第77歯 意識ではなく行動が、役割と自分を形づくる
吹き抜ける隙間風とは裏腹に、差し出された湯呑みだけは不思議に清潔だ。そこに立つ茶柱が、かすかな品位を湛えて揺れていた。
国王は茶柱に目線を落とし、ゆっくりと問うた。
「ノブレスは……元気にしているか」
その声音には、押し殺した寂しさが潜んでいた。
「さあな。でも、維千さんがよく話してるぜ。あんなに潔い奴はいないってな」
「潔い…」
慰鶴が肩を竦めると、王は無意識に頭皮へ触れた。
「維千……友がいるのか、あいつに?」
「維千さんが友達と感じているかはわからねえが、酒仲間にはなれたらしい。悪くねぇ関係だ」
「そうか……あいつには、友がいるのか」
王はほっとしたように目を細め、それから薄暗いボロ屋を見回した。
あばら家の壁は夜気を吸い、古い木は冷えて軋んでいた。
「じぃ。私も……友が欲しいのだ」
「ロチュリエ様」
諫めるような老人の声に、王は途端に身を縮めた。
「じぃよ……あいつは、私にはないものをすべて持っている。器も志も。王になるべきは、やはりノブレスだった」
「また、そのような弱音を……」
王は唇を噛みしめ、拳を震わせた。
「父が急死し、混乱した大臣が兄と私を取り違えたのだ。ただ兄の後ろを歩くだけの私を、誤って王座に据えたのだ」
「違いますよ。王はあなた様です、ロチュリエ様」
戸がカタカタと揺れて、嘲笑っているかのようだ。王はじぃの言葉を拒絶して、ボロ切れを引き寄せた。
「継承権も素質も……兄の方が遥かに優れていた。しかし、ノブレスは人を見る目を持ちながら、権争いを避けるために身を引いた。あれこそ王のあるべき姿だ。私は……人々の失望を恐れ、真実も明かせず、政治を放棄した卑怯者だ」
荒れた屋根の隙間から風が落ち、冷たい音が部屋に流れた。
孤独に身を潜める王の理由が、ようやく露わになると、蛍はぷるぷると肩を震わせた。
「さっきから聞いてれば……」
蛍は怒りが弾けたようにその場に立った。
「あんた。全部、自分の選択を人のせいにしてるだけじゃない!」
「ほ、蛍!」
姫魅が慌てて袖を引いたが、蛍の勢いは止まらない。
「そんなに嫌なら王様なんてしなきゃよかったのよ! 本気でお兄様に任せたいなら、呼び戻せばいいでしょ! 卑怯だと思うなら、腹を括ればいい! 不幸ぶって、いつまでも拗ねて……そんなの、不幸なんかじゃない。ただの怠慢よ!」
言い切った蛍の肩が上下し、姫魅は顔を覆った。雨漏りをしているのか、彼の頬に冷や汗のように雫が落ちる。
「す、すみません……蛍ちゃん、本当は優しい子なんですけど……」
朝顔が慌てて取り繕おうとしたが、慰鶴が手で制した。
「謝る必要なんてねぇよ。違う意見がなきゃ、人間は腐っちまう。まあ、王様がどう受け取るかは勝手だけどな」
「慰鶴……」
彼の無邪気な笑みに、蛍はようやく呼吸を取り戻した。
「生きてりゃ勝ち、死んだら負け。どう生きるかくらい、自分で決めりゃいいんだよ」
風の音がふたたび細く通り抜ける。悲鳴のような音が鳴った。
王はじっと蛍を見つめ、声を震わせた。
「ガルディの王女よ、簡単に言ってくれるな。王座に座ったとき、家臣でさえ、私に気づかなかったのだ。誰でもよかったのだよ。国民が抱いたのは希望ではなく、安泰…混乱と偶然が積み重なった末に用意されたこの椅子に、私の意思なんぞないのだ」
王は心の消耗を感じさせる、疲れた目で蛍を見据えた。
「あなたは強い…弱い私は嫌いか?」
その言葉は嫌われることすら、どうでも良いといった口ぶりだった。
「逆よ。自分を見ているようで、放っておけないだけ」
蛍は少し拗ねて、目を逸らした。
王に染みついた自己否定を象徴するような、黒いシミが目につく。
「私だって……謀反を起こした愛華兄様にも、どこにいるか分からない涼風兄様にも、殴ってやりたいくらい言いたいことがある。国民だって、都合の悪いことは王族に押しつけて……私が逃げた? だって、まだ幼かったのよ。想像もしてなかったことが突然起こっただけ」
蛍は涙を浮かべながら続けた。
「だけどね。いちばん腹が立つのは……“できない”って自分で自分を決めつける、私なの!」
王は目を丸くした。
蛍は一歩踏み込むと、王がじりじりと後ずさる。
「あなたが王座に座ったのは、本当に取り違えられたから? 大臣はそう言ったの?」
「それは……」
言葉に詰まる王。
「あなたの王って、何?」
蛍の問いに王は助けを求めるようにじぃを見るが、老人は穏やかな笑みを返すだけだった。
