第31章:【満月の光の下での戦い パート3】
(6時間前)
トニは右手で屋上へ通じるドアを開けた。前方を眺めると、アイリーンが彼に背を向けて横たわり、景色を眺めているのが見えた。
ドアが開く音を聞いてアイリーンは振り返り、穏やかな表情を浮かべた。彼女はこう言った。
「あら、お兄さん、ここで何をしているの?」
トニは前へ進み、彼女の横に立つと、こう言った。
「ただ、アイリーンが何をしているか見に来ただけさ。頭を打ってしまって、今は二重に見えているみたいだ。これは悪趣味な冗談だな……僕にとってもな。」
「……なるほど。」
アイリーンは両手で手すりの金属を握りしめ、完全な沈黙を保っていた。二人はしばらく一言も発しなかったが、やがてアイリーンが沈黙を破り、こう言った。
「王様になるのと、騎士になるのと、どっちがいい?」
トニは困惑した表情で彼女を見上げ、口元から「え?」と漏らした。
「騎士は自分自身を疑い、矛盾し、変わろうとする。なぜなら、自分の態度や、その瞬間に自ら招いた状況が正しくないと感じるからだ。真に人間らしい騎士は、戦いで苦しみ、孤独に生き、仲間を得ることはめったになく、自分をよく知らない、あるいは重要視もしない誰かを守ろうとして死ぬ危険を冒す。あなたはただ、百万人の兵士の中のひとりだ。しかしその代わり、彼は尊敬と食事、そして心ゆくまで平穏に暮らせる家を得る。それとも、王になることを選ぶか? 苦しみもなく、パパとママの子供として、祝福され、称賛され、尊敬され、何があっても食卓には常に食事が並んでいる。安全、そして想像しうるあらゆる良いものが、手のひらの中に収まっている。その代わり、自由と平穏を犠牲にし、仲間から殺される危険を冒し、愚かなほど自己中心的でナルシストになり、自分の望みを叶えるためなら親の言うことさえ聞かない人間にならなければならない。君は共和国史上最悪の王になるだろう……」
彼は視線を上げ、トニの目を見つめた。
「どちらを選ぶ?」
チクタク…チクタク…
時計は、錆びず壊れることのない物体のように、何時間も止まることなく針を動かし続けた。
「…なぜそんなことを聞くんだ?」
時計は午前3時を指していた…
「なぜ? 君がどんな人間なのかを明らかにするためさ。」
残り21時間。
「じゃあ、君ならどれを選ぶ?」――トニが答えた。
「……私? どれでもない。私は何者でもないから。」
トニは彼女の言葉を聞くと、再び前を向いた。そして、大笑いし始めた。
その様子を見て、アイリーンはなぜ彼が突然そんな風に笑うのか不思議に思った。するとトニは言った。
「ごめん、ごめん…その…ちょっと面白いジョークを思い出しちゃってさ。」
「今、そんな時に?」
「人間の心って裏切り者だって読んだことあるけど、まあいいか。話してあげる?」
「一体何の話をしてるんだ、この野郎?」
「おいおい!そんなに冷たくならないでよ!」
アイリーンは彼を注意深く、そして少し嫌悪感を込めて見つめたが、短くこう言った。「……聞いてるわ」
「オーケーオーケー、僕の後に続けて。トントン……」
「誰?」
「銃だよ」
トニはピストルの銃口をアイリーンの頭蓋骨に向け、引き金を引いた。アイリーンは相棒の突然の行動にも微動だにしなかった。
二人はその瞬間、完全に真剣な表情を浮かべ、その場の空気を一瞬で一変させた。
「アーサーに、一体何を求めているんだ?」
「彼がいれば、私の妹を救える――」
「嘘をつくな、このクソ野郎! 一体この間ずっとどこにいたんだ? どうやってあの空飛ぶロボットを手に入れた? なぜお前たちは、俺たちの家からこんなに近い場所にありながら、俺たちには知らされていないあの一族の存在を知っているんだ? アイリーン、お前が話した以上の何かが隠されているのは分かっている! 俺たちはこの間ずっと連絡が取れなかったし、連絡を取ろうとしても、まったく、クソッ、返事なんてなかったんだ。説明しろ!」
トニが彼を睨みつける中、アイリーンは仲間が彼に詰め寄る様子を見て、追い詰められたような気分になった。
