パパ・ママ・カルパッチョ
初めて作成した短編小説です。
最後までご拝読いただけますと幸いです。
猫がいた。
真っ白の毛に、長いしっぽ。
しっぽの先はカギ状に折れ曲がっている。
首には、赤いリボンのついた和柄の首輪がついていた。
首輪についている迷子札には、「カルパッチョ」の文字。
猫を迎えることが決まった日の夕食が、カルパッチョだったそうな。
カルパッチョには二人の飼い主がいた。
「ただいまー」
低い声が玄関からリビングに届き、カルパッチョはうっすらと目を開いた。
ガチャリと扉が開き現れたのは、スーツ姿の若い男。
テーブルの足元に背負っていたリュックを置くと、カルパッチョの緑色の瞳を覗き込むようにしてひょこっと男の顔が現れた。
「カル、ただいま」
そう言って頭をぐりぐりと撫でられる。
思わず喉を鳴らすカルパッチョだが、そのままひとつあくびを漏らすと再び目を閉じた。
その耳に、「よく寝るなー」という男の笑いまじりの声が届く。
男の名は、伊丹将吾。
夏の太陽を存分に浴びたのか、少し日焼けした肌には汗がつうっと流れている。
短く切られた清潔感のある髪も、額に少し張り付いていた。
頭に触れた湿った手を思い出しながら、カルパッチョは飼い主に少し同情した。
ここはこんなに快適なのに、壁の向こうは随分と暑いんだな。
そんなところに毎日行かないといけないなんて、パパもママもかわいそうに。
「今日はママちょっと遅くなるから、パパとのんびり待ってような」
そう声をかけると、将吾は着替えをしに別室へと姿を消した。
ふーん、ママは遅いのか。
カルパッチョは小さく目を開けると、玄関に続く扉を一瞥してから再び眠りについた。
次に目を覚ましたのは、扉の向こうで何やらボソボソと話す声が聞こえた時だった。
聞き取りやすい、将吾のものよりも高い声が誰の声か、カルパッチョはすぐに気付いた。
起き上がり、扉の近くへ歩み寄る。
カルパッチョの顔がピッタリおさまるくらいのガラスの小窓が、長く縦に入っている扉。
その小窓の前に立ち、玄関の方をじっと見つめた。
やっぱりママだ。
玄関に立つ将吾の向こう側に、靴も脱がずに女が一人立っている。
女の名は、伊丹亜紗美。
最近バッサリと切り揃えたばかりの髪が、肩口で軽く跳ねている。
ひどく汗をかいているのか、前髪も額に張り付いていた。
その下は両手で覆われており、いつもの優しい瞳がカルパッチョからは見えない。
ママ、また泣いてるのか。
しゃくり上げながら、将吾に支えられ玄関へと上がろうとする亜紗美の様子を見て、カルパッチョは言いようのない気持ちに襲われた。
最近、亜紗美はどこかへ出掛けることが前よりも増えていた。
時々将吾も一緒に出掛けているようだが、以前のように「デートしてきたよ、お留守番ありがとね」と楽しげに帰宅することが減った気がする。
減ったというか、ほとんどない。
そうして、大体満月が過ぎ月がかけ始める頃に、こうして玄関口で泣き出すことが何度かあった。
カルパッチョは、にゃあ、と一声鳴き声をかけてみた。
ハッとして亜紗美と将吾が振り返る。
かと思うと、ゴシゴシと目元をこすり、急いで扉を開いてくれた。
そこには、ニコッと優しい顔で微笑む亜紗美の姿があった。
「カル、ただいまー!」
わしわしと顔を撫で回される。
亜紗美じゃなければ爪を出して殴っているところだ。
「遅くなってごめんね、待っててくれたの?」
少し上擦った声で、それでも平静を努めて話しかけてくる。
カルパッチョは、思わずその手をペロリと舐めた。
「亜紗美、無理しなくても・・・・・・」
「さあ、ご飯にしよう!お腹ぺこぺこ」
将吾の言葉を遮り、亜紗美はスクッと勢いよく立ち上がった。
そのままキッチンへと向かっていく彼女を、口をつぐんだまま見つめる男に、カルパッチョは強めに鳴いてみせた。
ハッとして「カルにはご飯置いてあげてるだろ」と頭を撫でてくる将吾の手を、パンチで払いのける。
ご飯じゃない!パパもママも何を隠してるんだ!
