第79歯 正しさは必ずしも“世界”に勝つわけではない
冷たい国家警察本部の廊下を、白色灯が瞬きながら照らす。影が伸び、縮み、また消えていく。
はイルカは立ち止まり、胸の奥でサラの言葉を何度も反芻した。
「……天国の師匠に、また叱られますね」
苦笑ともため息ともつかない声が漏れる。
気づくのがあまりにも遅かった。
いつの間にかイルカは、失った師の面影をサラに重ねていた。守られているような錯覚に甘え、ぬくもりを勘違いしていた。
その小さな夢を断ち切ったのは、サラの静かな一言だ。
「イルカ。俺はもう、自分の足で立っている。
どうか、自分の選択で、大切な人を失わないで」
柔らかな声の奥にある痛みが、胸の底へ鋭く落ちていく。返すはずだった言葉は喉の奥で溶けた。
「助けていたつもりで……助けられていたのは、僕のほうだったんですね」
その瞳の決意は、崩れ落ちた師が最後に見せた光とどこか重なる。
――ひとつ、自分を大切にする方程式を見つけること。
――ふたつ、自分自身の幸せを見つけること。
――みっつ、愛は世界を救えると証明すること。
師の残した三つの宿題。その全てが救いであり、呪いでもあった。
「サラは……答えを持っているのでしょうか」
自嘲にも似た笑みが、かすかに唇を歪める。白色灯がまた瞬き、影がゆらりと生まれては消える。
「弟子に先を越されるなんて……維千に腹を抱えて笑われますね」
ひやりとした廊下に視線を落とし、イルカは静かに息を吐いた。胸の奥で、かつてここを訪れたときの嫌悪が、鈍く揺れる。
「ここに来るのは、黒魔法を使ったとき以来……でしょうか」
無機質な床。窓のない防音ドア。
時間が止まったかのような空気が、静寂を押しつける。
突き当たりを左に曲がった瞬間、イルカは足を止めた。
「……誰かが、また負の感情に飲まれたのですね」
廊下の白を塗りつぶすように、黒い粘液が散らばっている。血の匂いが鼻をついた。
イルカは祈りにも似た仕草で、両手を合わせる。
「芦屋、てめえ! 何しやがる!」
怒声が廊下を裂いた。
視線の先には、黒い痕跡の中央で、子どもの命斗が二メートルを超す巨体の芦屋に、がっしり抱え上げられている。
必死に暴れる命斗に対し、芦屋の腕は岩のように微動だにしなかった。
「俺じゃねえ! 化け物を捕まえるんだ! あれはサラを……俺の推しを食っちまうんだろ?!」
「そうだろうね。あの化け物の魔力消費は尋常じゃない。緋色を取り込めば、無限の魔力が手に入る」
イルカは黒い粘液を踏みしめ、靴底に伝わる冷たく湿った感触を確かめる。
「……化け物が、サラを?」
命斗と芦屋が同時に振り返る。
イルカは眉をひそめ、少し困ったように、しかし柔らかく微笑んだ。
「おやまあ、おやまあ」
「イルカくん!」
命斗が目をぱっと輝かせる。イルカは小さく微笑み返し、視線を芦屋に移した。
「よりによって、あんたですか」
芦屋は天井を仰ぎ、鬱陶しげに長いため息を落とす。
「久しぶりのはずだが……変わらないねえ」
その視線には、重さではなく“圧”があった。かつて黒魔法を使った代償で、イルカの身体は成長という時の流れに置き去りにされていた。
その事情を知った上で、芦屋はわざと意地悪く言ったのだ。
「身分証がないと酒も買いに行けないんでね。維千には、いつも呆れられていますよ」
「なるほど。あいつも大して変わらんだろうに」
芦屋の気怠げな声が、冷えきった廊下によく響く。
その響きだけで、イルカの肌がわずかに震えた。
「で? ウララカの問題児が、うちに何しに来た?」
着物の襟を指先で整えながら、芦屋がこちらに視線を寄越す。
イルカはかすかに微笑んだが、その声の奥には刃のような冷たさを忍ばせた。
「迷子の親友を迎えに来たんです。維千はどこです?」
「ああ。彼ならもう、フル様の“コレクション”だよ」
黒い粘液の痕跡を見つめる芦屋の目には、どこか同情めいた色があった。
「あんなのに目をつけられて……半人半妖とはいえ、流石に気の毒でね」
「……あんなの?」
白色灯がばちばちと瞬き、揺らぐ光が廊下に歪んだ影を落とす。床から這い上がる寒気に、イルカの背筋が細く震えた。
「フル・オーダーは欲の塊だ」
芦屋は黒い粘液を無造作に踏みつけた。
