第18歯 憎み憎まれることに費やせるほど、人生は長くない
殺風景な医務室にカタカタと無機質な音が忙しなく響いている。先程からチェンが叩き続けているそれはキーボードと呼ばれるパンピの発明品で、文字の羅列を指先で叩くと叩いた文字が目の前の画面上に浮かび上がるそうだ。
もう随分と古いものだが、チェンはそういった古臭いものをこよなく愛している。彼は綺麗好きだからあまり帰らない自宅にまで掃除が行き届いているのだが、その自宅も彼の趣味趣向から何だか埃っぽい匂いがした。
「それで?姫魅くんの様子は?」
チェンはキーボードを打つ手を止めて、さっきから重苦しい表情で頭を抱えているネルに冷ややかな視線を送った。
「あれから3日と経つが、食欲不振と…寝不足も続いているようだ」
「そうか」
「そうか、じゃないだろ。スピッツは人々の恐怖心を焚きつけてカラス族の村を焼き尽くし、姫魅からすべてを奪ったんだぞ?俺に心配かけまいと平静を装ってはいるが…どう考えても無理している」
「それは姫魅くんが言ったことかね?」
チェンがメガネの奥で眼光を鋭くすると、ネルはうっと怯んだ。
「俺の思い込みだって言うのか?俺が姫魅なら、とっくにサラくんを殺している」
「ぶっそうなことを言うな。スピッツだった人間がひとり死んで、それで気持ちが晴れるのかね?怒りの矛先が無くなるだけだよ」
「わかってる。頭ではわかっているんだ」
手に持ったカップに目線を落とし、ネルは眉根を寄せて表情を険しくしている。ミルクも砂糖も入れない、混じり気のない黒がカップの中で怒りに震えていた。
チェンはふうっとため息を吐いて、画面横に置いた瓶の底に、わずかに残っている栄養ドリンクを一気に飲み干した。
それは「FREAK」と書かれた派手なパッケージから連想される通りの味で、愛飲しているチェンでさえ「クソまずい」と評する。しかしその効果は絶大のようで、仕事のストレスから不眠気味のチェンは毎日のようにFREAKを飲み、うだうだしている脳を叩き起こしては、毎日のように「クソまずい」と言っていた。
「それにお前…家族を奪われた境遇は同じかもしれないが、あまり姫魅くんと自分を重ねすぎないことだ。彼はサラくんを殺さない。姫魅くんにはお前がいるからね」
「俺にはチェン、お前がいた」
ネルにじっと見つめられ、チェンはやれやれと首を横に振ると、眼鏡を外して目頭をぐっと押さえた。チェンが眼鏡をかけ直し、これ見よがしにうんざりした顔をしても、ネルの憤りはまるで収まる様子がない。
「だから反対したんだ。スピッツだった人間がのうのうと魔法学校に通うだなんて…そんな馬鹿げた話があるか?」
「イルカさんは常に数十手先を読んでいる。あの人が助けたということは、この先の戦いにサラくんが必要だということだろう」
「数何十手先って…あの人、将棋はめっぽう弱いぞ?」
ネルはそれまで将棋のルールも知らなかったサラに秒で負けるイルカを思い出して、苦笑いを浮かべた。
「あれは先を読めないからじゃない。すべての駒を守ろうとするから負けるんだ。イルカさんは歩でさえも切り捨てられないからね。彼の読みはいつも的確だよ。何事もひとりで抱えがちな維千くんでさえ、彼を当てにしている」
「あの維千さんがね…ははは。そりゃ、すごい。そんなに信頼できるなら、もはや読みというより予知だな」
「バカバカしい。予知などあるものか。僕はオカルトは嫌いじゃないが、未来は過去を積み重ねた結果だと思っている。つまり、過去を分析していけば、誰の目にもイルカさんの見ているものが見えてくるということだ」
「本当にそうか?俺にはイルカさんの考えていることがさっぱりわからん」
ネルはカップを机に戻すと頭の後ろに手を組み、椅子にもたれかかるようにして天井を仰いだ。
チェンは一際分厚いカルテを手に取り、気難しい顔をしてパラパラと目を通している。カルテの患者名はサラマット、年齢は16歳。誕生日は…先日迎えたばかりか。そういえばイルカと維千がパーティー帽と鼻メガネを装着して、サラを追い回している日があった。サラはこの世の終わりを迎えたような顔をしていたが…なるほど。迎えていたのは誕生日だったか。
(現病歴は魔力多増症、家族歴は両親と…妹…がいる可能性。可能性?)
