第72歯 立場や肩書きは本質を隠す仮面にすぎない
ラジオから流れる言葉が、蛍の脳を拒絶した。
『――国家転覆を企てた疑いで、平和維持軍・総監メロウ=ジャズら複数名を――』
まるで誰かの悲鳴を遠くで聞いているようだった。
耳は確かに音を拾っているのに、心だけが頑なに突き返す。理解は薄氷の上を滑って、そのまま深い闇へ落ちていく。
「そんな……メロウさんが、国家転覆って……!」
震える声が喉に絡まり、ひゅっと呼吸が詰まった。
大きな手。無骨な笑顔。ぶっきらぼうに差し出された、あの温かさ――
胸の奥で記憶がじわりと燃え、刺すような痛みになって広がる。
「あのジジイが? んな、人を傷つけるようなことできねえに決まってんだろ」
慰鶴が舌打ちと共に眉をひそめる。怒っているはずの瞳の奥には、それ以上に“信じたい”気持ちが透けていた。
「冗談じゃないっすよ! 平和維持軍は国も人も越えて、平和を願う組織っす。国家転覆なんて……!」
浦島が拳を強く握り込む。肩が小刻みに揺れ、奥歯の噛みしめる音が聞こえそうだった。
「おやまあ……」
ただひとり、イルカだけが静かにラジオへ耳を傾けていた。
その沈黙は、嵐の前の海――水面に潜む巨大なうねりのように不気味だった。
――そのとき。
「長いこと働いてきたが、こんなことは初めてだよ」
マスターが店の札を裏返し、ゆっくりと鍵を閉めた。
カーテンを引き切り、ためらいなくかつらを外す。棚から取り出した帽子には、国家警察の紋章が鈍く光を返した。
蛍の背筋に、冷たい針が走る。
「マスター……あなた……」
「“ハゲに怯えるBARヒュッゲの店主”。そして同時に――すべてを捨てた国家警察の諜報員」
淡い微笑み。その奥に潜むのは、鋼鉄の匂い。
ずっと隠していた刃をそっと取り出すような、冷ややかな瞳だった。
「どちらも私で、どちらでもない。失うものを失くした男、“ノブレス・オブリージュ”の亡霊だよ」
「国家警察……っ!」
浦島が蛍の前へ飛び出す。守るというより、反射で庇った。
その必死さが、蛍の胸を強く打った。
「安心しなさい。危害を加えるつもりはない。ただし……」
マスターの視線が鋭く光り、イルカの前で静かに止まった。
「君たちが、私の味方であればの話だが」
その瞬間、イルカの笑顔がふっと消えた。
「北条維千について、君はどう思う?」
名が落ちた瞬間、空気が固まる。
マスターの瞳が白に染まった。
イルカは静かに息を吸い、言葉を選ぶ。
「……心がないと思い込んで、いつまでもいじけてる空気の読めないクソガキ、でしょうか」
口調は刺々しい。
その刃をやわらかく包むような微笑みとの不釣り合いに、三人は思わず目を見張った。
「罪を犯し、大切な人を奪った僕に、維千は生きろと言いました。親友まで奪うつもりか、と。心のない奴が……そんな言葉、言えるわけないでしょう」
イルカは声だけを震わせた。
「君は?」
マスターの視線が浦島へ移る。
「維千さんは、かっこいいっす。ずっと俺の憧れで……」
迷いのない声。
姉たちに囲まれ、自分の趣味も特技も“女々しい”と押しつぶされそうだった少年に――維千は言った。
他者評価なんて当てにならない。
お前が持ってるものを、堂々と持て。
「完全を装う不完全な生き物……だからこそ、俺はあの人に救われたんす」
その誠実さに、マスターの瞳がかすかに揺れる。
「近寄りたくねーよ。こえーもん」
慰鶴はぶっきらぼうに言った。だが、その声には怯えと――どこか親しげな温度があった。
「でもよ、一番気にしてんのは維千さんの方だろ? 本棚の半分が心理学だぞ。余裕こいてるくせして、いつも必死で……放っとけねーんだよ」
マスターの白い視線が蛍へ向けられた。
「君は?」
蛍は反射的に前へ出た。
「私がいないと、てんでダメね!」
脳裏に浮かんだのは、穏やかに眠る維千の横顔。
「きっと、誰より臆病で、寂しがりなんだから」
胸が熱くなる。
あの人を信じる――その真っ直ぐさが、声に滲んだ。
「そうか……」
マスターの目に色が戻る。
その微笑には安心と、寂しさと――わずかな希望が混じっていた。
「君たちなら、今の維千に会っても大丈夫だろう」
店内の空気が一変する。
「どういう……」
「ことですか?!」
蛍と浦島が詰め寄るが、マスターは静かに押し戻した。
「君たちは“5番目”を知っているかい?」
その名を聞いた瞬間、イルカ、浦島、慰鶴の表情が曇った。
「5番目って――何よ?」
「維千さんを壊した女っす」
「維千さんを……壊した?」
重しのように、胸へ沈む。
慰鶴がかすれる声で言った。
「俺のせいだ……俺を助けようとして、維千さんは5番目にやられて……氷妖の血を流し込まれた。人間と妖のバランスを失って……あの時の維千さんは……」
返り血に塗れ、悦に沈み、狩り尽くすまで止まらなかった――
あの日の悪夢が、慰鶴の瞼の裏に焼きついて離れない。
「維千さんは化け物なんかじゃないっす!」
浦島が叫ぶ。
「あなたが自分を責めても、維千は戻りません」
イルカの押し殺した怒りが、逆に静かで怖かった。
マスターが言う。
「5番目は維千を手中に収めた。彼を助けたい。……力を貸してくれ」
その目は、正義でも使命でもなかった。
――“友を救いたい”という、あまりにも人間的な願いだった。
「時間がない。このままではメロウ・ジャズは数日以内に処刑され、維千は完全にあの女に奪われる」
焦りが、言葉の端を震わせた。
「二手に分かれる。隊長ふたりは私の捕虜として国家警察へ潜入。ふたりは国王のもとへ。私の名を出せば、道は開く」
「国王?! 簡単に会えるはずないわ!」
「この事態は王の怠慢にも責任がある。……もし、まだ私を覚えていれば、無視はしないだろう」
「もし、できなかったら……?」
「できなきゃ――国が終わるだけさ」
あまりに軽く言い切るため、息が止まった。
「信用できねえな。あんた、国家警察なんだろ?」
慰鶴の不信を受け、マスターは蛍と慰鶴をそっと呼び寄せ、耳元へ口を寄せた。
「それなら教えてあげよう。国家を揺るがす秘密を――」
囁いた瞬間、蛍と慰鶴の目が金魚のように飛び出した。
声にならず、口がぱくぱくと動く。
コンッ、コンッ――
扉を叩く音が響く。
「国家警察が来た。君らは裏口から出なさい」
マスターはイルカを素早く縛り上げながら言った。
「でも!」
「いくぞ!」
戸惑う蛍の手を引いて、慰鶴は店の奥に駆け出した。
不安に揺らぐ蛍の視線をイルカの温かな笑みが受け止める。
「国に」
ドアの向こうで低い声が続く。
「光を」
マスターが応じる。
「頭皮に」
「わかめを」
ギィ――
扉が開いた瞬間。
闇の奥で一糸乱れず並ぶ国家警察の影に、浦島が息を呑む。
――そして、その奥に立つ“ひとり”に目を奪われた。
「維千…さん?」
そこにいたのは――天色の目に紺碧の髪だった。




