第5歯 わからないことが多すぎて、どこから手をつけたらいいのかわからない
医務室を出て、蛍は王宮に戻ったのかと見間違えた。馬車が走っても余りある広い廊下はどこまでも続いていて、等間隔に点在する扉と扉の間には程よく余白を残して美しい絵画が飾られている。
対面の壁面にずらりと並ぶ大きな窓の向こうには、青々と茂る木々が踊るようにそよ風に揺れていた。陽光がきらきらと差し込んで、まるで祝福するかのように生徒たちの生き生きとした顔を明るく照らしている。
その光景はガルディのすべてを奪い去るように吹き荒れる風や、何もかもを焼き尽くそうとするように照りつける太陽とは大きく違っていた。
「きれい」
感嘆の声を漏らして、蛍はぴたりと足を止めた。窓の外を眺めていると心に積もった煤が洗い流されていくようだ。
蛍がじっくり見入っていると、先を行く維千がくるっと振り向いて、彼女を急かすでもなく、ただその様子を穏やかに見守った。
「…不思議。心が休まる気がします」
「あー」
維千は蛍の視線を追って、にっこり微笑んだ。
「自然には癒しの効果があるそうです。魔法は心。健全な心を育むために、ジョニー魔法学校では積極的に自然を取り入れているんですよ」
「癒し…」
「意外ですか?」
「ガルディでは、植物はどちらかといえば厄介者ですから。強い陽射しの下では、限られた植物しか生きられません。それも身を守ることに特化して、安らぎを与えるような姿はしていないので…多くは棘や毒があって、花も滅多に咲かないんです。生命力が強過ぎて、貴重な農作物を荒らすこともあります」
「そうですか。あの地域の植物は、とある国では観賞用として人気が高いのですが…個性的で美しく、育てやすいと」
「美しい?!」
蛍の鳩が豆鉄砲を食ったような顔に、維千はケラケラと腹を抱えて笑った。
「自分が見ている世界がすべてじゃない。生きる世界が変わるだけで輝くものは、いくらでもありますよ。そして世界は思いの外広い。輝かないものはない、ということですね」
蛍はハッとして、維千を振り向いた。彼は風に揺れる新緑の葉を遠い目で見つめている。
国を追われてからというもの、己の無力さばかり突きつけられきた蛍に、彼の言葉は光明を投じた。
「きれいですね」
「お気に召しましたか?この庭はベジタブランドのドン・レタスさんが管理されていて…」
「いえ、その…維千さんがきれいで」
「またですか。やめてください。耳にタコができる」
維千は関心がないどころか、迷惑そうに顔をしかめている。礼を求めるわけではないが、社交辞令でも謙遜するか「ありがとう」のひと言が言えないものか。
維千は喋ると粗が出る…というより、まるで粗が薄皮を被っているようだ。
「容姿じゃありません。心が」
と言いかけて、蛍はぐっと言葉を飲み込んだ。維千は一切の表情を決して、氷のように美しく冷たい能面顔をしている。
「変わっていますね」
その冷ややかな目に蔑まれて、蛍の背中にゾクゾクと寒気が走る。維千はつまらなそうに言うとくるっと踵を返して、鬱陶しそうにシッシと手を振った。
「あ、でも!もう騙されませんからね」
「まだ怒っているんですか」
さっさと先を行く維千の背を蛍がパタパタと小走りで追いかける。維千は振り向こうともせずに、抑揚のない声で淡々と答えた。
「怒って当然です。あんな弱みにつけ入るようなやり方」
「俺は騙していません。蛍ちゃんの確認不足でしょう」
痛いところを突かれて、蛍はうっと押し黙った。
「大丈夫。対価に見あうだけの仕事はしますから」
維千は温度のない声で言うと、やっと追いついた蛍の頭にぽんっと手を置いた。
(なにか気に障ったかしら?)
