~ 逢魔ヶ刻 秘祭 ~
黄色い蛍は、現世を彷徨う迷える魂。
青い蛍は、常世へ向かう清らかな魂。
そして……赤い蛍は、暗闇の世界からやってくる死の使い。
――――『夜魅原村の伝説』より
赤い蛍に近づいてはいけないよ。
それが、有澤雛が物心ついたときから聞かされてきた言葉だった。
A県夜魅原村。昔ながらの農村地帯であるこの村では、他の場所にはない一風変わった伝説がある。なんでも、お盆の時期に赤い蛍がたくさん飛ぶと、それは災いが訪れる前触れなのだとか。故に、赤い蛍には近づいてはならず、それらの後を追ってはならないとされていた。
正直なところ、幼い頃の雛は、そんな話を半信半疑にしか聞いていなかった。確かに、夏になるとこの村では、たくさんの蛍の姿を眺めることができる。黄色いものが多かったが、ごく稀にぼんやりと青白く光るようなものもいて、それを見たことを祖母に伝えると、たいそう喜んでもらえたことを覚えている。
祖母の話では、青い蛍は盆の日にあの世からやってきた、ご先祖様の魂ということだった。彼らは盆の日にだけ現世を訪れ、それが過ぎると再び常世へと戻って行く。その際に、彼らは青い蛍の姿を借りて、この村の高台に設けられた鳥居をくぐって行くというのだ。
この話を聞いたとき、雛は自分がとてもありがたいものを見たような気がして、なぜだか知らないが無性に嬉しくなった。だが、同時に赤い蛍の噂には、ますます懐疑的になってもいった。
そもそも、赤い蛍など、雛は生まれてこのかた目にしたことなど一度もなかった。黄色い蛍は毎年飛ぶし、運が良ければ、青い蛍が飛んでいるのも見ることができた。が、伝説にある赤い蛍だけは、どうしても見ることができなかった。
あんなものは、年寄りが子どもを戒めるために作ったお伽話だ。そんな風に考えたこともある。大方、珍しい蛍を追って村を覆う山々の中に迷い込み、子どもが事故に遭うのを防ぐために作られたもの。蛍を追って遠くへ行かないようにするために、あえて怖い話の要素を加え、森から遠ざけようとしているだけだ。そう、今までは思っていた。
夕暮れ時の風が、雛の頬を撫でるようにして吹き抜ける。夏場とはいえ、山の気候は変わり易い。それは村の中にいても同じことで、山の向こう側から大きな入道雲が顔を覗かせていた。
この分だと、一雨降るかもしれない。そう思った矢先、雛の目の前を淡い光がすっと通り過ぎた。
「あっ……!」
気がついたときには、それは既に目の前から消えていた。しかし、それでも雛は、その光の正体がなんであるか、はっきりとその目に焼き付けていた。
「赤い……蛍……」
祖母の口から語られた、他愛もない昔話。幼い頃、決して後を追ってはいけないとされた、死の使いとされる赤い蛍。
光りの消えた方向に目をやると、そこには既に、何も見ることはできなかった。流れる沢と、自分のいる道に挟まれるようにして、背の高い草が幾重にも生えて揺れている。その合間を縫うようにして、大小様々な黄色い光が、ちらちらと顔を見せ始めている。
夏の日の夜魅原村は、蛍がよく飛ぶことで有名だ。このような景色は、雛も生まれたときから随分と目にしてきた。黄色く輝く光が尾を引きながら飛ぶ様は、毎年見ているにも関わらず、なぜか惹きつけられるものがある。
だが、そんな見慣れた光景であっても、今年のそれは去年までのそれとは少しだけ違っていた。
「あっ……。また、光った……」
赤い光が、草むらの中で微かに光った。ほんの数秒のことだったが、それでも雛は見逃さなかった。
この村では死の使いとされ、忌み嫌われている赤い蛍。雛は既に十六歳だったが、この歳になるまで赤い蛍を見ることはなかった。赤い蛍はあくまで御伽話の中の存在。単なる伝説に過ぎないと思っていた。
そんな蛍が、今日だけでも二回、雛の目に映った。もし、これが幼い頃の自分だったら、真っ先に家へと逃げ帰っていただろう。そして、震える声で祖母に泣きつき、赤い蛍を見たことを報告したはずだ。
草と草、ほんの微かな隙間を縫うようにして、黄色い光に混じり赤い光が宙を舞う。ここ数日の間でも、雛はこんな光景を、村のあちこちで目にしていた。
