第8歯 第一印象は相手のすべてではない
「私としたことが…」
寮のラウンジにかけられた時計を見上げ、蛍はガクッと膝をついた。頭を抱えて項垂れる様子は、まるでこの世の終わりを迎えたかのようだ。
21時30分。寮生たちはシャワーを済ませ、次々と自室に戻っていく。
「維千さんにあれだけ言われていたのに…」
校内の大食堂や売店の営業は20時まで。蛍が本に読み耽っているうちに、それらはすべて営業を終えてしまったのである。
自炊しようにも道具も食材もない。そもそも蛍にとって食事は「求めれば出てくるもの」であって、「自分で用意するもの」ではない。
使用人には常々感謝していたつもりだが、失ったことで恵まれていた環境を思い知る。当然、蛍は料理に関してからっきし駄目だった。それを見越してか、維千は昼食を食べながら大食堂の営業時間について口を酸っぱくしていたのだが。
「あの…」
蛍の呼びかけに、ひとりの寮生が濡れた髪を拭きながら立ち止まる。蛍は空気を求める魚のように口をパクパクさせて言葉を探したが、見ず知らずの相手に「食べ物をわけてください」とはとても言えなかった。
(寮で物乞いなんて、悪い噂が立つわ)
蛍がだんまりしているので、せっかく引き留めた寮生もそそくさと自室に戻ってしまった。
「そうよ、維千さんなら…」
腰にぶら下げたベルに手を伸ばしたが、こんなことで彼を呼ぶのは申し訳ない。
「…というより、こんな事だからこそ呼びたくない」
維千のことだ。散々忠告されたにも関わらず、このような事態に陥ったことをうんざりするほど揶揄ってくるだろう。腹を抱えてケラケラ笑う彼の姿が目に浮かぶ。
「うう…維千さんは頼りになるけど、頼りにしたくない。キールさんは…」
寮の受付はカーテンで閉ざされている。寮母の朝は早いから、もう寝ているかもしれない。管理人室をノックするのは憚られた。
「一晩くらい食べなくたって、死にはしないわ。朝まで我慢すればいいだけよ」
かと言って、腹が減っては眠ることもできそうにない。
反発するかのように、蛍の腹がぎゅるるっとひと声喚く。長きに渡る放浪で飢えを経験してからというもの、蛍の脳と胃は空腹に対して過剰に反応するようになってしまった。
(食べられるものなら何でもいいんだけど…水で凌ごうかしら)
蛍がうろうろしていると、男子寮のキッチンに明かりがついているのが見えた。
「サラさん?」
くるっと振り向いた彼は、何人分だろうか、大皿に山盛りになった焼き飯をおいしそうに頬張っている。
(声をかけたはいいけど…ちょっと怖い)
血のように真っ赤な瞳が見つめ返してくる。彼には「誰も何もしない。自分を救えるのは自分だけだ」と言われたばかりだ。
(どうしよう。助けを求めたらいけないかしら。露骨に冷たくされるかも)
蛍が二の足を踏んでいる間に、サラは逃げるようにサッと席を立った。
「待っ…」
ぎゅるるるる!!!
その時、蛍の腹が悲鳴のような音を立てて、サラがピタッと動きを止めた。彼はゆっくり振り向いて、しばらく黙考してからポツリと呟いた。
「…食べる?」
「いえ!そんな!お食事中にすみません!お気になさらず、どうぞ」
「それは…どっち?」
蛍は首をブンブンと横に振ったが、彼女の手は待ちきれんと言わんばかりに前に突き出ている。蛍は恥ずかしくなって、真っ赤になった顔を伏せた。
「…い、いただきます」
滅多に笑わないサラがふふっと笑うので、蛍はますます赤くなった。
「どうぞ」
蛍は遠慮がちにサラの向かいに座ると、彼が取り分けてくれた焼き飯を控えめに口に運んだ。
「おいしい」
シンプルな味つけだが、それがうまい。初めはスプーンに半分もなかったひと口がいつの間にか山盛りのひと口になって、蛍はかき込むように焼き飯を次々と口に運んだ。
「本当においしい!初めて食べる味ね。少し酸味があるわ。食材は鶏肉と…青菜と…これはどこの国の料理ですか?」
高揚した蛍がたたみかけるように話しかけるが、サラはだんまりを決め込んでいる。
「サラさんはお料理がお上手なんですね!」
蛍がパッと顔をあげると、サラはじっと蛍を見つめていた。表情は乏しいが、彼の三つ編みは嬉しげに左右に揺れている。
「あの…なにか?」
サラはふるふると首を振って、食事に戻ってしまった。沈黙の中、カチャカチャと食器のぶつかる音だけが響いている。
(本当に喋らない…喋れない?喋りたくない?)
