私、浮気しないでって言いましたよね!?
婚約者エドガーの『凄かった』部分を加筆しました。
セシリア・ウェインライトがエドガー・ラングフォードとの婚約を結んだのは、十六歳の春だった。
伯爵家と侯爵家の結びつきをより強固にするための婚約であり、当人同士の恋愛感情から始まったものではない。
だが、それは貴族社会では珍しいことではなかった。
重要なのは、互いの家にとって利益があり、そして当人同士が最低限の敬意を払えること。
その点において、エドガーは決して悪い相手ではなかった。
容姿端麗で社交的。頭の回転も早く、会話の引き出しも多い。人当たりもよく、年配の貴族たちからの受けも良かった。
少々自信家で、自分の魅力に自覚的すぎるところはあったが、それも若さゆえのものだとセシリアは考えていた。
――浮気癖さえなければ。
最初にその噂を耳にしたのは、婚約から半年ほど経った頃だった。
学園の休み時間、親友のアリス・ウェールズが、どこか言いにくそうな顔で切り出した。
「セシリア。少し聞きづらいことなんだけれど……エドガーのこと、知っている?」
セシリアは読んでいた本を閉じ、首を傾げた。
「エドガー様がどうかなさったの?」
「最近、何人かの令嬢とずいぶん親しくしているみたいで……見ていてあんまり良いものではなかったわ」
大分濁した言い方ではあったが、その意味を理解するのは難しくなかった。
しかしセシリアはすぐには信じなかった。
「ほら、社交での付き合いかもしれないわ。気にしすぎよ」
「そうだと良いんだけれど……」
アリスの表情は晴れない。
結局その日、彼女の耳に入った話をいくつか聞いたものの、セシリアはすぐに結論を出さなかった。
噂だけで人を断じるべきではない。
それが彼女の考えだった。
男性が女性と親しく話していたからといって、それだけで浮気と決めつけるのは早計である。
社交界では、異性と会話を交わすことなど日常茶飯事だ。舞踏会で踊ることも、お茶会で隣に座ることも、それ自体は何の問題にもならない。
そんな些細なことにまで目くじらを立てていては、嫉妬深い女性だと思われるだけだろう。
婚約者を信じられない狭量な女だと見なされれば、かえって自分の評価を下げることになる。
しかし、同じような話が一度ならず二度、三度と耳に入るようになると、さすがに気分が晴れない。
なので、セシリアはエドガーに事の真相を聞くことにした。
◇
次に二人きりで会う約束の日、セシリアは王都の喫茶店でエドガーと向かい合っていた。
窓際の席には柔らかな陽光が差し込み、テーブルの上には香り高い紅茶と焼き菓子が並んでいる。
穏やかな午後のひととき。
傍目には、仲睦まじい婚約者同士の逢瀬にしか見えなかった。
エドガーもいつもと変わらぬ様子だった。
紅茶が運ばれ、周辺が二人きりになったところで、セシリアは静かに口を開く。
「エドガー様。少し、お聞きしたいことがあります」
エドガーはカップを手にしたまま、気軽に頷いた。
「なんだい? そんなに改まって」
セシリアは一呼吸置いてから、まっすぐに彼を見つめた。
「最近、いろいろな女性と親しくされていると伺いました」
エドガーの表情に動揺はなかった。
むしろ、拍子抜けしたように小さく笑う。
「ああ、そのことか」
あまりにも軽い反応に、セシリアはびっくりしてしまう。
「否定はなさらないのですね」
「別に隠すようなことでもないからね」
そう言って、エドガーは平然と紅茶を口にした。まるで当たり前の話でもしているかのような態度だった。
セシリアはそっと膝の上で手を握りしめる。
「婚約者である私が、不快に思うとは考えなかったのですか?」
するとエドガーは、不思議そうに首を傾げた。
「どうして不快になるんだい?」
心底わからないといった顔だった。
エドガーは肩の力を抜いたまま、諭すような口調で続けた。
「セシリア、僕たちは確かに婚約しているが、まだ結婚していないだろう? 僕が誰と話そうと、誰と親しくしようと、それは僕の自由じゃないのか?」
あまりにも当然のように言われ、セシリアは一瞬言葉を失った。
「では、ああした行いも浮気ではないと?」
エドガーはきょとんとした顔で瞬きをした後、小さく笑った。
「浮気?大げさだな。せいぜい少し親しくしているだけだよ。そうだな……スキンシップ、とでも言えばいいのかな」
まるで社交の延長線上にある、取るに足らない行為だと言わんばかりだ。
目の前の青年が、本気でそう考えていることを理解するのに時間がかかったのだ。
浮気という自覚がない。
悪いことをしているという認識もない。
その事実が、何よりも衝撃だった。
「私には、その違いが分かりません」
「違い?」
「婚約者がいながら、別の女性に過剰なスキンシップをすることを、私は不誠実だと思っています」
エドガーは呆れたように肩をすくめた。
「相変わらず真面目だね。そんなに堅苦しく考えなくてもいいじゃないか」
――あ、ダメだ。
ふと、そんな言葉が胸の内に浮かぶ。
エドガーは、彼女の言葉を理解できていないのではない。理解したうえで、問題だと思っていないのだ。
あまりにも価値観が違いすぎる。
セシリアが結婚相手に求めているのは、特別なことではない。ただ、自分との約束を大切にしてくれること。誠実でいてくれること。それだけだった。
しかし、その「それだけ」が、エドガーには理解できない。
この人と結婚しても、きっと同じことの繰り返しになるだろう。
そんな未来が、ありありと目に浮かんだ。
セシリアはティーカップを置く。
今ここでどれだけ言葉を尽くしても、エドガーの考えを変えることはできないだろう。
彼は自分の行動を悪いことだと思っていない上に、それを問題視するセシリアの方が神経質なのだと考えているのだ。
