第71歯 どんな時も心をほぐす瞬間を忘れないで
目を開けているのか、閉じているのか――その区別すら溶けてしまうほどの深い闇だった。
サラは沈みゆく石のような自分の身体に触れ、輪郭を確かめるように、指先をかすかに動かした。
「……ポチ」
声は闇の底でひっそりと溺れ、返事はどこにもなかった。
かつて胸の奥で絶え間なく泡立っていた魔力の気配も、今はすっかり消え失せている。
ただの人間――それが、今の自分だった。
「こんな時に……」
スピッツで積み重ねてきた怒りも悲しみも絶望も、すべてを絞り出すようにかすれる声を上げた瞬間、指先にかすかな電流が触れ、魔道石の壁が赤い火の粉のように光を散らした。
「……っ」
揺れる赤光に応じるように、サラの赤い瞳が苦痛を訴える。息をするたび、魔力が身体の奥底から吸い上げられ、目の奥が灼けるように痛んだ。
やがて、重い扉が軋んで開き、静寂に足音が落ちる。
「これは驚いた。まだ魔力を作るのか」
差し込む光に目を細めるサラ。逆光のなか、ゆっくりと形を結ぶ影。
黒髪をきつく撫でつけ、整えた口髭を持つ男。
――国家警察総監、ラスト・オーダー。
「魔力多増症。無尽蔵に魔力を生むが、余命は二年。……生き延びただけはある」
穏やかな微笑みのまま、ラストはサラの髪を無造作に掴んだ。
「この負荷に耐えていたというから、いかほど屈強な男かと思えば……女のような顔つきに、子どものような体つきじゃないか。この病は確か――目の色を変えるのだったな。まるで宝石だ。命を燃やす赤だよ」
その視線は、ゆっくりとサラの皮膚を刺し貫いてくる。
「ふむ。抉り取って、首飾りにしてもいい」
ぞくり、と体温が一瞬で失われた。
「まあ、かわいらしいこと!」
ラストの背後から、鈴を転がすような声がのぞき込む。
少女――フルの無邪気な笑顔が、残酷さを艶めかせていた。
「お父様。この子、私が飼いたいわ」
「いけないよ、フル。彼は道具だ。用が済んだらお前にやろう。その頃には壊れているかもしれんがね」
ラストはサラを床に投げ捨てた。
「あら、それも素敵。未完成の美学というものだわ。ねえ、維千」
その名が空気を震わせた瞬間、サラは息を呑んだ。 フルが腕を絡め、甘えるように寄り添っているのは、国家警察の制服を纏った青年だった。
「……死神?」
透き通った甘色の瞳には、あの冷たさすら宿っていない。
ただ、温度が――失われている。
サラは震える声で、その名を呼んだ。
「死神!そこで何をしている!」
維千は視線だけをサラへ向けたが、口は閉じたまま静かだった。
「答えろ、北条維千!」
「彼は……誰ですか?」
その問いの無垢さが、刃より鋭くサラの胸を締めつけた。
イルカに拾われたあの日、唯一差し伸べられた冷たい手。
酒瓶を片手にベッド脇で軽口を叩き、紺碧の髪を揺らして笑っていた男。
総監のメロウを制し、サラを仲間と認めさせた男。
そのどれも――いま目の前にはいない。
「ごめんあそばせ。彼はもう、私の所有物でしてよ。あなたも望むなら、コレクションに加えて差し上げますわ」
「……所有物?」
記憶の底で、温度のない女の影がゆらりと立ち上がる。
サラの恩師を“所有物”と呼んだ、あの女。
もし五番目がここにいるのだとしたら――維千の意思は、もう彼女の手にあるのか。
怒りが腹の底で音を立てて膨れあがる。
「俺に仲間を教えたのは君だろ……! 簡単に忘れるな!」
電流が走り、雷が形を帯び、獣の息遣いを始める。
「何を言ってるのかしら。あなたは仲間なんかじゃなかった。それだけでしょう?」
「黙れ!」
雷は龍となり、フルへと飛びかかる。
維千は静かに刀を抜いた。
一歩の踏み込みとともに、巨大な氷の盾が花開くように生まれ、雷龍を吸収する。
「……散れ」
維千の声は低く、凍りつくように静かだった。
電流をまとった氷の花が、サラの目を狙うように弾け飛ぶ。花弁は空気を裂き、瞬間、耳元で鋭い音を立てた。
