第61歯 怒ったら、その場を離れて深呼吸
ひとり暮らしに慣れてしまうと「ただいま」なんて言葉はすっかり縁遠いものになる。ガチャリと鍵の回る音が静まり返った部屋に主の帰宅を告げた。
「違う…違う…違う違う違うっ!」
朝顔はそれまで取り繕っていた「良い人」を脱ぐように靴をポイポイッと乱雑に脱ぎ捨てて、明かりもつけないまま、リビングを早足で通り抜けた。
バンッと力任せに閉めたドアにトンッと背中でもたれかかり、彼女はそのまま堰を切ったように泣き崩れた。
「私は…良い子なんかじゃ…ない…」
朝顔の脳裏にガラス玉のように澄んだ青目が過ぎって、彼女の胸に湧きあがるドス黒い何かが喉まで迫り上がってくる。
「本当の私を知られたら…きっと嫌われちゃう…」
朝顔はパッと口を両手で覆い、込みあげる吐き気を堪えた。が、ついにおえっと吐き出したそれは、肥えた芋虫のような真っ黒な体に大きくつぶらな目玉がついた感情の塊…腹の虫だった。
「嫌…」
じたばたとのたうち回る腹の虫に、部屋のあちこちからザザザッと這い出てきた腹の虫が群がる。最初に吐き出された腹の虫は、自分よりひと回りもふた回りも大きい無数の腹の虫たちに目玉を抉り取られ、胴を引きちぎられ、一片の肉片も残さず食い尽くされてしまった。
「これが…人間になるということ…?」
好きな人のそばにいたい。たったそれだけの小さな望みは雪だるま式に膨れ上がり、気がつけば言いようのない嫉妬と渇望で手がつけられない有様だ。
人間の感情は貪欲だという。底なしに湧きあがる欲が欲を喰らい、醜悪なまでに膨れあがり、出来上がった目の前の悍ましい光景に朝顔は声を震わせた。
「うっわ、きっしょ。どれもぶよぶよによく肥えて…あんた、優秀ね」
まとわりつくような猫撫で声がして、パチッと部屋の明かりが点く。白熱灯に照らし出された部屋のそこら中に、蝶の蛹のような生き物がびっしりと張り付いていた。
「虫の育ちがこれだけ良いんだから、さぞやたくさんの蛹がいるんじゃなーい?ねえ、あんたには見えてるでしょう?」
いつ、どこから入ったのだろう。ぬいぐるみが並べられたベッドに、ふざけた熊のアイマスクをした少女が腰掛けているではないか。彼女は藍で染めたネイルで室内を指差し、部屋をぐるりと見渡して不敵な笑みを浮かべた。
「あーあ、残念。私、深淵を覗いたことはないから、蛹は見えないのよね。ねえ?一体、この部屋に蛹は何匹いるのかしら?」
「やめてっ!」
朝顔が咄嗟に叫んで部屋の電気を消すと、少女は耳障りな高笑いをあげた。
「それ、あたしに言う?この醜い塊を生み出してるのは、あたしじゃないわ。あんたのきったない心でしょ?」
「これが…私の…心…」
「そうよ。ぜーんぶ、あなたの心。これも、これも、これも!」
少女が甲高い声で嘲笑いながら、床を這いつくばる腹の虫たちを1匹1匹踏み潰していく。
「あなたの王子様がこの光景を見たら、どう思うかしら?」
朝顔の脳裏で濡羽色の髪がサラサラとなびく。その瞬間、朝顔を強烈な吐き気が襲って、彼女の口から新たな腹の虫がズルズルと這い出した。
「アハハハッ!また吐いた!」
「おやめ、卯月。この子に満たされない自分を突きつけられて、どうにもこうにも苛立つのだろうけどね。あんたが欲しいのはそんなちっぽけな快楽じゃあないだろう?」
いつからそこにいたのか、天女のように美しい女性がえづく朝顔を覗き込み、甘美な声で卯月を咎めた。
「ひとりで他人を嫌うこともできないくせに、選んで他人をいじめるんだから…あんた、情けない話だよ」
「違う!あたし、そんなんじゃないわよ!」
「ほら、必死こいて…こりゃ図星だね。あんたの好きにしたらいいが、自分の不満をぶつけて、傷ついているのはあんたのほうだよ。もっと楽しくやろうじゃないか」
絶世の美女は一見、朝顔を気遣っているように見られたが、その言葉に温かさは微塵も感じられない。何なら朝顔は「楽しくやろう」という言葉に、ゾクゾクと寒気すら感じた。
「辛かろう。あんた、人間を辞めるかい?」
氷のように冷たい手が背中に触れて、朝顔がハッと振り返る。
(維千…さん?)
