第66歯 自分を許すことから始まることがある
巨大な植物人間が咆哮を上げた。
身を捩るたび、大地が低く唸り、地面が波打つ。その肉を、巨大なイモムシが身の毛もよだつ音を立てて貪っていた。
緑色の体液が噴き出し、蒸気となって腐臭を撒き散らす。
サラはその光景を見据え、低く呟いた。
「……焼き殺す」
その声は、まるで雷鳴の前触れのように重く響いた。
次の瞬間、閃光が走る。
サラの腕から奔る雷撃が空気を震わせ、熱を帯びたガベルが赤々と光を放つ。彼の瞳もまた、同じ色に染まっていた。
——守る。
頭の中で反響する言葉は、誰の命令でもない。自分の意思だ。
「待て!待て待て待て待てぇッ!」
ふいに怒号が戦場を裂いた。砂煙を切り裂き、白衣を泥にまみれさせながら駆けてくるのはチェンだった。
眼鏡の奥の瞳だけが異様に輝いている。
「サラくん!殺すな!あれは——貴重なサンプルだ!」
叫ぶなり、チェンはインクの抜けた万年筆をサラへと投げた。それをパシッと受け取って、サラが訝しげに眉をひそめる。
「……何?」
「アレの未来を書き記す!」
短く、それでも確信に満ちた声だった。チェンの言葉に、ネルの血色が変わる。
「チェン!その魔法は使うな!」
チェンは振り向き、わずかに笑った。その笑みには、どこか諦めにも似た優しさがあった。
「ネル。お前の父親、元に戻せるかもしれんぞ」
「しかし——」
ネルの喉が震えた。止めたいのに、希望がその声を塞いだ。
「——咲蘭くん、イモムシで奴を抑えろ!ネル、今使える魔法は?」
「姫魅を映し取った」
「なら、風でアレを切り裂け」
「だけど……切っても切っても再生するんです!」
姫魅の必死の声が響く。その声にチェンはかぶせるように怒鳴った。
「構わん、狙いは体液だ。サラくん、頼んだよ」
サラは無言で頷き、心具のガベルを霧のように消した。
瞬間、彼の姿が掻き消え、残ったのは雷の残光だけ。次に現れたのは、植物人間の首筋の上だった。
「……さあ、始めようか」
サラの全身をバチバチと電流が走る。赤く染まった瞳の光は、恐ろしいほど冷たかった。
「盛り上がっていくよー!」
咲蘭の明るい声が響く。巨大なイモムシが糸を吐き、植物人間の腕を絡め取った。
だが、糸の一本一本に魔力が燃え尽きるように消えていく。
咲蘭の額に汗が滲み、歯を食いしばる。
「お願い……!持ってよ……!」
糸が音を立てて軋む。
「いくぞ、姫魅!」
「うん、ネル!」
ふたりの足元に魔法陣が描かれる。
魔力が交錯し、空気が裂けるような風の刃が放たれた。真空の爆音が耳を貫く。
「くっ、デカすぎる!」
ネルの声。
「そんな……!」
姫魅の悲鳴が重なる。
二人の魔力を合わせても、巨体の左腕を切り裂くのが精一杯か。
飛び散る肉片とともに、緑の体液が雨のように降り注ぐ。
「親父…」
視界が緑に染まり、窓辺のパセリが思い出されて、ネルの胸の奥が締めつけられた。
「大丈夫だ」
サラは雷速の脚で駆け抜け、蔦の窪みに足をかけてぶら下がる。滴る体液に、万年筆のボトルを差し出した。
ボタ、ボタ、と重い音を立てて、体液が溜まっていく。
あと少し——。
足の感覚がわずかに傾いだ。下では姫魅の声が上ずっている。
「サラさん、足一本で体を支えてる!」
「すごいバランス感覚……まるで猫みたい!」
咲蘭の叫びが続き、風を切る音が耳を打つ。
彼女たちの視線が刺さって、サラは思わず頬が熱くなった。
「サラさん!照れてる場合じゃない!足、足ーッ!」
蛍の声に、冷たい感触が走る。蔦が蛇のように足に絡みつき、瞬く間にサラを締め上げた。
「くっ…チェンさん!」
サラは体を捻り、万年筆を力任せに投げた。
「グッジョブ。サラくん」
チェンがそれを受け取った瞬間、足元に魔法陣が浮かび上がる。
「——お前の未来を書き記す!」
チェンが左手に本を開き、万年筆で文字を刻もうとしたその刹那——。
「もう……限界!」
咲蘭が崩れ落ちた。イモムシが霧のように消え、拘束を失った植物人間が腕を振るう。
その一撃で、チェンは吹き飛ばされた。ネルがとっさに抱き止めて、姫魅が不安げな顔で駆け寄る。
「ネル!ネル!」
何度読んでも返事はない。どうやら頭を強く打ったらしかった。
「ごめんなさい」
泣き崩れる咲蘭の背を蛍が優しく摩ってやる。サラは全身に絡みついた蔦を焼き切ろうとしたが、巨大な植物人間は次から次へと蔦を伸ばし、埒が開かない。
「やめて!」
絶望的な空に、柔らかくも悲しい声が響いた。そこに立っていたのは満身創痍の慰鶴と、彼に抱えられた人間のような植物——朝顔だった。
皆の視線が集まる中、朝顔は自分の姿を思い出して震える。肌が裂けたところから蔦が覗き、もはや彼女は人とも植物ともつかぬ存在だった。
その肩を、蔦で繋がれた慰鶴が抱き寄せる。
「堂々としてろ」
朝顔が見上げると、慰鶴はにかっと太陽のように笑った。
「生きるんだろ?朝顔として」
朝顔は小さく頷き、涙を浮かべて微笑んだ。
「朝顔……さん?」
姫魅の声に、彼女の涙がこぼれ落ちる。朝顔は巨大な植物人間を見上げ、静かに語りかけた。
「もうやめにしましょう。あなたも……自分を否定しないで。あなたはあなた。私は私。それでいいんです」
その笑みを、慰鶴が優しく受け止めるように頷いた。植物人間が、悲しみを宿した咆哮を上げる。
「その痛みは、生きている証。あなたならきっと——優しさに変えられる」
その声を最後に、巨大な植物人間は静かに崩れ落ち、やがてひとつの種へと姿を変えた。




