表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

外伝短編|熱が冷めていく音

作者: 安剛
掲載日:2026/03/18

 自分は、売れる人間だと思っていた。


 根拠はあった。

 行動すれば数字が出る。数字が出れば評価される。

 評価されれば、居場所は自然と広がる。


 営業成績は常に上位だった。

 入社してから一度も、下位に沈んだことがない。


 初契約を取った日のことは、今でも覚えている。

 電話口で相手が「じゃあ、お願いします」と言った瞬間、胸の奥が熱くなった。


 ああ、これだ。

 自分は、この瞬間のために生きている。


 上司は肩を叩き、同僚は冗談混じりに嫉妬した。

 飲み会ではグラスが何度もぶつかり、話の中心はいつも自分だった。


「すごいな」

「どうやってるんだ?」


 聞かれるたび、特別なことは何もしていないと答えた。

 本当に、そう思っていた。


 動く。

 考える。

 試す。

 結果が出る。


 それだけだ。


 営業はシンプルだ。

 行動量が結果を呼ぶ。

 結果は、嘘をつかない。


 数字は正直だった。

 だから、自分も正しいと思えた。


 家庭も、穏やかだった。


 仕事で遅くなっても、帰れば温かい食事があった。

 疲れている顔を見せると、無理しすぎないでと声をかけられる。


 子どもの寝顔を見ると、不思議と力が戻った。

 守るものがある。

 だから、前に進める。


 何もかもが、噛み合っていた。


 少なくとも、そのときの自分は、そう信じていた。



 数年が経った。


 営業成績は、相変わらず安定していた。

 数字が落ちることはなく、むしろ平均を押し上げていた。


 ただ、周囲の顔ぶれが少しずつ変わっていった。


 同期が、管理職になっていく。

 後輩が、自分の部下として配属される。


 気づけば、自分より数字の低かった人間が、上にいる。


 最初は気にしなかった。

 肩書きより、数字の方が大事だ。

 現場で結果を出しているのは、今も自分だ。


 そう思っていた。


 だが、会議の空気が変わった。


 数字の報告をしても、反応が薄い。

 代わりに問われるのは、チーム全体の話、育成の話、組織の話。


「君は、どう思う?」


 そう聞かれても、正直な答えは一つしかなかった。


 数字が全てだろう。


 結果を出せば、自然と人は動く。

 自分がそうだったように。


 だから、遠回りな話には苛立ちを覚えた。


 それでも表には出さなかったつもりだ。

 少なくとも、自分ではそう思っていた。


 だが今振り返れば、言葉の端々に滲んでいたのだろう。


 数字が正義だという前提。

 数字を出せない理由など、存在しないという態度。


 無自覚な傲慢さ。


 それが、評価を止めていたことに、当時の自分は気づいていなかった。



 なぜ、上に行けないのか。


 なぜ、自分はいつまでも現場なのか。


 不満というほど強い感情ではない。

 ただ、違和感が積もっていく。


 評価面談の帰り道、同じ景色を見ながら、何度も考えた。


 結果は出している。

 誰よりも動いている。


 それなのに、何かが足りないと言われる。


 足りないものが分からない。

 分からないから、補えない。


 家に帰り、その話をした。


「自分、もっとできると思うんだよな」


 そう言うと、家族は黙って話を聞いていた。


「だったらさ」


 少し間を置いて、言われた。


「自分でやってみたら?」


 その言葉が、胸に残った。


 自分でやる。

 自分の判断で。

 自分の責任で。


 考えてみれば、営業という仕事は、常に小さな経営判断の連続だった。


 どこに時間を使うか。

 誰に会うか。

 何を切り捨てるか。


 それを、もっと大きな枠でやるだけだ。


 自分なら、できる。

 売れる。

 やれる。


 そう信じる理由は、いくらでもあった。


 数字が、それを証明してきた。


 夢を語った。

 家族は、最終的に背中を押してくれた。


 不安がなかったわけではない。

 だが、それ以上に確信があった。


 自分は、結果を出せる側の人間だ。



 その考えが、どれほど甘いかを、

 このときの自分は、まだ知らなかった。



 起業したばかりの頃は、確かにうまくいっていた。


 狙った市場は、数字で裏付けられていた。

 競合の動きも、価格帯も、需要の波も、すべて事前に洗い出していた。