赤い蛍は伝説ではなかった。最初は少しばかり戸惑ったが、慣れとは恐ろしいものである。村の大人が騒がないのをいいことに、雛もいつしか、赤い蛍の存在を受け入れている自分がいるのに気がついた。必要以上に怖がることはしなかったが、同時に追いかけるわけでも手に取って見るわけでもない。ただ、日常の光景として、その存在を受け入れた。
もっとも、そんな雛自身が気づかないだけで、村の大人は影で噂くらいしていたのかもしれない。なにしろ、この村の言い伝えでは、赤い蛍が多く飛ぶのは凶事の前触れとも言われているのだ。年寄り達が大騒ぎしなかったのも、単に村の住人達を、不安にさせたくないという気持ちの現れであると言えなくもない。
宵闇の迫る村の道を、雛はそんなことを考えながら歩いて行った。この時間、村の男たちは仕事を終え、既に家路についている者が多い。畑仕事をしている者もほとんどおらず、その日の夜を過ごす仕度にとりかかっている頃間。
昼と夜が交差する、なんとも言えぬ不思議な時間。世界が入れ替わろうとしているこの瞬間が、雛は無性に好きだった。
やがて、村の真ん中を抜ける通りを抜けたところで、雛の目の前に大きな門が現れた。その向こう側にあるのは、村一番の有力者の家。門の横に備え付けられた表札には、月宮という文字が書かれている。
月宮家。この夜魅原村において、彼らに逆らう者は存在しない。彼らの一族は、村の中でも特別な存在だ。その門の大きさ、屋敷の大きさからして、山奥の村にあるまじき富を抱えているのは言うまでもないが、彼らの存在が特別視されるのは、それが理由ではない。
夜魅原村の住人たちが月宮の家の人間を畏怖するのは、一重にその血筋が成せる業だった。彼らの家系には、時として普通の人間とは異なる容姿を持った者が生まれることがある。それは村の人間にとって生き神のような存在であり、故に月宮家は、生き神を産む家系として村の頂点に君臨しているのだ。
雛が門の扉に手をかけると、それは重そうな見た目に反し、いとも容易く彼女のことを受け入れた。ぎぃっ、という木の軋む音がして、雛はそれに合わせて屋敷の中へと足を踏み入れた。
「ただいま帰りました……」
そっと辺りを見回すと、屋敷の中は、既に夕食の支度に追われる女中達の姿でいっぱいだった。雛は手にしていた小さな包みをその中の一人に渡すと、自分は調理場の方に向かって歩いてゆく。
幼い頃から、雛はこの月宮家で、半ば住み込むような形で働いていた。別に、彼女が望んだことではない。ただ、自分の家が月宮の家に仕える家系であったため、仕方なく働いているだけのことだ。もっとも、今ではそんな仕事でさえも、彼女の生活の一部として完全に溶け込んでいたが。
それに、雛にとって嬉しかったことは、この月宮家での暮らしがそこまで窮屈なものではなかったということだ。確かに規律は厳しいものがあったが、そんなことは自分の家にいても同じである。それに、彼女は自分の家の者だけが任される、ある仕事をするときが最も楽しみで仕方がなかった。
調理場で食事の乗った盆を受け取ると、雛はそれを持って屋敷の地下へと続く階段を下った。階段に使われている木は古く、灯りの類はまったくない。この暗闇の中、ほとんど手探りで食事を運ぶなど、慣れがなければ誰にでもできることではない。
階段を降り、しばらく進んだところで、雛の目の前に木製の格子が現れた。格子の一部は扉のようになっており、雛は胸元から取り出した鍵で、それを封印している南京錠を開ける。
錠前を外し、格子の中へと入ってゆくと、そこは随分とひんやりした空間だった。先ほどまであった木製の壁はいつしかなくなり、壁面はゴツゴツとした岩で覆われている。
この土地ができたときに、自然に生まれた地下空洞。それを利用した、天然の通路と言った方が正しかった。
吹き抜ける風が、音を立てて雛の横を通り過ぎてゆく。外の蒸し暑さに比べると、ここはまるで冬のように寒い。いつ来ても気温が変わらないため、季節感さえも喪失してしまいそうな錯覚に陥る。
