第80歯 記憶は失われても感情は残る
冷えきった廊下に、薄氷が音もなく広がっていた。
白色灯は死にかけた息を吐き、残されたのは重たい沈黙だけだ。
イルカが足を踏みしめるたび、氷は乾いた硬質な音を返す。
「維千……心の復習、しましょうか」
穏やかな微笑みを向けるイルカに、維千の表情は微動だにしない。イルカが両手を差し出すと、水縄が静かに伸びはじめる。
「そんな技、この化け物に通じると思うかね」
芦屋の嘲りが、凍てついた廊下にひび割れのように響いた。
「僕の親友を……化け物呼ばわりはしないでください」
イルカの放った水縄は奔流となり、前へ走りながら瞬く間に凍りつく。
その冷たさを見つめ、維千の唇がかすかに動いた。
「……親……友……?」
呟きの落差のように、奔流を支える冷気がわずかに緩む。イルカは胸の奥で淡い希望を震わせ、奔流をさらに押し出す。
「化け物ばかりに気を取られすぎだよ」
芦屋の数珠が弾け、珠がゆらりと彼の周囲に浮かぶ。
「眠」
蹴り放たれた珠を、命斗が指先で作った丸い枠へと収めた。
「三、二、一……カット」
珠は空中の一点で切り抜かれたように静止する。
「デリート」
命斗の声とともに、珠は光粒となって弾け散った。
「イルカくん、そのまま!」
命斗は畳みかけるように両手で丸をつくる。枠に捉えられたのは、イルカの放った奔流だった。
「三、二、一……コピー」
腕を大きく広げる。
「ペースト」
廊下の空気が揺れ、複数の奔流が維千と芦屋を囲むように立ち上がる。維千の睫毛が、耐えるように細かく震えた。
「……銀世界」
その名を呟いた瞬間、イルカの呼吸が止まる。
「命斗さん、下がって!」
イルカは番傘の先で命斗を引き寄せ、その背へ押し返す。次の刹那、廊下は呼吸そのものが凍りつくような静寂に包まれた。
すべての奔流が一斉に凍りつき、力を失った氷片となって床へ崩れ落ちる。
イルカが慌てて張った水の壁も、白い吐息のようにその場で固まった。
「おい……あっしも殺す気かい?」
芦屋は口元に手ぬぐいを巻き、板のように固まった着物の裾を見て顔を引きつらせた。
「……申し訳ありません」
維千が静かに頭を垂れると、廊下の温度がゆるやかに戻り始める。
「あなたの弱さを、考慮していませんでした」
芦屋は思わず手ぬぐいを裂いた。
「本当に……どこまでも癪に障るね。あっしはあんたが大嫌いだよ」
「ご随意に」
維千は視線すら向けない。その姿勢が、かえって芦屋の奥歯をきしませた。
「おやおや、まあまあ」
砕けた凍壁の向こうから、イルカの笑顔がのぞく。
“ちび助”と呼んでいた頃の親友の面影が脳裏に浮かび、イルカは小さく笑った。
「協調性を重んじるあなたでも、維千はお手上げですか?」
「協調性を重んじるからこそ、許せないんだよ」
芦屋の声には苛立ちが滲み、わずかに震えていた。
イルカは静かに微笑む。
「それは……自分を殺しているだけです。歩み寄りとは呼びませんよ」
芦屋の唇がわなわなと震えた。
「自分を……殺す、ね……」
その言葉は、維千の胸にもかすかに触れたらしい。睫毛が再び震える。
「……笑えないね」
芦屋は珠を一つつまみ上げ、無造作に投げる。
「慳」
イルカは番傘を広げて受け止めた。
「だめだ!」
命斗の叫びが冷えた空間を裂く。芦屋はかすかな笑みを浮かべた。珠は番傘へ沈むように吸い込まれ、跡形もなく消える。
「イルカくん。芦屋くんの攻撃は受けちゃいけない。かわすんだ」
命斗の頬を汗がつたう。
「もう遅いよ」
芦屋は肩を揺らし、イルカの懐へするりと潜り込んだ。
「イルカくん!」
命斗の悲鳴が響く。イルカは反射的に両手を突き出したが、水は生まれない。心具である番傘すら手から消えていた。
「人の煩悩ってやつさ」
芦屋の蹴りが、無防備なイルカを壁際へ押し流す。
「物惜しみの念を植えつけた……あんたの心は今、魔法を拒んでる」
芦屋は首の後ろに手を回し、左右へゆっくり筋を伸ばした。
「心……」
維千は胸もとへ手を当てる。乱れた呼吸が白い息となって揺れた。
