外伝短編|熱が冷めていく音
自分は、売れる人間だと思っていた。
根拠はあった。
行動すれば数字が出る。数字が出れば評価される。
評価されれば、居場所は自然と広がる。
営業成績は常に上位だった。
入社してから一度も、下位に沈んだことがない。
初契約を取った日のことは、今でも覚えている。
電話口で相手が「じゃあ、お願いします」と言った瞬間、胸の奥が熱くなった。
ああ、これだ。
自分は、この瞬間のために生きている。
上司は肩を叩き、同僚は冗談混じりに嫉妬した。
飲み会ではグラスが何度もぶつかり、話の中心はいつも自分だった。
「すごいな」
「どうやってるんだ?」
聞かれるたび、特別なことは何もしていないと答えた。
本当に、そう思っていた。
動く。
考える。
試す。
結果が出る。
それだけだ。
営業はシンプルだ。
行動量が結果を呼ぶ。
結果は、嘘をつかない。
数字は正直だった。
だから、自分も正しいと思えた。
家庭も、穏やかだった。
仕事で遅くなっても、帰れば温かい食事があった。
疲れている顔を見せると、無理しすぎないでと声をかけられる。
子どもの寝顔を見ると、不思議と力が戻った。
守るものがある。
だから、前に進める。
何もかもが、噛み合っていた。
少なくとも、そのときの自分は、そう信じていた。
⸻
数年が経った。
営業成績は、相変わらず安定していた。
数字が落ちることはなく、むしろ平均を押し上げていた。
ただ、周囲の顔ぶれが少しずつ変わっていった。
同期が、管理職になっていく。
後輩が、自分の部下として配属される。
気づけば、自分より数字の低かった人間が、上にいる。
最初は気にしなかった。
肩書きより、数字の方が大事だ。
現場で結果を出しているのは、今も自分だ。
そう思っていた。
だが、会議の空気が変わった。
数字の報告をしても、反応が薄い。
代わりに問われるのは、チーム全体の話、育成の話、組織の話。
「君は、どう思う?」
そう聞かれても、正直な答えは一つしかなかった。
数字が全てだろう。
結果を出せば、自然と人は動く。
自分がそうだったように。
だから、遠回りな話には苛立ちを覚えた。
それでも表には出さなかったつもりだ。
少なくとも、自分ではそう思っていた。
だが今振り返れば、言葉の端々に滲んでいたのだろう。
数字が正義だという前提。
数字を出せない理由など、存在しないという態度。
無自覚な傲慢さ。
それが、評価を止めていたことに、当時の自分は気づいていなかった。
⸻
なぜ、上に行けないのか。
なぜ、自分はいつまでも現場なのか。
不満というほど強い感情ではない。
ただ、違和感が積もっていく。
評価面談の帰り道、同じ景色を見ながら、何度も考えた。
結果は出している。
誰よりも動いている。
それなのに、何かが足りないと言われる。
足りないものが分からない。
分からないから、補えない。
家に帰り、その話をした。
「自分、もっとできると思うんだよな」
そう言うと、家族は黙って話を聞いていた。
「だったらさ」
少し間を置いて、言われた。
「自分でやってみたら?」
その言葉が、胸に残った。
自分でやる。
自分の判断で。
自分の責任で。
考えてみれば、営業という仕事は、常に小さな経営判断の連続だった。
どこに時間を使うか。
誰に会うか。
何を切り捨てるか。
それを、もっと大きな枠でやるだけだ。
自分なら、できる。
売れる。
やれる。
そう信じる理由は、いくらでもあった。
数字が、それを証明してきた。
夢を語った。
家族は、最終的に背中を押してくれた。
不安がなかったわけではない。
だが、それ以上に確信があった。
自分は、結果を出せる側の人間だ。
その考えが、どれほど甘いかを、
このときの自分は、まだ知らなかった。
⸻
起業したばかりの頃は、確かにうまくいっていた。
狙った市場は、数字で裏付けられていた。