そんな暗闇の奥に目をやると、そこには一筋の淡い光が顔を覗かせていた。先ほどから、微かに洞窟の中を照らしていたものだ。あれがなければ、さすがの雛とてこうも器用には歩けない。完全な暗闇になってしまえば、右も左もわからなくなってしまう。
光に導かれるようにして、雛は食事の乗った盆を片手に進んでいった。やがて、その光が一際強くなったところで、雛の目の前に新たな格子が現れた。
「やあ、雛。待ってたよ」
格子の奥から声がした。声は男のものであり、しかも随分と若い。
「お食事を、お持ちいたしました……」
男の言葉には答えず、雛は畏まって盆を置いた。格子の下の部分には細長い隙間ができており、そこから食事を運び入れることが可能になっている。が、さすがに人の出入りできるような隙間はなく、その奥にいる人間が、ここを通って外に逃げ出すことはできない。
差し出された食事を受け取ろうと、格子の中にいた者が雛の側にやってきた。淡い蝋燭の光に照らされて、その姿が露わとなる。少年だ。
「そんなに畏まらなくてもいいんだよ。僕にとって、雛はいつまでも雛でしかないからね」
格子の中の少年が、優しく微笑んだ。雛はそれに、無言のまま頷いて返事をする。心なしか、顔が妙に火照っているような感じがして、雛は少しばかり俯いたまま少年を見た。
二人が顔を合わせたのは、雛が十二歳になったばかりのこと。この村で、大人の仲間入りをして、一族の仕事を任せられる歳を迎えたときのことだ。それ以来、雛は燈馬の従者というよりは、友人のようなつき合い方をしてきていた。
白い、女のような肌が、橙色の蝋燭の光に染まっていた。知らない者が見たら、こんな暗い場所に閉じ込められていたが故に、このような肌の色になったと思うだろう。
だが、雛は知っている。少年が、生まれつき肌の色が白く、まともに太陽の下を歩くことさえできないことを。色の抜けた髪と、燃えるように赤い瞳もまた、彼が生まれながらにして持っていたものであることを。
お白様。村の人間は、彼のことを畏敬の念を込めてそう呼んだ。ごく稀に、月宮家の者の中に生まれる、先天的に身体の色素を失った人間のことだ。雛の目の前にいる少年、月宮燈馬もまた、そんなお白様の一人である。
彼のような存在は、この夜魅原村では生き神とされて敬われてきた。彼が日の当らない洞窟のような場所にいるのは、一重に日中の太陽の光から身を守るため。強過ぎる陽の光が毒となる彼には、このような洞窟の方が過ごしやすい。
彼を閉じ込めている格子に関しても、これはむしろ、村の者が容易に彼に触れるのを防ぐためであるとされていた。現に、昼間は監禁同然の暮らしをさせられているものの、夜になると外出が許されることもある。無論、そのほとんどが村の式典、儀典のような場合に限られてはいたが、罪人のような扱いを受けているわけではない。
「ねえ、雛」
食事を摂る箸を休め、燈馬が訊ねた。
「そろそろ、お盆の時期だと思うけど……村の様子、どうだった?」
「うん。そんなに変わった様子はなかったよ。今年もまた、≪魂送り≫の準備は順調に進んでいるみたい。ただ……」
「ただ?」
「私……今日、また赤い蛍を見たの。河原の近くの道を通ったとき、二匹ほど……」
「そうか……。やっぱり、≪白禊≫を行う必要があるのかもしれないな……」
少年の顔に、一瞬だけ影が射す。その口から出た白禊という言葉を聞いた雛もまた、何も言えずに口を噤んだ。
夜魅原村では、お盆の際に魂送りという儀式を行うのが通例となっている。村の男連中が家々を練り歩いて挨拶し、その家を訪れていた先祖の霊と共に、山の上にある社へと向かう。そして、社の中央にある鳥居を通して、先祖の霊を再び常世へと帰すのだ。
だが、そんな魂送りの儀式には、同時に決して見てはいけないとされる禁断の儀式も存在した。
白禊。先ほど、少年の口から出た言葉である。
