第76歯 個性や違いは、恐れずに活かして
蛍の背後で何かが激しく衝突し、乾いた破砕音が空気そのものを震わせた。震動は大気を伝い、胸腔の底へ波紋のように染み込んでいく。
振り返ろうとした刹那、慰鶴の指が鋭く蛍の腕をつかんだ。
「振り返るな!」
短い叫びに、焦りの色が濃く滲んでいた。足場の悪い地面に足を取られた蛍は大きくよろめく。
慰鶴は舌を打ち、先に言葉よりも体が動いた。
彼の腕が、蛍の身体を抱え上げる。
乱暴なようでいて、どこか体温の滲むその抱き方に、蛍は思わず息を呑んだ。
「……たまには、頼りになるわね」
「仕方ねぇだろ。お前が、たまに頼りねぇからさ」
「悪かったわね」
軽口の奥に、ふっと温かな繋がりがのぞく。緊張の隙間から、蛍の唇に小さな笑みが零れた。
遠空を裂くように、稲光が胸元をかすめる光の線を描く。その光はまるで意志を宿した生き物のように揺れ、蛍の瞳に焼きついた。
――サラの魔法だ。
蛍の直感が確かな形をもって告げる。
(サラさんが来てくれた……なら、大丈夫。今は前へ進むだけ)
慰鶴の腕の中で姿勢を整えながら、蛍は彼の手をそっと握り返した。
胸の奥底に浮かぶのは、維千の不器用で真っ直ぐな優しさ。
――俺は、あなたを信じる自分を信じ続けよう。ご一緒します。
かつて維千が告げたその言葉が、静かに思い起こされる。
(あの人に何度も救われたわ。今度は、私があの人を信じる番)
決意が透明な水滴のように胸の底へ沈みきったころ、慰鶴がふいに歩みを止めた。
「なあ、蛍。王様ってどこにいるんだ?」
あまりに唐突で、蛍は無言のまま慰鶴の肩を拳で叩いた。
「はあ? 場所も知らずに走ってたの?」
「じゃあ、お前は知ってんのかよ。王様の居場所」
言い返され、蛍は口を閉ざした。
この“とある国”は王国と名乗りながら、政治の実権は十二の都市とティース議会が握り、王宮というものすら存在しない。
「……王のいない、王国……?」
自分の声が、思いがけず揺れた。
その時、物陰から影がひょっこりと顔を覗かせた。国民的マスコット“ビーモくん”の頭をかぶった、小柄な少年の身体。
「……姫魅?」
「え、こいつが?」
慰鶴が眉間に皺を寄せる。
蛍は確信していた。最初に姫魅と出会った日も、彼はこのふざけた被り物のままだった。
「あ、蛍」
姫魅は、場違いなほどのんびりした声で返事をした。
「懐かしい……じゃなくて! なんで今その格好なのよ!」
「いや、その……これには事情があって……」
被り物の奥で、所在なげな声だけが揺れた。
その背後から、やわらかな天然パーマをふわりと揺らし、朝顔が姿を現した。
「蛍ちゃん、慰鶴くん……無事で、よかった」
安堵の息とともに、朝顔はその場へへたり込む。
「おい、朝顔。何があった」
慰鶴は蛍を、ほとんど放り投げるように地面へ下ろすと、すぐさま駆け寄った。
「ちょっと! 乱暴すぎ!」
「悪いな。俺の腕は朝顔を抱くためにあるんだよ」
「勝手に抱えたのはあんたでしょ!」
歪む二人の声を、姫魅が慌てて遮った。
「医務室に国家警察が来たんだ。ネルとチェンさんが連れていかれて……ネルが、僕の正体がばれたら危ないからって、被り物を外すなって……」
「正体?」
慰鶴の眉が深い谷を刻む。
「僕……カラス族なんだ」
最強と謳われる魔法一族。その血を隠すための滑稽な被り物——そういうことらしい。
「普段のもやしっぷり……」
蛍が言いかけると、姫魅の指先がかすかに震えた。
「じゃなくてっ! 野菜みたいな言動にちょっと疑いはあったけど……本当にあなた、カラス族なのね」
「う、うん。自覚はあまりないけど……」
沈黙が、重く落ちて広がった。