「ネル、患者情報だ」
「ああ、すまん」
ネルが慌てて目を逸らすと、チェンはサラサラとペンを走らせ、カルテに何かを書き加えた。
「サラくんも同じことを言っていたよ。自分はここにいるべきではない、イルカさんの考えていることがわからない、と。彼は自分の罪深さを強く感じて、いらぬ責任まで背負いこもうとしている。本当は真面目で優しい子だよ」
「罪深さを感じる?スピッツにそんな心があるのか?甚だ疑問だな」
チェンの手がピタッと動きを止める。カルテの空白に根を張るように、真っ黒なインクがじわじわと滲んでいく。チェンはため息を吐くと、椅子ごとくるっと身体を回してネルを振り向いた。
「…サラくんは望まざる悪とでも言おうか。かつては父親のように舞台に立ち、人々を笑顔にすることを望んでいた、ひとりの無垢な人間だったんだ。それがたったひとつの綻びで闇に囚われてしまうのだから、僕はこの世こそが悪とすら思えてくる。本当に…無慈悲で残酷だ。サラくんの人生に彼の意思はない」
「舞台?人々を笑顔に?一体、なんの話だ」
「呆れたな。なにも知らないで彼を否定していたのか?」
「知らないも何もサラくんは喋らない」
「何故、喋らないのかを知ろうとしたか?」
「……」
「そういうところだ、ネル。まずはその先入観を取っ払え。憎いからこそ、相手を知れ。本当に怖いのは無関心であることだ。カラス族の虐殺がそれを証明している、そうは思わんかね?」
「…悪かった」
ネルは大きく深呼吸して気持ちを静めると、フッと自嘲した。熱くなりすぎるのはネルの短所寄りの長所だ。道を踏み外しそうになった自分を諭してくれたイルカに憧れ、教師になったというのに…いつまでもこれでは到底、彼には近づけまい。
自分がどれだけ足掻いても追いつかない理想に、チェンのほうがずっと近いところにいる気がして、ネルはひどく嫉妬したり、無力感に苛まれたり、とにかく腹が立つことがあった。
(チェンと出逢ったのは、ジョニ校1年のときだったか)
チェンは魔法医師である父親の跡を継ぐため、ジョニー魔法学校に入学した。成績は常に学年2位。
今や「医務室のマッドサイエンティスト」と呼ばれているチェンの学生時代は、短いマッシュボブを七三分けにして、外面内面ともにメガネの印象に違わない真面目な優等生だった。
対してネルはスピッツの手によりパセリになってしまった父パセリを人間に戻すべく、ジョニー魔法学校に入学するも周りと慣れあう気はさらさらなく、成績は常に学年トップでありながら素行の悪さはメロウも匙を投げるほどだった。
学生時代のネルはツーブロックの短髪でメガネはかけておらず、校内一の問題児として名を馳せていた。
(不思議だな。あんなに対照的だったふたりが、今では親友か)
授業をサボったネルが図書室で医学書を読み漁っていたところ、チェンが「校内一の不良が学年トップとは…不愉快極まりない」と絡んできたのが全ての始まりである。
(あの頃は事あるごとにチェンが張り合ってきて…1年の夏が終わる頃には、学年の名物になっていたっけ)
ジョニー魔法学校は2年生以上になると普通科の他に専門学科を選ぶことができる。専門学科は実践的かつ専門的な教育を目的とし、基礎科目の他に平和維持軍の部隊や関係機関に仮所属をして実習を受ける。
ネルが専門学科を選択し、平和維持軍の水虎隊に仮所属すると、医師を目指すことを親に強要されていたはずのチェンはネルを追いかけるように水虎隊を実習先に選んだ。
後から聞いた話では、チェンは父親から紫巳隊を選ぶように言われていたらしい。紫巳隊は当時から医学の権威だった楊貴妃が率いる部隊で、医師を目指す者なら誰もが憧れた。
チェンは「なにをしでかすかわからないネルのお守り役を買って出てやった」なんて言っているが、もしかしたら父親に対する反抗心もあったのかもしれない。
(イルカさんが新米教師の優男だったんで、水虎隊は楽だろうとたかを括っていたんだよな…実際はトップクラスの実力派部隊で、イルカさんは引くほど頑固で…どの隊よりも過酷だったから、チェンが少し可哀想になったよ)
ネルはメガネをスッと外すと、シャツの裾でレンズを拭いてサッとかけ直した。チェンから譲り受けたこのフレームには、ネルの視力に合わせて度なしのレンズが入っている。
「お前は熱くなると、すぐに目先のものしか見えなくなる。俺のメガネだ。レンズを抜いたからかけておけ」
チェンの言葉を思い出す。あの時はふざけているのかと思ったが、メガネをかけると物事を一歩引いて見ることができた。
(チェンはいつだって冷静だ。奥さんと大恋愛した時くらいか…こいつが狂ったように熱くなったのは)
ネルがははっと思い出し笑いをしたので、チェンは「笑っている場合か」とカルテの角で彼の頬を小突いた。
「姫魅くんのことも…もっと信じてやれ。お前は彼のことを子供扱いし過ぎだ」
