第62歯 命を満たせるのは命だけ
「このまま、プニャさん家の子になっちゃおうかしら?」
「えっ」
第3演習室に移動する途中、蛍があまりに突飛なことを言いだすので、姫魅は足がもつれて危うくずっこけるところだった。
「どうしたの?急に」
「ごはんが美味しいのよ。うちのシェフもきっと敵わないわ。あれが世にいう家庭の味ね!」
(うちのシェフ?)
馴染みのない言葉に姫魅は口をあんぐりとさせて耳を疑ったが、蛍は昨夜を思い返してほくほく顔になった。
昨夜、テーブルに所狭しと並べられた手料理はどれも安心感を与える味付けで、王室お抱えのシェフが作る料理とは異なった美味しさがあり、口にすれば心まで満たされていく気がしたのだ。
(シェフってもしかして、サラさんのことかな)
蛍の素性を知らない姫魅は、彼女の夕食をすっかり慣れた手つきで用意するサラを思い出し、強引に納得した。
「エヴァちゃんがとーってもかわいいの!お姉ちゃん、お姉ちゃんって離れないんだから」
末っ子の蛍はずっと弟か妹が欲しかったから、尚更エヴァがかわいくて仕方がない。蛍はエヴァにどんな無理難題を押し付けられようとも、「お姉ちゃん」と甘えられれば鼻の下を伸ばして応えた。
「それに…」
まどろむ維千の美しい横顔が蛍の脳裏に浮かぶ。いつも作り笑いを浮かべている彼が滅多に見せない表情に、蛍の目は一晩中釘付けだった。
(維千さんって、あんな顔するんだ…維千さんのこと、もっと知りたい)
蛍は両手で抱えた教材をぎゅっと抱きしめた。とはいえ、彼が今夜もエヴァの要望を受け入れるとは限らないのだが。
「それに?」
姫魅に聞き返されて、蛍がギクッとする。
「ななな、何でもないわよ!」
蛍は急に早足になると廊下の突き当たり第3演習室の前に仁王立ちになり、バンッと扉を力任せに開け放った。第3演習室の教壇で彼らを待っていたネルが、道場破りが来たんじゃないかといった勢いに目を皿にして振り向く。
しかし、ネルよりも驚いたのは蛍と姫魅のほうだった。
「おめーら、おっせーぞ」
あろうことかガランとした演習室のど真ん中で、干し椎茸のごとき干からびた慰鶴がお経のようなネルの説教を右から左に聞き流しているではないか。
「慰鶴…くん?」
「なんで、あんたがいるのよ」
「んだよ。せっかく来てやったのに、いたらいたで悪いのかよ」
「だって、あんた。魔法は…」
慰鶴は魔法を憎んでいると聞いていたので、蛍も姫魅も透牛隊初の演習に彼を参加させるのは不可能だと思っていたのだ。
「何を企んでるのよ」
「なーんにもっ」
蛍がいかがわしい目つきで口をあんぐりさせると、慰鶴はニカッと笑って場を濁そうとした。
(平穏に暮らしたい…)
肌がピリピリするような沈黙に、姫魅が涙目になって乾いた笑いを浮かべる。
ネルは慰鶴に目くじらを立てる蛍、目くじらを立てられてもどこ吹く風の慰鶴、情けない表情を浮かべる姫魅を順に見やって、これ見よがしに深いため息を吐いた。
「ええっと…蛍ちゃん。早速だけど、課題はできたかな?」
「はいっ!」
蛍が鼻息荒く意気揚々と差し出したノートをネルは彼女の表情をチラチラ伺いながらパラパラと捲った。
「おびただしい量の揚げまんじゅう…」
「才能が溢れちゃいました!」
「テンションに任せて、作り過ぎただけでしょ?サラさんと慰鶴くんがいなかったら、処分に困っていたところだよ」
蛍がデレッと目尻を下げたので、姫魅はボソッと補足した。
「それから、姫魅と…これは誰だ?」
「慰鶴です!一応、チームメイトでしょう?私、懐が広いので撮ってあげました」
「蛍、懐が広い人はそんなこと言わないと思うよ?」
蛍がキッと目尻を吊り上げたので、姫魅はヒッと小さく悲鳴をあげて呆れ顔を泣き顔に変えた。
「蛍ちゃんは人が好きなんだね」
ネルが眉尻を下げて笑う。蛍はこれまでにそんなことを思ったことはなかったし、何なら幼少期の蛍は物欲の塊だったから、人が好きという言葉には彼女自身心底驚いた。
思い返せば、蛍はいつだって兄が持っている物は漏れなく欲しがったし、同じ服に袖を通すことは珍しかった。欲しいものを気が済むだけ並べ、飽きれば処分する。それが「満たされること」だと本気で思っていたから。