昨日まで笑っていた人々が次々に捕らえられ、維千は囚われ、姫魅は素顔すら隠さなければならない現状。
「……何が起きてるの?」
蛍の問いは、湿った空気に吸いこまれて消えた。
慰鶴は蛍の肩をつかみ、まっすぐ前へ向ける。
「わかんねぇ。でも、やることは決まってる。王様に会う。“これは間違いだ”って、言ってやるんだ」
「王様に……会えるの?」
朝顔の声は心許なく揺れた。
「どこにいるのかも分からないよ……」
姫魅が小さく途方に暮れる。
「聞いてみましょう」
朝顔は街路樹にそっと触れ、静かに目を閉じた。葉のこすれる音、根が土をさする感触——植物たちの声が指先を通り、耳へ響いていく。
「……国王は、郊外に」
「朝顔さん?」
蛍の戸惑いに、朝顔はやわらかく首を振った。
「“さん”はいりません。私、人間になってまだ三年なんです。体は大人でも……本当は、皆さんよりずっと年下で」
蛍は思い出した。人形めいた蔦の塊——それが朝顔の本来の姿だった。
「そっか。朝顔ちゃん、植物から人間になったんだよね」
蛍がそっと笑いかけると、朝顔は小さく微笑みを返す。
「安心してください。困ったときは、植物たちが教えてくれますから」
慰鶴は朝顔の頭に、大きな掌をぽん、と置いた。
「朝顔、さんきゅな。——行くぞ」
その笑顔は、薄曇りの空を割る一筋の光のようだった。朝顔は向日葵のように、その背中を見つめた。
蛍は胸元の首飾りをぎゅっと握りしめ、慰鶴の背を追う。
(維千さん……絶対に助けるから)
青玉のブローチが、心臓の鼓動に呼応するかのように微かに震えた。
⭐︎
馬車の中は、乾いた藁の匂いで満ちていた。車輪が揺れに合わせて、きしりと小さな音を奏でる。
沈黙を破ったのは、姫魅だった。
「で……その格好は?」
不安げな視線に、蛍は胸を張った。
「変装よ。あんたの被り物だけじゃ目立つでしょ。基本中の基本」
朝顔は赤らんだ頬に触れながら、ちら、と隣の慰鶴を見た。
「慰鶴くん……なんだか、賢そうに見えます」
慰鶴は細縁の眼鏡を押し上げてみせた。
「だろ?」
「胡散臭さが増しただけよ」
蛍の容赦ない切り捨てに、慰鶴はむっとして朝顔の袖を引く。
「なあ、俺、賢そう?」
「はい。賢そう……です」
“賢い”とは言わず、朝顔はふっと目を伏せた。
その仕草に、馬車の軋みがやけに優しく響く。
馬車は静けさを連れて走り、蛍がぽつりと漏らした。
「こんなことになるなんて……これから何が始まるんだろ」
兄が兄を刺した日の光景が脳裏に蘇る。日常はあっけなく崩れるものだ。
「慰鶴……『五番目』って何? 維千さんが“手中に落ちた”って……どういうこと?」
慰鶴の指先が微かに震えた。
「維千さんが半人半妖――人と氷妖の血を持つのは知ってるか?」
蛍は頷く。
「心が空っぽの氷妖に、人間の欲望が混ざったら……どうなると思う?」
蛍の背筋が冷えた。空虚を埋めようとする欲望は、際限なく肥大する――維千の姿が一瞬よぎる。
「『五番目』ってのは氷妖だ。あいつは維千さんの均衡を壊して、頭領に据えて……昔の、氷妖が支配した世界を取り戻そうとしてる」
「じゃあ……維千さんは……」
「負けねぇよ。あの人はそんなヤワじゃねえ。性格もひねくれきってるしな」
慰鶴は視線を外へ投げ、歯をくいしばった。
「五番目の襲撃と……国家警察の平和維持軍狩り。繋がってるのかな」
姫魅が低い声で問う。
「世界を守るはずの警察が、世界を壊す側と手を組んでるなんて……それじゃ、“秩序の崩壊”よ」
蛍が答える。
慰鶴が抱えた頭から、ポンッと小さな爆発音がして煙があがる。慰鶴は変装道具を投げ捨てて、勢い任せに立ち上がった。
