表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
クロノ・レクイエム  作者: クリスチアン・ディアス
エピソード1:[革命]
34/40

第33章:【ヒーローになろうとする】

そこには何もなかった。

地面も。

空も。

地平線も。

ただ白一色。

深みも形もない、すべてを包み込む、果てしなく続く絶対的な白。

ダニーはそこにいた。

立っていた。

頭を下げて。

彼の手は震えていた。

右手に小さなチックが走っていた。人差し指と親指が不規則に動き、無意識のうちに、繰り返し、互いにぶつかり合っていた……まるで自分の体が、もはや存在しない何かにしがみつこうとしているかのようだった。

音はなかった。

風もなかった。

感覚もなかった。

寒さも。暑さも。

何もない。

(「……死んだのか?」)

その考えは、反響のないささやきのように彼の脳裏をよぎった。

そしてその時――

声がした。

女性の声。

だが……おかしい。

歪んでいる。

まるで、異なる場所から複数の声が同時に話しかけてくるかのようだった。

「その通りです、ダニーさん」

ダニーはゆっくりと視線を上げた。

そして、それを見た。

上空に。

その白い虚無の中に浮かんでいる――

一つの目。

巨大な。

彼を見つめている。

微動だにしない。

瞳孔は固定され……彼を射抜いている。

ダニーは眉をひそめた。

「じゃあ……俺は何のためにここにいるんだ? 何も感じない……何も感じられない。 気流さえ感じない……」

その目は瞬きもしなかった。

しかし、答えた。

「第二の世界でチチロの力を宿して生まれ、第一の世界で死ぬことを選んだすべての魂は……裁きを受けることになる。」

間。

重苦しい沈黙。

「ここだ。」

空間が張り詰めたように感じられた。

「永遠に……苦しむことになる場所だ。」

ダニーの手の震えが激しくなった。

「チチロの道徳法によれば……いかなる魂も人間界に近づいてはならない。さもなければ……裁きを受けることになる。」

その声には感情がなかった。

「お前の死は早かった。奇妙だ。衝動的だった……」

沈黙。

「復讐を求めての、お前の旅路そのもののように。」

ダニーは歯を食いしばった。

両手を強く握りしめた。

筋肉が震えた。

彼は顎を突き出し、怒りがその表情を歪ませた。

「てめえ、一体何者だ——!?」

カット。

フレーム1。

彼の右腕が切り離される。

フレーム2。

血は飛び散らない……宙に浮いている。

フレーム3。

腕が空中で回転する。

フレーム4。

落下する。

フレーム5–12。

跳ね返る。

転がる。

まるで地面があるかのように、存在しない虚空を叩く。

フレーム13~24。

止まる。

動かなくなる。

痛みはその後やってきた。

遅れて押し寄せる波のように。

「この世界の第一の掟……」

声は変わらなかった。

「至高のダイに声を荒げるな。」

乾いた爆発音。

彼の左足――

粉々になった。

切断されたのではない。

破壊されたのだ。

無数の破片へと分解され、白い空間へと消え去る前に飛び散った。

「第二の掟……」

間。

「怒ってはならない。」

ダニーは叫ぼうとしたが、

声が出なかった。

体は震えていた。

目を見開いたまま。

そして――

ドスン。

何かが彼の胸を貫いた。

穴。

きれいに。

完璧に。

まるで空間そのものが彼を貫いたかのように。

「第三の掟……」

沈黙。

「普通に話すこと。」

彼の体は落ちた。

重く。

抵抗もなく。

存在しない「地面」に叩きつけられた。

そして、そこに横たわった。

動かず。

虚無。

その眼が彼を見つめていた。

常に注視している。

「お前の死は無駄ではなかった。」

声は……より深く響いた。

より遠くから。

「単なる埋め草でもなかった。」

間。

「お前の魂は、第二世界の各氏族の上層部と結びついている。」

