第67歯 失敗がなければ、成功もないでしょう?
鼻をつく消毒液の匂いが、白い壁の向こうから漂ってくる。廊下では人々の足音が乾いたリズムを刻み、絶えず動いていた。
(ここは……)
朝顔はゆっくりと瞬きをする。見覚えのある天井。ティース都立病院――チェンの父が院長を務める病院だ。
(そっか……。私が壊したから、医務室はもう使えなくなったんだ)
窓の外、夕暮れの空を橙が満たしていた。ぷかぷかと浮かぶインプラントが光を反射し、その揺らぎが白い壁に柔らかく映っている。
ふと、崩れた魔法学校の残骸と、蔦の放つ腐臭がよみがえった。
(他人の人生の上に生きる罪悪感。叶わぬ恋への絶望。蛍ちゃんへの嫉妬心……全部、全部、溢れ出して――)
蝕むように蓄積していた感情が、すべてを壊した。自分の声を見て見ぬふりしてきた報いである。
胸の奥が小さく疼く。朝顔はその痛みに手を当て、身を起こそうとした――その瞬間、手の甲に別の温もりが触れる。
「……慰鶴くんっ?!」
「んー?あ、朝顔。起きたか。おっはよー」
至近距離に慰鶴の顔。朝顔は彼女の跳ねた天然パーマのように、飛び上がって叫んだ。
「は、は、ハレンチですっ!」
顔を真っ赤にしてポカポカ叩いても、慰鶴は楽しそうに目を細めている。
「んー?」
「な、なんで同じベッドで寝てるんですか!」
「なんでって…しかたねえじゃん。俺、朝顔とくっついちまったし」
その言葉に、戦闘の記憶がよみがえる。自分から伸びた蔦と、慰鶴の左腕が融合した、あの光景――。
「この野生児。君と朝顔くんはとっくに切り離したはずだが」
冷ややかな声が割り込む。布団がめくられ、チェンが立っていた。
慰鶴の左腕には、蔦の代わりに小さな花が咲いている。
「このバカ者が。僕の大切な右腕に手を出してくれるな。さっさとそこから出たまえ」
「いってぇー!」
カルテの角で額を小突かれた慰鶴が呻く。その腕には、Gの刺青を覆うように咲く花。
「朝顔くんとの切り離しは済んだが、融合の魔法を完全に解かぬ限り、この花は消えん。蔦は焼いて成長を止めてあるが……朝顔くんが感情的になれば、また暴走しかねない。肝に銘じておくように」
「……はい」
「おう」
慰鶴は気だるげに答えたが、その瞳の奥には不満が滲んでいた。自分の心が、朝顔への想いに引きずられていることを彼自身も分かっている。
「ちぇーっ!勝手に切り離しやがって」
「君はわかっているのか?そのままなら植物に侵食され、意思を乗っ取られていたんだぞ」
「はいはいー」
チェンの堪忍袋が切れた。
「どうやら君は、臍の位置がずれているようだ。治してやろうじゃないか」
「は?んなもんいらねー……うわっ!」
チェンの眼鏡が白く光り、次の瞬間、病室には狂気じみた笑い声と慰鶴の悲鳴が響いた。
その騒ぎを聞きながら、朝顔の胸の奥に、あたたかい感覚が満ちていく。
――まるで、日常が戻ってきたような錯覚。
窓に映る自分の姿に、息を呑む。裂けていた肌は滑らかに修復され、人の姿に戻っていた。
「違和感はあるかね?」
「いいえ」
「僕の固有魔法でも、君を完全な人間にはできん。形状を“限りなく人間に寄せて“書き換えただけだ。文章表現に苦労したよ」
軽口の裏に、どれほどの労力があったか――人間になってからの3年間、彼の手足になって働いてきた朝顔には、痛いほど分かっていた。
「どうして……私なんかを助けるんですか……」
涙がこぼれる。白い布団に滲んだ染みの上に、慰鶴の手が重なった。骨ばった指が温かい。
「救いなんかじゃない」
向かいのカーテンがシャッと開く。咲蘭のベッドのそばで教科書に読み耽っていたサラが、力強い足取りで朝顔に歩み寄る。
「サラ…さん?」
燃えるような赤目が朝顔を見下ろす。冷たい声に似合わず、その瞳の奥は静かに優しかった。
「過去は消えない。自分の弱さを認め、愚かさを知り、自分の命のあり方を考え続けろ」
その言葉に、朝顔はサラにしがみつき、嗚咽をこぼした。咲蘭が小さく息を呑む。
「んだーっ!揚げまんじゅう!お前、朝顔に近づくなー!」
慰鶴の声に、朝顔は思わず笑ってしまう。
「どうしてと言われたら、理由はないさ。医師に善悪はない。救える命があるなら救う――それだけだがね」
チェンはまずい栄養ドリンク「FREAK」を開けて喉を鳴らす。
だが、入り口に立つネルの姿を見て、空気が一変した。