その美女は冬海を思わせる紺碧の髪と妖艶な微笑みを湛える天色の目、そして人形のような顔立ちがそこはかとなく維千に似ていた。
朝顔が千切れんばかりに首を横に振ると、美女は温度のない微笑みを返した。
「そうかい。あんたの好きにすればいいが…惚れた相手ってのは、そうまでしてそばにいたいものなのかい?」
美女は朝顔にじっと視線を向けたが、その目は朝顔でなくどこか遠くを見つめていた。
「どんなに良い子でいても、鴉の子はあんたに振り向きやしないよ。本当は欲しいんだろ?あの子の心が」
見て見ぬ振りをしてきた本音を言い当てられて、朝顔はごくりと息を呑んだ。
「それなら自分のものにしてしまえばいいじゃないか。良い子ってのは、他人に消費されるだけさ。所詮、人間は自分のことしか考えられない生き物だからね」
「いけません!」
「どうしてだい?自分に応えない、自分を大切にしない相手に何故、あんたは苦しい思いまでして良い子でいなければならない?」
「それは…」
朝顔が言葉に詰まったのは、反論の根拠が見つからないからではない。決して認めることのできなかった自分をその美女があっさりと肯定したので、火遊びをするかのような興奮を覚えたのだ。
「好きにしたらいいさ。用があるのは蛹だからね。あんたがどう生きようが興味ないよ」
美女は淡々とした口調で言い切ると、腰にぶら下げた瓢箪の栓をキュポンッと外した。
(魔道具?魔法?)
不思議な突風がザーッと吹いて、家具はぴくりとも動かないのに、蛹や腹の虫は壁や床から引き剥がされ瓢箪の中に吸い込まれていく。
「どう生きたって、他人に求めている限り救われないわよ。あんたの存在意義は蛹を産むこと。まあ、精々苦しみなさいよね」
藍のネイルを眺めながらつまらなそうにする卯月に、美女がにっこり微笑みかける。途端に室内がぐっと冷え込んで、卯月がサッと青ざめる。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
卯月は何かに怯えた様子で謝りながら、自ら瓢箪の中に飛び込んでしまった。
美女は満足げな顔で瓢箪に栓をして、そこで呆気に取られている朝顔に目を向けた。
「さて、帰るとするかい。あんた、せっかく人間になったんだ。生きたいように生きな」
美女を包むようにして、サァッと冷たい風が巻き起こる。朝顔が瞬きする間に美女の姿はどこかへ消えてしまった。
翌日。明かりをつけても薄暗いままの医務室で、朝顔は湯気の立つココアをぼんやりと眺めていた。
(早く冷めて欲しいのに)
朝顔の後ろで慰鶴がらんらんとした目をして待ち侘びているが、熱々に淹れたココアに冷める気配はない。
窓の外に目を向けると空はどんよりとした雲の重さに耐えきれず、バケツをひっくり返したような土砂降りだった。
「冷めるのにもう少し時間がかかりそうです。よかったら少しでも講義に出てみま…あ、よくないですか」
慰鶴の表情が青天から曇天に変わって、朝顔は彼の心中をすぐに察した。
「かーちゃんが強くなれってさ。維千さんに代わって、ひとつでも多くの命を救うことが罪滅ぼしなんだとよ。んなこと言ったって…そもそも俺、助けてくれなんてひと言も言ってねーし」
バフッとベッドに飛び込んで、慰鶴はお菓子をお預けされた子供のように不貞腐れている。同じ贖罪者でも自身の命のあり方を模索するサラと違い、慰鶴は生かされてやっているといった態度で犯した罪を罪と捉えているのかも疑わしかった。
「誰かの代わりになんて、なれっこないですよ。すべての生き物に平等なのは、いつか死ぬことだけですから」
朝顔はマグカップに息を吹きかけ、窓ガラスに映る自分に目を細めた。
「私は慰鶴くんが嫌なら学校に行かなくたって、強くならなくたっていいと思います。自分の命のあり方に自分が納得できるのなら」
慰鶴がハッとたれ目を見開いて、朝顔に見惚れる。しばらくすると、彼は頭の後ろに手を組んでぶーたれた顔した。
「意地悪な言い方するなよなー」
「ふふ。私、本当は悪い子なんです」
「笑いごとじゃねーぞー?」
