第74歯 己の特性と限界を理解して戦え
一瞬の出来事だった。
イルカの足元で水面が泡立ち、地を割くように白熱の柱が噴き上がる。牙を剝く熱水が、五番目めがけて襲いかかった。
「ほう……あの子に教わったかい?」
五番目は、足元に転がる浦島をまるで玩具のように軽々と蹴り上げ、虎へ向けて放り投げる。
「ぐえっ!ちょ、ちょっと待って! タンマ、タンマぁ!」
悲鳴混じりの身体を避けるように、熱水の柱は空気を裂き、霧のように消えた。
「熱っ……!」
飛沫がひとかけら触れただけで、国家警察の前列が悲鳴をあげ、後ずさる。
「撃て!」
一斉に轟く号令と、引き金の音が重なる。弾丸が空気を裂き、イルカへ向かって放たれた。
刹那、イルカの掌に和傘が出現する。
それを軽く開いた瞬間、水は旋回して竜巻のような渦を作り、彼の身体を包み込んだ。
弾丸は全て渦に吸い込まれ、鋼の悲鳴を立てて消えていった。
「ええ。何杯も酒に付き合わされて、ようやく教わったんです……氷妖って熱に弱いんですよ」
渦がほどけると、イルカの微笑が水煙の中から姿を現す。
夜の光景、維千と酒を酌み交わしたあのささやかな時間が、胸にひとつ、またひとつと灯る。
小さな積み重ねこそ、二人の間に育った信頼の証だった。
「酒欲しさに弱味を漏らすとは……あの子も意外と抜けているね」
「あなたには分からないでしょう。維千の、不器用な優しさは」
イルカは空中で傘を閉じ、飛んでくる浦島のフードを器用に引っかけ、勢いを殺した。
「ぐえっ……!」
フードが食い込み、浦島は地面に転がる。涙目でイルカをにらむ。
「イルカさん、たまに信じられないくらい雑っすよね……!」
「おやおや、まあまあ。血筋、というやつでしょうか」
“ガサツの覇者”と揶揄された姉の顔が脳裏をよぎり、イルカは困ったように肩をすくめた。
イルカが五番目へ向き直る。
薄い笑みを崩さない彼女の背後で、ノブリスが帽子に手をやり、大袈裟な忍足で物陰に隠れる。
口は「潜入捜査は?」ともどかしげに動いていたが、イルカは無視した。
(どちらにせよ……五番目は、浦島くんも僕も、この場でまとめて殺す気です)
穏やかに見えるイルカの微笑の奥に、張り詰めた温度がひそむ。
それを察した浦島は、思わず顔を強張らせた。
(わお……慈悲の海にも、荒れ模様のときがあるんすね)
イルカは傘を一閃させる。刃のように研ぎ澄まされた水が風を裂き、五番目へ走った。
「つまらないね。さっきの熱はもう終わりかい?」
水刃は触れる前に凍りつき、粉々に弾けた。
(やはり届きませんか……。しかし、水属性の僕が水に熱を持たせるには、分子からイメージし、莫大な魔力を注がねばなりません。連続して熱攻撃はできませんね)
イルカは空を仰ぐ。
(こんなとき、サラがいてくれたら……)
黒雲の下、白月に稲光が瞬く。
「ならば……」
イルカが傘を回すと、露先から滴る水が糸となる。それらはやがて、太い縄に束ねられ、五番目へ撃ち出された。
「何度やっても同じだよ」
余裕を崩さぬ五番目。
束ねた水縄が一直線に伸び、彼女の手が霜を散らしながら受け止めようとする。
「僕が諦めたなら、そうなるでしょうね」
その瞬間、イルカが傘を返す。
水は途端に奔流となった。渦でも波でもない、ただ前へと駆ける水。
凍るはずの氷は、流れの中では掴めない。
「……そう来たかい」
五番目の眉がわずかに動く。
水縄は彼女の頬をかすめ、細い切れ目を残して通り抜けた。
真珠のような血が、凍った地面に一粒落ちる。
五番目の冷気が空気を刺す。次の瞬間、世界そのものが震えた。
「さがれっ!」
ノブリスが叫ぶ。五番目の足元から氷の獣、ユキヒョウが音もなく立ち上がる。
空気から奪った温度が凝縮し、体は刃のように鋭い。
(これまでとは違う……!)
イルカは咄嗟に傘で身を隠す。
ユキヒョウが一歩踏み出すたび、空気が凍る。流れを持つ水膜でさえ、速度を削がれる。
「ああ、いい顔になってきたねえ」
ユキヒョウがイルカに飛び掛かる。イルカの足元から湧き出した水は、壁となる前に凍りつき、砕け散る。
咄嗟に傘で受け止めた爪は鋭く、傘の柄にスッと食い込む。
「イルカさん!」
浦島がユキヒョウに蹴りを叩き込み、刃のように研ぎ澄まされた氷の肢体がふくらはぎを裂いた。
「いっつー!」
涙目になりながらも、キッと瞳を光らせる浦島。
足裏から放たれた鋭いスパイク状の刃が、ユキヒョウの右前足を無情に切断した。
「さあ……凍りつきな」
五番目は息をつき、腕を掲げる。
ユキヒョウが跳躍し、白霜が爆ぜる。
奪われた温度が渦となり、イルカの肺を締めつけた。
イルカの足の凍結は広がり、遠くで逃げ惑う国家警察官が倒れていく。
息を吸うだけで内臓が軋む。
その瞬間だった。
世界の端で低い雷鳴が喉を鳴らす――雷鳴ではない。もっと生々しく、意志を帯びた震動だ。
五番目の動きが止まる。頬をかすめる傷から流れる血が、電気に触れたように微かに跳ねた。
「緋色の逆鱗……何故、あんたがここにいる?」
天地を割る光が降り、その中心から影が歩み出す。黒髪が放電するように揺れ、赤い瞳に雷が脈打つ。
「……カツ丼へのこだわりが強すぎたようだ」
サラだった。
その佇まいは、追われる者の弱さではなく、覚悟を負った強さを帯びている。
「サラ……!」
イルカの胸に熱が戻る。
「カツ丼って、なんすか?」
浦島の呆れ顔。
「隙を作るための方便」
サラはキリッと答えたが、イルカも浦島もさっぱり訳がわからない。
「アレが何故ここにいる! 国家警察は何をしていた?!」
五番目の余裕が初めて剝がれた。彼女は国家警察官のひとりを睨みつける。
「退がれ!」
サラが高速移動し、国家警察官を背に庇う。五番目の怒りの視線を受け、サラの身体が凍りつく。
「大人しくしていれば、命だけは助かっていたものを」
五番目が鼻で笑う。サラの氷は蒸気を上げ、瞬時に溶け出した。
「俺は守るために、生きる」
空が唸り、雷の匂いが満ちる。サラの皮膚は赤く、熱を帯び、体に電流が走った。
彼の魔力は、抑えを失い溢れ出そうとしていた――。




