第37歯 生き甲斐と心の余裕と感謝の気持ちはどんな時も持ち歩こう
「離せ、チビ助!師匠が…師匠!」
維千の冷たい腕を振り解こうとしてイルカは必死に身を捩らせたが、イルカより小柄なはずの維千はしかしびくともしない。
「離せ!離せーッ!」
「おあいにく様。僕には心がありませんから」
イルカが魔法で大波を作っても、維千の妖術が凍りつかせてしまう。こうしている間にも黒魔法の執行人はマナティをドス黒い炎で焼いていく。けたたましい悲鳴が止んで、マナティの身体がドサッとその場に崩れるようにして倒れる。
執行人がその不気味な姿を消して、維千はようやくイルカを放した。
「師匠!」
イルカはすぐさまマナティに駆け寄ると、虫の息で弱々しく微笑む彼女を腕に抱きあげた。燃え残った炎を消そうとイルカはマナティを水で包んだが、炎は勢いを変えることなく彼女を飲み込んでいく。
「クソッ!消えろ!消えろ!消えろッ!」
「イルカさん、無駄ですよ」
「うるさいっ!」
イルカが怒鳴るのに呼応して、マナティを包む水がパッと飛散する。散り散りになった水のうち一滴が維千の頬を掠めて、白い頬に鮮やかな赤がツーッと流れた。
「先生はもう助かりません。時間を無駄にしないでください」
「維千、少し黙ってろ!師匠はまだを息している!助かるかもしれない…助けるんだ!」
「イルカさん。契約成立後の執行人には逆らえない」
維千の氷のように冷ややかな声は、イルカの胸に突き刺さり熱を奪っていく。
冷静さを取り戻したイルカはマナティの下半身が人間のそれではなくなっていくのを目にして、ガクッと肩を落とし項垂れた。
「どうして…どうして師匠なんだ?黒魔法を使ったのは僕だ。使用者が支払わなければ、代償にはならないだろ」
「それは…彼女があなたの大切なひとだからですよ。彼女は間違いなく、あなたが支払える最も価値ある代償です」
イルカはハッとして、腕の中で冷たくなっていく最愛のひとを強く抱きしめた。
「…僕のせいだ」
イルカがギリッと奥歯を噛み締める。彼の耳元でマナティが弱々しく囁く。
「イルカ…私を…殺して…」
「そんなこと…できない…!」
「イルカ…お願い…」
維千は表情から温度を消すと、腰に差した刀に躊躇いなく手をかけた。
「強い黒魔法には大きな代償が伴う。このままだと先生の魂は執行人として、永遠に闇を彷徨うことになります」
維千が忠告してもイルカはピクリとも動こうとしない。マナティの身体は今もじわりじわりと姿を異形に変えて、維千はついに刀を抜いた。
「あなたが殺さないなら、僕が殺します」
「やめろッ!」
マナティの喉めがけて突き下された切先が、すんでのところでピタッと止まる。
維千の刀はカタカタと音を立て、小さく震えていた。
「維千…お前、怖いのか?」
「怖い?ご冗談を」
維千がフッと鼻で笑う。彼は平素と変わらぬ笑みを湛えてマナティを見つめていたが、天色の瞳をそっと伏せると左手で自分の胸を鷲掴みにした。
「ただ少し…ここが苦しいだけです」
「維千、それは…」
維千はひどく冷たい顔をして、困惑しているようだ。イルカはその体の奥底から湧き出すものの名を教えてやりたかったが、言葉ではとても言い表すことができなかった。
「維千…その苦しさを大切に…して。あなたは…誰よりも心ある魔法使いになる…でしょう…」
「…ご冗談を」
維千が俯きがちになって顔に影を落とす。マナティは弱々しくもとても嬉しそうに微笑んだ。
「維千…ありがとう」
「いえ、こちらこそ。大変お世話になりました」
「イルカを…頼みます」
「はい、先生」
維千のまっすぐな目に小さく頷き返して、マナティはイルカに視線を移した。
「イルカ。あなたは愛情深いから…私がいなくなれば、生きる意味を…見失ってしまうかもしれませんね。最後に課題を3つ…与えましょう…」
マナティはにっこり微笑んで、イルカの目から次々と溢れ出る涙をそっと指先で拭ってやった。
「ひとつ。自分を大切にする…方程式を…見つけること。ふたつ。あなた自身の幸せを見つける…こと。みっつ。愛は世界を救えると…証明すること」
「僕には解けません。師匠がいなきゃ…解けない」
「維千とゆっくり考えなさい。出逢いに…助けてもらいなさい。あなたを取り巻くすべてが…あなたの師なのですから」
マナティは力を振り絞りイルカの手を取ると、それを維千の手にそっと重ね、ふたりの手を包み込むようにしてぎゅっと刀を握らせた。
「向こうで答え合わせをしましょう。あなたがどんな答えを導くのか…楽しみに待っています…」
「マナティ。ごめん…愛してる」
「イルカ…ありが…とう」
ドスッと鈍い音がして鼻をくすぐったのは生臭い血の匂いではなく、懐かしい花の香りだった。
イルカが薄目を開けると、そこはウララカの見慣れた駅前に設けられた小さな広場だった。
(サラ…?)