「すべてを失ってわかったんです。命を満たせるのは命なんだって」
「なんだそれ。気持ちわりーぞ、おめ…ぐぇっ!」
慰鶴がゲジゲジでも見つけたかのような顔で悪態を吐く。蛍がサッと拳を振り上げると、彼女より先にネルが慰鶴の頭にげんこつを落とした。
「んなっ?!いってえー!何すんだよ!」
「捻じ曲がった根性を叩き直してやったんだ」
ネルはおまけにふたつ、慰鶴の頭を軽く小突いてからノートに目線を戻した。
「ん?これは…維千さんか?」
「んなっ!?維千さんが?!」
慰鶴はネルの手からノートをかっさらい、顔を埋めるようにして見入った。
そこには確かに、維千が困惑顔で手帳に読み耽る写真があった。
「ふっふーん」
蛍が得意げにフンッと鼻を鳴らす。慰鶴が彼女の前にパッと土下座して、「おやびん!」と憧れの眼差しを向ける。
しかし、蛍の高くなった鼻は姫魅がすぐにへし折った。
「慰鶴くん。撮ったのは蛍じゃなくて、プニャさんの娘さんだよ?」
「はあー?んだよ、それ。維千さんを言いくるめるすげー奴と思ったのによー」
「姫魅!あんたは余計なことを言わないっ!」
「余計なことって…ここに来る途中で、蛍が自分で…いっ!?」
蛍のヒールにガッとブーツを踏まれて、姫魅が苦悶の表情で悶絶する。声にならない声をあげる姫魅に見ているこちらまで痛くなって、ネルは思わず顔をしかめた。
「い…維千さんって、子供に優しいんだね。やっぱり、本当は優しい人なのかな?」
姫魅が痛みを堪えて声を絞り出すと、蛍はやれやれと首を振った。
「あんたは呑気ね。あの人は子供という生き物をどう扱っていいのか、わからないだけよ」
「そうかな?」
「そうよ」
姫魅は維千とエヴァの微笑ましい触れ合いを想像してニコニコしたが、蛍はまとわりつく子猫を邪険にするような維千の態度を思い返して苦々しい表情になった。
慰鶴は維千の写真を神妙な顔で眺めていたが、しばらくするとノートを蛍にポイッと投げてつまらなそうに寝転んでしまった。
「大好き集めなんざ、くっだらねー。こんなことして何の意味があるんだっての」
初登校日から数日が経っても、慰鶴は相変わらず非協力的な態度を貫いている。姫魅は蛍の頭にぐんと血が昇るのを察知して、咄嗟にどーどーと彼女を宥めた。
「慰鶴くん。そういうことは1冊終わらせてから言うんだよ」
ネルは白紙の目立つノートをバサバサと振ってみせたが、慰鶴はプイッと顔を背けてしまった。
「大好き集めの課題…蛍ちゃんは何か気づいたかな?」
ネルが期待に満ちた目で蛍を振り向くと、それまでふんふんと力強く同調していた彼女は目を点にして硬直した。
「へっ?」
「どんなことでも構わない」
ネルの熱い視線は、その言葉とは裏腹に正解を求めている。蛍は寄せられた期待に重圧を感じて、ピンと背筋を伸ばすとゴクリと息を呑んだ。
「えっと…私、実は…」
「実は?」
「信じられないくらいに…」
「信じられないくらいに?」
「イケメンに囲まれていたわ…」
ネルのメガネがズルッとずり落ち、姫魅が白けた目つきになる。慰鶴は「イケ麺?!うまそーだな」とご機嫌になったが、残念ながらそれはとんだ勘違いであった。
「助っ人との日程調整つかず、締切が延びに延びたというのに…ひとりは課題に向き合いすらせず、ひとりは得られた気づきがイケメン万歳…」
蛍がサラ、姫魅、維千のページを順に広げて見せ、ニシシとネルに笑って誤魔化す。慰鶴は頭の後ろに手を組んで、ニカッと開き直った。
「お前たちは笑っている場合か?」
ネルはメガネを外してグッと眉間を抑え、これ見よがしに大きなため息をついた。
「先が思いやられる」
燃え尽きた灰のごときネルの肩を姫魅が同情の眼差しでポンッと優しく叩いた。
「ネル?さっき助っ人さんとの日程調整で、締切が今日になったって言ってたけど」
「ああ」
「助っ人って誰?この課題の目的って、確か…可視化による自己理解だよね?」
「そうなんだが…俺はノートを読み解くにはまだまだ未熟だからな。この課題をよく知る人物が…そろそろ来るはずだ」
ネルが気配を感じて演習室の入り口に視線を向ける。蛍、姫魅、慰鶴が振り向くのと同時に、演習室の扉がガラッと開いた。