「あなたには理解できないでしょう、紳士。これはあなたが思っているよりもずっと複雑な話なんです。でも、もし私が本当に妹を救いたいと思っていると信じないなら、撃って私を殺してください。命をかけて誓います、すべてを話しますから。どうか、助けてください、お願いです。」
トニは歯を食いしばりながら、アイリーンに対する悲しみの感情と向き合っているようだった。彼の目は不安と怒りで震えていた。そして、人差し指は全力を込めて引き金を引こうとしていた。
しかし、彼はすぐに拳銃を左へ放り投げながら言った。
「くそっ!」
銃は床に跳ね返り、動かなくなった。トニはストレスで荒い息をついていたが、その横で、アイリーンは手すりに背を預けていた。そしてちょうどその時、彼女はため息をつき、こう言った。
「あなたは本当に頭の空っぽな紳士ね、トニ。ヒントを一つあげるとしたら、こう言うわ。『誰にも、何も、信用してはいけない』って。自分たちを含めて、私を含めてさえもね。私たちが二人の警備員のように話し続けている限り、これから数日間でどんな恐ろしい出来事が起こるか誰にも分からない。私たちの目的はもう『獣を殺すこと』じゃない。私たちの目的は『人間を殺すこと』よ。」
「……じゃあ……本当に敵がいるってことか?」
「え? なんでそんな当たり前のことを聞くの、同志?」
トニは両手を握りしめ、視線を床に落とした。
「アーサーは敵だ、一族は敵だ、予言者たちは敵だ。私の敵……は、私の敵なのか?」
◇◆◇
(「生き残るためには戦わなければならない。血を流すことは必要だ。私は自分の命のために戦う。」)
彼女の体が天井を突き破ると、天井は爆裂し、破片の雨が四方八方に飛び散った。舞い上がる塵と空中に浮遊する岩の破片の中、彼女のシルエットは上へと弾き飛ばされた。まるで衝撃の力が、一瞬だけ彼女をこの世界から引き剥がしたかのようだった。
時間がゆっくりと流れ始めた。
彼の体は空中でゆっくりと回転し、引き裂かれた服は血に染まり、重い滴となって落ち、周囲に小さな赤い弧を描いていた。暗い液体が皮膚から離れ、一瞬宙に浮いた後、地面へと落ちていった。
彼の顔は無表情だった。
目を開いたまま……瞳孔はなく、真っ白で、まるで衝撃のどこかで意識が消え去ったかのようだった。
(「戦え……」)
両手は広げたまま、指はわずかに曲がっていた。震えていた。弱々しく不規則な動きで、まるでその体が、もはやそこにはない何かにまだしがみつこうとしているかのようだった。
(「戦え、戦え!」)
指先が、巨大な刃の柄に絡みついた。
彼は素早く体を前傾させた。アスカは、もはや刃そのものとなっていた前腕を振り上げた。そしてトニが落下する瞬間、両刃が互いに突き刺さった。
トニの刃の衝撃で、彼は後ろへ吹き飛ばされた。足は必死に地面を蹴り、踏ん張ろうとしたが……その勢いで数メートルも引きずり出された。
アスカの口が突然開いた。
その内側から、生きた槍のような触手が噴き出し、四方八方に飛び散った。乾いた轟音と共に壁に突き刺さり、石を紙のように貫いた。他の触手は現れては再び沈み込み、壁を這い回り、互いに交差して周囲を覆うグロテスクな網を形成した。
絶えず動き続ける肉の蜘蛛の巣。
触手は壁から出たり入ったりし、まるで意思を持っているかのように方向を変えた。
しかし、トニは立ち止まらなかった。
彼は走った。
生きた迷路の中を進む彼の武器の刃が閃いた。一本の触手が彼の胸目掛けて飛び出し、肉を半分ほど貫いたが、血が噴き出す中、素早い一閃でそれをかわした。別の触手が左側の壁から現れ、身を屈めて彼をかすめて通り過ぎた。三本目は上から降りてきて、彼の右肩に突き刺さった。
そして、時間が再びスローモーションになった。
触手は次々と飛び出し、あらゆる角度から彼を捕らえようとした。
しかし、トニはその瞬間、こう思った。
(「家に帰りたいなんて、思いたくない。」)
触手たちが一気に彼を襲った。いくつかが、生きた槍のように彼の腹部を貫いた。その衝撃で彼は地面から浮き上がり、後ろへと吹き飛ばされた。
ドーン!