「無償の人助けなんて馬鹿げてる。だが安心しろ。そいつはインテリぶった、ただのバカだ。俺は助ける相手を選ぶ主義でね」
「ネルさん……」
鋭い眼光に、朝顔の声が震える。
「朝顔ちゃん。君には、親父が人間に戻る術を探す手伝いを――」
「朝顔さん!咲蘭さん!大丈夫ですか?!」
ネルを押しのけて、姫魅と蛍が病室に駆け込んできた。
「姫魅…くん…」
姫魅の顔を見るたびに、胸が痛む。届かない想いが、まだそこにある。
「なははっ、ちょっと疲れただけ!私は大丈夫、大丈夫!」
咲蘭が笑いながら言う。だが、隣のベッドで無言を貫くサラを見やり、ぽつりと漏らした。
「君は……少しくらい心配してよね」
恋焦がれる赤目は、自分に向けられない。
蛍は朝顔に抱きついて、穏やかに微笑んだ。
「よかった!朝顔さん、戻ったんですね」
その声に、部屋の空気が柔らかく震えた。
(戻っちゃダメ。私は変わらなきゃいけないの)
朝顔が唇をかみしめ、サラを見上げる。
彼は「大丈夫」とだけ囁き、姫魅に目を向けた。
姫魅は視線の意図が掴めず、小首を傾げて優しく微笑んでいる。
その笑顔を見た瞬間、朝顔の心臓が跳ねた。
慰鶴の腕の中にいながらも、意識は姫魅に向かう。 ――どうしても、この距離を越えたかった。 人間になれば隣にいられると信じていたのに。
「朝顔」
慰鶴が眉をひそめる。その声は低く、真剣だった。
「無理すんなよ」
「ありがとう……慰鶴くん」
笑顔を作る。けれど、それは頬の筋肉で引き上げた笑顔だった。 慰鶴はその“温度”の違いを感じ取り、胸が締めつけられる。
(やっぱり、俺じゃ届かねぇのか……)
彼は左腕の小さな花にそっと触れた。
「咲蘭くんはゆっくり休みたまえ。二、三日は病院で様子をみて、自宅でも安静に」
「そんなに?!無理ですってば!ファンが待ってるのに!」
「何を言っている。体があっての仕事だ。あれだけの魔力放出、サラくんや姫魅くんなら擦りむく程度だが……我々にしたら軽い事故のようなものだ。無理は禁物だよ」
「……はい」
咲蘭は唇を尖らせる。
「朝顔くんは体調に問題がなければ、すぐに平和維持軍の軍医務室へ移動しなさい。不本意だが――君を軍法会議にかけねばならない」
「当然です。どんな罰も受けます」
朝顔は布団を握りしめ、静かにうなずいた。
夜。
朝顔は平和維持軍の医務室へ向かっていた。
病院を出るまでは慰鶴が、その後はチェンが付き添うことになっている。
誰もいない廊下は静かで、心の音だけが響いていた。
「なぁ、まだ泣いてんのか?」
慰鶴の声は、不器用な優しさを含んでいた。
「泣いてないです」
「嘘つけ。目ぇ真っ赤だぞ」
慰鶴は笑いながらも、そっと朝顔の肩に手を置く。 温かい掌。そこに、かつて植物だった体がわずかに反応した。
「……怖いんです。また、あんなふうに誰かを傷つけるんじゃないかって」
「傷つけたくねぇって思ってる奴が、そう簡単に傷つけねぇよ。もしそうなっても、俺が止めてやる。だから、お前は堂々と生きろ」
まっすぐな言葉に、嘘はなかった。
「慰鶴くんは……どうしてそんなに優しいんですか」
「朝顔を見てるとな。昔の俺を見てるみたいでさ。――諦めてほしくねえんだ。俺が望んでた生き方を」
朝顔は息を詰め、目を伏せる。
胸の奥で、蔓のような感情が静かに絡まり始めていた。
病室の灯が柔らかくともる中、咲蘭は窓辺に立って外を眺めていた。
彼女の瞳は遠くを見ているようで――実はサラを追っていた。
ベッドに腰かけたサラは、ふりがなだらけの教科書を無言でめくっている。
光に照らされた横顔は、どこまでも孤独で、美しかった。
「ねぇ、君」
「何」
「君は……誰かを好きになったこと、ある?」
咲蘭は笑うように言ったが、指先がかすかに震えていた。
「イルカは好きだ」
サラは顔を上げず、淡々と答える。
「そうじゃなくて!恋とか、愛とか……」
「ない」
静かな沈黙。
「……わからない。他人と距離を置くうちに、そういう感情までどこかに置いてきた」
咲蘭は、自分でも驚くほど素直に口を開いた。
「だったらさ、思い出してよ。――そういう感情、私が君にあげるから」
その瞬間、サラの目が咲蘭をとらえた。
戦場で見せる冷たい瞳ではなく、何かを探すような、迷子の瞳だった。
窓の外では、橙の光が静かに揺れていた。
それは、朝顔の病室に差していた光と、同じ色だった。




