第75歯 世界は善悪だけで判断できない
サラが浦島の腕、ついでイルカの足へ触れた瞬間――
張り付いていた氷は、白い蒸気へと変わり散った。
その異様な光景に、浦島もイルカも言葉を失う。
「サラくん……なんすか、それ」
触れただけで氷が気化する。魔法どころか、理の外の現象だった。
人の肉体が本来持ちえない温度――細胞が焼き切れるはずの熱。
「わからない。……さっきから魔力の生成が異常に速い。身体が……熱い」
サラは歯を噛みしめる。荒い息を吐くたび、胸元から灼けるような蒸気がこぼれた。
その苦悶を、五番目は愉悦を隠しもせずに眺めている。
「ほう……魔力多増症とは、魔力を枯らすほどに逆に生み出す病だったか。成り立ちを思えば、なるほど納得だ」
イルカはその声を聞きながら、サラの小さな身体を凝視した。
真紅の瞳が燃えるように揺れている。それでも彼は何も訴えない。
「サラ。何があった? 体は……本当に大丈夫なのか」
深い水底へ沈んでいくような切実さ。
魔力多増症は呪いそのものだ。大人でも耐え難い負荷を、この小さな体は常に背負っている。
「……大丈夫だ」
その言葉は、無理に固めた氷のように脆かった。
「痩せ我慢をするな、逆鱗。魔道石に魔力を奪われた身体は心を失い、いずれ崩れ落ちる。 身を守るために増やした魔力で、身を焼き尽くす……滑稽だね」
五番目は舌で転がすように軽く言い放つ。
「無為に死ぬ必要はない。その命、氷妖の新世界の礎にしてやろう」
サラは震えを押さえ、深く息を吸った。
そして、静かに口を開く。
「観察者でいる余裕があるのか、五番目。……君は北条維千の抵抗に手を焼き、本領を発揮できていない」
五番目の頬が小さく痙攣した。
サラはそこへ爪を立てるように畳みかける。
「氷妖の“お家芸”はどうした? 本気を出せば、この場の半数は支配下に置ける。 できない理由はひとつ――北条維千の意識を支配できていないからだ」
「……黙れッ!」
怒号とともに空気が裂ける。刃のような氷片がサラめがけて飛ぶ。
しかし触れる寸前で弾かれ、空気が震えた。
「今日はよく喋るじゃないか、逆鱗」
五番目は歪んだ唇の隙間から、震える声を漏らす。
「知らないのか? 俺は、もともとお喋りなんだ」
サラは熱を抑えつけるように息を整え、イルカを見上げた。
「イルカ。死神が……北条維千が危ない」
張り詰めた声が夜を揺らし、イルカの微笑が凍りつく。
「イルカ、行って。彼には君が必要だ」
「サラを……置いて行く?」
その問いは、胸の奥を鋭い針で刺すように重い。
「彼は五番目の術に囚われ、今も闘っている」
「サラを置いては、いけません」
イルカの声に重なるように、サラは弱々しく首を振る。
「イルカ。俺はもう、自分の意思で立っている。……どうか、また自分の選択で大切な人を失わないで」
かつて黒魔法という過ちで失った最愛の師の影が、イルカの脳裏をかすめる。
「サラも……大切な人だ」
その一言は、水面に落ちた光のようにサラの瞳を揺らした。
「……ありがとう」
そのとき、浦島がぱっと立ち上がり、鼻の頭をぐいっと擦った。
「なーに、しんみりしてるんすか。ヒーロー最大の武器は“絆”っすよ? ひとりで無理ならふたり。ふたりで無理なら三人。……それが仲間ってやつっしょ」
「仲間……?」
サラは思わず瞬きをする。
かつて自分を“仲間”と呼ばなかった唯一の存在――それが浦島だった。
「……なんすか、その顔」
浦島は見つめられ、眉をしかめて照れ隠しをする。
「そうだね。……仲間だ」
サラが小さく笑うと、浦島の耳が一気に赤く染まった。
「しょ、しょーがないっす! 兄貴分として放っとけないっすから!」
フンッと鼻を鳴らした浦島に月明かりが差し、イルカが安堵の笑みを見せた。
「イルカさん。サラくんは、この浦島桃太郎が守るっす! だから……北条隊長は、頼んだっす」
イルカの瞳がわずかに揺れた。
北条維千は、浦島が憧れてやまない存在であり、彼に銀戌隊を託した人でもある。