彼の体は最初の石の壁を突き破り、粉塵と破片となって散った。それでも止まることはなかった。別の部屋を突き抜け、また別の壁を、さらにその先へと。触手の力に引きずられながら、壁は次々と砕け散り、建物全体に破壊の跡を残していった。すると、触手は彼を放した。彼の体は、破壊された部屋の残骸の間を空中に舞い上がった。
しかし、攻撃は終わっていなかった。
壁の穴から、廊下から、近くの部屋から……さらなる触手が四方八方から彼に向かって飛びかかってきた。まるで一つの意識に導かれた蛇のように。トニは空中で体をひねり、後方宙返りを決めた。
落下しながら、彼は後ろへ剣を突き出し、自分を捕らえようとした最初の触手を切り落とした。その勢いで体は後ろへ滑り続け、周囲から迫ってくる他の触手の間をすり抜けていった。地面に着地すると、彼はくるりと体を回転させ、動き出した。一秒前まで自分がいた場所を貫く別の攻撃をかわしながら、後方へと走り去った。テーブルの上に飛び乗り、その表面を滑り、縁から壁へと体を弾ませた。彼の足が石に触れたのはほんの一瞬だった。
再び跳んだ。
触手が窓や壁、廊下を突き抜け、彼を捕らえようとしていた。彼は素早い動きで応戦した。窓枠から窓枠へと飛び移り、廊下を横切り、生きた網が彼を包み込もうとする中、壁を跳ね返りながら。跳躍の最中、彼の刃が光った。素早い斬撃。
一。二。三。
迫りくる触手は切り裂かれ、彼は前進を続けた。部屋から部屋へと跳び移り、その動きの一つひとつが、すべてを支配する敵へと、ますます近づいていく……
しかし、その途上で、何かが変わった。空中で彼の体が硬直した。
痙攣。
突然、血の糸が口元から漏れ出し、顎を伝って、暗い滴となって床へと落ちた。彼を動かし続けていた勢いが消え始めた。まるで、彼を突き動かしていた力が突然引き剥がされたかのように。両手が震え、刃がゆっくりと下がった。
周囲の世界は依然として混沌としていた――動く触手、空中に舞う塵、落ちてくる石の破片――しかし、彼はもう前進していなかった。彼の体は下降し始めた。最初はほとんど気づかないほど、まるで浮いているかのように。
やがて、その動きはより明確になった。
彼の足は力なく地面に触れたが、その体重を支えることはできなかった。膝が徐々に崩れ、口からさらに血が流れ出る中、彼の体は前傾していった。
ついに、彼の体は倒れた。
地面への衝撃は乾いた、重い音だった。
彼は目を半開きにしたまま、荒い息をついていた。
「もう諦めたのか?」
アスカは破壊された部屋の残骸の間をゆっくりと進んでいた。
触手は一つずつ引き始め、疲れた蛇のように壁や床を這い、開いた口へと戻っていった。敵が動かない犠牲者の遺体へとゆったりと歩み寄る間、それらは喉の奥の闇へと消えていった。
「まったくの無能どもだ! 俺の第一の人格が正しかったと分かっていた! クリフォード、お前は天才だ! アーサーが引き起こした惨事を利用して、無辜で弱い命たちを危険にさらし、アーサーにトラウマを与え、世界の前で彼の正体を暴くなんて! 見事な計画だ!」
空にはまだ塵が舞っていた。
血が彼の足元に広がっていた。
「次から次へと命が奪われていく!『クロノ・レクイエム』なんて、復讐の渇望から生まれたクソみたいなプロジェクトに過ぎない!なんて哀れな…お前たちはこれから起こることをまだ経験していない。残念だ、もっと長く生きていればよかったのに。そうすれば、この地獄を身をもって味わって、最高に楽しめたはずなのに!だが、俺が自らお前たちを殺してやる!」
アスカが地面に横たわる死体をとどめを刺そうと触手の刃を振り上げた時、ある声が響いた。
部屋の中ではない。
彼の頭の中で。
冷たく、明瞭で、どこか懐かしい声だった。
「今しようとしていることをやめるんだ……さもないと、お前を殺すぞ」――クリフォードが言った。