おずおずと維千を横目に見上げると、いつものように彼はにっこり微笑んだ。どうやら機嫌を損ねたわけではなさそうだ。
「ジョニー魔法学校はU字型の本舎が2棟、中庭を挟んで併設されています。内側の下顎棟には医務室や図書室、食堂などの学校施設があり、外側の上顎棟には各教室があります」
「ここは下顎棟で、あれが上顎棟…ですね」
蛍は木々の向こうに覗く、白い建物を見上げた。
「はい。上顎棟と下顎棟は各階が渡り廊下で繋がっています。この廊下は20時以降通行できませんので、気をつけてください」
廊下の突き当たりで足を止めて、維千は生徒が行き交う廊下を手のひらで示した。
「あれは?」
正面の大きな窓から箒にまたがる生徒たちの姿が見える。
「魔法基礎学の実技ですね。箒に跨って空を飛ぶなんて古臭い」
「箒で空を飛ぶ?」
「魔法で浮遊させたものに乗っているだけですよ。基礎魔法の応用です。別に箒でなくてもいいのですが…ジョニーさんは形から入るのが好きだから」
そういえば、幼い頃に読んだ絵本の魔法使いは、どれも真っ黒なローブにとんがり帽子の姿で箒に跨って空を飛んでいた。
よく見れば、ジョニー魔法学校の新入生と思われる生徒もまた、背中に紋章が入った真っ黒なローブとトンガリ帽子を身につけている。
「歴史や伝統を重んじている…とか?」
「いや。形から入っているだけです」
維千はキッパリと言い切って、ふうっとため息をついた。
「あーあ、もっと肩の力を抜かないと」
窓の向こうで大半の生徒が箒に跨ったまま動かなかったり、浮いたはいいがふらふら漂い他者にぶつかったりしている。悪戦苦闘する生徒の間を金髪の青年が忙しなく走り回っていた。
「自分で選んだ物のほうが生徒もイメージしやすいでしょうに…あはは。ネルさんがてんてこ舞いになってる」
維千はネルを心配するでも気遣うでもなく、おもしろおかしく眺めている。
「あ、姫魅さん」
蛍は這い回る蟻のような生徒の中に、ひとり慣れた様子で浮いている彼を見つけた。
「姫魅くんをご存知ですか」
「彼に助けてもらったんです。すごい…彼、余裕かあるわ」
「姫魅くんは優秀ですから。魔法実技に限れば、少なくとも3年生相当の実力はあるでしょう。1年生の実技なんて彼にしたらお遊戯です」
「3年生じゃダメなんですか?」
「飛び級も可能ですよ。ただ、彼は感覚的に魔法を使うので、実力に見合う知識が身についていないんです」
「感覚で魔法を?」
「魔法使いの家系にはよくあることですよ。それに姫魅くん自身が、目立ちたくないという理由で同年代の多い1年生を希望していましたから」
「目立ちたくない?」
箒に翻弄される生徒の中で、魔法に関して無知な蛍でもわかるくらいに秀でている彼はむしろ悪目立ちしている。
涼しげな顔で箒にまたがっている姫魅に、蛍は苦笑いを浮かべた。
「彼らがいるところが第一演習場です。U字型の校舎のくぼみにあたります。そして向こうに見えるのが通称8番と呼ばれる、学生寮です」
窓に向かって右手側と対面に見える下顎棟の先端に、酷似した建物がひとつずつ校舎から切り離されて建っている。
「学生寮はふたつあって、右手に見えるのが旧寮、向かいに見えるのが新寮です。新寮には空きがなくて…申し訳ありませんが、蛍ちゃんは旧寮の一室を使ってください」
「あの…」
「なんでしょう?」
「さっきからジョウガクとか、カガクとか…」
「ああ。アゴのことです。校舎の並びがまるで歯のようでしょう?ちなみに8番は親知らずを意味します」
「なんでそんなに歯にこだわるんですか?」
「シンボルなんですよ、ジョニーさんの。あの人の7割は歯ですから」
「7割が歯?」
ものすごく出っ歯なのだろうか。それとも歯の手入れに余念がないのだろうか。
「ジョニーさんってどんな方ですか?」
「んー…ギロチンにハリガネムシがついたような容姿で、ミラーボールのような雰囲気の…」
ますますわからない。維千もどう説明したものか頭を悩ませている。蛍はジョニー校長について掘り下げるのは諦めて、質問を変えた。
「わからないと言えば…維千さんって、おいくつですか?」
「…今はジョニーさんの話をしましょう」
まただ。自身を役に立つと豪語するだけあって、維千はなにを訊ねても答えてくれる。ただ、彼のことに触れるとのらりくらりとはぐらかすのだった。
手を組むのなら、このまま彼について知らずにはいられない。蛍は食い下がった。
「教えてください。おいくつなんですか?」
「その質問は不毛です」
「21?22?」
「やめといたほうがいい。迷宮入りしますよ」
維千をじっと見つめたまま頑として譲らない蛍に、維千は困り果てて頭を掻いた。
「蛍ちゃんは気骨がありますね」
「話を逸らさないでください」
「…見た目通りですし、見た目以上でもあります。見た目以下ではないはずです」
訳がわからない。維千はまじめな目をして、それ以上は答えようがないと言った様子だ。蛍はますます混乱して、重くなる頭を抱え込んだ。
「見た目通りで、見た目以上?はず?自分の年齢ですよね?」
「ほら。言わんこっちゃない」
「浦島さんはもうすぐ維千さんより年上になると言っていました。イルカさんのように実際よりも若く見えるのならわかりますが、年下が年上になるなんてあり得ません」
「それは思い込みですよ。生きている時間軸が違う、とでも言いましょうか。年齢が生きた年数を意味するとは限らない、ということです」
「はあ…」
「俺のことで頭を悩ませる暇があるなら、世界との知識の差をさっさと埋めてください」
維千は2階へと続く階段に片足をかけると、とびきりの笑顔を蛍に向けた。
空気がひんやりと冷たくなった気がして、蛍がぶるるっと身震いする。実際に気温が下がっているのか、すれ違う生徒たちも肌寒そうにローブを引き寄せた。
(維千さん、顔は笑ってるけど、ちょっと怒ってる…気がする)
しつこく訊き過ぎただろうか。蛍は余計なことは言うまいと口を固く閉じ、彼に続いて階段を駆け上がった。