死を意味する赤い蛍は、この村では災厄の前触れだ。そのような蛍が例年にも増して多く飛ぶ。そんな年は、特別な禊をする必要がある。お白様と呼ばれる月宮家の人間の力を用いて、村を舞う死霊を清め、他の魂同様に鳥居を通して常世へ帰すのだ。
儀式の全容は雛も知らない。燈馬であれば知っているのかもしれないが、それを無闇に語るのは、この村では御法度とされていた。儀式の全てを知る者は、この村で代々祭事を執り行う一族、安曇家の一部の人間だけだ。
お白様を産む月宮家と、その力を持って祭事を執り行う安曇家。そして、それらの一族に仕えることで、村の人間と二つの家との橋渡し的な役割を担っている有澤家。それらの人間の力を持って、この村はこれまで栄えて来た。この三家に逆らうことは、村の中で孤立することと同義。故に、燈馬は元より雛でさえも、村の中では一目置かれる存在である。
「ねえ、燈馬兄……」
昔から慣れ親しんだ呼び方で、雛は燈馬に訊ねた。
「燈馬兄は、白禊について知ってるの?」
「ああ、知ってるよ。でも、詳しく話すことはできないな。儀式について知っていいのは、御三家の当主となる人間と、僕のような生き神だけだ。それは、昔からこの村の中で変えてはいけない、絶対の約束みたいなものだからね」
「うん、わかってる。でも、私はやっぱり気になるの。村の人達が話している、白禊についての伝説が……」
雛の顔が、力なく下に向けられた。それを見た燈馬もまた、彼女を気遣うような目線を送って手を伸ばす。だが、その手は頑丈な木製の格子に遮られ、燈馬は出かかった言葉を静かに飲み込んだ。
この村に伝わる、白禊についての言い伝え。そのくらいなら、雛も昔から聞かされている。なんでも、白禊を経て神域に達したお白様は、そのまま神の世界へ魂を案内する導き手となるらしい。そして、常世と現世の狭間を守る神の一部となり、永遠に生き長らえることができるという。
初めてこの話を聞かされたとき、雛は半信半疑だった。いくらなんでも、人間が神の世界に旅立ってしまうなど、そんな話は荒唐無稽すぎる。確かに燈馬は生き神のような扱いを受けていたが、これといって神通力のようなものがあるわけでもない。
だが、白禊によってお白様が人間でなくなるということは、どうやら本当のことらしい。以前、自分がまだ物心ついたばかりの頃、雛は一度だけ、白禊に向かうお白様の姿を見たことがある。
あのとき、まだ幼い子どもだった自分の前を、一瞬だけ通り過ぎたお白様。白金色の髪の毛を腰まで伸ばし、燈馬と同じ赤い瞳と白い肌を持ち、ゆっくりと社に続く石段を昇っていた。
あの、幼き日に見たお白様がどうなってしまったのか。残念ながら、彼の消息については何も知らない。周りの大人は「あのお方は神の一部になられた」と言うだけだったし、それは雛が燈馬の世話をするようになってからも同じだった。燈馬も燈馬で、このことだけは、雛について話すのを頑なに拒んでいた。
誰も知らない、知ってはいけない白禊。そんな訳の分からない儀式によって、燈馬が目の前からいなくなってしまう。それが、雛にはたまらなく辛くて仕方なかった。
自分が月宮家の仕事をするようになってから、燈馬は雛にとって数少ない、心を許せる話し相手だった。いや、単なる話し相手などではなく、その感情は時を経て、だんだんと恋慕のようなものへと変わっていった。
燈馬が自分の前から消えてしまう。それは雛にとって酷なこと。村のためと思っても、これから先、永遠に燈馬と会えないかと思うと、悲しくて涙が溢れてくる。
「雛……」
格子の隙間から伸ばされた手が、雛の頭にそっと置かれた。
「確かに白禊を経て、僕は神の世界へ行く。でも、それは永遠のお別れじゃない」
細く、繊細な指先が、雛の髪の毛を優しく撫でた。その幽霊のような外見とは異なり、燈馬の中を流れる血は、とても優しく温かい。
「僕は、神と一緒になることで、未来永劫この村を見守り続けることができるんだ。勿論、雛のことだってそうさ。だから、そんなに悲しまないでくれないか。あまり人の世に未練を残すと、儀式そのものが失敗することもあるみたいだからね」