サラは肩で荒い息をしながら、次々と降り注ぐ氷柱を必死にかわす。冷たさと痛みが肌を刺し、時間の感覚が歪む。
床に突き刺さった氷柱が、一斉に轟音を立てて砕け散る。氷片が光を反射して舞い上がるその瞬間、サラの視界の奥――そこに維千の姿はもうなかった。
どこかで息を潜め、次の攻撃の気配を忍ばせているのか。
恐怖と緊張が、血管を走るようにサラを包み込む。
「まだ魔法を練るのか。わんぱくな子猫だ。少し躾をしておこう」
ラストが拳銃を構えた。
一発、二発、三発――サラは身をひねって避けながら、その意図に気づく。
(殺す気は……ない。ならば――)
床を蹴る。ラストの懐へ、真っ向から飛び込む。
だが、背筋を這う殺気が手を止めた。
その一瞬で、サラは自らが斬られる未来を鮮やかに見た。
氷柱のような汗が背を流れ落ちる。
背後には維千が立ち、刀の切先をサラの心臓に添えていた。
(これが……北条、維千)
維千は静かに刀を納め、淡い影のように距離を取った。
極限の緊張が溶け、サラはその場に崩れ落ちる。魔力も体力も、もう残っていなかった。
「無理はしないことだ。魔道石の部屋で魔力を無理に生めば、身体は粉々になる」
穏やかな声で言い残し、ラストは音もなく部屋を去った。
「死神…」
霞む視界の維千は振り返ることなく、フルに連れられ部屋を後にした。
数時間後、サラはゆっくりと目を開けた。
頭が重く、体中がだるい。意識がはっきりしてくると、目の前の光景に目が止まった。
「君たちは……」
国家警察の凸凹コンビ、芦屋道明と命斗が目の前にいた。
「あんた、何者だい?」
芦屋は肩にかけた巨大な数珠を、サラの頬にぐりぐり押し当てる。
「魔法石は相手の魔力が強ければ強いほど、吸う力も強くなる。並の魔法使いじゃ、こうはならんよ」
魔法石の壁は、まるでサラの命を引き裂くかのように、彼女の魔力を容赦なく吸い取ろうとしていた。
「そのちっこい体で、どこまで耐えられるか、見ものだね」
「おい、芦屋!俺の推しをいじめるんじゃねえ!」
命斗は9歳前後の姿で叫ぶが、その声には27歳の熱い本音が混じっていた。
芦屋が渋々手を引くと、命斗はサッとサラを抱き寄せる。
「もー! 芦屋くんはいじめっ子だし、ラスト総監は目玉を抉るなんて言うし!国家警察って、変態しかいないの?」
命斗は9歳ぶってぷりぷりしながらも、サラに猫耳をつける手を止めない。
「あんたがいちばん変態だがね」
芦屋は気苦労を感じさせるため息。サラも静かに頷いた。
「国家警察……君たちは、何を考えている?」
穏やかに聞くサラに、二人は同時に振り向き、一瞬の沈黙。
「このイレギュラーな仕事で、サービス残業をいかに避けるか…だね」
「…お疲れさま」
芦屋の切実な思いに、サラは少し同情する。
「猫耳サラくんを颯爽と助け出すイルカくん…という萌えシナリオ!」
「なんで猫耳?」
徐々に論点は逸れつつあるが、誰も突っ込まない。
命斗はマイペース、サラは天然、芦屋は命斗のカオスを軌道修正するので手一杯だ。
「そんなの…キュンキュンするからに決まってるじゃないか!」
「キュン…キュン?」
「ぶはあっ!けしからん!サラくん、もう一回、もう一回言ってくれ!」
命斗が興奮して鼻血をぶちまけ、芦屋が甲斐甲斐しく拭く。
「あんたたち。一体何なんだい?キュンキュンってのは…」
命斗が白けた目で見つめる。
「うっわ…」
「うっわ…ってあんた。地味に傷つくよ。そっちのとあっしとで、何が違うってんだい」
「キュンキュン」
サラがキリッと返すと、命斗は鼻血を吹き出す。
「ぶはっ!そのかわいさ、もはや凶器だ!」
芦屋は呆れつつも呟く。
「狂気だよ……魔法石よ、鼻血も吸ってくれやしないか」
芦屋のぼやきが、暗闇に虚しく響いた。
(イルカは必ず来る。それまでに隙を…作るんだ…!)
