白い結婚から一年。不愛想な旦那様の様子がおかしくなりました。
私の旦那様、ダリル・ヴァーノン公爵様は式を挙げた日の晩、私と共に眠る事をしませんでした。
寝室にはいらっしゃいましたが、ネグリジェ姿の私を一目だけ見た彼は部屋の中央にあるソファで横になりました。
「こちらでお休みになられないのですか」
「貴女が使えばいい」
一人で使うには――というか、二人で使うにも随分と余りある大きさのベッド。
勿論、夫婦の務めを想定して用意されているものなのですから、一人用ではありません。
「畏まりました」
私はそれ以上は何も言いませんでした。
ただ、代わりにこう思いました。
――ああ、彼が女嫌いだという話は本当なのだな、と。
ダリル公爵様は私の二つ年上、今年で十九になるお方でした。
彼は公爵家の嫡男であるという身分でありながら、出席するパーティーでは異性と踊る事を避け……また、決まった女性を傍に置く事もしないお方でした。
婚約者がいなかったのです。
社交の場では渋々といった様子で女性をエスコートする時もあったと言いますが、そういった時の彼は決まって普段仏頂面の何倍も険しい顔をされていたようです。
私も婚約を交わしてから数度ご一緒させて頂いた事はありますが、その時も同様でした。
ですから彼が女嫌いといううわさが流れるのも当然のことだったのでしょう。
さてそんな彼の結婚相手として何故私が選ばれたのかと言えば、理由は単純です。
ダリル様に急遽結婚相手が必要になったから。そして私が都合の良い女であったから。
まず、前公爵であったダリル様のお父君が半年前に病でお亡くなりになられ、ダリル様は嫡男として家を継ぐことになります。
しかし公爵家に跡取りの一人もいない。ましてや妻が居らず子が成せる可能性すら皆無。
そのような状態では親戚や領民達がヴァーノン公爵家の行く先を不安に思うのも当然です。
これまで婚約を後回しにしてきたダリル様とて、領民の不安を煽る事は本意ではなかった。
それに、貴族の義務として世継ぎを作る事は避けられません。
そこで漸く腹を括った彼は重い腰を上げて婚約者を探します。
そして当時、政界でそれなりの権力を握り、婚約者を持たない女性――それがカーライル侯爵家の令嬢である私だった。それだけの話でした。
私達は婚約から半年という短い期間で籍を入れ――そして、今に至るという訳です。
貴族の女性、それも既婚者として、子を成すことは必須。
それを拒絶されるという事は由々しき事態であり――私は彼共々社交界の笑い者にされかねません。
それに、両親とて彼と血の繋がりを持つ事で、夫婦の繋がりをより強固なものとすることを望んでいました。
しかし……私の心は落ち着いていました。
どの道、私が無理矢理組み敷くわけにはいきませんし、仮にそうしたとしても男性の力では簡単に突き放されてしまうでしょう。
彼にその気がないと言われれば、それ以上私にできる事はないのですから、気にするだけ無駄です。
私はお肌の艶を維持する為、早々に横になりました。
***
式から一ヶ月が経ちました。
ダリル様はあれから一度も寝室へ来ていません。
食事も別々に取っていたし、彼は公務の関係で外出をするか執務室に籠るかしている事が殆どでしたので、顔を合わせない日の方が多くありました。
仮にすれ違ったとしても、私の挨拶に彼は言葉を返しません。
けれど私は特に気に留めませんでした。
彼が女性を苦手としている事は既に知っている訳ですから、この態度が私を毛嫌いしてのものではない事だって理解している訳なのです。
私は庭のテラスで一人お茶を楽しみます。
公爵邸はとても広い建物と敷地を保有していました。
しかし……その面積の割に、人の数は少ない。
前公爵は愛人を多く招いていた為、広大な屋敷を友好的に活用していたのでしょうが、その愛人たちはダリル様が公爵となった際に全員追い出されてしまったようです。
また、ダリル様のお母君は彼が幼少の時にこれまた流行り病でお亡くなりになっております。
その為、ヴァーノン公爵家の名を持つのはダリル様と私のみでした。
財には困っていないだろうに、使用人の数は必要最低限。そしてやはり女性は少ない。
