第73歯 闇は時に人を守る
「……ここは、影の底か?」
目を開けているのかさえ判じがたい、濃い闇だった。 それなのにサラの足取りは迷いがない。
むしろ闇が、行く先をそっと支えるように揺れ動いている。
冷たいはずの虚無は、なぜだか懐かしい。それは幼いころ、幾度となく彼を包み込み救ってくれた影だった。
「ガリヴァーノン……?」
震える声に宿ったのは、恐れだけではない。
兄を呼ぶような願いの震えでもあった。
応える代わりに、闇の奥でひとしずくの光がゆっくりと割れた。白い羽音が生まれ、ふくよかな鳩のかたちとなる。
ガリヴァーノンの九十九――ブリスト伯爵。
『来たか、小僧』
ざらりと擦れる影の声の中に、かすかな温もりが混じった。
「……伯爵。本当に……君なの?」
サラの喉奥が勝手に震え、視界が滲む。
彼は鳩に飛びつき、伯爵は羽をばたつかせながらも、光の翼でサラの頭を子どもに触れるように撫でた。
「戻ってきたんだね」
「馬鹿を言うな。そう易々と戻れるものか」
その一言で、闇の温度がひやりと落ちた。
「ガリヴァーノンの魂は、まだ空虚を彷徨っている」
サラの胸の奥がぎし、と悲鳴をあげる。
伯爵はその痛みを読み取ったように、柔らかい影をサラの頬へ落とした。
「青の死神――維千が、五番目の術に支配されているのは知っていよう」
サラの脳裏に、あの“生者の匂いを喪った瞳”が浮かぶ。
「……死神は俺のことを、忘れていた」
予想外の告白に、伯爵の鳩の顔がぽかんと固まった。
あれほど“誰の記憶にも残りたくない”と願っていた少年が、“忘れられた痛み”を口にするとは。
「……他人に忘れられるのって、こんなに怖いんだね。こんなに……痛いだなんて」
沈む声を聞き、伯爵はぱちんと光の翼でサラの頭を叩いた。
「馬鹿者!その顔をやめろ!」
「……は?」
「聞け。氷妖の術は、他者の心を縛るものだ。維千は五番目に術を掛けられる直前――自分自身に、同じ術を掛けた」
闇がざわ、と波立ち、白い羽根が音もなく舞う。
「自分で……自分を支配して、五番目に抵抗しているってこと?」
「そうだ。五番目は苛立っている。表面の支配は叶っても、心の核には指一本触れられんのだからな」
サラは息を呑んだ。
あのとき―― 刃先が自分に向けられていたのに、傷つかなかった理由。
あれほどの殺意に、どこか“ためらい”が滲んでいた理由。
――維千自身が、心の底で止めていた。
「その証拠に、ガリヴァーノンへの支配が弱まっている。この通り、わずかながら吾輩は自由を得た」
伯爵の瞳に、冷たさと温かさが同時に明滅する。 サラの胸にも、小さな火がぱちりと灯った。
「死神を救うも、ガリヴァーノンを連れ戻すも――お前次第だ。絶対に捕まるな。奴らはお前の“異常な魔力”を欲している」
伯爵の声は静かだが、闇の底で鈍く響いた。
「……わかってる」
覚悟はとうに決めていた。それでも焦燥が胸を焼く。
五番目の“火遊び”は、じりじりと国全体を焦がし始めていた。
(イルカに……俺を殺させない)
ウララカで交わした約束が、奥歯に力を込めさせる。
「外ではもう、“平和維持軍狩り”が始まっている。どうする?」
「……助ける。当たり前だ」
短い言葉なのに、闇を割るには十分だった。
伯爵はサラをじっと見つめ、細い目をさらに細めた。
「おい、小僧……。お前、少し大きくなったな」
「今年の健康診断、166センチだった」
サラは照れて口元をむにゅっと歪める。
「身長の話ではないわ!天然小僧!」
伯爵は鳩胸を誇らしげに膨らませ、クエェと鳴いた。
「……まだ伸びるかな?」
「なんだ。ついに気にするようになったか?」
「別に」
「……小僧。ピアスはどうした?」
サラが頬を赤らめ、顔を逸らす。ブレスト伯爵は豆鉄砲を食ったような顔をした。
「女か?」
「……」
「図星か!」
「……そんなんじゃ、ない」
伯爵の影がゆらりと揺れ、鳴き声は珍しく愉快そうだった。
闇に、ほのかな温度が戻る。
「お前の成長、もっと見届けたいが……五番目が近い。吾輩が手を貸せるのはここまでだ」
サラの瞳に影が揺れる。
「……ありがとう、伯爵」
「健闘を祈る」
伯爵はサラの背を軽く押した。
「待ってて。必ず、救い出すから」
足元がふっと明るむ。
サラはためらいなく、光へ飛び込んだ。
⭐︎
北条維千を隊長の座から引き摺り下ろした“第五番”は、彼とよく似た容姿だ――そんな噂は半ば、怪談じみた冗談の類と思われていた。