サラは箸に突き刺した唐揚げをひと口で平らげると、ご機嫌に鼻歌を口ずさんでいる。
(ふふ。人気がないと途端に陽気なんですから)
サラは桜の木にもたれかかりイルカに膝枕をして、目前に広がる桜並木に目を輝かせていた。
(こんなの、余計に起きれませんよ)
イルカは苦々しく笑うと、そっと目を閉じて彼の歌声に耳を澄ました。
極秘事項歳にもなって16歳の少年に膝枕されている光景は、あの人を彷彿とさせる。
(師が師なら、弟子も弟子ですね)
マナティもまたイルカの膝を枕にして、すやすやと気持ちよく寝息を立てていたものだ。彼女が目を覚ます頃にはイルカは足の痺れで歩けなくなっていて、よく笑われていたのを思い出す。
(仕方ないですよ…師匠ったら、全然起きないんですから)
膝から伝わる人の温もりが、起き上がる気力を湧いたそばから削いでしまうのだ。
(師匠が起きなかった理由、今ならわかります。もう少しだけ…)
「イルカ、起きてるでしょ?」
「…」
「イルカ?」
「…」
「イールーカー」
「…」
イルカは頑として寝たふりを突き通そうとしたが、サラにずいっと覗き込まれるとふふっと笑いが溢れてしまい、両手を胸の高さにあげて観念した。
「ばれちゃいました?」
「イルカはすぐにやける。おはよう」
やれやれとため息混じりのサラに、イルカは清々しい笑顔をにっこり返した。
「…」
「…」
サラがしばらく待ってみてもイルカは起き上がるどころか、彼の腰にガバッと抱きついて離れようとしない。
「サラ、もう少しだけ」
「だめ。起きて」
「サラの膝が離れたくないって…」
「言ってない」
「あと5分…いえ、5秒でいいですから」
「それ、寝る時間ある?」
イルカがうだうだと駄々をこねるので、サラは少しずつ眉間を寄せていく。それでも彼は困った表情を浮かべるだけで、イルカを力尽くで避けようとはしなかった。
「イルカは働きすぎ」
『ピューイ、ピューイ』
ポチも珍しくサラと同意見のようで、小さな手でペチペチとイルカの頬を叩くと、フーッと電気を帯びた鼻息を漏らした。
「あはは」
イルカはサラの心配を笑い飛ばしたが、その顔には疲れが滲んでいる。
(無理もない)
周囲の支えがあるとはいえ、心身への大きな負担が避けられぬ平和維持軍の隊長と、隔週科目とはいえ人気魔法学校の講師とを掛け持ちし、2年前からは元スピッツという厄介な経歴を持つサラのお守りまでしているのだから。
「…イルカ、もう少しだけ?」
「うん。もう少しだけ」
イルカはとろんとした声で呟くように言うと、サラの是非を問うことなく彼の腹に顔を埋めてしまった。
「イルカ?」
返事の代わりにすやすやと穏やかな寝息が聞こえてくる。
(寝た…)
サラは諦めた顔でため息を吐くと天を仰いで途方に暮れた。
サァと吹き抜ける風がサラの長い前髪をいたずらに揺らす。桜の花びらが舞い散って、ほんの一瞬視界が桜色に染まった。
(ここがイルカの故郷…)
大陸最大の面積を有する、阿鼻の国。その最果ての地がウララカである。
ウララカの季節は常に春だと聞く。詳細は知らないが、魔法史に残る大事故をきっかけにこの地の季節は進まなくなったらしい。
そんな事など一切感じさせない温和な雰囲気に、サラも次第にうつらうつらしてくる。
(長閑だ)
イルカはこの桜色の絨毯を踏むたびに、懐かしさを感じているのだろうか。
故郷を持たないサラには、その感覚がわからない。いつもどこにいても自分だけが見えない壁の向こうにいるような気がしてならなかった。
(俺の故郷…強いていえば、ガリヴァーノンか)
サラがそっと目を閉じる。瞼の裏に思い浮かべたガリヴァーノンの笑顔は、パッと拡がった闇に呑み込まれてしまった。
「だめっ!」