ここまで徹底して女性を嫌悪する旦那様です。私には自分の子を抱く未来など見えませんでした。
「修道院に入る準備でもしておこうかしら」
カップを空にした私はそう呟いてから席を立ちます。
そして屋敷へ戻ろうと歩みを進めた時、丁度屋敷の方からやって来たダリル様と鉢合わせました。
「ご機嫌よう、旦那様」
私は服の裾をつまんで、深々とお辞儀をします。
ダリル様は相変わらず何も言いませんでした。
ただ、海のように青い瞳を私から逸らすだけ。
いつも通りの反応ですので、私も気にはしません。
「では、失礼いたしますね」
私はその場を去ろうとします。
その時でした。
「あ、貴女は」
ダリル様の横をすり抜けた私の背中へ、声が掛けられます。
私は振り返ります。
すると先程よりも近くにダリル様の顔を見つけました。
凛々しい眉とよくとおった鼻筋、色は薄いけれど形の整った唇。麗しいお顔立ちですが、眉間に深く刻まれた皺のせいで、彼の整った容姿は威圧的な空気を色濃く漂わせていました。
その中で、長い睫毛に縁どられた青の瞳が泳いでいます。声を掛けたものの、何を言おうか悩んでいるご様子。
埒が明かないのでもう一度声を掛けてから去ろうかと思った私でしたが、その時、彼の目の下に深い隈が出来ている事に気が付きました。
「……お仕事は、大変ですか?」
「え?」
何かを問われるとは思っていなかったのか、思わずと言った様に聞き返す声があります。
私は彼の顔に手を伸ばしました。
しかし指先が彼に届きそうになったところで、拒絶するように後退られてしまいましたので、私は素直に腕を下ろしました。
「失礼いたしました。随分と深い隈がありましたから」
「大した事はない。まだ慣れていないだけだ」
「よろしければ、お手伝いいたしましょうか」
「貴女が?」
「こう見えて私、学園は首席で卒業しておりますのよ。財政の管理のお手伝い程度ならば、お役に立てることもございましょう」
怪訝そうな視線が向けられるけれど、私はにっこりと笑みを浮かべます。
「言葉を交えたくないと仰るのであればお手伝いの間は一切口を開きません。同室がお嫌であれば、別室で対応いたしましょう。私はただ、ヴァーノン公爵家の当主様が過労で倒れてしまう事を公爵夫人として案じているのです」
公爵であるダリル様がお体を壊してしまえばヴァーノン公爵家は回らなくなってしまいます。
故にさせて頂いたご提案。それを聞いた彼は更に顔を顰めました。
「貴女は、何も思わないのか」
「と言いますと?」
「貴女に対する俺の態度に」
「思い当たる事があるのでしょう? それでも改めないとご判断した事を、私の一言で覆せるとは思っておりませんから」
ダリル様は口籠りました。
やはり、ご自身の行いがどれほど不義理であるのかのご自覚はあるのでしょう。
であるならば私が諭すような事もございません。
「休憩にいらしたのですよね? 私はこちらでお待ちしておりますから、終わりましたら――共にお仕事へ戻りましょう」
笑顔で続ける私の言葉に、ダリル様は渋い顔付きで頷きました。
***
私はダリル様の執務室で彼のお仕事のお手伝いをします。
幸い、学園で学んだ事、また私が婚家で生き延びるために自ら積み上げた知識が役立ち、ダリル様のお仕事の負担を減らすことが出来たようでした。
勿論、必要最低限の発言以外は致しません。
執務室は驚く程静かで、紙が擦れる音やペンが走る音、時計の音などだけが部屋に響いておりました。
日が経つにつれ、ダリル様は仕事関係の会話のほか、挨拶のお返事や相槌程度でしたら返してくれるようになっておりました。
お仕事仲間として、多少は信頼してくださったのでしょうか。
そんな生活が三ヶ月程続いたある日。
日が暮れた頃を見計らって私達は仕事を切り上げます。
「それでは、失礼致します」
「ああ」
一足先に去ろうと頭を下げた私へダリル様が視線を送る。
その時だ。彼は私の手元を見て瞬きをした。
「……それは?」
「ああ、手袋です」
「何故?」
私は肘辺りまで隠れる手袋を着けるようになっておりました。
これを着け始めたのはお仕事をお手伝いするようになってすぐの事。