白さが広がっていくようだった。

「もしお前が消え去ったとしても……たとえ彼らが異なる宇宙にいても……」

瞳孔がわずかに収縮した。

「彼らは知るだろう。」

完全な沈黙。

「そして……」

微かな震えが空間を走った。

「始まる。」

声はさらに歪んだ。

「戦争が。」

ゆっくりと。

重々しく。

「人間の苦しみに見合う……戦争が。」

◇◆◇


チク…タク…チク…タク…

時計が再び姿を現した。


次の時刻を告げている。


午前6時。


残り17時間…


チク…タク…チク…タク。


「ここで少し休もう!」――アイリーンが叫んだ。

夜明けは静かに訪れた。

木々の梢の間から太陽の光が差し込み始め、森を温かな色合いで染め上げた。空気は爽やかで清々しい……昨夜の混沌とは対照的な、ほとんど非現実的なほどだった。

初めて――

彼らは息をすることができた。

一行は草むらや露出した木の根の間に散らばっていた。休んでいる者もいれば、まるでどんな物音もこの瞬間を壊してしまうのを恐れるかのように、ただ黙り込んでいる者もいた。

アイコは岩の上に座っていた。

彼女の向かい側で、アイリスは確かな手つきで傷の手当てをしていた……あまりにも確かな手つきで。

「動かないで」

「痛い!」

「痛いに決まってるわ、体の半分を貫かれたんだから」

愛子は明らかに居心地悪そうに、少し視線をそらした。

「だって……嫌なの……」

アイリスは舌打ちし、明らかに苛立っていた。

「今さら怖くなったの? あんなことをしたくせに。」

横から、アンナが小さく笑った。

「情けないわね、愛子。」

「ちょっと!」


アイコは眉をひそめたが、それ以上は何も言わなかった。

少し離れたところ――

サイモンは腕を組んで立っていた。

その横にはアイリーン。

そして、二人の目の前には少女がいた。

突然、彼女は力強く両腕を上げた。

「自己紹介するね、私の名前はホシ!」

サイモンは軽く笑った。

「会えてうれしいよ、ホシ。」

しかし、彼女はそこで止まらなかった。

「私のどこかに変なところがあったとしても、心配しないで。普通のことだから!」

サイモンは首をかしげ、困惑した。

「変ってどういう意味? 何かフェチでも持ってるの?」

返事は即座だった。

「黙って、生意気なクソ野郎! ここにいる中で一番クレイジーなのは私よ!」

その後の沈黙は気まずかった。

サイモンはまばたきをした。

ゆっくりと頭をアイリーンの方に向けた。

「妹に何を教えてるんだ?」

アイリーンの表情は変わらなかった。

「聞かないで。」

少女は腕を組んで、明らかに不機嫌そうな顔をした。

「私の兄に手を出したら、この下にいる子にも手を出したことになるわよ!」

サイモンは彼女を見た。

それから前を見た。

そしてまた彼女を見た。

彼の顔は、居心地の悪さと困惑が完璧に混ざり合ったものだった。

どう返せばいいのか分からなかった。

少し離れたところで――

ニッキーは作業をしていた。

バイクの横に座り、周りに工具を散らかしながら、一つひとつの部品を注意深く点検していた。調整し、掃除し、明らかにずっと使いたがっていた新しい部品を取り付けていた。

彼女の手は正確に動いていた。

まるで、そのささやかな修理という行為こそが、彼女にとってコントロールを取り戻す手段であるかのように。

奥の方では――

アーサーが歩いていた。

ゆっくりと。

観察しながら。

彼の視線はグループを巡った。

笑い声。会話。休息。

彼の表情に、かすかな笑みが浮かんだ。

周囲の時間がゆっくりと流れていくようだった。

(…正しいことをした気がする。)

芝生の上を、彼の足音は静かに響いた。

(…みんなが互いに会話を楽しんでいるのを見て、幸せだ…)

一呼吸。

(…こんな気持ち、ずいぶん久しぶりだ。)

彼の眼差しが、ほんの少し和らいだ。

(もしかすると…ほとんどなかったかもしれない。)

風が葉をそっと揺らした。

(……私たちは絶えず危険と謎の中に生きている……)