本当は——助けに行きたいのは、浦島の方なのだろう。
「これを」
物陰からノブレスが小瓶を投げて寄越す。それを受け取るとイルカは力強く頷いてみせた。
「必ず」
イルカの声は静かだったが、芯のある力強さを帯びていた。
「タマ」
イルカが名を呼ぶと、白虎がすっと姿を現す。
彼はその背にひらりと跨り、月明かりの中へと消えていった。
「もういいかい?待つのは嫌いでね」
五番目の足元から、氷の蕾が芽吹く。それらはパキパキと音を立てながら、香りのない花を静かに開いた。
「散れ」
花弁は空中で裂け、無差別に飛び散った。
その一枚一枚が、味方であるはずの国家警察の胸を、頭を、そして手足を貫く。
悲鳴が、あちこちで鋭く裂けるように響いた。
混沌の渦の中で、五番目だけが静かに立ち、まるで死の女王のように美しく輝いていた——その存在は、この世界そのものをねじ伏せる力を宿しているかのようだった。
「恐れ慄け、人間風情。絶望に叫ぶがいい——その声こそ、お前たちの存在を意味づける唯一の価値だ」
冷笑が音もなく空気を凍らせる。赤い唇から白い吐息が零れ落ち、周囲の温度は瞬時に氷点下へと下がった。
「私を悦ばせておくれ。脆弱な存在の、ただそれだけが価値だろう?」
刹那、世界の温度が急激に冷え込む。サラは迷わず上着を脱ぎ、裂いた布で浦島の口元を覆った。
「直接吸い込めば、肺が凍る」
「そんなことしたら……あいつ、仲間まで巻き込むつもりっすか?!」
サラの奥歯がきつく噛み締められる。
「氷妖――いや、五番目に仲間などいない」
その冷酷さこそ、サラが北条維千を警戒していた理由だった。善悪はなく、あるのは快楽だけ。
しかし——
(北条維千には、相手に歩み寄る“温かさ”が確かにある)
安易な先入観で維千を拒み続けた自分に、彼は分け隔てなく接した。
不器用な想いを乗せた器用な作り笑いを思い出し、サラは口元を緩めた。
「……あいつ、無茶苦茶っすね」
浦島は手元の魔法陣から鎖付きの金棒を取り出すと、飛んできた氷片を撃ち返す。サラは浦島の前に躍り出ると、氷片を熱で弾き、白い煙へと変えた。
水の焼ける音が、戦場に響いた。
「維千さんが言ってたっすけど、サラくん、まるで電気柵っすね!」
サラは眉をひそめ、短く答える。
「うるさい」
眉をひそめるサラに、浦島は朗らかに笑った。
「撤退!撤退!」
ノブリスの叫びと共に、国家警察はまるで矢のように後退した。砂埃が舞い上がり、地面に足音だけが残る。
サラは動じず、冷たい眼差しで身を固める。
浦島は迷わず、再び五番目に向き直った。その視線には、静かな決意と警戒が混じっていた。
「さあ、始めようか」
「そんじゃ、お縄を頂戴するっすよ!」
浦島が両手を地に据えると、地面から鋼鉄の柱が無数に伸び、五番目へと突き出す。
「くだらないね。すべてのものは無情に砕け散るだけさ」
五番目は軽やかに鉄柱を避け、冷気が描く軌跡だけを残す。
「うぬぼれだ、五番目」
サラは鋼鉄を駆ける電流をバチバチと響かせる。熱を帯びた鉄柱が白い煙を巻き上げる。周囲の温度が急上昇し、握る手のひらに汗が滲んだ。熱気の中で、五番目の動きが次第に鈍る。
「俺から奪ったもの、すべて返してもらう――!」
サラは闇に身を潜め、掌底を五番目の腹に叩き込んだ。
「かはっ!」
その衝撃で、五番目は咳き込み、血を吹き出した。
サラは全身の怒りを凝縮させ、掌底から放電する。電流は掌を伝い、五番目の体を容赦なく貫き、追い討ちをかけた。
「ナイス!サラくん!」
浦島は金棒の鎖を両手で握りしめ、ぶんぶんと回し始めた。その動きは無邪気な少年のようでありながら、背後には揺るぎない戦意が宿っていた。
「そぉれっ!」
浦島が遠心力を利用して、金棒を5番目に投げつける。
金棒が五番目の頬をかすめる。
その一瞬、5番目が不気味に笑った。
「仲間はね、弱さを隠すための屁理屈さ。強者が群れる必要はない。ただ、有能な道具さえあればいい」
5番目は舌で血を舐めとると、不敵な笑みを浮かべた。