彼がそれに気付いていなかったのは、それだけ私の姿を見る余裕がなかった事の表れでしょう。
理由を問われたので、私は素直に応えます。
「万が一にでも、ダリル様のお手に触れる事がないようにと」
ダリル様は険しい顔をしました。
「誤解しないでくださいませ。私が旦那様を拒絶している訳ではございません。ただ、勝手に。……以前、お顔に触れようとした際にお嫌そうでしたので、もしや私に触れる事はお嫌いなのかもしれないと思いまして」
「な……っ」
「違いましたか?」
私が首を傾げれば、ダリル様は言葉を失います。
見当違いの発言をしたわけではなさそうでした。
ダリル様は笑顔のままの私を見て深く息を吐いた。
「…………すまなかった」
「はい?」
今まで彼の口から聞いた事の無かった声に私は聞き返します。
「貴女に、嫌な思いをさせていたのだろう」
「私は別に。一般的にはそう思われても仕方がないかとは思われますが」
淡々と答える私の反応が気に入らなかったのだと思います。
彼は困ったように髪を掻き上げ、深く息を吐きました。
「貴女には、感謝しているんだ」
「まあ、そうだったのですね」
「……当然だ。貴方に助力いただいてから、体を休ませる余裕が出来た」
感謝が伝わっていなかった事を心外に思ったのでしょう。ダリル様の顔が更に険しくなりました。
確かに、細められた目の下から隈は消えています。
「それはよかったです」
「何か」
また何か言いかけるダリル様。
私が次の言葉を待てば、彼は間を空けてから言いました。
「何か、欲しいものはあるか」
私は首を傾げ、少し思案した後答えます。
「では子供を」
ダリル様が険しい顔のまま固まります。
私はくすくすと笑って撤回します。彼の反応は想定内です。
「では、旦那様の事を教えて頂けませんか」
「……俺の事?」
「はい。何故、異性を苦手とするのか」
これも、拒否される可能性はありました。しかし言うだけはタダというものです。
「やはり、夫婦間で子作りが困難である現状は傍から見れば深刻な状態ではありますから。私側で何か改善できるような事があるならば、それを見つけたいのです」
「だが」
「気が向いた時で構いません。寝室へお越しください。……私は毎夜、そこにおりますから」
私の言葉に、ダリル様はハッと息を呑みます。
何かに気付かれたのでしょう。
私は笑みだけを彼に返すと「失礼いたします」とお辞儀をしてその場を去りました。
***
その晩の事。
私はいつも通り夫婦の寝室で寝支度を整えていました。
初夜を除いた四ヶ月、私はずっとここで体を休めていました。
そこへ――ダリル様がやって来ました。
寝間着の上からガウンを羽織った彼の姿を見て私は久しぶりに驚きを顔に出しました。
「……貴女が言ったんだろう」
「そう、ですわね」
確かにその通りではあるのですが、これまで夫婦としての義務を放って来たダリル様の事ですから、きっと今回もすっぽかすか――もしくは、もう少し悩み、日が経ってから訪れるものと思っていたのです。
ダリル様は寝室の戸を閉めてから広々とした寝室を見渡します。
そして、大きなベッドの傍に立つ私を見て小さく呟きました。
「ここは……こんなにも広かったのか」
それから私達は同じベッドで横になります。
寝間着のまま横になったところを見ると、夫婦の務めをするつもりはないのでしょう。
しかしそれでも確かな変化と言えます。
「すまなかった」
「何に対してでしょう」
「何の話もせずに貴女を一人にしてしまった事だ」
「構いませんわ」
謝罪をするという事は、今後同じことは起こらないという事だと私は判断しました。
ですから彼の謝罪をあっさりと受け入れます。
それから、暫く沈黙が続きました。
私が促さずとも、ダリル様は自ら口を開くだろうと思っておりましたから、私はただ静かに待っておりました。
「このような話をすれば、貴女は幻滅するかもしれないが」
「今更そのような事を気にされていらっしゃるのですか?」
ぐ、と呻き声が聞こえた。
私はくすくすと笑う。
それからダリル様は真剣な声に戻り
「昔……父の愛人に不当な振る舞いを迫られた事がある」
「不当な、と申しますと」
「本来ならば夫婦や妾でなければ認められないような事だ」