彼女は目を伏せた。

(……そしてそれ……)

彼女は立ち止まった。

足は芝生にしっかりと踏みしめられた。

(……それは……本来あるべき以上に、私を怖がらせているのかもしれない。)

彼女はコートのポケットに手を入れた。

時計を取り出した。

それを目の前に掲げた。

笑みが消えた。

彼は黙ってそれを見つめた。

(「タイムトラベル……タイムライン……死……犠牲……そして戦い。」)

指がその物体を強く握りしめた。

金属が圧力でかすかに軋んだ。

(「……これは単なる時計ではない……」)

彼の眼差しが鋭くなった。

(「……これは呪いだ。」)

ニッキーはエンジンから視線を外さなかった。

「何してるの?」

アーサーはすぐには答えなかった。

彼は近づき、彼女の横に腰を下ろして草の上に座り、うつむいた。時計はまだ彼の手の中にあった。

「……ゆっくり休む暇なんてなかったよね?」

工具の金属音が止んだ。

ニッキーは調整していた部品を置き、彼の方へ顔を向けた。普段とは異なる真剣な眼差しで彼を見つめていた。

「……私も疲れているわ。」

沈黙が流れた。

「子供の頃に戻りたい……みんな、あの頃に戻りたいんだわ……」

彼女は一瞬、視線を落とした。

「……でも今は、あなたがいることで不安になるの。」

空気が張り詰めたように感じられた。

アーサーは答えなかった。

ただ、顎を手に乗せ、肘を彼女の腿に預けた。彼の表情がわずかに硬くなり、爆発には至らなかったものの、わずかな苛立ちの兆しが見えた。

ニッキーはそれに気づいた。

彼女はすぐに身構えた。

「私、何か悪いこと言った!? あなたを嫌いだなんて言いたかったわけじゃないの! 本当にあなたのことが好きなのよ!」

アーサーは彼女の方へ視線を向けた。

そして、かすかに微笑んだ。

「……まさか……」

その口調は穏やかだった。

だが、皮肉に満ちていた。

ニッキーはパニックに陥った。

彼女の手は素早く、不器用な動きで、ジャケットのポケットの中を探った。

「待って!」

彼女は何かを取り出した。

そして、それを彼の方へ差し出した。

「ほら!これ…謝りの気持ちってやつよ。」

アーサーは顔を上げた。

そして、じっと立ち尽くした。

目を見開いた。

口がわずかに半開きになった。

沈黙。

ニッキーの手には…

ガムが一つ。

ピンク色。

丸い。

ごく普通の。

「地下室で古いガムをいくつか見つけたの…まだ美味しいはず…だと思うけど。」

アーサーはゆっくりと彼女を見上げた。

「俺に何をしてほしいんだ?」

「……え?」

ニッキーは完全に戸惑い、まばたきをした。

しかし、アーサーはすでに動いていた。

彼は彼女の両手を力強く握りしめた。

「君のバイクを直してやる! 部品を探してやる! 何でもする!」


「……ただのガムだよ。」

「ガム一粒が、俺の人生全体よりも価値があるんだ! わかるか?! ガムなんて、もう何年も食べてないんだ! ガム一粒のためなら、国を滅ぼすことだってできるぞ!」

ニッキーは凍りついた。

彼を見つめながら。

頭の中で整理しながら。

そして――

彼女は爆笑した。

大声で。

抑えきれずに。

彼女は笑いながら少し前かがみになり、目から涙がこぼれ落ちた。

「あなた、まるで小さな子供みたい!ハ…ハハハハハ!

