をしているが、その眼差しだけは冷徹だ。どこか刺すような鋭さと、氷のような冷たさを併せ持っている。
「とりあえず、囮を誘い込むことには成功したわ。後は、それに釣られて生贄が動き出してくれればいんだけど……」
青年の傍まで歩み寄ったところで、女性が感情のこもらない口調で告げた。その姿は、廃村の中にある三柱の鳥居を背景にするには、いささか不釣り合いな都会的なもの。鳴澤皐月の助手でもある、周防芽衣子だ。
「でも、本当にこんなことで、生贄が引っ掛かるのかしら? 彼がこの村にやってきたのは知っているけど……あれから、私はまったく彼の姿を見かけていないわ」
疑惑の眼差しを向けながら、芽衣子は問い質すようにして青年に言った。その口調からは、やはりかつての明るさはない。天真爛漫で、それでいて少々ドジな一面は、完全に彼女の中から消え去っている。
いったい、彼女はどうしてしまったのか。その答えは、目の前の青年も知らないこと。
否、本当は知っているのだ。ただ、青年にとって興味があるのは、今の彼女の行動と考え。もっと言ってしまえば、彼女の≪中にいる者≫の思考だけである。それ以前の彼女がどんな人間だったのか。そんなことは、青年にとっては取るに足らないことだった。
「彼は現れますよ。なにしろ、この村には彼以外にも、その関係者が数多く集まっているのですからね」
弁解さえせずに、青年はきっぱりとした口調で言い切った。それでも怪訝そうな態度を崩さない芽衣子に、青年は更に言葉を続ける。
「ただし……彼は、僕から見ても、かなり警戒心の強い人間です。それに、頭もそこそこ切れるようですし、我々のような者に対する対抗手段も持っている。下手に動いて墓穴を掘れば、あなたの方が危険に晒されるかもしれませんよ?」
「どうでもいいわ、そんなことは。私はただ、あの人を蘇らせるための依代が欲しいだけ。あの人と同じ力……あの人と同じ身体……。それを持った者が現れるのを、ずっと、ずっと待っていたのよ……」
「そうですね。しかし、そうは言っても、彼を誘い出すのは容易なことではありませんよ。関係者を村の中に引き込んだところで、彼が自分から接触を試みるとは思えませんね。むしろ、自分が狙われていることを知ったら、彼は自らの身を隠して行動するという選択をするでしょう」
「だったら、どうすればいいの? 彼や、その関係者をここへ誘い出してくれたことには感謝する。でも、それだけじゃ、まだ足りない……」
芽衣子の顔に、小さいながらもはっきりと焦りの色が見えた。時間がないというよりは、この機会を絶対に逃したくない。そんな感情が見て取れる。
「わかりました……。では、こうすればどうでしょう? 彼の関係者が一同に集まったところを見計らい、改めて彼らを襲撃するというのは? 騒ぎが大きくなれば、きっと彼も現れますよ」
「そんなこと言って、現れなかったらどうするつもり? 折角の囮が死んでしまっては、彼をおびき出すことは難しくなるわ」
「それは心配無用です。さすがに彼も、自分の仲間を見捨てるほど薄情な人間ではありませんよ。ただし……彼に仲間の危機が伝わるよう、少々派手に暴れてもらう必要はあるかもしれませんけどね」
青年の口が、三日月の形にきゅっと歪んだ。その微笑みに、優しさなどは欠片もない。邪悪で狡猾。獲物を狙う前の蛇を思わせる、絡みつくような不快な笑みだ。
「わかったわ。だったら、私は頃合を見計らって連中と接触する。その前に、厄介な連中を何人か始末しても構わないわよね? 後は、彼が姿を現したら……そのときは、好きにさせてもらうわ」
「ええ、どうぞご自由に。しかし、くれぐれも気をつけて下さいね。彼はあなたが今までに出会った、どの人間よりも強いですよ」