「姫魅はまだ子供だろ?あいつのことは信じているよ。ただこれ以上、大人の事情に巻き込みたくないんだ」
「それは姫魅くんが自分で決めることじゃないかね?お前は何を根拠にいつから自分が大人になったか答えられるか?大人も子供もひとりの個体だ。自分の人生は自分の意思で選ぶものだよ」
「チェン、やめてくれ。火遊びでは済まないんだ。スピッツが絡んでいるんだぞ?」
ネルが思わず語気を荒げる。チェンはふうっとひと息吐くと机の引き出しからHi!Calorieの小袋を取り出し、中のクッキーをすべてネルの口に放り込んで黙らせてやった。
「無駄な足掻きだと思うがね。姫魅くんはカラス族だ。魔法技術は発展途上だが、魔力だけなら僕らを凌ぐ。引き合いの法則は知っているだろう?強い魔力には強い魔力が引き寄せられる…逃れられぬ運命だよ。彼に必要なのは守ってやることじゃない。生き抜く覚悟を持たせることだ。それに…」
チェンの細目がメガネの奥でギラっと光る。ネルは口いっぱいのクッキーをやっとのことで噛み砕き、ゴクリと一気に飲み込んだ。
「お前だって俺の警告をことごとく無視してきたじゃないか」
「うう…」
ネルはぐうの音も出ない。スピッツの事となると危険を顧みずに飛び込んでしまうネルに、チェンはネルが姫魅にするようにして心配したり、説教したり…時に体を張って止めに入った。
ネルはというと姫魅のような聞き分けの良さはなく、これまでに計り知れない気苦労をチェンにかけてきたのだった。
「そうやってお前が格好をつけているから、姫魅くんは素直に甘えられんのだよ」
「姫魅は弟みたいな、息子みたいなものだ。そりゃあ、格好つけたくなるさ。お前だって息子の前ではそうだろ?」
「違うね。親だって人間、子供だって人間だ。人と人とが関わるとき、大切なのは相手の意図を汲むことじゃない。相手に興味を持ち、誠実であり続けることだ。取り繕ったものはいずれ綻ぶ。僕はいつだって誰に対してもありのままだよ」
なんとなく聞こえはいいが、チェンのマイペースは周囲を困惑させることも少なくない。ネルは全面的に賛同できなかった。
「それで?いつなんだ?」
「あ?」
チェンに不意を突かれて、ネルは荒んだ素顔をポロッとこぼした。相手がチェンでなければ、ひどく怒らせたと勘違いしてしまいそうな粗暴な返事である。
優しさと丁寧な対応に定評のある人気教師らしからぬ顔だが、案外やんちゃをしてきた人間の方が共感力があるのかもしれないとチェンは解釈していた。
「受けるんだろう?隊長試験」
「ああ…」
ネルは半眼にした目をそっと逸らすと、苦々しくした表情を引き攣らせた。受けるとは決めたものの、やはり乗り気ではないらしい。
彼は信念を持って教師をしている。隊長となれば少なからず教職に支障が出るだろうから、本音のところは断りたいと思っていて当然だった。
「5日後…蛍ちゃんの入学試験と同じ日だ」
「早いな…隊長試験にしても、入学試験にしても。上は何をそんなに焦っている?」
「わからん」
「監督は誰だ?」
「考えたくもないが…サンさんだ」
「業火の狂犬か。それはそれは…ご愁傷様」
チェンがほくそ笑むので、ネルはチェンのこめかみを両側から拳でぐりぐりと押してやった。
「痛いっ!何をする!」
「腹立つ顔しやがって…こっちは本気で生きた心地がしないんだよ」
「だから、ご愁傷様と言ったんだ」
「畜生。他人事だと思いやがって…」
顔もあげずに淡々とした口調で親友の不運を聞き流すチェンに、ネルは彼からサッとペンを奪い取ると頭を抱えて項垂れた。
サンは維千と違ったベクトルで周囲から恐れられている。彼女の地獄の業火のような厳しさと歯に物着せぬ物言いは、相手の心を消し炭にする破壊力だった。
「しかし、やはりおかしい。蛍くんの実技試験は、維千くんが監督を務めると聞いている。サンくんも維千くんも隊長たちを凌ぐような実力者ではあるが、今は隊長でもないし、教師でもない。平和維持軍の隊長試験は現役の隊長が担当することが多いし、ジョニー魔法学校の入試は基本的に教員が実施する。そうまでして実力重視の人選をした理由…」
「…嫌な予感がする」
ネルがじっと見上げた先で、真っ白な蛍光灯がなにかを訴えるようにチカチカと光ったり消えたりしていた。
ここまで読んでくださった方々、本当にありがとうございます。作者が嬉しいのはもちろんのこと、登場人物たちにとって何よりの幸せです。
登場人物の感情を読み解くのが困難で、大変難しいシーンが続いております。
みんな、もっと気楽に行こうよ…黒星の脳は連日、限界を越えております。
次からは少し笑いも交えたい。笑ってもらえるといいな。
引き続き、のんびり気ままに書いていきます。
拙い文章ですが、おつき合い頂ければ作者、登場人物ともに幸いです。