彼はそれ以上詳細に語りませんでしたが、その言葉だけで充分でした。
見目麗しいお顔立ちのダリル様。そして家には数えきれない程の異性がいた。
そのような家庭環境で――血筋や地位を無視し、無垢な子を手玉に取ろうとした不届き者がいたと。
幼少の頃の経験は時として大人になっても尾を引くものである事を、私は身を以て知っています。
ですから、彼が今も女性を遠ざけてしまうだけの理由、そうなり得るだけの事が過去にあったのだと、私は理解しました。
「……エリン?」
言葉を失った私をダリル様が呼びます。
私は我に返りました。
「幻滅などいたしませんわ。お話しいただきありがとうございます」
私達は何となく、互いに背を向けた状態で横になっておりました。
ですからダリル様の顔は見えません。
その状態で、私は小さく呟きました。
「では尚更……子作りを強いるような事は出来ませんわね」
「貴女には苦労をかける。……いつかは、作らねばならないと……わかってはいるのだが」
「いいえ。寧ろ、『いつか』を考えてくださっている事に安堵いたしました。このままでは修道院にでも向かわなければならないのではと考えておりましたから」
「な……修道院……!?」
どういう事だとダリル様が飛び起きる気配があります。
しまった、と私は思いました。
話すつもりのなかったことがうっかり口から滑り落ちてしまったのです。
恐らく、彼が見せてくれた弱さに共感してしまったのでしょう。
ダリル様の視線を背に感じながら私は笑います。
「このまま子も出来ず、婚姻は解消になるのではと」
「そんな事はしない! ……が、何故それが修道院へ行く話に」
「婚姻が解消されるのが数年後だとすると、結婚の適齢期は過ぎてしまいます。それに、世間から見れば私は傷物。貰い手は見つからないでしょう。けれど……生家にも私の居場所はありませんから」
父、母、兄、妹。それが実家の家族構成。
家族は皆妹を可愛がり、私は妹を虐める姉として日々強く当たられていました。
勿論妹の出まかせだったのですが、私の言葉を聞く者は家族の中にはいませんでした。
今回の結婚だって、ダリル様の噂を知っている両親が可愛い妹を苦労させず、尚且つ悪女である私を追い出した上で、公爵家と深い繋がりを持てるようにと計画したもの。
ですから離婚し、生家へ帰されたところで利用価値の亡くなった私に居場所はありません。
そんな環境で一生を終えるくらいならば修道院へ逃げ、自らの手だけで生きていく方がよっぽどマシでした。
ダリル様もまた、私が全てを語らずとも何かを察してくださったのでしょう。深く問われる事はありませんでした。
「そうだったのか」
「はい」
「では貴女の微笑みは自己を守る為のものか」
「そうですね。他者に頼らず自らの力で生きるには、虚勢を張り、見下されない立場の方が都合が良いのです。……ダリル様の厳しいお顔付きと同じ様なものですわね」
「気付いていたのか」
「今気付いたのです」
私達は少しだけ、似ていた。
この日私達はその事に気付く事ができました。
「ダリル様」
「なんだ」
「よろしければ……お手に触れても?」
返事がありません。
私は続けます。
「ダリル様が『いつか』と口にしてくださりましたから、私もその『いつか』のお手伝いをさせていただきたいのです。少しずつ……少しずつ、触れ合う事に慣れる事から始めませんか」
「しかし」
「拒絶されたとて気にしませんわ。本意とは別のものであると、今日のお話しのお陰で確信が持てましたから。少しずつ、触れ合う範囲や頻度を増やしていって、嫌悪を感じた場合は前の段階に戻りましょう。……一度、試してはみませんか」
私は体を起こし、振り返ります。
いつもの仏頂面とは違う、困った様な顔をしたダリル様がいました。
目が合います。
銀髪の下、青い瞳が私を映し、そして。
「……わかった。迷惑を掛ける」
「いいえ。では……失礼いたします」
私は手袋を外し、ダリル様の手へそっと手を伸ばします。
ダリル様の顔色を慎重に窺い、ゆっくり、ゆっくりと。
そして……
彼の指先に、私の指が触れました。
私はダリル様の顔を見ます。
彼は驚いたように重なった指を見つめていました。