その言葉は声に出して発せられたわけではなかったが、その反響は無視できない命令として彼の脳裏を貫いた。時間が一瞬止まったかのように感じられ、触手の刃は攻撃の途中で宙に浮いたままになった。
アスカが数メートル手前で動きを止め、まるで相手がすでに死んでいるかのように見つめていると、
トニーの指が動いた。ゆっくりと震えるような仕草で、彼の手は腰へと伸びた。
手榴弾を取り出した。
それを投げた。
小さな円筒は空中で回転しながらアスカへと向かい、ほぼ同時に、トニーのもう一方の手が拳銃を握りしめた。彼は力を振り絞って拳銃を掲げ、敵を真っ直ぐに狙い、指がゆっくりと引き金の上で緊張した。
そして爆発した。
爆風が彼を後方へと吹き飛ばし、煙と塵、破片の雲が破壊された部屋を満たした。一瞬、すべてがその灰色のカーテンに覆われた。
その時、何かがそこから飛び出した。
トニが激しい跳躍で煙の中から現れ、両手に握った二本の刃がきらめいた。彼女は影のように敵へと降り立った。
一撃目。
片腕が落ちた。
二撃目。
もう片方も、反応する間もなく切り落とされた。
彼女の体はさらに下がり続け、鈍い音を立てて地面に叩きつけられた。その動きと同時に、彼女は左手の刃を放し、金属的な音を立てて地面に落とす。
空いた手で敵の首を掴み、
凄まじい力で地面に叩きつけると、その上に飛びかかり、自らの体重で身動きを封じた。彼女の顔は怒りに歪んでいた。
「殺してやる。そして、心底楽しみながらな。」
残りの刃が振り上げられた。
そして振り下ろされた。
一度。
「殺した……!」
二度。
「あ……!」
三度。
「アイザック!」
鋼の刃が、その生き物の胸を貫き、心臓を直撃した。何度も何度も。一突きごとに血が飛び散り、主人公は容赦ない怒りを込めて刃を突き立て続けた。
四。
「息子よ……!」
五。
「や……!」
六。
「このクソ女!」
七。
八。
その時になってようやく腕が止まり、刃は依然として怪物の胸に突き刺さったままだった。金属音が響き渡り、トニの荒い息遣いだけが、破壊された部屋に残っていた。
「……泣きたい。」
彼は立ち上がりながら、アスカの胸に突き刺さった刃から手を離した。
呼吸を整えようとしながら、彼は嫌悪感を抱きつつその遺体を見つめた。そしてついに、立ち上がった。
足はほとんど動かない。
一歩……そしてまた一歩。
その動きはどれも不安定で、よろめき、まるで体がいつ崩れ落ちてもおかしくないかのようだった。傷口から流れ出た血が彼の後ろの床を染め、一歩ごとに暗い跡を残していく。両手が震えていた。目から涙が溢れ出し、血や肌を覆う埃と混じり合いながら、静かに頬を伝っていった。
彼は嗚咽しなかった。
叫びもしなかった。
ただ歩いていた。
しかし、その眼差しは……依然として怒りに満ちていた。
戦いが終わった後も、決して消え去ることのなかった、静かな怒り。
ついに、ある扉の前にたどり着いた。
彼は手を伸ばし、力を込めて扉を押した。
扉はきしむ音を立てて開いた。
その向こうには、冷たい光に照らされた部屋があった。
ある種の診療所だった。彼女はよろめきながら中に入った。診療所の白い床は、すぐにその白さを失った。
彼女の足取りは不器用で、乱れていた。机や椅子、道に立つものなら何でも躓いた。動くたびに傷口からさらに血が流れ出し、暗い滴となって床に落ちた。
彼女は体を支えようとした。
手が壁を探した。
壁を見つけた……そして、指先を滑らせ、その背後に長い赤い跡を残した。彼はそうして、壁に寄りかかり、手のひらを壁面に擦りつけながら、かろうじて廊下を進んでいった。
息は短く、不規則だった。
あと一歩。
そしてまた一歩。
しかし、体はもう言うことを聞かなかった。
足が突然、力尽きた。
最後にもう一度つまずき、バランスを取り戻すこともできず、体は前方に倒れ込んだ。床への衝撃音が、静まり返った部屋に微かに響いた。
彼はそこに横たわった。
動かずに。
すると突然、ドアから一人の人物が現れ、叫んだ。
「トニ!」