「もうわっかんねえよ。でも、バーのマスターが言ってた。“国王に会え。ノブリスって名乗りゃ道が開く”って」
慰鶴は姫魅を見た。
「ノブリスって……なんで?」
「さあな」
慰鶴は肩をすくめた。
「それより……お前。カラス族ってなんなんだよ? 被り物までして……あいつら、お前を狙ってるんじゃねーのか?」
慰鶴の率直すぎる問いに、姫魅が小さく息を呑んだ。蛍が口を開きかけたが、姫魅はそっと手を挙げて制した。
「いいんだ、蛍。……その通りかもしれないから」
被り物越しの声は、不思議なほど静かだった。
「僕らカラス族は、魔力多増症に適応した人間の末裔だって言われている。普通の人は……大きな心の動き——つまり大きな魔力に、身体が耐えられない。でも、僕らは膨大な魔力を生むことができるんだ」
朝顔がそっと頷いた。
「だから、恐れられたり……利用されたりするんです。チェンさんが、そう話していました」
「うん……。それで、僕の村はスピッツに焼かれたんだ。僕、自分がカラス族なんて知らなくて……ただ、暮らしていただけなのに……」
言葉は、途切れるように落ちた。
馬車の中には、車輪がぬかるみを踏む音だけが静かに流れていく。
蛍はそっと姫魅を見た。大きすぎる被り物が涙のかわりに揺れ、鼻メガネが妙に真面目に見える。その滑稽な姿が、かえって胸の奥を熱くした。
慰鶴が、不器用に言葉をこぼす。
「……悪かった」
被り物の奥で、姫魅はかすかに笑ったように見えた。
「ううん。上辺で同情されるより……そのほうが救われるよ。ちゃんと向き合わなきゃって、思ってたから」
沈黙が訪れた。
それは過去と現在の境界線のように深く、重く、揺るがなかった。
馬車は街外れの細い路地へと入り、車輪が時おり泥へ沈んでは持ち上がる。その度に軋む音が低く響く。
朝顔が窓の外へ目を凝らした。
「……王様は、この先に」
「ここに?」
蛍は驚いたようにまばたきをした。
路地の突き当たりに、朽ちかけた平屋がひとつ、置き去りにされた遺物のように立っていた。壁はところどころ剥げ落ち、屋根は雨を拒む意思すら失っている。形だけがかろうじて“家”の体裁を保っているにすぎなかった。
朝顔が運賃を払うと、馬車は逃げるように去っていった。湿り気を帯びた気配が肌にまとわりつく。風の動きすら鈍く、何か得体の知れないものが潜んでいそうな気配が漂った。
姫魅が被り物を脱ぎ、低く呟く。朝顔も蛍も変装を解くと、身なりを整えた。
「……人が住んでいるようには……見えないけど」
慰鶴は鼻で笑った。
「王様って案外、こういうとこにいるもんだろ」
「絶対ないわ!」
蛍は王族の矜持で即座に反論したが、慰鶴は気にも留めず、勢いよく引き戸を開け放った。
「ごっめんくださーい!」
引き戸がガタガタと外れかけ、姫魅と朝顔が慌てて押さえ込む。 慰鶴は土間にずかずかと上がり込んだ。
「おーい、王様ー?」
「ちょっと! 友達みたいに呼ばないで!」
蛍の抗議も空しく、家の奥から返事はない。
「……誰もいないのか?」
朝顔は不安げに廊下へ視線を伸ばした。
「植物は人間のように嘘をつきません。でも……この家は、ずっと前から“閉じている”感じがします。誰も入らず、誰も出ていかない」
張り詰めた空気を、慰鶴の間のびした声が緩く切った。
「おっかしいなあ。ノブレス・オブリージュって、ハゲたおっさんが確かに——」
その瞬間、埃を巻き上げて、ボロ布の塊が飛び出した。
「ノブレスだと?!」
「きゃあああああ!出たー!」
蛍と朝顔は抱き合って叫び、姫魅は真っ白な顔で膝をつく。
慰鶴は反射的に、そのボロ布を足で踏みつけた。
「なんだ、お前?」
直後、奥の闇からくぐもった咳が響いた。