これ以上話し合っても、平行線をたどるだけだ。
小さく息を吐き、セシリアは努めて穏やかな声で言った。
「……はぁ、もういいです。エドガー様。今は、好きになさってください。ただし、結婚した後はおやめください。それから、迂闊に他の女性に手を出すのもお控えください」
「手を出すなんて、人聞きが悪いな」
「あなたにその気がなくても、相手に誤解を与えることがあります。婚約者がいる方の軽率な行動は、あなた自身だけでなく、お相手の名誉にも関わります。……そして、私もあまり気分の良いものではありません」
エドガーは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐにいつもの余裕のある笑みに戻った。
「わかったよ。君がそこまで言うなら、少し気をつけることにする」
その返事が本心からのものなのか、それともその場しのぎなのかは分からなかった。
それでも、この時のセシリアは、まだほんの少しだけ期待していた。自分の気持ちを伝えたことで、エドガーが改めてくれるのではないかと。
◇
しかし、エドガーはついにやらかした。それも、あの日からわずか数週間後のことだった。きっと彼は人の話を聞く気はなかったのだろう。
セシリアたちの通う学園には、彼女やエドガーのような貴族子弟だけでなく、王家の子女も在籍している。
現国王には一人娘がおり、王位継承権第一位でもある王女殿下もまた、この学園で学んでいた。
王女の名はシャーロット。
聡明で気さくな人柄で知られ、身分の上下を問わず多くの生徒から慕われている。
その一方で、不正や不誠実な振る舞いには厳しく、曲がったことを何より嫌う人物でもあった。
セシリア自身も、シャーロット王女とは面識があった。
学年こそ違うものの、学園行事やお茶会で言葉を交わす機会は何度かあり、その聡明さと気さくな人柄には好感を抱いていた。
そして、エドガーの女性関係についても、実は一度それとなく相談したことがある。
その際、シャーロットは少し呆れたように眉を下げながらも、
「誠実でいられない方は、結婚してからも変わりませんわ」
と、言っていた。その言葉が、今になって嫌というほど胸に響く。
そんなエドガーが、ついに王女殿下にまで手を出そうとしたとか。それは、婚約者のいる身で他の女性に粉をかけるという次元の話ではない。
エドガーがシャーロット王女の顔を知らなかったのか。それとも、知った上で自分なら口説けるとでも思ったのか。
真相は分からない。
だが、後日この話を伝えに来た親友のアリスによれば、「なかなか凄かった」らしい。
「何がどう凄かったの?」
とアリスに尋ねた事がある。
曰く、セクハラをしたらしい。しかも、本人はそれを「距離を縮めるための軽い冗談」程度にしか思っていなかったというのだから救いようがない。
聞くところによれば、エドガーは以前から、異性とのコミュニケーションでそうした軽薄な振る舞いを時折していたらしい。
例えば、女性の体型について軽々しく触れたり。
「意外と胸があるんだね」
「細いのに腰はちゃんとしてるな」
などと、初対面に近い相手にも平然と言っていたという。
肩に触れる。髪を褒めながら指先で弄る。手を取る。やたらと顔を近づける。
本人としては親しみを込めた“スキンシップ”のつもりなのだろう。しかし当然ながら、時と場合においては、受け取る側からすれば不快極まりない。
ただ、相手が侯爵家の嫡男であり、外面だけは非常に良かったせいで、表立って問題になることが少なかったのだ。
そしてその最悪の価値観をよりにもよって王女殿下相手に発揮したのだ。
「その制服、意外と胸元がきつそうですね」
と言ったのだ。もし、何百年が経ってもこの発言はセクハラになるだろう。
談笑していた生徒たちの声が消え、近くを歩いていた令嬢が目を見開き、シャーロットが「今なんと?」という顔で固まった。
そして当のエドガー本人だけが、まるで洒落た軽口でも言ったかのような顔をしていたというのだから救えない。
セクハラはイケメンに限る。なんて事は、あの真面目なシャーロットに通用するはずがないのだ。
そして、その勇敢というべきか無謀というべきか分からない行動によって、エドガーが王家の怒りを買ったのだ。
そして現在、彼は王城の牢に収監されているという。
さすがのセシリアも、その報告を聞いた時にはしばらく呆然とした。
婚約者の女性関係に悩んでいたはずが、気づけば婚約者が不敬罪まがいの行為で投獄されている。
あまりにも急展開すぎて、現実感が追いつかなかった。
しかし、状況は極めて明白だった。
王女殿下にまで手を出そうとするような人物を、将来の当主として迎え入れることなどできるはずがない。
ウェインライト伯爵家は、今後のリスクを考慮し、ただちにラングフォード侯爵家へ婚約解消を申し入れた。
ラングフォード侯爵家に異論を挟む余地はなかった。むしろ、断る立場ですらない。
今にして思えば、あの日、喫茶店で交わした最後の忠告にほんの少しでも耳を傾けていれば、こんな事態にはならなかったのかもしれない。
他の女性に軽々しく近づかないこと。
結婚後は止めること。
ただそれだけのことだ。決して難しい約束ではない。
誠実であろうとする気持ちさえあれば、誰にでも守れる程度のことだ。
それすら守れなかったのだから、もはや婚約者として以前に、人としてどうなのかと言わざるを得ない。
もっとも、今のセシリアには、そのことを窘める立場すらなかった。
エドガー・ラングフォードは、もう彼女の婚約者ではないのだから。
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