第45歯 うんと休んでいい。うんと休めば、うんとがんばれるから
「腹が減るならこれがいい」と源さんがくれたスルメを咥えて、サラが「ゆ」と書かれた暖簾をくぐる。
眩しい陽射しがパッと差し込んで、サラは朝焼けのように赤い目をぐっと細めた。
「サラ、申し訳ありません。年寄りが元気で…」
「元気はいいこと」
とは言ったものの、サラは全知の彼らから与えられた膨大な情報を未だ処理できず、思いの外長湯になってしまったことも相まって、熱で頭がくらくらしていた。
(イルカは黒魔法の絶対禁忌をおかした…)
源さんの話とイルカの背に刻まれた傷を思い出して、サラは深刻な顔つきになった。
(何も驚くことじゃない。欲のない人間はいない)
誰もが私利私欲のために生きている。それがわかっていても、サラは死角から鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
(イルカには濁りがないって、俺はどこかで期待していたのかもしれない)
やらぬ善よりやる善。そこにどんな目的があるのかは知らないが、美徳を語るだけの人々に切り捨てられてきたサラにとって、イルカは初めて出逢った善行を積む人間だった。
「死は必ずやってきます。今は楽しみに取っておいて…あなたの時間を少しだけ、僕にくれませんか?」
「サラも安易に黒魔法を使わないでください。誰かを助けて、サラが苦しむのでは本末転倒です」
「僕が人の愛し方を教えてやる。だから、あなたは安心して人を好きになりなさい。自信を持って人に好かれなさい」
サラがもらった数々の言葉はどれも、サラを介してイルカが自分自身に言い聞かせていたのではないだろうか。
(どんな時も悠然と構えているから、全然気がつかなかった。他人に手を差し伸べてばかりで、本当に助けが必要なのはイルカのほうじゃないか)
自分は壁を築くことばかりに気を取られ、付かず離れず自分を見守る眼差しの裏側など気にかけもしなかった。一切の曇りがないイルカの微笑みも、一歩踏み込んでみれば一寸先も見えなくなるような豪雨だった。
(俺は自分本位だ…恥ずかしい)
「どうかなさいましたか?」
サラが苦々しい顔で黙り込むので、イルカは心配そうにして彼を覗き込んだ。
「サラ。どこか具合が悪いですか?」
「…ピエロ」
「はい?」
「イルカはピエロだ」
「…?おやおや、それはそれは」
イルカは困ったふうに笑うと懐手をして、それ以上は何も聞かずにサラの前を歩いた。
「おいで、サラ」
ふいにイルカが振り向いて、ガリヴァーノンの面影が重なる。サラはハッとして唇を噛み締めると、冷たい風になびくイルカの袖をぎゅっと掴んだ。
「サラ?」
「…」
イルカからたくさんの言葉をもらったのに、いざとなってサラは彼にかける言葉を見つけられない。
じっと見つめ合うふたりの間をひらひらと桜が舞い散る。先に沈黙を破ったのはイルカのほうだった。
「師匠は…魔法が特殊な能力と信じられていた時代に、望めば誰もが魔法を使える世界を実現しようとしていました」
「…ジョニ校の教育理念」
「はい。ジョニー魔法学校は僕たちが創設しましたから。今や当たり前となったその考えは当時、奇人扱いされるには十分過ぎる理由で…それはそれは四苦八苦しましたよ」
「お師匠さんと…イルカが?」
魔法倫理学の母マナティが魔法学校創設に貢献したことは、入学時に必ず説明されるためサラも知るところだ。
ところがイルカの答えはサラの予想に反していた。
「実のところ、ジョニー魔法学校は僕と維千がジョニーさんの資金とメロウさんの魔法知識、楊さんの人脈を得て創設したんです。魔法学校の設立を夢見ていた師匠は、それが実現されただなんて夢にも思っていないでしょうね」
「お師匠さんは…知らない…?」
イルカは困ったふうに微笑むと涙珠のような髪飾りをゆらし小さく頷いた。
「僕と師匠が出逢った頃は、魔法は魔法使いの家系にしか使えないと言われていました。パンピを受け入れる寺子屋なんて、それこそ受け入れてくれる物件はなくて…師匠はとある国の出身でしたが、魔法学校設立の足がけに小さな寺子屋を開こうと、ついに隣国のウララカという田舎にまで足を運んだんです」
「執念…」
「あはは。師匠はこうと決めたらテコでも動きませんから」
(弟子は師に似るというべきか、同類相求むというべきか。さすがイルカのお師匠さん…)
サラが目を半眼にして呆れ返ると、イルカは眉をハの字にして笑った。
「当時、魔法使いとパンピの対立に疑問を感じていた僕は師匠に賛同し、寺子屋唯一の生徒となったのですが…」