だが、そんなカルパッチョの言葉は誰にも届かなかった。
月日が過ぎ、また満月が過ぎて月が欠け始める時期がやって来た。
その日は休日で、将吾も亜紗美も早起きせず、朝からゆっくりご飯を食べていた。
カルパッチョは、てっきり二人が今日はずっと家にいるものだと思い、軽く朝食を済ませてから朝の一眠りに興じていた。
ところが不意にゴソゴソと玄関から音がしたかと思うと、ガチャリと鍵の閉まる音が聞こえ目を覚ます。
またお出掛けか?
玄関に続く扉からは将吾だけが戻ってきた。
目を覚ましているカルパッチョに気付いて、近寄ってくる。
「起きたのか。ママはもう出掛けたよ」
その言葉を最後まで聞かず、カルパッチョは扉に近づき小窓から玄関を眺めた。
背後から将吾の足音が近寄ってくる。
「カル、ママは出掛けたんだってば」
優しく呼びかけてくるその言葉を無視し、カルパッチョは玄関を眺め続ける。
きっとまた、ママは泣きながら帰ってくる、だから今度は僕が一番初めにママを出迎えればいいんだ、とカルパッチョは考えていた。
カルパッチョを見つめる時だけは、亜紗美はいつも笑顔なのだ。
「カルってば」
そう言って将吾に抱き上げられた。
不本意な抱っこは許容できない。
カルパッチョは身をよじり、将吾の腕の中から逃げ出した。
「ほら、カル、おやつあるぞ」
頑なに扉の前から動こうとしないカルパッチョに、将吾が大好きなおやつの袋をチラつかせてくる。
とろとろで美味しいやつだ。
パリッと袋を開ける音がする。
思わず耳をそちらへ向けてしまった。
香ばしいかつおの匂いが鼻腔をくすぐる。
思わずスンスンと鼻を鳴らしてしまった。
それでも、カルパッチョはなんとか足を踏ん張りその場に留まり続けた。
「ほら、見てみな、ママいないだろ」
おやつを持ちながら、将吾は空っぽの玄関をちゃんと見せようと扉を開いた。
カルパッチョはすかさず扉の外に足を進める。
これで亜紗美が帰宅して一番最初に見るのは間違いなく自分だ、とカルパッチョは玄関に鎮座した。
いつもならどんな時でもおやつの匂い(もしくは袋を開ける音)に釣られて喜んで走ってくる愛猫が、全くの無視を決め込んでいる。
さすがの将吾も何かを感じ取ったらしい。
小さく息をつくと、カルパッチョの隣に静かに腰を下ろした。
「カルもママが心配なんだよな」
「そうだよな」と一人呟く声に、耳だけ傾ける。
視線は絶対に玄関の扉から離さなかった。
「ママな、今めちゃくちゃ頑張ってるんだ。今というか、最近、いや、もう何年もずっと。仕事も休んで通院したりして、きっと職場にもたくさん頭下げてると思うし、パパよりも何倍も頑張ってると思う」
ぽつりぽつりと将吾は言葉をこぼし始める。
カルパッチョには意味のわからない言葉、初めて聞く言葉がいくつかあったが、それでも将吾が亜紗美を想っているということだけはなんとなく伝わって来ていた。
「パパはさ、正直、もう辞めてもいいと思ってるんだ。このまま、パパ、ママ、カルと三人で楽しく暮らしていければそれでいいなって」
楽しく暮らしていく?
パパは何を当たり前のことを言ってるんだ?
カルパッチョは耳を傾けながら、将吾の言おうとしていることをなんとか理解しようと頑張ってみた。
だが、よくわからなかった。
パパとママと僕がいて、楽しくならないわけないのに。
でも、ママは最近悲しそうな時がたくさんある。
もしかして、パパとママと僕だけじゃダメなのかな。
ゆらりとカルパッチョのしっぽが揺れる。
カルパッチョは将吾と亜紗美がいて、それだけで幸せだった。
ママはあと何が欲しいんだろう。
「ママは、今日病院で検査してもらってるんだ。赤ちゃんができてるかどうかの検査」
赤ちゃん?