燈馬の言葉に、雛は泣きながらも力なく頷いて返事をした。そんなことは、言われなくともわかっている。ただ、それでも人は時として、我慢できない感情というものが存在する。
再び溢れだそうとした涙を飲み込んで、雛はそっと立ち上がった。これ以上は、燈馬の前にいてはいけない。ここで彼の行為に甘えてしまっては、二度と抜け出せなくなってしまう。
自分はあくまで、月宮家に仕える一人の人間でしかない。生き神として崇められる燈馬とは、初めから存在の格が違うのだ。
そう、自分に言い聞かせるようにして、雛はそのまま薄暗い地下の道を歩いて行った。帰り際、燈馬が後ろから何かを叫んだような気がしたが、雛はそれさえも無視して走り去った。
本当は、もっと燈馬と話がしたい。自分の想いだって伝えたいし、彼の気持ちも聞いてみたい。
だが、例えどんなに願ったところで、それは叶わぬ願いなのだ。人と神が一緒になるなど、それは決して許されざること。この夜魅原村において、それは万死に値する絶対の禁忌なのだから。
「燈馬兄……。私……どうすればいいの……」
入口の格子にもたれかかるようにして、雛はぽつりと呟いた。しかし、そんな彼女の言葉に答えてくれるような者は、薄暗い闇の中には誰一人としていなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
魂送り日は、幸運なことに晴天に恵まれていた。昨日のように夕立に見舞われることもなく、空には満点の星が輝いている。
村の中央にある広場には、巨大な篝火が焚かれていた。その炎を取り囲むようにして、村の人間たちが宴の準備を始めている。
宴を用意するのは、この村ではもっぱら女の仕事だ。魂送りで家々を練り歩くのは男の仕事故に、女は彼らの帰りを待ち、先祖の霊に快く常世へと帰ってもらうための用意をする。
ほどなくして、家々を回っていた男たちが、篝火の焚かれた広場に戻ってきた。彼らの先頭に立つ宮司のような男は、この村で代々儀式を執り行う家、安曇家の当主だ。村の人間の中でもかなりの長身で、厳格な風貌と相俟って、見る者に無言の威圧感を与えている。
男の手にした杖が振られ、その先に着いている大小様々な鈴が鳴った。その音に合わせるようにして、後続の男たちが一斉に足を止めた。
安曇家の当主が振り返り、男達になにやら指示を出す。その言葉に従い、他の者たちは銘々が、その背に背負っていた荷を降ろした。
男達が背負っていた荷物。それは藁で作られた巨大な人形だった。人形のあちこちには護符が貼られ、それが風にたなびいて揺れている。
顔に当たる部分には、これは当て布のような物だろうか。まるで目隠しをするかのように、一枚の布が被せられている。布の中央には、これまたなにやら赤い文字が書かれ、その人形の異質ぶりを際立たせていた。
この村に伝わる盆の儀式、魂送り。それは、巨大な藁人形を背負った男達が、村の家々を回って護符を集めるという奇妙なものだった。護符はあらかじめ安曇家の人間が配っていたものだが、それに自分の家の名字を書くのは家主の仕事になる。
家主によって名字を書かれた護符は、言わば先祖の魂の依代のようなものだった。この護符を、男達が背負っている巨大な藁人形に貼ることで、先祖の霊を人形の中に宿らせる。そして、彼らの魂が入った人形を広場まで運び、そこで共に宴を楽しみ、最後は山の上の社にて焚き上げるのだ。
「やれやれ……。毎年、この仕事をやってはいるが……今年の魂送りは、一段と疲れたわい」
小脇に人形を抱えたまま、広場に戻った男の一人が言った。顔に刻まれた皺の多さから、男が決して若くないことは容易に想像できる。こんな歳になってまで、自分と同じほどの大きさの人形を背負って家々を歩く。彼でなくとも、愚痴の一つくらいこぼしたくなるのは自然なことだろう。
「まあ、そう言うな。今年は去年とは違って、赤い蛍が多く飛んだ年なんだ。この程度でへばってちゃ、白禊の時間まで持たないぞ」
先程の男の肩を叩き、別の男が笑った。こちらも歳は同じくらいなのだろうが、少しばかり身体つきがいい。年齢に反して、若者にも負けない体力の持ち主であることが窺える。