朝顔がクスクス笑って、ココアの水面が小刻みに波打つ。彼女の道端に咲く花のような控えめで優しい笑顔に、慰鶴はフッと目を細めて目尻を下げた。
「ココア、どうぞ」
「あんがと!」
「それを飲んだら、教室に行きましょうね」
「なんだよ、朝顔。さっき、学校行かなくてもいいって言ったじゃねーか」
「私はそう思いますけど…早く行かないとぷんぷん蛍ちゃんがお迎えに来ちゃいますよ?」
「うげー…あいつ。弱っちいクセに、かーちゃんみてぇにおっかねーんだよ」
朝顔から受け取ったココアをグビグビと一気に飲んで、慰鶴は苦虫を噛み潰した。
「…それに。あいつらが迎えに来たら、朝顔は嬉しいんじゃねーの?」
「え?」
「もやしが来るからさー?」
「へええええ?!私、別に!そんな…」
慰鶴がつまらなそうにマグカップを口に咥える。朝顔は熟れたトマトのように真っ赤になると、天然パーマをポンッと小さく爆発させてふわふわと小花を散らした。
「好きなんだろ?もやしが」
「…す…好き…ですけど」
朝顔のはにかんだ顔が慰鶴の胸をギュッと締めつける。
「あんなもやしのどこがいいんだよ」
「優しいところ…とか。まじめなところ…とか」
朝顔がぽつりぽつりとこぼした言葉は、ひとつひとつが鉛のように慰鶴の心にのしかかった。
(優しくてまじめなー)
朝顔が並べた言葉はどれも慰鶴には縁遠い。自分は一生懸命な彼女を誰よりも知ろうとしているのに、彼女の朝露のように綺麗な瞳には自分はまるで映っていないようだった。
「さっさと告っちまえよ」
「へ?告っ?!」
「ちんたらしてっと誰かに取られちまうぜ?ところてんとかさ」
胸の内を言い当てられたようで、朝顔はギクッとした。
(蛍ちゃん…姫魅くんのこと、どう思っているのかな?)
蛍が恋敵だとしたら、朝顔はとてもじゃないが勝てる気がしない。蛍は夏空に輝く太陽のように力強く、情熱的で魅力的だ。美人で行動力があって、時折見せる所作の美しさはどこかのお姫様を思わせる。
「私…」
朝顔の胸がズシッと重くなり、吐き気が込み上げる。そもそもどす黒い気持ちを抱えた自分は姫魅に不釣り合いだ。
「見ているだけで幸せですから」
自分が姫魅と結びつくことはない。そう感じた瞬間、朝顔の目から大粒の涙がポロポロと溢れ出した。
「んだよ。泣いてんじゃねーか」
慰鶴はよいしょとベッドから立ち上がり、指先で朝顔の涙を拭った。
「朝顔を悲しませる奴は俺がぶっ殺してやる」
「い、いけません!」
慰鶴の大きな手が朝顔の細い手首を掴んでグイッと引き寄せる。
「あんなもやしのどこがいーんだよ。風に吹かれたら飛んでいっちまいそうなへなちょこだし、なよなよして蛍の尻に敷かれてさー」
「慰鶴くんは姫魅くんのこと、何も知らないでしょう?」
「朝顔だってあいつのこと、何も知らねーじゃねえか」
慰鶴が堪えきれず漏らした無神経な言葉に、朝顔の胸に抉り取られるような痛みが走る。次々と孵化した腹の虫が彼女の心を蝕んでいるようだった。
「…出て行ってください」
「あ?」
「出て行って!」
朝顔は叫ぶなり慰鶴を医務室の外に押しやって、そのままピシャッと扉を閉めてしまった。
「ちっくしょー…何なんだよ」
慰鶴は返しそびれたマグカップの底に一滴にもならないわずかなココアを渇望するように飲み干した。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます٩( 'ω' )و
それぞれに何かを抱える朝顔と慰鶴…どこか似た者同士でいい雰囲気かと思いきや、喧嘩しちゃいましたね( ;´Д`)
そうなんです。この小説、すんなりと事が運ばないんです。
さらにはキールを化け物に変えた女が再登場…彼女は維千の何なのか。
人間関係や心情が複雑すぎて、作者はてんやわんやしていますが…拙い文章でも最後まで書き上げたいと思っております_(:3」z)_
どんな形であれ、最後までひとつをやり遂げることが力になると信じて。
気力がある限り、少しずつでも書き進めたいと思います。
誰かに寄り添い、頑張っている背中をそっと押せたら嬉しいです。
気長にお付き合いいただければ幸いです。