「……入ってきなさい。それと、扉を閉めておくれ」
しわがれた声だった。年齢の見当がつかないほど擦り切れ、疲労と諦念を含んだ沈んだ声音。
蛍は息をのんだ。
朝顔が丁寧に、深く頭を下げる。
「失礼します。私たち、王様にお会いしに……」
「……王様?」
闇の奥で、その声は小さく笑った。
「ノブレスが……叱りに来たか」
慰鶴が低く問いただす。
「お前が……国王か?」
かつん、と杖か何かが床を叩く音。
ゆっくりと姿を現したのは、白い布を肩にかけた痩せた男だった。髪は乱れ、頬はこけている。それでも、その瞳だけは驚くほど澄んでいた。
「違う。私は使用人だ。“王”は、君が今踏んでいる、それだ」
「んー?」
慰鶴が足元を見る。
「きゃあああああ!!」
蛍も朝顔も、姫魅も揃って絶叫した。
「慰鶴! 早く足をどけなさいよ!」
「慰鶴くん! 王様! それが王様なんです!」
「王様! お怪我は!?」
抱き上げられたボロ布は、弱々しくため息を漏らした。
「……もう誰にも必要とされていないと思っていたよ」
ぼろ布の隙間から、どこかバーのマスターにも似た、穏やかな目がちらりとのぞいた。
「どうして王様が、こんなところに……」
姫魅が呟くと、痩せた男は静かに微笑んだ。
「その前に問おう。君らは本当にノブレスの使いか?」
慰鶴は苛立ちを隠そうともせず返した。
「疑うのかよ」
「立場上、疑わねばならない。上に立つ者は、いつだって孤独だ」
“上に立つ者は孤独だ”——
その一言に蛍の胸が跳ねた。脳裏に浮かんだのは、追放される前の兄・愛華の背中。
誰より優しく、誰より孤独だった兄。
家族からも、臣下からも、国からも。
その名が背負う責務の重さを、兄は誰より知っていたのかもしれない。
「他に立つ者の覚悟……」
蛍は胸が締め付けられた。
長兄・愛華は、どれほどの孤独に耐えてきたのだろう。
次兄の剣は、その孤独の果てに振り下ろされたものだったのか。
沈黙を破るように、慰鶴が一歩踏み出す。
その声は、苛立ちを帯びながらも真剣だった。
「じゃあ、お前は? 王様の証拠はあるのかよ」
慰鶴の問いに、痩せた男は一拍置いて答えた。
「人の存在を証明するのは、人だ。外界を遮断し続けた王を王と証明できる者は、ここにいるじぃと……王の、たった一人の兄だけだ」
慰鶴がさらに食い下がろうとしたその瞬間、蛍が前へ一歩進んだ。
「間違いないわ。彼は王よ。人の上に立つ孤独を、知っている」
その声には、揺るぎのない芯があった。蛍の瞳に宿る強さを前に、男——王は息を呑むように瞳を見開いた。
「君も……そうなのか?」
「私は……」
蛍は言葉に詰まった。
脳裏に浮かぶのは、背負うべき顔、守るべき人々。 そして——孤独を抱えたまま立っていた兄・愛華の姿。
背負う覚悟。
跪く者ではなく、立つ者の責務。
蛍はそっと息を吸い込み、静かに、しかし凛として言った。
「私はガルディ王国の王女、蛍」
その場の空気が震えた。
誰もが耳を疑い、視線を蛍に向ける。
蛍はさらに声を強めた。
「証明してみせるわ。——国家を揺るがす重大な秘密。国王、あなたは……」
その場の空気がぴんと張り詰め、人々の呼吸音すら消えた。
「若ハゲよ!」
沈黙が、世界を丸ごと凍らせた。
「蛍ちゃん……?」
「蛍……?」
蛍は、どこか誇らしげに鼻を鳴らした。
次の瞬間、王がボロ布の下から身体を起こし、潔く頭を晒した。
「……間違いない。君はノブレスの使いだ」
「ええっ!?」
王の額には、確かな光沢があった。
「ノブリス——我が双子の兄にしか知り得ない秘密だ。……じぃ、この者たちをもてなせ」
じぃは静かに礼をし、しわひとつ動かさぬ表情で廊下の奥を指し示した。