なんだそれ?
「これまで何回も何回もダメで、その度にたくさん落ち込んで。何回も泣いちゃったりもして。子供を授かることもできないで、何のために生きてるんだろうって言ってたりもしてさ」
徐々に将吾の声が小さくなっていく。
しぼんでいく声の中には、悲しい気持ちが染み込んでいた。
「俺は、亜紗美には幸せに生きていてほしい。自分が何のために生きてるかなんて、そんなこと考えないでほしい。こんな辛い思いをするために子供を持ちたいって望んだ訳じゃないのに」
将吾の悲しい気持ちは、カルパッチョにも理解できた。
カルパッチョは将吾と亜紗美がいて幸せだった。
でも、それはカルパッチョだけの気持ちなのかもしれない。
そう思うと、喉の奥がきゅっとなるようななんとも言えない気持ちに襲われる。
「俺は、今の家族の幸せを壊してまで、欲しいものなんてないのに。でも・・・・・・」
脱力したように、将吾の頭が段々と下がっていく。
自身の靴のみが置かれた玄関を眺めながら、震える声で言葉を紡いでいく。
「子供はもう一生授かれないかもしれないって思った時、勝手に絶望したんだ。授かるのは俺じゃないのに、痛いのもしんどいのも俺じゃないのに、勝手に。亜紗美に辛い思いをしてほしくないって思うのは本当なのに、自分の子供を見られないかもしれないのが怖いってのも本当で。でも、やっぱり、どっちかを取らないといけないのかな」
思わず、隣に落とされたその手に、カルパッチョは頭を軽く擦り寄せた。
つと将吾の頬を涙が伝う。
だが、すぐに拭って笑顔を見せながら、カルパッチョの頭を撫でてくる。
「パパは大丈夫だよ。パパは、ママとカルがいれば大丈夫」
にゃ、と軽く返事を返す。
僕もだよ。
僕も、パパとママがいれば幸せだよ。
将吾の目が再び涙で揺らぐ。
それを誤魔化すためか、ぐりぐりと頭を撫で回された。
右手ではたき落とし、左手で数回殴っておく。
カルパッチョは、爪は出さずにいてあげた。
すると、勢いよくガチャリと鍵の開く音がした。
ハッとしてカルパッチョは顔を上げる。
走り出さないよう将吾に体を押さえられながら、それでも緑の瞳をじっと扉に見据えた。
ママの匂いだ!
ママが帰ってきた!
扉が開き、徐々に亜紗美の姿が見えてくる。
その顔を目に焼き付ける暇もなく、駆け寄ってきた彼女にカルパッチョは抱き上げられた。
そして、そのまま将吾の胸元に押しつけられ一緒に抱きしめられる。
「将吾、カル!」
しゃくり上げながら、涙声の、いつもの高音が頭上から聞こえてくる。
やっぱり泣いている、とカルパッチョの喉元が少しきゅっとなる。
不意に腕が緩み、将吾と亜紗美のカルパッチョの間に少し隙間ができた。
ママ。
亜紗美の涙で少し耳を下げながら、カルパッチョは顔を上げた。
そして、頭上にあるその顔を見て、思わず耳をピンと立てた。
「カル、大丈夫だよ」
そう告げる亜紗美の顔は、涙でぐしゃぐしゃだが確かに微笑んでいるように見えた。
上擦っているが、いつもの優しい笑顔の時の彼女の声だ。
「わたしも、将吾とカルがいてくれるだけで、充分幸せだよ」
「亜紗美・・・・・・」
「将吾、しんどい思いさせてごめんね。いっぱい支えてくれたのに、一人で抱えさせてごめん」
「俺は、俺は大丈夫だよ」
反対側の頭上で、将吾の涙ぐんだ声が聞こえる。
ぽたりと耳元に水滴が落ち、思わずカルパッチョは耳を払った。
「俺は、なんにもしてなくて、ただいつも、結果を待ってるだけで」
「違うよ、そんなことないよ」
ボロボロと涙をこぼしながら、それでも亜紗美は口角を上げたまま目を細め言葉を続ける。
「いっぱい支えてくれたじゃん。一緒に、病院も行ってくれた。傍にいてくれた」