 組んだ価格帯。

 用意した導線。

 広告の出し方。


 どれも、サラリーマン時代に積み上げてきた経験の延長だった。


 「売れる理由」が、頭の中で言語化できていた。

 だから、怖くなかった。


 契約は決まり、口座の数字も増えていく。

 月末に通帳を開くたび、現実が静かに追いついてくる。


 やっぱり、自分はやれる。

 やれる側の人間なんだ。


 その感覚が、背中を押していた。


 あの頃は、まだ熱があった。


 夜遅くまで働いても、疲労より先に高揚が来る。

 オフィスに一人残り、キーボードを叩く音が、やけに心地よかった。


 蛍光灯の白い光。

 空調の乾いた風。

 コーヒーの苦味。


 身体の奥が、じんわりと熱を帯びていた。

 眠らなくても、進める気がしていた。


 だが、その熱は、少しずつ噛み合わなくなっていく。


 社員は帰る。

 時間になれば、当たり前のように席を立つ。


 パソコンの画面は、途中で閉じられる。

 書類は未完。

 案件は、まだ動いている。


 それでも、彼らは帰る。


 ドアが閉まる音だけが残る。

 それを聞きながら、自分は椅子に座ったままだ。


 なぜだ。


 問いは、いつも同じ形で浮かぶ。


 なぜ、一緒に頑張れない。

 なぜ、危機感を持たない。

 なぜ、結果が出ない。


 声には出さない。

 出せば、関係が壊れると分かっている。


 だから、飲み込む。


 飲み込むたび、胸の奥で何かが軋む。

 乾いた音が、内側で鳴る。


 人を増やした。

 採用に時間も金もかけた。


 給与も上げた。

 業界では、悪くない水準にした。


 設備も整えた。

 働きやすい環境を、意識して作った。


 自分が楽になるためではない。

 彼らが楽になるように。


 そう思っていた。

 少なくとも、そのつもりだった。


 それなのに、数字は思ったほど伸びない。

 売上は横ばい。

 支出だけが、静かに増えていく。


 固定費。

 人件費。

 広告費。


 通帳を開くたび、胃のあたりが冷たくなる。

 画面の数字が、現実より重く見える。


 夜、天井を見つめながら、考える。


 暗い部屋。

 時計の針の音。

 遠くで走る車の気配。


 何が間違っている。

 どこでズレた。


 戦略か。

 人か。

 自分か。


 答えは出ない。


 考えれば考えるほど、思考は絡まり、

 感情だけが、先に摩耗していく。



 ある日、ふと気づいた。


 怒っていない自分に。


 以前なら、苛立っていた場面で、

 心が、何も動いていなかった。


 叱らない。

 強く言わない。


 声を荒げる理由が、見つからない。


 代わりに、ルールを決めた。


 時間。

 役割。

 数値。


 誰が、何を、いつまでに。

 達成か、未達か。


 感情を介さなくても回る仕組み。


 そうすれば、疲れない。

 そうすれば、壊れない。


 その判断は、正しかった。


 少なくとも、表面上は。


 会議は短くなった。

 報告は簡潔になった。

 トラブルも、数値で処理できた。


 数年が経った。


 成約が決まっても、心は動かない。

 画面に表示される達成率を、確認するだけだ。


 数字が目標を超えても、

 身体が反応しない。


 拍動も、熱も、湧いてこない。


 すべてが、評価項目になった。


 人も。

 努力も。

 感情も。


 気づけば、周囲の顔は入れ替わっている。

 名前を覚える前に、去っていく人も多い。


 引き止めようとも思わない。

 理由を聞こうとも思わない。


 それを見て、何も思わない。


 思わないことが、楽だった。


 孤独だと理解したのは、ずっと後だ。


 それでもいい、と割り切った。

 割り切れたと思っていた。


 夜のオフィス。

 自分の足音だけが、床に響く。


 静かな空間が、落ち着く。


 ニュースでは、同じ言葉が並ぶ。


《感情の起伏が鈍い》

《やる気が出ない》

《些細なことでイライラする》


 誰かの話だ。

 自分とは違う。


 そう思った。


 孤独でも、進めばいい。

 前を向けばいい。


 立ち止まらなければいい。


 人間として、生きるために。


 そう腹を括った。


 その行為が、

 「感じることを手放す選択」だとは、

 そのときは、まだ知らなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