「はいはーい。俺はな、国民と糖で語り合える王様がいい!」
「あんたはお茶会がしたいだけでしょ。甘いもの目当てじゃないの」
蛍が呆れ、慰鶴はけろりとしている。
「お友達みたいな王様ですね。すぐに暗殺されそうですけど」
朝顔が柔らかく笑う。慰鶴はにんまり笑い返した。
「じゃあ朝顔は?」
「えっ、わ、私……? 私は……みんなに優しい王様がいいです。人も、動物も、妖怪も、植物も……全部に優しい王様が」
その視線を追った慰鶴が、眉をひそめた。
「なんで姫魅を見るんだよ」
「え……その……姫魅くんみたいな王様がいいなって……」
「えぇっ?!僕が王様?む、無理だよ!」
姫魅が驚いて床を踏み抜く。じぃは笑顔の奥で眉を顰めた。
「朝顔が言ってんだ。お前、やれよ」
「ええ?王様はもっと勇気ある人がすべきだよ……」
姫魅が泣きべそをかいて、蛍はふふんと鼻を鳴らした。
「それなら私ね! きっと美しく、聡明な王様になるわ!」
「聡明な王様は“殴りたい”なんて言わないよ」
姫魅がため息をつくと、蛍はこめかみを痙攣させた。
王は背をわずかに丸め、冷えきった指先をそっと擦り合わせた。
「社交に長けているだけでも、ただ優しいだけでも、また聡明なだけでも、王というものは務まらぬのだよ」
かすれた声が湾曲した床に落ち、場にいた者たちの動きをひとつ残らず止めた。
「民があってこその王だ。王ができぬことは、賢き家臣が補えばよい。――この世にこれほど多くの民がいるのだ。王より優れた者など、探せばいくらでも見つかろう」
王はそこで、小さく息をついた。
「ゆえに王はただ、民の声に耳を傾け、民を映す鏡であればよいのだ」
静寂が落ちた。
歪んだ壁の隙間から射す淡い光が、王の横顔を斜めに照らす。
「――それだ!」
一同が一斉に王を仰ぎ見る。
驚きに緩んだ王の手から湯呑みが滑り落ちたが、じぃが間一髪、影のような身のこなしでそれを受け止めた。
「……どれだ?」
王がぽかんと目を丸くした。
「今、自分で言ったでしょうが!」
蛍は堪えきれず王の胸ぐらをつかみ、子どものようにぶんぶんと揺さぶった。
「蛍!ダメだって!」
「仮にも王様ですよ!」
慌てて姫魅と朝顔が彼女の腕を押さえ、必死に引き剥がす。
じぃはそんな騒ぎをなだめるように近づき、王の手へそっと湯呑みを戻した。皺の深い顔に、静かな微笑が浮かぶ。
「民を写す鏡――その像は、誰でもない。あなた様だからこそ生まれた“王”のかたちにございます」
「私だから……」
王は膝に手を置き、湯呑みを見つめた。薄い茶の表面に揺れる光が、まるで問いかけるように揺らめく。
じぃが続ける。
「ノブレス様が王の座を離れたのは、争いを避けるためではありません。弱きあなた様だからこそ、いつか誰より強き王になると――あのお方は、心から信じておられたのです」
その言葉が胸の奥へ落ちていく。
ずっと探していた答えが、薄闇のなかでようやく輪郭を帯び始めた。
「弱さこそが……私の強さ」
王の指先が、湯呑みに触れたまま止まる。そこに立つ茶柱の揺れは、今や迷いではなく、道標のように見えた。
「私は――」
王はうなずき、背筋を伸ばした。
その姿は、今までの自己否定の影を少しずつ脱ぎ捨てたかのようだった。
「まったく……しょうがない王様ね。でも、誰よりも、弱き者の心を知るお方だわ」
「ええ、まさしく」
蛍が半ば呆れながらも柔らかく笑うと、 じぃはその笑みを受け取るように、細めた目尻をさらに下げた。
長い歳月のあいだ王を見守ってきた者だけが浮かべられる、誇らしげで温かな微笑だった。
慰鶴が口元に笑みを浮かべる。
「生きてりゃ勝ち、ってやつだ」
朝顔も姫魅も、息を呑んでその変化を見守る。
王は立ち上がり、冷たい空気を吸い込んだ。
「民に耳を傾け、民を映す鏡になる――そうだ、これこそが、私という王の在り方だ」
その声には、これまでの消耗や迷いはまだ残っているが、確かな決意が宿っていた。
そのとき、戸の外で急に駆け込む足音が響いた。
「ロチュリエ様! 緊急の知らせです!」
王が振り返ると、若い伝令が息を切らし、紙を手に立っていた。
「……報告いたします、陛下。ティースにて、巨大な化け物が出現し、暴れ回っております……」
その言葉は屋内に重く落ち、静寂を伴って空気を支配した。
誰もが息を詰め、事態の重大さを胸に刻む。王の胸の光は一瞬揺らいだが、同時に、彼は確かに自分の道を見つけた。
今度は逃げず、民と向き合い、王として立ち向かう――その決意が、冷たい風の中でも揺らぐことはなかった。