「でも、それしか、俺は、そんなことしか」
「そんなことじゃないよ。すっごい心強かったよ。それに、子供が持てない絶望も、全然勝手じゃないよ」
「なんで・・・・・・」
「だって、わたし達家族のことだよ?他人事な訳ないじゃん。苦しいし、しんどいに決まってるよ」
パタパタと頭に水滴が降ってくる。
カルパッチョはしばらく両耳をパタパタと払っていたが、しまいには我慢できず、するりと二人の腕の中から抜け出した。
抜け出す時に、ちょっとだけ後ろ足で将吾の体を蹴ってしまった。
地面に着地する前に、背後から「うっ」という苦しげな声が聞こえてくる。
「カルに蹴られた・・・・・・」
情けない声音で将吾が呻いている。
カルパッチョはトンと着地して振り返ると、その様子を一瞥し不満をにゃあと訴えた。
僕だって我慢してたんだから、パパもそれくらい我慢してよ!
涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら情けない表情をする将吾の横で、ぷっと吹きだす声が聞こえる。
かと思うと、同じく涙に濡れた頬を拭いながら、亜紗美が明るく笑い声を上げた。
それに釣られ、将吾の目元も柔らかくなる。
カルパッチョがせっせと毛繕いをする頭上で、飼い主二人はしばらく笑い声に包まれていた。
「忘れ物もうない?」
将吾の声に、もう一度鞄の中を確認する亜紗美。
「うん、大丈夫そう」
先ほど忘れたスマートフォンも、きちんと手に握られている。
カルパッチョは、その様子を寝床の一つであるクッションの上から眺めていた。
「時間も大丈夫そう?」
「うん、さっき電話して事情は話してあるから大丈夫」
「財布も持った?」
「持ったよ、心配性だな」
笑いながら呆れて答える亜紗美に、こちらも呆れながら腕組みをして答える将吾。
「一度忘れ物して家まで帰って来てるんだから、心配して当たり前だろ」
「はいはい。でも、おかげで旦那さんの本音が聞けたんだから、結果オーライだと思わない?」
「・・・・・・玄関の前で盗み聞きなんて、趣味悪いよ」
そんな二人のやり取りを眺めながら、カルパッチョはあくびを漏らした。
そろそろ日課のお昼寝の時間だ。
涼しい風が逃げるから、早く扉を閉めてほしいところである。
「よし、じゃあ行ってくるね」
そう言って、小窓のついた扉を閉めようと亜紗美が手をかける。
と、そこでふと動きを止めた。
「亜紗美?」
将吾が声をかけると、小さく「うん」とつぶやく声が聞こえる。
「あのさ」
「うん?」
「今日の結果がどうでもさ」
「・・・・・・うん」
そこから続くであろう言葉を察し、将吾の顔から一瞬笑顔が消える。
だが、すぐにその目元は柔らかさを取り戻した。
「俺は、どんなことでも亜紗美の気持ちを受け入れるよ」
「どんなことでも?」
「うん。どんな決断でも」
将吾の言葉に、亜紗美の瞳が一瞬揺れる。
目を細め笑みを浮かべると、そのまま小さく「ありがとう」と呟いた。
「じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい」
そう言って、パタリと扉が閉まる。
今日は、ママのお出迎えは大丈夫な気がする。
閉められた扉の小窓を眺め、カルパッチョは目を細めた。
でも、きっと喜ぶだろうから、やっぱり出迎えてあげようかな、と考えながら、そうしてカルパッチョはゆっくりと眠りについていった。
お読みいただきありがとうございます!
カルパッチョは我が家の愛猫がモデルとなっています。
猫って可愛いですよね。
いつかそのうち別作品で我が家の愛犬も登場させたいです。