背負ってきた人形を広場に並べ、男達の手に杯と酒が配られた。宵闇の中、篝火の炎に照らされて、彼らは一時の談笑を楽しむ。それ以外には、特に何かがあるわけでもない。儀式的な宴である魂送りの中で、唯一、彼らが一人の人間に戻れる時間でもあった。
宴もたけなわになった頃合を見て、雛は燈馬の姿を探した。お白様として村民から崇められている燈馬は、宴の席でもその中心にいる。彼の周りには月宮、安曇、そして雛の父親でもある有澤家の当主の三人が、まるで燈馬の身を守るかのようにして囲っている。
いや、あれは実際に、燈馬のことを守る意味もあるのだろう。燈馬はこれから、白禊の儀に向かう大切な身体。それを心ない村人の誰かによって穢されては、儀式そのものが失敗に終わる可能性もある。
以前、まだ幼い頃に見た白禊の儀へ向かうお白様の姿を思い出し、雛は今の燈馬にそれを重ね合わせていた。
白金色の髪を腰まで伸ばし、燈馬と同じ白い肌をした細身の青年。あのときのお白様とは違い、燈馬は髪を短く切りそろえている。が、その赤い瞳は変わらないようで、どこか儚げに遠くを見つめているようにも思われる。
そこまで考えたとき、雛は唐突に自分の肩を叩かれて、ハッとした表情になり後ろを向いた。見ると、そこには彼女の母が立っており、その手には皿に乗せられた供物のような物が乗せられている。
自分の役割を果たすときが来たことを知り、雛は無言で頷いた。母の手から皿を受け取り、そのまま燈馬の前に歩み出る。そして、深々と頭を垂れて彼の前に跪くと、手にした皿を燈馬の前に置いて顔を上げた。
白禊へ向かうお白様は、清めの済んだ物しか口にしてはならない。それも、その日に採れた新鮮な果物に限るとされ、生臭物の類――――要は、肉や魚のことである――――は、触れることさえ許されない。
実際に供物の清めを行うのは安曇家の人間であったが、それをお白様に運ぶのは有澤家の人間であると決まっていた。安曇はあくまで儀式を執り行い、有澤はお白様の世話をする。そう、昔から定められていたからだ。
「どうした? もう、下がって良いぞ」
燈馬の右側に座っている、厳めしい顔の男が雛を睨んだ。その言葉に、雛は今しがた喉まで出かかっていた自分の言葉を、慌てて飲み込んで立ち上がった。
燈馬に背を向け、身体を屈めてそそくさと去る。本当は、あそこで燈馬に自分の想いを伝えたかった。が、いざ彼を前にしてしまうと、どうしても躊躇いの方が大きくなっていた。
言えるはずがない。神と崇められる燈馬にとって、自分は何の変哲もない村の女の一人に過ぎない。代々、お白様の世話をする定めにある有澤家の人間であるとはいえ、それでも燈馬とは存在の格が違う。
それに、燈馬はこれから大切な白禊の儀へと向かう身だ。そんな彼に、余計な戸惑いを抱かせるような真似をしては、自分は村中の人間から恨まれる。
昨日、食事を運びに行った際、燈馬は言っていたはずだ。人の世界に迷いを残せば、儀式そのものが失敗する。だから、白禊へ向かうお白様は、人であることに未練を残してはいけないと。
結局、自分は見送ることしかできない。それが村のためであり、燈馬のためでもある。何百年も昔から、この村で繰り返されて来たことだ。今さら、自分だけがそれに逆らって、全てを壊すことは許されない。
そう、自分自身に言い聞かせるようにして、雛は遠巻きに燈馬の姿を眺めていた。やがて、宴も終わりに近づいたところで、今まで何も言わずに座っていた安曇家の当主が、再び鈴のついた杖を持って立ち上がった。
杖が縦に二度振られ、鈴の音が辺りに鳴り響く。それを合図に、今まで互いに好き勝手に喋っていた村の者達が、一斉に動きを止めて正面を向いた。
男達が、広場に担ぎ込んで来た藁人形を背中に背負い、再び重い腰を上げる。中にはまだ疲れが抜けていない者もいたが、愚痴をこぼす者はいなかった。
安曇家に続き、月宮家、そして有澤家の当主も立ち上がったところで、燈馬もその場に立ち上がった。絹糸のように白い肌の上に、これまた白い着物を着て、それらが月の光を受けて静かに輝いている。知らない者が遠目に見たら、彼が何も身につけていないと勘違いするかもしれない。