「どうしたんだい?」
芦屋の声が凍る。維千の視線は揺れ、言葉が見つからない。
「何が……起きているのか……自分でもわからない」
頭に浮かぶ桜の映像が、理由もわからぬまま胸を締めつける。
その動揺が冷気となって廊下に滲み出る。
「何をやってんだい!」
「維千……!」
芦屋の重い声と、イルカの水音のような声が重なった。維千は右手で顔を覆い、何かを払うように左手を振る。
次の瞬間、廊下のあちこちから氷柱が伸びた。芦屋は身を翻してかわし、命斗はイルカに飛び乗る。
しかし、イルカの立つ場所だけは、不思議と氷柱が避けていった。
イルカは自分を避けて突き出した氷柱を一瞥し、微笑を薄くゆがめ、小さく息を呑む。
「維千。あなたは……綺麗ですね。きっと完璧で、性格もよくて、女性の扱いにも慣れているのでしょう……羨ましい限りです」
イルカが突然、維千を妬むような言葉を口にする。
芦屋も命斗も状況を理解できずにいる中、維千だけが心を乱した。
“勝手な思い込み”。
それこそが、維千の最も嫌う行為だった。
(これは賭けです)
維千の瞳がはっきりと揺れる。氷柱は枝を増やし、一瞬で空間を埋めつくした。
「……やめてください」
声の底には、怒りとも戸惑いともつかぬ熱がにじむ。
イルカが一歩近づく。笑顔は柔らかいのに、その言葉だけが棘を帯びていた。
「君は欠点があることですら、完璧だ――僕とは違う」
「……違う」
維千は首を振った。吐く息が白くほどける。
「だから僕は、師匠を奪われまいかと……気が気でなくて……」
黒魔法を使った。
イルカは爪が食い込むほど拳を握る。痛みが甦る嫉妬を抑え込む。
「師匠……?」
維千の頭を女性の長い髪が掠める。
胸が痛い。
理由が、自分でもわからない。
喉が渇く。わからないことへの恐れが、心臓を鷲掴む。
「……やれやれ。あれだけ鈍かったくせに、感情は覚えてるのかい」
芦屋は一歩下がり、息を呑む。
「この世界の北条維千は……心があるのか」
命斗は維千の瞳をじっと見つめ、小さく息を吐いた。
「維千。帰ろう」
かつて維千がしてくれたように、イルカは静かに手を差し伸べた。
沈黙。冷えた廊下の中央で、二人の距離がほんのわずかに縮まる。氷柱がぱきりと砕けた。
表情は変わらないのに、冷気だけが一気に弾ける。
芦屋は呆れたように頭をかいた。
「あんた、護衛の仕事はどうしたんだい」
維千がわずかに目を開き、刀を握り直す。
「……わかっています」
冷気を跳ね上げ、イルカへ一直線に切りかかる。
「人間でも妖怪でもない。居場所を失うのが怖い……」
イルカは力を抜き、包み込むように微笑む。
「そんなに怯えるなよ。維千は、維千なんだろ?」
凍った空気の中で、イルカの胸の奥だけが温かくなる。
――記憶がなくても――
――この人は、ちゃんとここにいる。
イルカはノブレスから預かっていた小瓶を放った。
維千が刀で弾く。床に落ちた小瓶が割れ、冷気で凍りつく直前、一瞬だけ香りが漂う。
「こんなときに……酒?」
芦屋が呆れ声を上げる。
「北条維千は大の酒好きと聞くが……さすがに馬鹿にしすぎだろう?」
「馬鹿にしているのは、あなたのほうです」
イルカの喉元を裂く寸前、維千の刀が動きを止めた。冷気の流れを受け、イルカの涙珠の髪飾りが揺れる。
「これは……」
維千の声が震える。氷柱が軋む。手から刀が滑り落ち、すべての氷が砕け散る。
走馬灯のように脳裏を駆け抜けるのは――
賑わう席の喧噪、維千に似た顔立ちの男女。
飄々と杯を掲げる男。
酒瓶を豪快に煽る強面の男と、その隣の妖艶な女。
こちらを拒むような赤い瞳の少年の横顔。
そして――
「……イルカさん?」
グラスが軽く触れ合う音。思い出されたのは、仕事終わりの一杯と……目の前の彼。
「おかえり、維千」
冷気の中でただ一つ、酒の香りだけが消えずに立ち上った。目の奥まで届いた香りに、酔いを知らない維千がくらっとする。
イルカは寂しさと嬉しさの入り混じる心で、冷えた維千の身体をぎゅっと抱きしめた。




