第69歯 他人の“見えない戦い”を想像しているか
「ぐむむむ……」
浦島が険しい顔で見つめているのは、しわくちゃになった一枚の紙だった。
文字を見る限り、ネルの走り書きらしい。
「任務で欠席になった講義は出席扱いっす。補講は任務外の時間に行うっすから、心配ご無用っすよ」
浦島はメモを読み上げると、親指で自分を指しながら胸を張った。
その自信満々の様子に、蛍は曇天の下に立たされたような顔をする。
「ネルさんと……姫魅はどうしたんですか?」
透牛隊はネル隊長を中心に、蛍・姫魅・慰鶴の四人で構成されている。そのうち正規隊員が二人だけとは、果たして“隊”と呼べるのだろうか。
蛍の問いに、浦島は目を泳がせた。
「戦闘の疲れが残ってるらしくて、まだ動けないみたいっす。ふたりとも普段あんまり魔法を使わないっすからね」
「なっさけねーの」
慰鶴が呆れたように吐き捨てる。浦島は苦々しく笑った。
「慰鶴くんのバケモノ級の体力と比べたらダメっすよ。それに魔法ってのは“心”っす。使えば体の底から削られるような消耗があるんすから」
「ふーん」
興味なさげに鼻を鳴らす慰鶴。
だがその苛立ちの奥には、維千の安否を気にする焦りがちらりと見えた。
「で?これからどうすんだよ」
「維千さんを探すっす」
「探すって……あの人、自分のこと全然話さないんだもの。どこにいるのかなんて、見当もつかないわ」
蛍と慰鶴は階段の最下段に腰を下ろし、青空を仰いだ。
雲ひとつない空の下で、青い小鳥が激しく鳴いている。
浦島は最上段から二人を見下ろし、ぬっと立ち上がった。
「――強力な助っ人を呼んだっすよ」
「きょうりょくな……」
「すけっとぉ?」
トンッ、と軽やかな着地音がして、ふたりは同時に振り返る。
「お待たせして申し訳ありません。サラが熱を出しまして……」
「イルカさん!」
蛍はぱっと目を輝かせ、跳ねるように立ち上がった。
「おやおや、まあまあ。こんにちは」
仏のような笑みがふわりと場の空気を和らげる。慰鶴はどこか居心地悪そうに肩をすくめた。
「サラさんが熱って、大丈夫なんですか?」
兄のように慕うサラの名に、蛍は落ち着かなくなる。
「雨で体を冷やしたんでしょう。微熱ですし、大丈夫ですよ。食欲は落ちていますが……朝から肉うどんを二人前、ぺろりでしたから」
“食欲が落ちている”という言葉が軽くバグを起こす。だが蛍は思い返して納得した。
確かに、いつものサラなら三人前でも物足りない。
「なんでイルカさんなんだよ」
慰鶴の不満を受けて、浦島は「あちゃー」と顔を覆った。
「……イルカさんは、最後の目撃者っす。それに維千さんのことは自分よりも詳しいっすから」
「ふふ。僕にも分かりませんよ、あんな奇々怪界な生き物」
穏やかな笑顔のまま放たれた棘のある言葉に、蛍と慰鶴は目を丸くした。
「なんすか?いっつも夫婦みたいなやり取りしてるくせに……ツンデレっすか?」
浦島がいたずらっぽく、イルカの背中を叩く。
「あはは……」
イルカは困ったように笑った。
「仕事のしすぎだとか、酒の飲みすぎだとか、言動のたしなめだとか……維千さんに物申せるのはイルカさんだけっすから」
「維千さんに……?」
本当に“良妻の小言”のようだ、と蛍は思う。
「で?仲がいいあんたはどう考えてんの?」
慰鶴の問いに、イルカが静かに目を開く。
「彼が契約を放棄して姿を消すとは考えにくいです。それは彼にとって、存在を放棄するのと同義ですから。……何か事件に巻き込まれたのかもしれません。嫌な予感がします」
場の空気が一気に沈んだ。
その沈黙を、浦島が明るい声で打ち破る。