安曇家の当主が、杖を大きく振りかぶって揺すった。出発の合図だ。彼を先頭に、月宮家の当主、お白様である燈馬、そして有澤家の当主と続く。彼らの後ろには、更に三人の娘が鏡を持って、付き従うように歩いてゆく。
娘たちは、これまたどれも、村の有力者である三家の人間だった。その内の一人は、他でもない雛だ。有澤家に代々伝わる神鏡を持ち、安曇や月宮の家の娘たちに続く形で、無言のまま山の上の社へと向かってゆく。
山の上とはいえ、その村の社は広場からそう遠くない位置にあった。もっとも、社というのは名ばかりで、実際に山の上に安置されているのは巨大な鳥居だけである。普段は鳥居に触れるのは禁忌とされ、故に雛も詳しいことは知らなかった。ただ、その鳥居の姿を拝ませてもらったことぐらいならば、何度かはある。
普通、鳥居は二本の足を持つものだが、その鳥居は合わせて三本の足を持っていた。柱の一本一本は、大人が腕を伸ばしても抱えきれない程に太い。
材質は木ではなく、恐らくは金属。かつては輝かしい赤色に染まっていたであろう柱は、今ではくすんだ赤褐色に変わってしまっている。が、その重さ、頑強さだけは昔も今も変わらずに、度重なる風雨にも負けず、現在に至っている。
天高くそびえたつ三本の柱。その頂上部は、それぞれが隣の柱と繋がれており、一種の奇妙な空間を作り出していた。正面と、それから左右。どこから見ても鳥居の形に見ることができ、それらが三方向から中心部を囲うようにして存在している。鳥居に囲まれた空間の真ん中から天を仰げば――――実際は神域のため、無闇に足を踏み入れることはできないのだが――――三角形に組まれた枠が、こちらを見降ろしているのが拝めることだろう。
夜魅原村に伝わる魂送りは、この三柱の鳥居にて最後の儀式を行うことになっていた。
鳥居の安置された小高い山の上に続く道は、途中で三方向に分かれている。正面の道は、そのまま鳥居へと続く道。左右に別れた道は、鳥居の置かれた高台の麓を回る道。この道を時計回りに周ってゆき、道中にある石作りの祠の中に、少女たちが持っている鏡を納めてゆく。それらは山頂の方向を向いており、鏡の向けられるであろう先は、そのまま例の鳥居の入口へと繋がることになる。
祠に納められる鏡は、言わば常世への入口を開けるための鍵だった。神鏡の力を鳥居に注ぎ、その力によって常世への扉を開け放つ。そして、鳥居の中央で男達が背負ってきた藁人形を焚き上げて、そこに宿っていた先祖の霊を、煙と共に天へと帰す。
昔から、それこそ、この地に村ができたときから、人々はこうして先祖の霊を弔ってきた。彼らは蛍に姿を変えて村を訪れ、そのまま子孫達の待つ家々へと入り、最後は護符の中に宿る形で山の上へと運ばれる。そうやって、次々と姿を変えて、再び彼らのいるべき世界へと帰ってゆくのである。
鏡を運びながら、雛はふと顔を上げ、前を歩く燈馬の姿へと目をやった。燈馬は相変わらず無言のまま、ただひたすらに、先導役である安曇家の当主の後をついてゆく。
燈馬の話では、白禊とはお白様が人であることを捨て、神と一体になる儀式だという。と、いうことは、燈馬もまた人間であることを辞めてしまって、鳥居の上の出口から、神の世界へと旅立ってしまうということなのだろうか。死の使いとされ、忌み嫌われる赤い蛍たちを鎮めるために、真の意味で神と同等の存在になるのだろうか。
そんなことを考えている内に、雛は第一の祠へと辿り着いた。月宮家の娘が鏡を奉納し、そのまま見張りとしてその場に残る。次いで、二番目の祠が見えてきたところで、今度は安曇家の娘が鏡を納め、やはり見張りとしてその場に残った。
やがて、三番目の祠が見えてきたところで、とうとう雛の番になった。雛は手にした鏡を祠に納め、他の者達がやってきたように、鏡の万人としてその場に残る。
これでもう、本当に燈馬とはお別れだ。彼はもうじき、雛の手の届かない世界、神の世界の住人となり、村を永遠に見守ることとなる。