鉛のような闇はどんどん拡がって、ガリヴァーノンを救おうとサラが伸ばした腕までも指先からぐんぐん呑み込んでいく。ガクッと落ちていく感覚がして、サラはハッと目を覚まし叫んだ。
乱れた呼吸を整えようと肩で息をする。脚にずっしりと重さを感じて、サラはゆっくりと膝上に目を向けた。
「サラ、大丈夫?」
そこで1匹の白猫が首を傾げ、血の気の引いたサラの顔を伺っていた。ポチはギョッとしてサラの服にササッと潜り込むと、目だけは猫に向けたままプルプルと怯えている。
「猫が…喋った…」
『ピィ…』
「おやおや、喋ったのは僕ですよ」
イルカの手がひらひら揺れる。彼の顔は今、白猫様の座布団になっていた。
「あはは。のんびりしていたら、迎えが来ちゃいました」
「迎え?」
「にゃあ」
イルカは白猫を抱えて上体を起こすと、そこできょとんとしているサラにニコッと微笑んだ。
駅前から川に沿ってずらりと並ぶ桜並木を抜けて、辿り着いたのは古びた大きな寺だった。
「だんごは僕が通っていた寺子屋に住みついている地域猫です」
「だんご…」
『にゃあ!』
サラの襟元がバッと開いて、真っ白な猫がふかふかの顔をぬっと覗かせた。
「ふふ。お団子みたいにまあるいでしょう」
イルカが行きつけにしている茶屋の団子を思い浮かべて、サラはハハッと乾いた笑いを漏らした。
(やっぱりイルカが名付け親か)
自らの九十九にタマ、サラの九十九にポチと安直なネーミングをしたのもイルカだから、もしやとは思っていた。
(掴めないひとだ)
サラが知っているイルカは行雲流水のような人でありながら、チェンと競えるマイペースさの持ち主で、平和維持軍の誰よりも頑固者である。
顔を合わせればいつだって、縁側で茶をすすり日向ぼっこでもしていそうな暢気っぷりだ。
しかし、戦場の彼はその圧倒的な強さと計算された美しい戦闘スタイルから、武神とかけて舞神と呼ばれていた。
(にわかには信じられない)
サラは前を行く華奢な背中にじっとりとした目を向けた。戦場の舞神は今、墓を兼ねる小さな里山で迷子になっている。
ウララカでは墓石の代わりに樹木を植えるのが一般的だそうで、里山の大小様様な木々の根元には小さな墓標が突き刺さっているのだが…目の前の真新しい墓標に刻まれた名を目にするのはもう3度目だった。
「どこですか、師匠〜?」
イルカの間延びした声が木々の合間を縫って空に響く。
どこかで羽休めをしていた鳥がバサバサと飛び去って、イルカはビクッと驚くとちゃっかりしっかりサラの腕にしがみつた。
「何?」
「んふふ」
イルカは迷惑そうにするサラをガッシリ掴んで、不機嫌な赤目をにこぉっと覗き込んだ。
「イルカ。怖いの?昼間だよ?」
「怖いですよ。お昼だって、お化けは出るんですから」
「お化け…」
「サラは怖くないですか?」
「怖い?」
白けた顔をしているが、サラもそれが怖かった時期がなかったわけではない。しかし戦場に立っているうちに、そんないるのかいないのかわからないものに怯えるかわいげは失ってしまった。
「生きている人間ほど怖いものはない」
「あはは、ごもっともです」
イルカは清々しい笑顔で同意したが、ホラー映画を鑑賞する時は決まって、サラを膝に置いて自らの視界を塞ぐのだった。
「それに。君の親友も言ってしまえば半分お化けだ。怖くない」
「わあっ!維千が聞いたら、しかめ面で喜びますね」
「喜ぶところがわからないし、しかめ面は喜び顔じゃない」
「ふふ。それが維千のかわいらしいところです」
怖い怖いと言いながら、イルカはどこか楽しそうだ。サラはフッと諦めた笑いをこぼして、大人しくイルカに腕を貸してやることにした。
整備されているとはいえ、足場の安定しない山道をふたりは黙々と進んでいく。ようやく辿り着いたのは、里山の頂上にそびえる若い桜の木だった。
(頂上なら上に登るだけだったんじゃ…?)