「……心配して損しましたわ」
彼は全く嫌悪など感じてはいない様子。
私はプッと小さく吹き出しました。
それから私達は仕事の合間を練って、少しずつ触れ合う機会を増やしていきました。
初めは手を重ねるだけ。そこから互いに手を繋ぎ、腕を絡め、頬に触れ……。
初めは私からだけであったスキンシップも、少しずつ彼から触れる機会を増やしました。
そうしてダリル様は私を両腕の中に収めても抵抗を示さなくなりました。
「……きっと、貴女が何も言わず信頼を築いてくれたからなのだろう」
「信頼?」
結婚から一年が経った頃。
寝室のソファに座り、私を抱きしめながらダリル様はそう言いました。
聞き返せば、彼は頷きます。
「私欲や感情から私を求めるのでも悲観するのでもなく、ただ静かに傍から私を支えてくれた」
きっと、お仕事の補佐のお話をされているのでしょう。
当時の私は結婚が破棄されたならばされたで仕方ない、修道院へ行く心積もりをしておこうと言った風に考えておりましたから、彼に取り入ろうとも思ってはおりませんでした。
それが、寧ろ自分が心を許すきっかけになったように思う、とダリル様は仰いました。
「……なぁ、エリン」
「いかがされました? 旦那様」
私の名を呼んだものの、ダリル様は言い淀みます。
顔を僅かに赤らめ、目を泳がせた彼はやがて首を横に振りました。
「…………何でもないよ」
何て可愛らしいお方。
私は密かにそう思っておりました。
それから一週間後の事。
妹の誕生日パーティーへ、私とダリル様は出席します。
私達が共に立っていると、そこへ婚約者を連れた妹がやって来ました。
「ご機嫌よう、ダリル公爵様、お姉様」
「ご機嫌よう、ブライズ」
ブライズは私達を交互に見た後、お得意の愛嬌ある笑顔を顔に貼り付けて言いました。
「そろそろ結婚から一年よね? どうなの? 赤ちゃんとか」
公の場で、よくもそんな話が出来たものだと私は内心で思いました。
ブライズの声は大きく、周囲の人々の視線も自然と私達へと集まります。
妹の発言はマナー違反も甚だしいのですが、結婚から一年が経った夫婦の子供の事情を気にすること自体は実はそこまでおかしな話ではありません。
結婚してから一、二年もあれば、殆どの夫人が一度目の出産を終えるものです。
そんな中、一年が経っても何の変化もなくパーティーへ参加できている私を見れば、夫婦の務めの方はどうなのかと気にするものもいる事でしょう。
それに……ダリル様の女嫌いの噂の事もありましたから。
ブライズはきっと、私達の関係が上手くいっていないものだと踏み、私に恥を掻かせて嘲笑いたかったのでしょう。
事実、私達の結婚はまだ白いままでしたから、彼女の読みは合っていたと言えます。
「ええ、そうね。なかなか子宝に恵まれなくて」
「ええっ、もう一年も経つのにぃ~? かわいそぉ。お医者さんにはいったの?」
ああ、嫌になるわ。
キンキンと大きな声を聞きながら、私は笑顔を貼り付けて思いました。
周囲の者も周囲の者で、誰もブライズを責めることなく、ひそひそと私達夫婦についての憶測を立て始めておりました。
ダリル様とて迷惑だったことしょう。
申し訳ないわ、と彼へ視線を送ろうとした、その時でした。
私は腕を強く引かれます。
驚いて体勢を崩す私を受け止める体がありました。
ダリル様です。
彼は私を見下ろすと、困ったように眉を下げてから囁きます。
「エリン、すまない」
そう言った彼はそのまま――
――自身の唇で、私の唇を塞ぎました。
「……失礼。このような場で」
何が起きたのかわからず呆然とする私を抱き寄せたまま、彼は周囲へ声を張ります。
「どうやら私達の真実の愛を信じて頂けない方々が多く見受けられたようなのでね」
ダリル様がそういえば、周囲の人々は気まずそうに視線を彼から外しました。
「この通り、ご心配はいらない。近々、いい知らせが出来るよう我々も努力するので、どうか温かく見守っていて欲しい。……エリン、行こう」
「は、はい……」
ダリル様はそう言うと、ブライズへ短く挨拶をして私の腕を引きます。
彼は言葉だけの祝福と共に、男爵家の婚約者を連れていたブライズへ嘲笑をお見舞いしていました。