アーサーは答えなかった。

ただ彼女を見つめていた。

少し戸惑いながら。

少し…心が軽くなったように。

しばらくして、ニッキーは落ち着きを取り戻した。

深く息を吸った。

そして、小さな笑みを浮かべ、彼の右手を握り、その上にガムを置いた。

「……私に何かくれる必要なんてないわ。」

彼女の声はより柔らかかった。

誠実だった。

「あなたがここにいてくれて、感謝しているわ。」

彼女は一瞬、視線を落とした。

「あなたがいなかったら……私たちはみんな死んでたわ。」

彼女は再び彼を見つめた。

「あなたはバカじゃないわ。」

ほのかな微笑み。

「一番バカげた行動が……時々、一番うまくいくこともあるのよ。」

アーサーは何も言わなかった。

ただ耳を傾けていた。

「今の君のままの君が好き。」

ニッキーは手を上げた。

そして、その手を彼の頭の上に置いた。

優しく撫で始めた。

「君は小さな子供なのよ……その十代の仮面の奥には。」

風が木々の間を吹き抜けた。

そして一瞬――

アーサーは動かなかった。

ニッキーの手の感触がまだ頭の上にある……

そして突然――

すべてが消え去った。

森の音。

声。

太陽の熱。

すべてが消え失せた。

アーサーの世界は真っ暗になった。

空虚。

形のない。

方向性のない。

ただ彼……と彼の思考だけ。

彼の心はさまよい始め、その暗い空間を制御不能に滑り落ちていった。

「……俺は本当に人間として変わったのか……?」

声は聞こえなかった。

だが、感じられた。

「……それとも、ただ行動が変わっただけなのか……?」

言葉は、重さもなく漂っていた。

「……『良い人間であること』と……

『クソみたいな行動をとること』の違いが、まだよく分からない。」

沈黙。

長い。

重苦しい。

「…混乱する……」

虚無は答えなかった。

「…でも…本当に俺は他人を傷つけることができるのか…?」

彼の呼吸……もしあったとすれば……は、さらに遅くなった。

「…本当に俺は、この先数日のうちに殺人者になるのか…?」

言葉は今や、這うように出てきた。

「…もしかすると数年……」

「…あるいは数世紀……」

時間。

いつも時間だ。

「……でも、時間が答えを教えてくれるだろう。」

存在しない反響がその言葉を繰り返した。

「……我々は時間と戦う……

そして、時間を味方につけている……」

沈黙。

完全な。

そしてその時――

声はさらに小さくなった。

さらに脆くなった。

「……僕……」

声にひびが入った。

「……僕には、こんな人生を送る資格なんてない。」

虚無は変わらなかった。

だが、彼の中の何かが……変わった。

彼の目がぱっと見開かれた。

震えていた。

呼吸は乱れていた。

もう森にはいなかった。

すべてが真っ暗だった。

絶対的な虚無……音もなく、空気もなく、境界もない。

それなのに――

彼は輝いていた。

かすかな光が彼を包み込み、無の真ん中で彼を孤立させていた。

彼は座っていた。

彼の体の下には、ただの木製の椅子があった。

目の前には……何もない。

静寂。

だが、彼の心は叫んでいた。

(「生きなければならない!」)