それはアンナだった。彼女は、顔に絶望の色を濃く浮かべながら、彼の元へと駆け寄ってきた。彼女は身をかがめ、両腕でトニの体を抱きかかえ、壁に背を預けた。
トニはまだ息をしていて、目は虚空を見つめているのが見えた。
「あ、あ! これ、すごくヤバい! いや、いや、いや! 本当にヤバすぎる!」
「いや…心配しないで、傷はそんなに深くないよ。」
「冗談言ってるの!? もちろん、これはヤバいよ!」
アンナは素早く自分のバッグに目をやり、傷の手当てに使えるものがないか中を探し始めた。
「ああ、くそっ!役に立つものが見当たらない!包帯はあるけど、傷が深すぎてどうしようもない!ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう!」
彼女はバッグの中を震える手で探り、慌ただしく持ち物を漁り始めた。包帯、小さな瓶、道具……しかし、どれも役に立たない。彼女の傷の状態を救うには、どれも不十分だった。
彼女はもう一度確認した。
もう一度。
彼女の指は、ますます焦りを募らせながらバッグの中をかき回した。
何もない。
彼女は歯を食いしばった。
そして、動きを止めた。
ある考えが頭をよぎった。
彼女の目がわずかに見開かれた。
「待って。」
彼女はバッグの奥に手を伸ばし、今度は別のものを取り出した。
透き通った石だった。
透明だったが、その内部には淡い紫と青の色が輝いており、まるでガラスの中に閉じ込められた霧のように揺らめいていた。部屋の明かりがその面々に反射し、その物体を奇妙な輝きで照らし出していた。
それは手のひらほどの大きさだった。
そして彼女は、その石が自分にとって唯一の希望かもしれないとでも知っているかのように、指先でそっとそれを包み込んだ。
トニの目の前にそれを差し出し、こう言った。
「これを受け取って!お願い、お願い!これが生き残るための唯一の希望よ!これ以外には、あなたを救えるものはないわ!」
トニの視線は下へと向かい、その透き通った石に釘付けになった。
「……何?」
「何も『ない』なんてことはない!自分の手で握りしめて、割ってみろ!この水晶の石は、手にした者の傷を癒す力があるんだ!」
「……でも……力を得てしまうんだ。」
「それって利点じゃないのか?だから、受け取れ!」
「嫌だ。」
「なんでだ!?」
「もし神の樹から力を得たら、もう絶対に死ねなくなる。死んだら、これまで起きた恐ろしい出来事が繰り返される……だから……だから……それを私から遠ざけて。」
「バカ言わないで!死以外のことを考えようよ!これさえあれば、みんなを救えるし、自分自身も救えるんだ!」
「じゃあ、お前が先に試してみろよ!?」
アンナの目がぱっと見開かれ、一瞬、息が止まった。瞳孔が左右に動き、やがて目を細めて、彼女は答えた。
「……だって……トニ、あなたは生きていかなきゃいけないの。私たちみんなと同じように、生きていかなきゃいけないの。もう仲間を失いたくないの。だって……怖いから。私、すごく臆病なの。私……信じられないほど臆病なの。もう誰かを失いたくない。だってそうしたら……子供みたいに泣きじゃくってしまうから。だから! 嫌でもこれを受け取って! 私のためにやってほしいの! お願い!」
「アンナ!」
彼女の視線はトニの瞳に釘付けになった。
「下、気をつけて!」
乾いた軋み音が静寂を切り裂いた。
足元の何かが崩れた。
亀裂が暗い稲妻のように床を走り、血に染まったタイルの間を割っていった。表面が完全に裂け終わるまで、彼女が反応する時間はほとんどなかった。
床が崩れ落ちた。
石や金属の破片が一気に沈み込み、彼女の体もそれに引きずり込まれた。周囲のすべてが崩れ落ちる中、虚無が彼女を飲み込もうとしているのを感じた。
「!」
世界が傾いた。
一瞬、彼女は空中に宙吊りになった。粉塵と、彼女と共に落ちてくる床の破片に囲まれながら……やがて重力が彼女を完全に下へと引きずり下ろす前に。
(第31章 終わり)