お陰でブライズは顔を真っ赤にして震え上がり、彼に言葉を返す事すらできなくなってしまいました。
私はダリル様に手を引かれ、パーティー会場を後にします。
その晩。
帰宅した私達はいつものように寝室に居ました。
「すまなかった、突然あのような事を」
「何故謝るのですか。私達は夫婦ですよ?」
確かにこれまでのスキンシップでキスをした事はなかったし、場所も不適切ではありました。
しかし……私は嫌悪を抱いたりはしていなかったのです。
「……そう、だが」
きっと彼は幼少の記憶から、了承もなく異性へ過度に接触する事に罪悪を覚えているのだと思います。
だから私は彼にこう言いました。
「私は、嬉しいと思いましたよ」
「……嬉しい?」
「はい。旦那様が自らキスをしてくださるほどには、心を許してくださっているのだな、と思ったら」
「エリン…………」
ダリル様を気遣っての言葉だったのですが、何故か彼は困り果てたような顔で長い溜息を吐きました。
それから、彼は真剣な顔になりました。
「エリン」
「……はい?」
「遅くなってしまったが」
彼は私が就寝の為に外していた結婚指輪をサイドテーブルから取ると、私の左手を取ります。
そしてその薬指に、指輪をはめたのでした。
「愛しているよ、エリン」
その言葉に驚き、私は目を見開きます。
聞き間違いを疑おうとしました。けれど、彼が自ら着けてくれた指輪がそれを否定していました。
「伝えるのが遅くなってしまって、すまない。その……あんな始まりだったから、今更言葉にしようとなると……突然不安になってしまい」
普段、氷のような冷たさを与える顔は驚くほど赤かった。
初めて見る彼の顔に驚いた私の顔もまた、つられるように熱くなっていく。
「その……貴女の気持ちを、聞いてもいいだろうか」
「え、っと……その」
私はとても混乱していました。
彼にとって、きっと初めての告白だったのでしょう。
けれどそれは――私とて同じ事なのです。
「あ、あいして、います……」
こんなにも上手く言葉が言えないのは後にも先にも、この時だけでしょう。
彼は結婚指輪を嵌めて、私に愛を示してくれました。
けれど彼の結婚指輪は反対側のサイドテーブルに置かれていて、私の手では届きそうにありません。
困った末、私は彼の両頬に触れ、それから――
――彼の唇にキスを落としました。
「……ふふ」
なんだかとても照れくさくて、思わず笑みを零してしまいます。
不意を衝かれたダリル様は暫し呆然とした後、何かを耐えるように顔を顰め、しかしその後私をベッドの上に押し倒しました。
「――駄目だ」
「え、ちょ、旦那様」
「ダリルでいい」
「……っ! だ、ダリルさ……ダリル……ッ!」
彼は私の首筋にキスを落とします。
私はこれから起きる事を悟りました。
「こ、心の準備が……っ!」
「昨日まで、俺をリードしてくれていた女性の言葉とは思えないな」
耳元でくつくつと笑う声が一周回って心臓に悪い。
「少々お待ちを……っ」
「無理だ」
「そんな……っ、きゅ、急に――性急すぎます……っ」
「情事だけにとでも言いたいのか?」
「はぇ? …………うっさいですがっ!?」
「はははっ!!」
突然小ボケを挟むダリルに慌てて言い返した時にはもう、日頃繕っていた敬語すら滅茶苦茶でした。
顔を上げたダリル様は子供のように無邪気に笑っていらっしゃいました。
そんな顔をされては――何も言えなくなってしまいます。
満更でない自分がいたのは、事実ですから。
「貴女が愛おしすぎるのが悪い。観念してくれ」
「……もう。仕方がありませんわね」
滅茶苦茶な言い分ですが、私は抵抗をやめることにしました。
「……優しくしてくださいね? ダリル」
「ああ。……大切にするよ、エリン」
私達はもう一度、今度は深いキスをしました。
それから私達は甘い夜を過ごし、溢れんばかりの愛情と引き換えに――白い結婚は終わりを告げたのでした。
最後までお読みいただきありがとうございました!
もし楽しんでいただけた場合には是非とも
リアクション、ブックマーク、評価、などなど頂けますと、大変励みになります!
それでは、またご縁がありましたらどこかで!