彼の指が硬直した。

「もし俺が自分の物語の作者なら……一瞬一瞬を価値あるものにしてみせる!」

彼は歯を食いしばった。

表情が変わった。

決意。

「自由を手に入れる!」

彼は立ち上がった。

椅子が後ろに残され、かすかにきしむ音がした。

しかしその時――

彼は立ち止まった。

彼の表情が変わった。

戸惑い。

動こうとした――

動けなかった。

何かが彼を縛り付けていた。

彼は視線を下げた。

そして恐怖が全身を駆け巡った。

一本の腕。

虚無の中から現れ、

彼の右腕を掴んでいた。

その体は「下」からゆっくりと現れ、まるで存在しない床を突き抜けてくるかのようだった。

アイザック。

その瞳は……

真っ白だった。

瞳孔がない。

その表情は……

奇妙なほど穏やかだった。

あまりにも。

不気味だ。

アイザックは頭を横に傾けた。

「僕のこと、忘れてはいないよね……?」

その声は穏やかだった。

ほとんど優しいほどに。

「お前のせいで、俺は死んだんだ。」

アーサーは答えなかった。

答えられなかった。

視線を前方に向けた。

そして、その体は凍りついた。

子供たち。

何百人。

何千人。

彼を取り囲んでいる。

まるで一軍のような数だ。

暗闇の中に立ち尽くし、

彼を見つめている。

彼らの瞳は……空っぽだ。

真っ白だ。

四方八方から、ゆっくりと彼に向かって歩いてくる。

音も立てずに。

アイザックは彼の腕を、さらに強く握りしめた。

「……俺たちの多くは、お前の銃で仕留められたんだ。」

間が空いた。

「厳密に言えば……お前は、俺たちが苦しまないように殺してくれたわけだ。」

彼の声は変わらなかった。

「だが、俺はどうなんだ…?」

アーサーは視線を下げた。

彼の右手。

何かが起きている。

火花。

そしてまた一つ。

炎。

広がっていく。

ゆっくりと。

彼の皮膚を焼き尽くしていく。

「俺は、お前を救うために身を捧げたんだ。」

その握力は消えた。

「…ただの殺人犯を救うために。」

炎が爆発した。


全身が炎に包まれた。

「ああっ!」

アーサーは叫んだ。

炎に飲み込まれながら、彼は両手を頭にかざし、身もだえし、痛みが内側から全身を貫くのを感じた。

彼は存在しない空を見上げた。

「そんなはずはない!」

映像。

閃光。

未来。

戦争。

戦場。

死体。

次々と倒れていく兵士たち。

彼のために。

彼の決断のために。

彼の存在のために。

「そんなはずはない!」

彼は走った。

必死に。

両腕を振り回しながら。

虚無を突き破るように。

子供たちの間を駆け抜けた。

子供たちは動かなかった。

ただ彼を見つめているだけだった。

無言で。

目もなく。

判断力もなく。

ただ……そこにいるだけ。

アーサーは走った。

止まることなく。

行き先もなく。

彼は右手を前に突き出した。

世界がスローモーションになった。

炎は彼を焼き尽くし続けていた。

だが、彼は止まらなかった。

「この世界を悪から救うのは、俺だ!」

彼の声が虚無を切り裂いた。

そして――

すべてが消えた。

漆黒。

完全なる。

音もなく。

光もなく。

何もない。

◇◆◇

時が過ぎた。

それほど長くはない。

だが、十分だった。

森は依然として静まり返り、朝の光に包まれていた。空気は軽やかで……ほとんど欺くようだった。

トニは木箱の上に座り、リラックスした様子で、片方の口角を上げて微笑みながら、まるで自分の体を試すかのように肩を軽く動かしていた。