そういえば、浦島が「サラは誰とも仲良くする気はない」と言っていた。他人と関わることを避けてあえて喋らないのだとしたら、声をかけられた挙句にごはんを奪われて、サラは怒っていないだろうか。
蛍は不安になって、サラの無表情を恐る恐る覗き込んだ。
「帰る。お皿は置いといて」
サラが急にガタッと立ち上がるので、蛍はビクッと小さく飛び上がった。彼は空になった皿をササッと洗い、そそくさと自室に戻ろうとしている。
腹を満たした蛍は、彼の身体についた痛々しい痣を思い出した。今日は体調不良で学校を休んだとも聞いている。
「サラさん、ありがとうございました。あの…体調は?」
サラは皿立てに立てかけた大皿に目線を向けた。
「あ…あれだけ食べられたら、そうですよね。元気ですよね」
蛍に取り分けても2人前はあっただろう。サラはコクリと頷いた。
「サラさんって、寮生だったんですね。夜ごはんはいつもこの時間なんですか?」
サラは少し考えてから、言いにくそうにぽつりと呟いた。
「…夜食」
「え?」
「ごはんは食べた。あれは夜食」
「夜食にしては量が多いような…夜ごはんが少なかった、とかですか?」
「ごはんはもっと多い」
蛍は言葉を失った。あれより食べて、さらに食べるとは何事か。彼の胃袋は一体どうなっているのだ。
「涼風お兄様でもきっと食べきれないわ」
「お兄さん?」
「はい。私、兄がふたりいるんです。下の兄が剛健で度肝を抜く大食漢なんです…けど…」
蛍はそろりそろりとサラを見上げる。袖から覗く腕は筋肉質だが細い。彼はどちらかと言えば小柄なほうで、あの量をペロリと平らげるようにはとても見えない…のだが、この目で見たのだから、サラが涼風を超える大食漢なのはまごうことなき事実なのだ。もしかして、これも手品だろうか。
サラは変わらず仏頂面だが、ぽりぽりと恥ずかしげに頬を掻いている。
その仕草が涼風にそっくりで、蛍はくすくすと笑ってしまった。
「ごめんなさい。なんだか涼風お兄様みたいだったから」
「俺はそんなにいかつくない」
「そんなに?」
まるで涼風を知っているかのような口振りに、蛍は首を傾げて食い気味に言った。
「剛健じゃない」
「そ…そう、ですよね。ごめんなさい」
サラが涼風の行方を知っているのではないかと変に期待してしまった。
しゅんと意気消沈していく蛍に、サラはふっと笑みをこぼした。怒られると思っていた蛍は不意を突かれて、ポカンと口を開けたままその綺麗な微笑に見惚れた。
「大好きなんだ」
「へ?」
「お兄さん」
「え、ええ…は、はい。憧れなんです。愛華お兄様は綺麗でとても知的で、いつも穏やかに微笑みかけてくれて…」
国王の父に代わり各国を忙しく飛び回っていた愛華の帰りを、蛍は今か今かといつも待ち侘びていた。わんぱくな蛍が砂まみれで駆け寄って皺ひとつない正装を汚そうとも、彼は温かな微笑みを湛えて蛍を抱き止めてくれた。
「涼風お兄様は目でクマを殺したなんて噂されるくらい強面ですけど…面倒見がよくて、みんなから頼りにされていて…」
時折恐れすら抱く愛華に対し、言葉少なな涼風の隣は不思議と居心地が良い。筆から墨汁が落ちるような、不器用すぎる涼風の言葉を余さず聴き届けることは、幼い蛍に可愛らしい使命感を与えた。
無骨な彼が口で語ることはそう多くはなかったが、その大きな背中は皆の心を震わせ、他者に進むべき道を示した。蛍が辛いとき、悲しいとき、そばにいてくれたのはいつも涼風だ。