魔力は消えている。脱出など不可能に思えた。
それでもサラは、かすかな望みにすがり、隙を探る。
(魔法は使えない。扉は魔力認証式。脱出のチャンスは監視が出入りする一瞬。どうにかして、扉を開けさせないと)
そのとき――
ぐう〜、と間抜けな音がした。芦屋も命斗もサラに注目する。
「あんた、もう腹が減ったのかい?」
サラは頬を赤らめ、小さく頷く。
「無理もないよ。魔力を作り続けるってことは、ずっと笑ったり、怒ったり、泣いたりしているのといっしょなんだから……魔法は心、だよ」
命斗は自分の解説にうんうんと頷いた。
「……カツ丼、食べたい」
「警察はカツ丼屋じゃないよ。次の食事まで我慢しなさい」
「嫌だ!」
サラは立ち上がり、拳を握りしめる。このチャンス、逃す手はない。
「脂身少なめ、衣とごはん柔らかめ、半熟卵のとろみ強め、出汁たっぷり甘め、ネギだく、大盛りカツ丼を今すぐ食べたい!」
芦屋も命斗も、目を丸くした。サラがゴクリと固唾を飲む。
「あんたね…そんな細かいオーダー、無理だよ」
呆れた芦屋を遮って、命斗が駆け出す。
「推しの望みは、僕の望み!必ず見つけるさ!」
命斗が扉を開けた瞬間、サラは動いた。
「リバースチャージ20%」
左耳のイヤリングが熱を帯び、溜め込んでいた魔力をサラの身体に戻す。
サラは雷のような速さで廊下を駆け抜けた。
「くっ…!」
力任せに飛び出したため、サラは肩から壁にぶつかる。
「どれだけ魔力を……」
「どれだけカツ丼が食べたいんだッ?!」
「カツ丼じゃないよ!」
命斗の叫びに、芦屋が突っ込む。
「これでは…どちらが紛い物かわからんぞ」
一般的に、魔力多増症に適応した人間の末裔が最強の魔法一族、カラス族だと言われている。
しかしその実は逆で、カラス族の副産物が魔力多増症という病なのだ。
本来、カラス族の紛い物であるはずのサラは、病に適応したことで、もはや新人種レベルになっていた。
「逃さないよ!まだ尻尾を付けてないからね!」
「あんたは論点がズレすぎだよ!」
満身創痍でありながら、廊下を駆け抜けるサラに追いつける者はいなかった。
命斗が左手首を反転させ、両手の親指と人差し指で四角形を作る。
「今のサラくんじゃ…この範囲を一瞬で抜け出すのは、無理だよね」
「あんた、他を巻き込む気か?!」
「ど変態総監に叱られるよりマシだろ♡ 良い子はマネしないでね、スクエア!」
命斗は四角形の真ん中にサラを納め、カウントダウンを始めた。
「3、2、1…カット!」
サラの身体が急にガクッと止まる。周囲の音が消え、まるで空間から切り取られたかのような静寂が広がった。
「……生きる!」
咲蘭の無邪気な笑顔が、頭の中でふわりと浮かぶ。
その瞬間、サラの足元の影がぐらっと揺れて、彼をまるごと呑み込んだ。