「信じられない!まるで傷一つ負っていないみたいだ!わかるか?」

アーサーは彼の隣にいた。

座っている。

じっとしている。

右手にあるガムを、単なるお菓子以上の何かであるかのようにじっと見つめていた。

彼の瞳には、その瞬間が映っていなかった。

どこか別の場所にあった。

「…最高だね、うん…」

彼の声は小さかった。

遠く離れたような。

「傷一つ負わないなんて、最高だ。」

その対比は明らかだった。

トニは彼の方へ顔を向け、その無表情な様子に気づいた。

「その悲しそうな犬の顔、どうしたの? 何かあったの、アーサー?」

沈黙。

風が葉をわずかに揺らした。

アーサーは顔を上げなかった。

「俺、悪い人間になると思う?」

その問いかけは重くのしかかった。

予期せぬものだった。

トニは固まった。

笑顔が消えた。

何かを探しているかのように、数秒間床を見つめた。

「……わからないな」

率直に。

ストレートに。

アーサーは軽くうなずいた。

「ふむ」

ガムを口に入れた。

噛みしめた。

その味が口いっぱいに広がった。

甘い。

人工的。

古臭い。

彼の目が潤んだ。

そして、抑えきれずに――

涙がこぼれ落ち始めた。

「ひどい味だ……」

少しの間が空いた。

「……でも、いいんだ。」

その瞬間が破られた。

「みんな! 行かなきゃ!」

その声は木々の間から聞こえてきた。

皆が振り返った。

サイモンが森の中を走って現れ、息を切らし、明らかに動揺していた。

彼は彼らの前で立ち止まり、あえぎながら言った。

アイリーンはすぐに前に進み出て、真剣な表情を浮かべた。

「どうしたの?」

サイモンは息を整えようとした。

「あの……獣たちが……」

彼は唾を飲み込んだ。

「獣たちがこっちに向かってくる。」

場の空気が一変した。

一瞬にして。

「屋敷の崩壊が、獣の大群を呼び寄せたんだ……」

彼の視線がグループを巡った。

「ここから動かなければ、俺たちは死ぬぞ!」

短い沈黙。

張り詰めた空気。

「馬を用意しろ!」

休息は終わった。

◇◆◇

馬たちは疾走していた。

そして止まることはなかった。

蹄が森の湿った地面を叩き、葉や泥、はがれた根を巻き上げながら、一行は木々の間を全速力で突き進んだ。

風が耳元をすれすれに通り抜ける。

枝が肌を擦る。

そして後ろには――

獣たち。

数十匹。

それ以上かもしれない。

藪の中を駆け抜け、丸太を飛び越え、あらゆる方向から距離を詰めてくる。

(「……俺のクソみたいな未来は、石に刻まれているんだ。」)

アーサーの声が、怒りに満ちて頭の中で響いた。

手綱を握る手が、さらに強くなった。

(「……それが仲間を救うことにつながるなら……」)

彼の目は瞬きもしなかった。

(「……喜んで、自分の行動に身を任せるさ。」)

息遣いが荒くなった。

(「俺はクソッタレのサイコパスだ!」)

「散れ!」

アイリーンの声が混沌を切り裂いた。

一瞬にして、一行は分かれた。

アイリーンは手綱を右へ引き、アイリスとサイモンと共に森のより深い場所へと入り込み、同じ馬の上で妹をしっかりと支えた。

残りの者たちは――

左へと方向を変えた。

アーサー。

トニ。

ニッキ。

アイコ。

その側の森はさらに密生していた。

影はより深く落ちていた。

アーサーは手綱を強く握りしめ、身を乗り出し、視線を道に釘付けにした。

(「世界が望むなら、俺は戦うぞ!」)