「国を愛した父親が、そう育てた。宝石も食事も、人間まで――欲しいものは何でも与えた」
その説明と同時に、足元の黒粘液がふつりと震えた。
「計画通りさ。濁った魂に魔力を植え付け、化け物へと育て上げた。今や“強欲の怪物”……いや、国の自衛力に生まれ変わったと言うべきか」
イルカの胸に、焦げつくような記憶がよみがえる。平和維持軍で幾度も目にした――人の負の感情が、異形へと堕ちていく瞬間。
「大好きなお父様のお役に立てて、フル様も誇らしいだろうよ」
「誇らしい、ですって?」
イルカの頬がわずかに痙攣した。髪飾りの涙珠が、揺れる灯りを受けてかすかに光る。
「なぜ止めなかったのです……? 彼女はもう、人間には戻れないのに」
「あんたみたいな理想主義者が一人逆らったところで、組織は止まらない。一人でも上の判断に逆らえば、仕事が成り立たなくなるだよ」
芦屋は体を伸ばし、欠伸をひとつ。その緩慢な仕草が、むしろ刺すように鋭かった。
イルカが口を開きかけた瞬間、その声を命斗が遮る。
「国防のために娘を怪物化? そんな胸糞悪い話、俺は初めて聞いたぜ?」
「お前に言ったら、愛だの推しだの……また訳の分からんこと言って、邪魔するだろう?」
「腐ったのか、お前?」
命斗の声は怒りで震えていた。
「腐ってるのはそっちだろうよ」
芦屋は軽く耳をほじる。その無頓着さは、もはや挑発に近かった。
「あんた、国家警察は仕事だ。今、我々がすべきなのは――国防の要が仕上がるのを見届けることさ」
芦屋はやれやれと言わんばかりにため息をつく。
肩にかけた巨大数珠に添えた手は、わずかに震えていた。
感情を押し込むように、彼の喉仏が上下する。
「邪魔をするなら容赦しないよ。それで給料もらってんでね」
空気が、きり、と張りつめた。
命斗は芦屋の腕を力任せに振りほどき、ざっ、とイルカのもとへ駆け寄る。
大きく息を吸い込み――
「やーい! 芦屋の社畜野郎!」
わざとらしく腰を突き出し、歯を見せてイーッと笑う。
「命斗さん?」
唐突すぎる行動に、イルカは目を丸くした。
命斗は見上げるようにイルカを見て、情けない笑顔を浮かべる。
「芦屋。そのパワハラと残業で鈍った判断力……俺が目覚めさせてやるよ」
強気な口調とは裏腹に、命斗の瞳は哀しみを必死に抑えていた。
命斗が構えた、その瞬間――
「……加勢しましょう」
黒い廊下の奥から、冷気のような気配が滑り出た。
維千が静かに歩み出る。
瞳は氷のように冷え、熱の欠片もない。
「維千……!」
イルカの声に応じ、維千はゆっくり顔を上げた。光がその目を掠めても、表情は波ひとつ立たない。
「やれやれ。あんたと組む日が来るとはね」
芦屋が鼻で笑う。
「お姿を変えようとフル様はフル様。俺は彼女の護衛ですから」
「支配されても相変わらずだね。能面みたいで気味が悪いよ」
「あなた様ほどでは」
「憎まれ口も変わらないか」
維千が淡々と刀を抜く。その静けさに、芦屋は苦笑を漏らした。
「維千……」
イルカの声はかすかに震えた。かつて自分を救ってくれた、不器用で温かな優しさは――そこにはもうない。
維千はただ、冷たく沈んだ瞳でイルカを見返す。
イルカはそれでも微笑もうとした。
「……あなたが何度、笑顔を失おうと、僕は何度だって教えますよ」
イルカは手の中へ番傘を呼び出した。その微笑みは、どこか痛みを隠すような淡いものだった。
「何ですか、あなたは。馴れ馴れしい」
その言葉を聞いた瞬間、イルカの時が止まる。
「……出逢った時にも、あなたはそう言いましたね」 イルカの胸がきゅっと締めつけられた。
懐かしさが微かに滲んだのは一瞬だけ。すぐに、失われた記憶の重さが静かに落ちてくる。
「お互い、問題児を抱えて大変だね」
横で命斗が手を広げ、指で四角を作って芦屋と維千を枠に収める。
「あんたがいちばんの問題児だよ」
芦屋は肩の巨大数珠を握りしめ、呆れ返ったように吐き捨てる。
維千が小さく息を吐いた。
その瞬間、廊下の空気が凍りつく。壁に白い霜が走り、細い音を立ててひび割れた。
次の瞬間、白色灯の点滅がぴたりと止まる。
――音が、吸われた。
空気から息づかいが消え、世界が薄い氷の膜に閉じ込められたかのようだった。




