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とある星物語  作者: 黒星
78/81

第78歯 支配はしばしば愛の姿をして近づく

 国家警察総監の執務室は、外界のざわめきとは無縁の静寂に沈んでいた。

 平和維持軍狩りで国中が騒然としているはずなのに、この部屋だけが別世界のように息を潜めている。

 フル・オーダーは張りのあるソファに腰掛け、落ち着きのない足先で床をつついた。

 胸の奥に渦巻いていた期待が、冷めた紅茶のように沈んでいく。

「……拍子抜けですわ」

 視線は窓辺に立つ青年――北条維千へ向けられる。

 氷妖の血を引くというその横顔は、装飾品めいた静けさしか纏っていなかった。人形ですら、もう少し呼吸の気配がある。

「お父様……氷妖の術にかかった者は、恋人のように従順になると聞いておりましたのに」

 ラスト・オーダーは顎を撫で、小さく唸る。

「たしかに、かつて氷妖は容姿で人を惑わせ、術で心を奪ったと聞くが」

 フルは眉を寄せ、秒針の音に急かされるように息を吸った。

「でしたら、なぜ微笑みませんの?折角、美しいのに……これではネジを失ったオルゴール。退屈ですわ」

 維千はただ窓の外を見つめ続けていた。

 警察官たちが蟻のように動く光景を追う瞳は、どこまでも無機質で、底の見えない空虚だけが揺れている。

 ――彼は狩りたいのだろう。

 氷妖が本能に従えば、あれは欲望の匂いを探し、闇へ潜るはずだ。

「北条維千は妖怪であり、人間だ。術をかけても他とは違うのだろう。実に面白い」

 ラスト・オーダーの声が静寂に溶けていく。

 フルは立ち上がり、維千の手を取った。冷たい。拒絶そのものの温度だった。

「お父様。私は欲しいものをすべて手にするまで、満たされませんわ」

 ラスト・オーダーはゆっくりと部屋に鍵をかけた。

 その微笑みは、父のものか神のものか判別がつかない。

「ならば……フル。北条維千は、お前の初めての挫折になるかもしれないな」

 その言葉が落ちた瞬間、フルの胸がざわりと揺れた。

 理解よりも先に、反射的な拒絶がこみ上げる。

 言い返そうとしたが、言葉は喉の奥でつかえたまま。

 代わりに、不満げな唇だけがとがる。

「私が愛おしいなら――五番目に言ってくださらない?“あの子の心を支配して”と」

 ラスト・オーダーは、そんな娘の仕草を楽しむように目を細めた。

「困った娘だ」

 静かに笑うその表情は、父親の慈愛とも、純粋な残酷とも区別がつかない。

「確かにお前は愛しい。だが――一番ではないのだよ」

 フルの思考が音を立てて止まった。


 一番ではない?


「……え?」


 そんなはずはない。


「何を、おっしゃっているのかしら?」

 この男は、欲しがれば何でも与えてくれた。

 だから――

「私が……あなたの一番ではないはずがないわ」

 声が震え、胸の奥が重く沈む。

 理解が追いつかず、呼吸だけが熱くなる。

「嘘ですわ。あなたは私を、誰よりも愛しているのよ。だから……私の願いを叶えてくださったのでしょう?」

 赤い唇がわななき、目元がじわりと潤む。

 それは親に向ける感情ではなく、もっと刺すような、裏切られた恋人が見せる色に近かった。

「お父様……」

「フル」

 ラスト・オーダーの声は優しい。

 だがその優しさは、まるで毒を混ぜた飴のようだった。

「ああ、愚かな娘よ。愛は物で測れるものではない。与え、与えられるものでもない」

 次の瞬間――

 抜かれた脇差が鈍色に光った。

 刃が胸元に触れた瞬間、フルの思考は完全に白く染まる。

「……っ――」

 鋭い痛みより先に、冷たい塊が体内へ押し込まれる異様な感触が走った。

 体が崩れ、床に触れた瞬間、鉄の匂いが皮膚の下から湧き上がる。

 月光が赤く揺れた。

「愛しているよ、フル。誇らしい、私の娘」

 優しい声が、血に濡れた床に落ちた。

 フルの体が、ゆっくりと形を失っていく。

 指が裂け、髪が縄のようにうねり、口の奥から、あり得ない“足”が飛び出した。

 黒い粘液が皮膚から染み出し、欲望が肉を押し広げていく。

 怪物となる音に、維千のまとう冷気がわずかに揺れた。

「これで我が国は安泰だ」

 ラスト・オーダーは慈しむようにその変貌を見つめ――

 維千は、ただ窓の外の闇に視線を向けていた。

 氷の瞳は一度たりとも揺れない。

「――私の一番は、もっと遠いところにいるのだよ」

『ヴアァアアアッ!』

 血の臭気を撒き散らしながら、怪物が産声を裂いた。

 そのまま床を滑る影となり、ラストへ牙を剥く。


 ――氷気だけが先に動いた。


 次の瞬間、維千の斬撃が白い弧を描き、怪物の肩口を浅く裂いた。

 焼けるような嘶きが部屋に満ち、黒く粘る巨体が扉を木片ごと吹き飛ばす。

 甘ったるい香水の匂いだけが、しばらく空気に残った。

 それは、まだ“フル”だった頃の名残のように、廊下の闇へ溶けて消えた。

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