最後に別れの言葉くらい、かけてもいいのではないかと思った。が、彼女が迷っている間に、燈馬は宮司や藁人形を背負った男達と共に、瞬く間にその場からいなくなってしまった。
心の中が、どんどん空っぽになってゆく感じがして、雛は何も言いだせずに唇を噛んだ。これでいい。これは定めであり、自分のようなちっぽけな少女では、決して抗えないこと。いや、抗ってはいけないことなのだ。そう、考えようと思ったが、どうしても心の奥で、何かをわり切れない自分がいた。
それから、どれくらいの時間が過ぎたのだろう。
気がつくと、雛は独りで祠の前に立ち、呆然と山の上を見つめていた。
山頂からは、焚き上げの煙はまだ上がってはいない。時間からして、男達は人形を運ぶ仕事を終え、既に山を降りているはずだ。
焚き上げは三家の当主たちを含め、限られた人間だけで行うのが習わしだった。そうなると、どうしても人出が足りなくなる。もしかすると、今年は雛の思っている以上に、焚き上げに時間がかかっているのかもしれない。
山を吹き下りる風が頬を撫で、雛は思わず口元を抑えて息を飲んだ。
空気がぬるい。夏場で湿気も多い季節とはいえ、この生温かい風はなんだろう。まるで、暗闇の奥に潜む化け物が吐き出したような、なんとも言えぬ不快な風だ。
急に不安な気持ちに駆られ、雛は自分の両腕で胸元を抱きしめるようにして丸くなった。暗闇の中、祠の前で少女が一人。よくよく考えれば、それだけでも相当に恐ろしいことである。が、今の雛はそれ以上に、胸の奥から湧きあがってくる異様な不安が何よりも恐ろしかった。
いつもなら、魂送りの儀など、怖いとさえ思わなかった。この村を代々守ってきた三家の一人として、己の仕事を全うするだけ。そう、気楽に考えていた。
だが、今日に限って、そんな考えは雛の中には微塵もなかった。
魂送りの煙が、いつもより昇るのが遅いのはなぜか。それに、あの生温かく気持ちの悪い風は、いったい何を意味しているのか。
考えれば考えるほど、想像が悪い方へと進んで行く。燈馬は雛に、儀式を経て神に等しき存在になると言っていたが、もしも儀式が失敗したらどうなるのか。彼自身、人としての自分に未練が残り過ぎていれば、儀式は失敗するというようなことを言っていた。では、仮に儀式が失敗した場合、燈馬はどうなってしまうのだろう。
もう、これ以上は我慢できない。何かを決意したような顔になり、雛はすっと背筋を伸ばして山頂を睨んだ。
行こう。行って、自分の目で確かめよう。村の掟では白禊の儀を除くことは禁じられていたが、そんなものは知ったことか。鏡の置かれた祠を守るのも大事なことだろうが、今はそれ以上に、雛自身にとって代え難いものがある。
ここで最後に燈馬の姿を見ておかなければ、自分はきっと後悔するはずだ。儀式の際、燈馬の身に何かよくないことが起きたとなれば、この先どれだけ悔やんでも悔やみきれない。
夜の帳が降りた山の小道を、雛は小走りに駆けだした。社へ続く道は基本的に一つしかなかったが、それはあくまで正式な入口。ここから直ぐの場所から、獣道のような林道が山頂へと続いていることを、雛は以前に何度か山に来た際に知っていた。
カサカサと、小枝と枯葉を踏む音がして、雛の姿が闇の中へと消えて行く。だが、そんな淡く、儚い少女の想いさえも、時として闇は、容赦なく邪悪な口を開けて飲み込んでしまう。
これから先、自分が見る物はなんなのか。その、あまりに残酷な運命さえも知らないまま、雛の足音だけが遠ざかってゆくのが聞こえていた。
本作品は一部に暴力的な表現を含みますが、これは作中の暴力行為その他を推奨するものではありません。
また、一部の人間が差別的な考え方に囚われて非道な行いを働いたり、それらの人間が法ではなく、個人の意思や超常的な存在によって裁かれる描写が存在します。
これらの描写に対して政治的道徳観、及び宗教観から不快な思いをされる可能性がある方は、これより先の内容を読むことを控えるようお勧めいたします。