サラはこれまでの時間と労力を思い返して、どっと疲れた顔をした。
(百合…?)
先客があったようで、マナティと彫られた墓標の隣に立派な百合が供えられている。
「おやおや。死んだ人間はもういないからって、いくら誘っても来ないのに…」
イルカは澄み渡る碧海のように清澄な魔力が宿った百合の隣に、トルコキキョウと千日紅の花束を置いて小さく笑った。
「師匠、ただいま」
イルカは満開の桜を見上げて寂しげに微笑むと、その場にしゃがんでそっと手を合わせた。
(これが墓参り…)
サラはゴクリと唾を飲むと、イルカの見よう見まねでその場にサッとしゃがみ込み、パンッと大きな音を立てて両手を合わせた。
(いつまでこうしているんだろう…)
いつまでも険しい顔でギュッと目を瞑り続けるサラに、イルカはぷるぷると肩を震わせて笑いを堪えている。
「サーラッ」
イルカの手がポンッと肩に乗って、サラはようやく目を開けるとイルカをくるっと振り向いた。サラの肩に置かれた手のピンッと伸ばされた人差し指が、彼の頬にプスッと突き刺さる。
「あはは!引っかかりましたね、サラ」
(…幼稚)
サラの呆れ顔を差し置いてイルカはひとしきり笑うと、サラの背中に手を添えて前にぐっと押し出した。
「師匠。いつもお話している、僕が拾った愛弟子です。かわいいでしょう?」
「弟子じゃない」
「弟子じゃなかったら何なんですか」
「…捕虜?」
「そんな物騒な関係の相手を大切なひとの墓参りなんかに連れてきませんよ」
イルカなら連れて来かねないが。サラは顔を渋くして、イルカを納得させようと頭を巡らせた。
「…生徒」
「合鍵を持ち合う仲なのに?」
「それは俺がよく風邪を引くから、チェンさんが…」
サラの必死の言い訳をまるで子供の話に耳を傾ける親のように、イルカは愛おしそうに静かに聞いている。
サラは暖簾に腕押しと諦めて頭をポリポリ掻くと、目を伏せてこれ見よがしに大息を吐いた。
「もういい。好きにして」
「はい」
サラがじっとりとした目を向けても、イルカはほくほく顔で生き生きとシンボルツリーの桜に近情報告…主にサラとの思い出話をしている。
(それでイルカが幸せなら、まあいいか)
この溢れんばかりの笑顔を見ると、サラはつい気を許してしまうのだった。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます!٩( 'ω' )و
イルカの過去がチラッと出て来ましたね!
魔法倫理学の母と呼ばれ、ジョニー魔法学校創設のきっかけとなったマナティさんは、イルカの師であり想い人でした。
マナティもイルカを想っていましたが、この先も生き続けなければならない彼を思いやり、「愛してる」ではなく「ありがとう」と感謝を伝えるに留めています。
イルカとサラののんびりまったりした時間は、書いていて癒されますね╰(*´︶`*)╯
ふたりともマイペースでどこか天然です笑 イルカはやや強引に見えますが、サラが本当に嫌がることは押し通しません。
さてさて、こんな調子でサラは再び魔法を使えるようになるのか…(;´д`)
蛍の再試も同時進行します。拙い文章ですが、いっしょに楽しんでいただければ幸いです。