競合の動きも、価格帯も、需要の波も、すべて事前に洗い出していた。
組んだ価格帯。
用意した導線。
広告の出し方。
どれも、サラリーマン時代に積み上げてきた経験の延長だった。
「売れる理由」が、頭の中で言語化できていた。
だから、怖くなかった。
契約は決まり、口座の数字も増えていく。
月末に通帳を開くたび、現実が静かに追いついてくる。
やっぱり、自分はやれる。
やれる側の人間なんだ。
その感覚が、背中を押していた。
あの頃は、まだ熱があった。
夜遅くまで働いても、疲労より先に高揚が来る。
オフィスに一人残り、キーボードを叩く音が、やけに心地よかった。
蛍光灯の白い光。
空調の乾いた風。
コーヒーの苦味。
身体の奥が、じんわりと熱を帯びていた。
眠らなくても、進める気がしていた。
だが、その熱は、少しずつ噛み合わなくなっていく。
社員は帰る。
時間になれば、当たり前のように席を立つ。
パソコンの画面は、途中で閉じられる。
書類は未完。
案件は、まだ動いている。
それでも、彼らは帰る。
ドアが閉まる音だけが残る。
それを聞きながら、自分は椅子に座ったままだ。
なぜだ。
問いは、いつも同じ形で浮かぶ。
なぜ、一緒に頑張れない。
なぜ、危機感を持たない。
なぜ、結果が出ない。
声には出さない。
出せば、関係が壊れると分かっている。
だから、飲み込む。
飲み込むたび、胸の奥で何かが軋む。
乾いた音が、内側で鳴る。
人を増やした。
採用に時間も金もかけた。
給与も上げた。
業界では、悪くない水準にした。
設備も整えた。
働きやすい環境を、意識して作った。
自分が楽になるためではない。
彼らが楽になるように。
そう思っていた。
少なくとも、そのつもりだった。
それなのに、数字は思ったほど伸びない。
売上は横ばい。
支出だけが、静かに増えていく。
固定費。
人件費。
広告費。
通帳を開くたび、胃のあたりが冷たくなる。
画面の数字が、現実より重く見える。
夜、天井を見つめながら、考える。
暗い部屋。
時計の針の音。
遠くで走る車の気配。
何が間違っている。
どこでズレた。
戦略か。
人か。
自分か。
答えは出ない。
考えれば考えるほど、思考は絡まり、
感情だけが、先に摩耗していく。
⸻
ある日、ふと気づいた。
怒っていない自分に。
以前なら、苛立っていた場面で、
心が、何も動いていなかった。
叱らない。
強く言わない。
声を荒げる理由が、見つからない。
代わりに、ルールを決めた。
時間。
役割。
数値。
誰が、何を、いつまでに。
達成か、未達か。
感情を介さなくても回る仕組み。
そうすれば、疲れない。
そうすれば、壊れない。
その判断は、正しかった。
少なくとも、表面上は。
会議は短くなった。
報告は簡潔になった。
トラブルも、数値で処理できた。
数年が経った。
成約が決まっても、心は動かない。
画面に表示される達成率を、確認するだけだ。
数字が目標を超えても、
身体が反応しない。
拍動も、熱も、湧いてこない。
すべてが、評価項目になった。
人も。
努力も。
感情も。
気づけば、周囲の顔は入れ替わっている。
名前を覚える前に、去っていく人も多い。
引き止めようとも思わない。
理由を聞こうとも思わない。
それを見て、何も思わない。
思わないことが、楽だった。
孤独だと理解したのは、ずっと後だ。
それでもいい、と割り切った。
割り切れたと思っていた。
夜のオフィス。
自分の足音だけが、床に響く。
静かな空間が、落ち着く。
ニュースでは、同じ言葉が並ぶ。
《感情の起伏が鈍い》
《やる気が出ない》
《些細なことでイライラする》
誰かの話だ。
自分とは違う。
そう思った。
孤独でも、進めばいい。
前を向けばいい。
立ち止まらなければいい。
人間として、生きるために。
そう腹を括った。
その行為が、
「感じることを手放す選択」だとは、
そのときは、まだ知らなかった。