「すてきなお兄さんだね」
「はいっ!自慢の兄です!あ、だけど、ちょっと変わっていて…」
サラはふたりの兄を知らなかったが、興味を持って蛍の話を聞いてくれた。
誰かとこうして兄の話をするのはいつ以来だろう。蛍はつい嬉しくなって、堰を切ったように兄との思い出話をした。
それでもサラは嫌な顔ひとつせず、彼女の言葉をひとつひとつ掬うように丁寧に相槌を打った。
「それで、愛華お兄様があまりにも怒らないものだから、涼風お兄様が…あ、ごめんなさい。私、喋りすぎですね」
蛍がチラッと時計に目をやると、23時をとっくに回っていた。
「嘘!?もうこんな時間!」
サラが寄り添うように聴いてくれるので、蛍は時が経つのも忘れて捲し立てるように話してしまった。
「大丈夫?」
「私は大丈夫ですけど、その…サラさんが」
「大丈夫」
サラは涼しい顔をしているが、夜食を奪われた挙げ句に長話に付きあわされて…怒ってもおかしくない。いや、いっそ怒ってくれたほうが気が楽だ。
「もー!何やってんのよ、私は!太々しい。ごめんなさい。サラさんとお話していたら、楽しくなっちゃって」
サラは少し驚くと重い表情で考え込んでいたが、しばらくしてふっと優しく微笑んだ。きれいでどこか儚さを感じる微笑みに、蛍は息を飲んで見入った。
「俺も楽しい」
国を追われてからずっと気を張っていた蛍は、短くも温もりのある言葉に思わず目を潤ませた。サラは困惑の末にいつもの無表情に戻ってしまったが、彼の三つ編みはゆらゆらと嬉しそうに揺れている。
(サラさん、怒るどころか喜んでる)
蛍はクスッと笑った。ぶっきらぼうな涼風の気持ちを拾いあげてきた蛍には、サラが表情とは裏腹に喜んでいるのがわかった。
(厳しいことを言われて、勝手に怖いと思っていたけど…実は温かい人なのかも。理由なく他人を嫌うような人じゃないわ。きっと涼風お兄様と同じ、話すのが苦手なのよ)
蛍はひとり納得して、今度は手のひらを返すようにサラに親しみを持った。「他人の評価なんて、山の天気みたいに変わるんだ」と姫魅の言葉が思い出されて、苦々しく自嘲する。人間とは熟、身勝手な生き物である。
「遅くまで引き留めてしまって、すみません。久しぶりに兄を身近に感じられて、楽しくて嬉しくて…本当にありがとうございました!」
話し足りない気持ちを振り切るように、蛍は椅子からパッと立ち上がって駆け出した。が、すぐにピタッと足を止めて、ゆっくりとサラを振り返る。
「あの…よかったらまた…」
「よかったら、もう少し聞かせて」
蛍の台詞に被せるように、サラが穏やかな声で誘う。蛍は温もりの残る椅子と止まらない時計の針を見比べて逡巡していたが、サラがふっと笑うのを皮切りにきらきらと目を輝かせて話し始めた。
ここまで読んでくださった方がもしいらっしゃれば、本当にありがとうございます。作者が嬉しいのはもちろんのこと、登場人物たちにとって何よりの幸せです。
次回の次回の次回、戦闘シーンを予定しています。
魔法と言ったらバトルかな、と…書けるかな。
(2話もすっ飛ばして予告してるあたり、先行きが不安だ)
文章を書くのは苦手なんですよ。
(貴様は何故、書いている)
引き続き、のんびり気ままに書いていきます。
ちょっとおかしな作者とカオスなキャラ達ですが、おつき合い頂ければ幸いです。