イルカは遠い記憶を懐かしんで、ふふっと笑みをこぼした。
「資金集めのため方々を訪ね歩いていた師匠がジョニーさんのもとを訪れた際、維千に出会いまして。彼は心が希薄なため魔法が使えず、『誰もに魔法をというのなら、俺で証明してください』なんて不躾なことを言って、寺子屋2人目の生徒になったんです」
「死神らしい」
「ええ、とても。心の所在が怪しい維千に魔法を教えようなんて魔法使いは他にいなかったから、彼はこの機を逃すまいと積極的に学びました。師匠は彼に応えようと熱心に教えました。だけど、維千はやることなすこと無意識に失礼で…事あるごとに僕が腹を立てて、維千の能面顔がそれを逆撫でするのが常でした。師匠は維千が不器用な理由を知っていましたから、彼の肩ばかり持つんですよ」
イルカは照れくさそうに頬をぽりぽり掻いて、苦々しく笑った。
「お恥ずかしい話、嫉妬です。維千はあんなでしょう?端正な容姿に甘美な声…どんなに口が悪くても言い寄る人間は後を絶たない。師匠に恋していた僕は彼女の心も奪われやしないかと焦って…」
「黒魔法の絶対禁忌に手を出した」
「はい」
弱々しく微笑むイルカの髪を風が優しく撫でる。
その後は源さんから聞いた通りだ。大きな魔法を使うことでマナティの気を引こうとしたイルカは、花が大好きだった彼女のためにウララカの季節を春に止めようとした。
(黒魔法は成功だ。ウララカの季節は止まった…)
その代償としてマナティは死に、イルカの身体は時が止まったかのように成長を緩やかにした。
否、マナティは死んだのではない。維千とイルカに殺されたのだ。
とある国家警察と共に村人が駆けつけたときには、咲き乱れる桜の下で維千は血の滴る刀を握りしめ、イルカは冷たくなったマナティを抱きしめて茫然自失していたそうだ。マナティの半身は異形の姿をしていたという。
「師匠を殺したのは僕です。取り返しのつかない罪を僕の命で償おうとしたこともありましたが、維千に『お前は俺から友人まで奪う気か?』と叱責されまして。こんな僕があろうことか魔法倫理学の教壇に立つだなんて、烏滸がましいこと甚だしいのですが…僕は師匠の想いを受け継ぎ、未来を担う魔法使いたちが道を踏み外さぬよう寄り添い続けることが、道を踏み外した僕にしかできない贖罪と信じています」
「俺を助けたのも…?」
「いえ。サラには、師匠に課されたくっそ面倒臭い宿題を手伝ってもらおうと思いまして」
「宿題?」
イルカは自虐めいた笑いを浮かべると、永遠に散ることのない桜をじっと見上げた。サラは込みあげる感情を抑えられず、イルカをぎゅっと抱きしめた。
「ええっと…サラ?」
思いがけないことが突然起きて、イルカが目をぱちくりさせる。サラは今にも泣き出しそうな顔で、柄にもなく戸惑うイルカの頬を優しく引っ張った。
「にゃんでふか」
「いつものお返し」
「おあおあ」
サラの不満げな上目遣いにイルカが情けない顔で笑い返す。
「サラ、泣いてるの?」
「…泣いてない」
「ふふ。サラは本当に泣き虫さんですね」
「だから、泣いてない」
サラの目尻を親指の腹でそっと拭って、イルカは困ったふうに微笑んだ。
早朝の集会所にこれ以上ないほくほく顔のイルカとすこぶる渋い顔をしたサラが現れて、慈海はかろうじてわかる肩をサッとすくめた。
「おはようございます」
「…おはよう」
「おはよう。どうしたんだい?その…」
慈海が言葉を濁してふたりの顔を交互に見やると、サラは頬を赤らめてそっぽを向いてしまった。
「おやおや」
さっきまでイルカを想って泣いていたのに、サラは集会所に着くなりいつもの仏頂面に戻ってしまった。
(素直なくせに素直じゃないんですから)
いっしょになって仏頂面になってみようかなんてイタズラ心は胸にしまい込み、イルカはサラのほっぺをツンと突いた。
「何?」
「サラ。あなた、本当は…」
ふいにドタドタと大きな音がして、慈海の背後からゆで卵似の彼をタルタルソースにする勢いで村人たちが飛び出してきた。
「イルカくん。よく来てくれた」
「いよっ!待ってました!」
「ほら、早く!こっちこっち!」
「久々に舞っておくれよ!」
「おやおや、まあまあ」
イルカはきょろきょろとサラを探したが、サラは小さな体を揉みくちゃにされてイルカの視界に入らない。
そうこうしているうちにイルカは人波に攫わられて、あっという間に姿が見えなくなってしまった。
「行った…」
「あはは。イルカくんは村の人気者だからね」
「…あんなことがあっても?」