「まずはBARヒュッゲっすね!最後の目撃場所だし……維千さん、超絶コミュ症っすから!職場じゃなきゃ、あそこしかないっす!」
「あれでも人一倍努力してるんですけどね……あのチビ助は、伸びるのは身長ばかりで」
イルカは困惑と優しさが混ざったような微笑を浮かべた。
――そして店が開店する夕暮れを待ち、四人は動いた。
チリンチリン。
ドアベルの涼やかな音が、客を迎える。
シックな内装、薄暗い照明。カウンターに五席、テーブルは二つ。
小ぢんまりとした「BARヒュッゲ」は、変わらぬ佇まいで来る者に安堵を与えていた。
「いらっしゃい」
カウンターの向こうでグラスを磨く男――マスター。
目尻の皺は深まっているのに、髪は墨のように黒い。その黒さは、どこか“自然すぎて不自然”だった。
「……これはこれは。イルカくんと……小さなお客さんが三人?」
「いや、自分、イルカさんより背高いっすけど!」
「ああ、これは失礼。子供が三人、だね?」
「……わかって言ってるっすね」
「あはは、どうかな?」
マスターの雲を掴むような性格に、浦島は苦々しい顔をした。
「マスターも維千さんに似て、性格が捻じ曲がってるっす」
「酒の好みは近いけれどね」
マスターはそう言いながら、蛍の制服の裾を一瞥した。
「彼女は、階段で転びかけたね」
「え? どうして……」
「裾に乾いてない土がついている。雨は降っていなかったから……直前だろう?」
蛍は言葉を失った。その洞察は、あまりに鋭かった。
「怪我はないかい?」
「は、はい……!」
蛍は計り知れないマスターに、何だかかしこまってしまった。
「さて、何か飲むかい?」
「いつもの頼むっす!」
「ホットミルクだね?イルカさんは紅茶、かな?」
「はい。仕事中ですので」
「お二人さんは?」
マスターの視線を受け、蛍は背筋を伸ばした。
ふとカウンターの奥、小さな鍵付きの引き出しが目に入る。
マスターの手が、無意識のようにその前へそっと置かれた。
――触れられたくない、という意思のように。
「俺、ジントニック」
「バカ。あんたまだ飲めないでしょう?私たちもホットミルクをお願いします」
蛍が慌てて訂正すると、マスターは目を細めて微笑んだ。
温かな空気が、ゆるやかに場を満たしていく。
「キールちゃんを思い出すね」
マスターが磨いていたグラスを止め、ふと遠くを見るようにつぶやいた。
「キールさん? 寮母さんの?」
「ああ、知ってるのかい? 彼女は維千さんに連れられて、幼い頃からよくここへ来ていたんだよ」
蛍が黙ると、浦島がミルクを啜りながら口を尖らせた。
「……キールはもっと泣き虫で、いたずらばっかで、やかましいっすよ」
「そうだね。桃くんは、キールちゃんのそんなところに惚れたんだからね」
「……は?」
みるみるうちに浦島の顔が真っ赤になる。
「三回ともね」
「マスター!しーっ! しぃーっ!!」
浦島は顔を真っ赤にし、汗を飛ばしながら人差し指を立てた。
「三回も?!愛してるんですね!」
蛍が感動したように目を輝かせる。
「げー。しつこい男は嫌われんぞ」
慰鶴が自分を棚に上げて、冷めた声でつぶやいた。
「おやおや、まあまあ」
イルカが気まずそうに笑い、誤魔化すようにラジオのスイッチを入れる。
――その瞬間、店の空気が変わった。
『……国家転覆を企てた疑いで、平和維持軍・総監メロウ=ジャズら複数名を――』
時が止まる。蛍の手が震え、カップの底がコトリと鳴った。
「国家転覆……?指名手配……?」
沈黙。
グラスを拭く手を止めたマスターが、ゆっくりと微笑んだ。
「お待たせしました」
穏やかなライトの下――その笑みの奥に、確かに影が差していた。