ただし、僕のことは除いてですが。そんな一言を心の中で付け加え、青年は去りゆく芽衣子の後ろ姿を静かに見据える。
芽衣子の中に潜む者。その力の強さは、青年も十分に承知している。しかし、そんな彼女が全力でかかったところで、その想いを遂げることは難しいだろう。いかに彼女の力が強くとも、それはあくまで霊的な存在として見た場合のこと。闇を操り、霊を狩る側の人間からすれば、彼女もまた狩りの獲物でしかないのだから。
「ネエ、紫苑……」
突然、青年の横から声がした。瞳だけを動かして横に目をやると、そこにはいつの間に現れたのだろうか。中華服に身を包んだ小柄な少女が、感情のない眼差しを芽衣子の消えた闇の中へと向けていた。
「アノ女、本当ニ行カセテ良カッタノ? アイツ、彼ヲ生贄二捧ゲルツモリ……。ソウナッタラ、紫苑ノ願イ、叶ワナイ……」
片言の日本語で、少女は青年に語りかける。もっとも、青年はその言葉を意に介さず、表情を変えることもない。ただ、どこか自信に満ち溢れた顔で、淡々と少女に語って聞かせる。
「まあ、今は僕も、彼女に利用されているふりをしていましょう。確かに、彼女は現世を生きるための肉体を手に入れたようですが……それだけでは、僕の足下にも及びませんよ。あの少年を相手にしても、その事実は変わりません」
「ソレハ、私モワカル。デモ……万ガ一、彼女ガ勝ッタラドウスルノ?」
「そのときは、僕の見込み違いだったというだけの話ですね。あの少年……犬崎紅とか言いましたか? 彼には確かに興味がありますが、それは僕の与えた舞台で彼が生き残ったらの話です。もしも、彼が途中で倒れるようなことがあれば……それは、あの少年が僕の奏でるオペラの主役に相応しくなかったというだけですね」
「ソウ……。ダッタラ、コレカラ私タチ、ドウスレバイイ?」
「とりあえずは、まだ様子見ですね。あなたには引き続き、彼らの監視を頼みます。場合によっては、彼らとあの女が遭遇しやすいように、お膳立てをしてくれても構いません」
「是、紫苑。デキルダケ、ヤッテミルヨ……」
その身体を決して動かさず、口だけを人形のよう動かして、少女は無機的な返事をした。中国語が混ざったその口調も相俟って、彼女の喋る声は、まるで機械が返事をしているようだ。
――――チリン、チリン……。
高台に吹き上げる風が、少女の首につけられた髑髏の鈴を揺らす。その音を横耳に、その青年、真狩紫苑は、ゆっくりと後ろへ振り返る。
三本脚の、巨大な鳥居。いつ、誰によって建てられたかも定かではない、酷く奇妙な建造物。しかし、その利用法に関しては、紫苑もまったく知らないわけではない。この地を始めて訪れたときから、薄々と感じていたことはある。
「しかし……前々から思っていましたが、興味深い場所ですね、ここは。実は僕も、この鳥居には非常に強く惹かれるものがあるんですよ。この下に潜む異形の者。それを本当に呼び出すことができるのであれば、それは僕にとっても、計画を進めるための新たな発見となる……」
「新タナ発見?」
「そうですよ。異界と異界を繋ぎ、向こう側の世界の住人を呼び出す儀式。もし、それが本当なのであれば、是非ともこの目で見ておきたい」
どこか遠くを見るような瞳で、紫苑は目の前にある巨大な鳥居を見上げて呟いた。そびえ立つ鳥居の下からは、何やらどす黒い気が蠢いているのを感じさせる。もっとも、そんな禍々しい負の霊気さえ、彼にとっては心地よいそよ風のようなものでしかないのだが。
「ねえ。そう思いませんか、マオ?」
穏やかに語りかけるような口調になって、紫苑は自分の顔を隣にいる少女へと向けて訊ねた。だが、そこには既に、返事をすべき少女の姿はない。代わりに一匹の黒猫が、無機質な鳴き声を上げて答えただけだった。