しかしその時――

何かがおかしい。

彼の視線が下へ落ちた。

ほんの一瞬。

「えっ!?」

地面が――

裂けた。

ドーン。

下から爆発が湧き上がり、大地を引き裂いた。

衝撃波が根や石、土埃を四方八方に巻き上げた。

馬たちはいななき――

そして吹き飛ばされた。


世界がひっくり返った。

アーサーは空中に放り出され、制御を失い、大地と破片の間を身体が回転した。

その横には――

トニ。

同じく。

制御不能。

バランスを失い。

衝撃が襲った。

乾いた音。

激しい衝撃。

地面に叩きつけられる前に、闇が二人を包み込んだ。

そして、すべてが消えた。

世界は静寂に包まれていた。

暗く。

深く。

しかし、その闇の中で何かが動いた。

記憶。

断片的な。

震えるような。

アーサーはまだ意識を失っていた……だが、彼の心はある瞬間を再構築し始めていた。

その前。

馬に乗る前。

逃走する前。

森はまだ静まり返っていた。

二人は馬に乗っていた。

手綱をしっかりと握り、体を緊張させ、出発の準備を整えていた。

「おい、アーサー!」

トニの声だ。

すぐそばから。

アーサーはわずかに頭を彼の方へ向け直した。

トニは馬を近づけ、彼の横に並んだ。

一瞬……彼は何も言わなかった。

ただ彼を見つめていた。

彼にしては珍しい真剣な表情で。

「……不安に思うなよ。」

アーサーは答えなかった。

だが、その目はトニの目をじっと見つめていた。

「お前が敵になるかどうかは分からないが……」

わずかな間。

風が葉を揺らした。

「……ただ、俺はお前に感謝しているってことを知っておいてくれ。」

その口調は力強かった。

誠実だった。

「みんなそう思ってる。」

アーサーはかすかにまばたきをした。

「君は本当に人々を助けてくれた……」

トニは少し頭を下げた。

「僕に復讐を成し遂げる手助けをしてくれた。」

また間が空いた。

「アイリーンが妹を取り戻せるよう手助けしてくれた。」

彼の表情が和らいだ。

「そして君のおかげで……僕たちは再び家族として集まることができた。」

その後の沈黙は気まずいものではなかった。

それは……重かった。

現実的だった。

その時――

トニは手を上げた。

そして、アーサーの胸を拳でそっと叩いた。

単純な仕草。

だが、意味に満ちていた。

「……君は僕の兄弟だ。」

アーサーは動かなかった。

「君は本当の兄弟だ。」

その記憶は、あと一秒だけ宙に浮いた――

そして、消え始めた。

闇が再びすべてを包み込んだ。

だが、あの言葉は……

消え去らなかった。

アーサーはハッと目を開けた。

世界がぐるぐると回っていた。

視界は不安定で、ぼやけ、赤く染まっていた。血が全身を覆い、皮膚や服にべっとりとこびりついていた。息をするたびに重く、痛みを伴った。

彼はまばたきをした。

目を凝らした。

そして、彼はそれを見た。

トニ。

地面に倒れている。

動かずに。

アーサーは苦しそうに頭を回した――

そして、体が硬直した。

遠くで……

獣の群れが迫っていた。

素早く。

静かに。

致命的に。

足音の下で地面が震えていた。

「……お前は俺の兄弟だ。」

その声が頭の中で響いた。

はっきりと。

疑いようもなく。

アーサーは歯を食いしばった。

そして動き始めた。

這うように。

片手ずつ。

ゆっくりと。

苦痛を伴いながら。

一センチ進むのも一苦労だった。

だが、彼は止まらなかった。

彼のもとへたどり着くまで。

彼の横に身を寄せた。

息を切らしながら。

そして後ろを振り返った。

獣たちはさらに近づいていた。

はるかに。

アーサーはポケットに手を入れた。

時計を取り出した。

それを見た。

壊れている。

使い物にならない。

沈黙。

彼はそれを落とした。

そして――

拳銃を取り出した。

それを掲げた。

自分の頭に押し当てた。

彼の眼差しは硬くなった。

(「君たちが生き延びられるよう、できることは何でもする……」)

指が震えていた。

(「……君たちは、こんな残酷な世界に生きる価値なんてないんだ。」)

獣たちがすぐそこまで迫っていた。

あと少しだ。

(「この残酷な世界の正義の執行者になるのは、俺だ!」)

引き金を引いた。

カチッ。

何も起こらない。

目を見開いた。

混乱。

再び引き金を引いた。

カチッ。

もう一度。

何も起こらない。

パニックが忍び寄ってきた。

カチッ。カチッ。カチッ。

弾丸はなかった。

逃げ道はなかった。

時間がゆっくりと流れ始めた。

そしてその時――

何かがおかしかった。

獣たちが通り過ぎていった。

彼の横を。

走り去っていった。

彼を無視して。

次から次へと。

まるで彼が存在しないかのように。

アーサーは動かなかった。

ただ、それらが通り過ぎるのを見ているだけだった。

その視線は……虚ろだった。

「……何……?」

また一頭。

「……なぜ……?」

数十頭。

「……なぜ俺は死んでいないんだ!?」

足音は遠ざかっていった。

どんどん。

やがて――

静寂。

完全な。

アーサーはそこに残された。

動かない。

反応することさえできない。

視線を下げた。

その手。

血まみれ。

震えている。

(「…世界は俺が死ぬのを望んでいないのか?」)

沈黙は答えなかった。

数秒が過ぎた。

あるいはそれ以上。

アーサーは顔を上げた。

そして叫んだ。

「くそっ!」

その声は森の虚空に砕け散った。

そして彼はそこにいた。

息をしている。

前を見つめている。

理解できない。

その時――

一本の腕。

彼の左肩の上に。

アーサーは顔を向けた――

バキッ!

ライフルの銃口が彼の顔面を直撃した。

すべてが暗転した。

またしても。


(第33章 終わり)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