だが目の前に立つ存在は、その噂を容赦なく現実へと引きずり出していた。
「あなたが……五番目ですか」
イルカの声は、驚きよりも冷静が勝っていた。
「答えてやると思うかい?若造」
声の調子すら維千に似ている。ただし、礼儀と優しさを抜き落とし、刃だけを残したような返しだった。
「あんたが北条隊長を!」
浦島が吠える。今にも掴みかかる勢いだ。
「跪けっ!」
ノブリスが縄を引いた瞬間、浦島は膝を砕かれたように前へ倒れ込んだ。
五番目は、冬空のような無機質な瞳で彼を見下ろす。
「お前、あの子の何だ?」
「自分は……維千さんの――」
「殺せ」
「わふっ?!ま、待っ――!」
五番目は質問をしておきながら、その答えを聞く気など毛頭ないらしい。
浦島は呆気に取られる。イルカも驚きに眉をひそめた。
「話を聞けっす!」
「やかましい犬だねえ」
気だるげにため息をつき、五番目は浦島をあっさり踏みにじる。
「半人半妖……あの中途半端な生き物は、心が壊れて初めて“完成”する。あの子に関わるものを一つずつ壊していけば――今に面白いことになる」
冬の光より冷たい笑みが、維千と同じ顔に浮かんだ。
その狂気は、似ているはずの“本物”とは決して重ならない。
だからこそイルカの胸の奥で、静かな怒りがゆっくりと火を噛んだ。
「維千さんを侮って、痛い目見るのはお前っす!」
「威勢がいいね。そんなに殺されたいかい?」
五番目が浦島の背を踏みにじる。
氷の刃を思わせる無関心さで、重みは増してゆき、まるで“痛みが生じるという事実そのもの”に興味がないかのようだった。
「……やめろ」
イルカの声は、いつもより低かった。
怒りというより、震えるほどの嫌悪を押し固めた温度だった。
五番目はその声だけを拾い、ゆっくりと顔を上げる。
維千と同じ輪郭なのに、光だけが抜き落とされ、底の見えない暗い水面のように濁っていた。
「やめろ?命令かい」
五番目が指を弾くと、空中にできた氷柱が落ちて、浦島の手の甲を貫く。
悲鳴より早く、氷柱が花開くように開き、そのまま浦島の腕を駆け上るように凍りつかせた。
「浦島くん!」
イルカが駆け寄ろうとした瞬間、白い息のような冷気が、イルカの足を根元から凍らせた。
「動くと折れるよ」
それは脅しではなく、ただの現実の告知だった。
五番目はまるで舞台の中心に立つ役者のように、ゆっくりと両腕を広げる。
氷の結晶がひとつ、またひとつと光を放ち始めた。
「人間は、忘れたんだよ。誰がこの世界の“支配者”だったかをね」
氷の香りは、甘いのにどこか腐った匂いを含んでいる。
落ちぶれた名家――氷妖の残滓。
その腐敗を象徴するような冷たさだった。
「妖怪が人を食らう時代。氷妖は神より恐れられた妖の名家だった」
イルカは息を呑む。
五番目は続けるが、その声は語りかける調子でありながら、完全に一人芝居だった。
「それが人間と妖怪が共存する……互いの繁栄を願い、そんな馬鹿げた話が現実となる。本能のまま生きてきた氷妖は、変わる世界についていけず、ついに怪談のように語られるまでに落ちぶれてしまった」
5番目は笑う。
維千の面影のまま、しかし絶望的に別の何かとして。
「だから、心ない妖よりも残酷になり得るあの子を頭領に据えるのさ。氷妖の器を持ちながら、人間の形をしたあの子をね。世界は再び、恐怖に凍る」
イルカの胸が冷たく跳ねる。
「維千は……そんなこと、望んでない!」
「あの子が望む必要があるかい?」
五番目は無邪気に首を傾げる。
「わたしが望んでいるんだから、それでいいだろう?」
その瞬間、空気が凍り、光がねじれ、氷妖の紋が床いっぱいに広がった。
「戻そうじゃないか。妖が人を喰らい、人間が命乞いをする“正しい世界”へ」
イルカの視界が揺れる。
その狂気は、維千が決して持たなかった色。
その“似ているはずの顔”が憎悪と快楽に塗れた瞬間、胸の中で何かが音を立てて裂けた。
「維千は力に屈しない。彼を動かすのはたった一つ……」
五番目は、ふっと笑う。
「友情かい?くだらないね。あの子には術をかけたんだ。もう、どんな言葉も届かないよ」
その笑みは、冷気よりも冷たい。
「どんな言葉も届かない?そんなのは、いつものことですよ。あいつはいつだって独りよがりですから」
イルカの足元に魔法陣が浮かび、水が渦巻く。国家警察が一斉に銃を構える。
「北条維千は酒でしか動かない。覚えておくように」
刹那――イルカを縛っていた縄が、水の刃に裂かれた。