サラの意を決した問いかけに少し間を置いてから、慈海は細波のような口調で穏やかに答えた。
「イルカくんは人気者だが、過去を許されたわけじゃない。彼は死ぬまで…もしかしたら、死んだ後も罪を背負っていくのだろう」
慈海の言葉が胸に深く突き刺さり、サラの心は錠をかけられたかのようにずっしりと重くなる。サラは数多の同志を手にかけてきた自身の手をじっと見つめた。
「ただ、生者は前にしか進めない。理不尽な世界で唯一選べるのは未来なんだ。私たちはイルカくんを責め続ける未来より、罪を背負う覚悟を決めた彼を見守る未来を選んだのだよ」
慈海はサラの手を取って腰を折ると、鮮やかな赤目をまっすぐ見つめた。
「それにね。私たちにも罪がある。私たちは彼の異変に気づきながら、面倒事と見て見ぬふりをしてしまった。誰かが罪を犯すような社会を作ったのは私たちなんだよ。何もしなかった我々に、責任のすべてを彼に背負わせて一方的に責める権利はあるのか…何かできることはなかったのか、私は自問自答が頭を離れない」
慈海はサラの手を握る手にぎゅっと力を込めると、痛いほど締め付けられる喉から必死に声を搾り出した。
「彼は清く優しい。すべてをひとりで抱えてしまうんだ。イルカくんを頼んだよ」
「…できない。俺はイルカを何も知らない」
イルカに拾われてから2年間、ずっとそばにいたというのに。ウララカでのイルカはサラの知らない顔ばかりだ。
サラはまるで砂漠のど真ん中に置き去りにされ、たどり着くことのないオアシスの幻影を眺めている気分だった。
「これから知ればいいんだよ。きっとサラくんでないとダメなんだ。イルカくんは随分と君を信頼しているようだからね」
「俺は助けられてばかりだ。何もできない」
「それはどうかな。あまり自分を軽んじないことだ」
慈海は目尻を下げて恵比寿さまのように笑うと、ひとり取り残されて不安げなサラの手を引いた。
「お待たせしました」
雅楽衣装をまとったイルカが戻ってくると集会所は大喝采で震えた。人々は期待に胸弾ませ、憧れと尊奉の入り混じる目をきらきらと輝かせている。
拍手が鳴り止むのを待ってから、少しの静寂を挟んで龍笛が始まりを告げた。
イルカは目を伏せて微笑みをしまい込むとダンッ!と片足を踏み出して、閉じた和傘の先端をゆっくりと正面に向けた。
イルカがピタッと静止すると和楽器が一斉に厳かな音楽を奏でる。太鼓がドンッ!と鳴って、イルカがパッと傘を開く。そこに描かれた絵柄がくるくると回りだし、傘を縁取る飾りがきらきらと朝露のように光る。
「綺麗だ…」
立ち昇る龍のようにまっすぐ上に掲げられた傘から、神秘的な雰囲気をまとったイルカの顔が現れる。
彼が手を振れば会場はそのしなやかさに心奪われ、足を踏み込めばその迫力に圧倒される。
気付けば、サラはイルカの一挙一動に五感のすべてを奪われていた。
「ふう…」
別室で着替えを済ませたイルカが集会所に戻ると、サラが向こうからタタタッと駆け寄ってきた。
「ただいま、サラ」
パッと飛びついてきたサラをしっかり抱き止めて、イルカは目をぱちくりさせた。
サラにしっぽがあったなら、千切れんばかりに振っているだろう。万年仏頂面の彼が赤い猫目を宝石のようにきらきらと輝かせ、かつてない満面の笑みを浮かべているではないか。
これは天地がひっくり返る大事件だ。
「イルカ!」
赤らんだ顔のサラがぎゅっとイルカを抱きしめる。彼が「おかえりー!」と擦るように顔を埋めるので、イルカは平静を装うのがやっとだった。
「イルカ、会いたかったー!舞、とってもかっこよかったよ!傘がパッと開いて、イルカが…」
(サラが…饒舌…)
サラが上目遣いにイルカの魅力を熱弁するので、イルカはついに頬を赤らめて緩む口元を袖で隠した。
「う、うん…サラ、ありがとう」
サラが座っていたテーブルに空き缶が転がっているのを見つけて、イルカがサッと表情を曇らせる。
「甘…酒…。サラ、飲んだの?」
「甘酒?何それ」
「サラ、酔っ払っているでしょう?」
「えー?なんで酔うのさ」
サラはきょとんとして笑ったが、彼は顔を熱らせて見るからに酔っ払っている。隣で維千が火酒を飲むたびに、サラは匂いで軽く酔っていたから…彼が甘酒に含まれる微量のアルコールに酔っていてもおかしくはなかった。
イルカは薄々気付いていたが、サラはやはりとてつもない下戸のようである。
(サラは漢字が苦手ですが、「酒」は読めたはず。酒とわかっている物を彼が飲むとは思えませんが…もしかして、見えていないのでしょうか?)
サラが魔法を使えなくなって数日が経つ。彼はいつも通りを装っているが、ここ最近はよく笑ったり泣いたりと感情が高ぶることも多く、余裕がないように見える。
もし溜まる一方の魔力に体調が悪化しているなら、見え方にも影響が出ているかも知れない。
「サラ、帰りましょう?体調、よくないんでしょう?」
「いーやっ」
「サラ、酔っていますし…」
「酔ってなーいっ」
(これはこれは…甘え上戸というより、幼児退行ですね)
ぷうっと頬を膨らませてみせるサラに、イルカは懐手をしてやれやれと苦笑いを浮かべた。
「イルカ。俺は大丈夫だから」
「サラ!おやめなさい。また熱が出てしまいますよ」
イルカが止めるのも聞かずに、サラはタタッと駆けていく。彼は集会所のど真ん中に立つと、意気揚々とストレッチを始めた。
「さあ!始めようか!」
サラは手頃な空き瓶を手に取ると、村人の訝しる視線に臆することなく深く息を吸い込んだ。
「開演の君は涙でも終演には笑顔にするよ。すばらしい日々を贈ろう。スポットライトから外れた僕を君が照らすから」
サラが冒頭のワンフレーズを歌い上げると、わいわいと賑わっていた部屋がしんっと静まり返る。柔らかくも堂々と鳴り響く歌声が一瞬にして会場の空気を飲み込んだ。
その場にいる誰もが我を忘れてサラに見入ると、サラはしたり顔をして頭上で手拍子を始めた。
「いっしょに歌おっ!」
無邪気に笑うサラに促されてひとり、またひとりと手拍子に加わる。会場が一体となったタイミングで、雷鳴が空気を震わせるようにサラは歌の続きを歌い出した。
「サラ。あなたは本当に…ひとが好きなんですね」
顔をくしゃくしゃにして笑うサラに、イルカは哀愁の目を向けた。
拙い文章ですが…ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます!٩(๑❛ᴗ❛๑)۶
サラが歌いましたね!酔っ払いですが笑
イルカもサラも少しずつ少しずつ、心の鎧が剥がれていきます。
なんと喜ばしい…(´;ω;`)
再試験編が終わる頃には、ふたりの関係はどうなっているのでしょう…楽しみでございます(*´Д`*)
が、そこまで書き続けられるかな?苦笑_(:3」z)_
創作はエネルギーを使いますね…不甲斐ない作者ですが、登場人物たちが誰かの励みになればと思っております。
今後ともよろしくお願いいたします。
《メモ》
誰かを傷つけた言葉で 誰かに傷つけられた言葉で
僕の舞台はできている
歪なステージの
不恰好な道化を大衆は嘲るだろう
それでもたったひとつ 真っ暗な観覧席にひとつ
まっすぐな瞳を見つけたんだ
どうにか生きている
今いる場所がなによりも大切に変わる
暗闇に足を取られても 終わらせたりはしないから
転んだって大丈夫
癒えることないシナリオは
君の笑顔に変えたから
開演の君は涙でも 終演には笑顔にするよ
すばらしい日々を贈ろう
スポットライトから外れた
僕を君が照らすから
さあ 始めよう 歌って 踊って 転んで
また笑って 残された時間で終焉まで
君を笑わせたい
笑顔の裏 全部はわかちあえない
だからせめて 残された時間は終焉まで
君のそばにいたい