第1歯 何かが終われば、何かが始まる
ガルディとは「誇り」を意味する。蛍の母国、ガルディ王国は茶褐色の大地がどこまでも続くなだらかな土地で、砂漠の砂に見える粒はすべて「なんらかの物質が、焼けるか錆びるかして朽ちた破片」だという。
この国に自然物はひとつもない。強いて言うなら、頭上から照りつける太陽と、縦横無尽に走り回る風、そして人間の肉体が唯一の非人工物であった。
決して豊かな環境ではなかったが、ここに生きる者は皆、世界最古の国ガルディを誇らしく思っていた。
少なくとも蛍はそう思っていた。
(だけど違った)
ガルディ王国第一王子であり、蛍の兄である愛華は、王位継承の儀で父を刺し殺し、あろうことか弟の涼風までも手にかけたのだから。
「愛華お兄様…どうして」
蛍は抱え込んだ両膝を寄せて、ギュッと背中を丸めた。
生まれた時から王位継承が決まっていた愛華は、人を従わせる為の才能と威厳が皮をかぶったような男だ。若干10代の盛りであるはずの彼は、既にどの男よりも大きな言葉を育てており、従者は彼の言葉を聴くために自然と集まった。
愛華は蛍と同じ水色の長髪をひとつに束ね、木陰に腰をおろすと、木々の影を顔に落として年上の男女に国政を説いていたものである。その姿は城中に飾られたどんな絵画より高貴だった。
蛍は彼がしたことをまだ信じられないでいる。しかし、広げた指先の震えが、悪夢のような出来事が現実に起きたことを証明していた。
「蛍、生きろ…」
屈強な涼風の消え入りそうな声が生々しく蘇る。愛華の剣が涼風の腹を迷いなく貫いて、涼風は朦朧としながら剣を抜かせまいと素手で刃を握り締めた。彼の屈強な腕を鮮やかな血がボタボタと伝い落ちる。凄惨な光景を前に、まだ幼かった蛍はそこに立っているのがやっとだった。
「走れ!」
涼風の叫びを合図に、蛍は城を飛び出した。考えることから逃げるようにがむしゃらに走り続け、国境に連なる山々を越え、それからは近隣の国々をあてもなく彷徨い歩いた。
自分が起きているのか寝ているのかもわからなくなった頃、蛍は停車していた家畜運搬用の汽車にふかふかの干し草を見つけて、牛糞の臭いも気にせず飛び乗った。
気を失うように眠り込んで、蛍は気がつけば「とある国」に辿り着いていたのである。
「非魔法使いパンピと魔法使いが共存する国…」
蛍は乾いた目でぼんやりと空を見上げた。
とある国は最大都市ティースを中心に12の方角に別れており、それぞれが個性を持った街となっている。 その上空には移動都市インプラントがぷかぷかと浮かんでいた。
どうやらこの国の郊外にはパンピが、インプラントには魔法使いが多く生活しているようで、パンピと魔法使いが共存していると言えるのは実のところティースに限るようだ。
とある国の東北東に位置し、「水の都」と呼ばれるこの街でも、パンピが魔法使いを批判する姿をよく見かけた。
(魔法使いと共存なんて夢物語よ。だって魔法は…)
魔法は悪魔の力だ。ガルディではそう言い伝えられ、魔法を使う者は誰ひとりいなかった。
幼い頃に聞いた話には、魔法使いの象徴としてカラス族が登場した。彼らはどの絵本にもガラスのような青い目と真っ黒い不気味な姿で描かれている。噂によれば、星々に名を馳せる魔法使いジョニーも悍ましい姿をしているらしい。
(魔法使いには関わらないことね)
心配せずとも、使い古した雑巾のような姿ですっかり家畜臭くなった蛍に、近寄ろうとする者などいないのだが。
「それにしても、ひどい有様ね」
蛍は窓に映り込んだ自分にげんなりした。背中まで伸びる毛先まで水面のように美しかった髪はひどく絡まり、ぱっちり二重だった翡翠色の目は浮腫んだ顔に潰されて一重になりそうだ。
ガルディの綺花と呼ばれた美少女は今や見る影もない。蛍はもうすぐ15歳になる年頃の少女だ。
「最後にシャワーを浴びたのはいつかしら…お腹も空いた」
蛍がひっくり返した皮袋から、銅貨が2枚転がり落ちる。身につけていたわずかな宝石を売り工面した金は、とうに底をついていた。
手のひらのわずかな硬貨と鳴り止まない腹を見比べて、蛍は首飾りに手を伸ばした。
特別な金具で出来た首飾りは、汗が滴る砂漠地帯でも錆びないように加工されている。ガルディ王族のみが身につけることを許された品であり、亡き母の大切な形見だ。
「鎮まる海、唄う風、荒ぶる大地に命が芽吹く。強くあれ。崇高なるガルディの王よ、太陽に愛されしガルディの民よ。今、闇を打ち破らん」
蛍は首飾りをぎゅっと握り締め、裏に彫られた唄を小さな声で力強く読みあげた。どれだけ憔悴しようとも、祖国を想えば力が湧いてくる。
(だめよ。これだけは絶対手放さない。これはガルディ王族の誇りで…お兄様たちとの繋がりなんだから)
首をぶんぶんと横に振って、蛍はぐわんぐわんする頭を膝に埋めた。
「しっかりなさい、蛍。国の命運はあなたにかかっているのよ」
蛍は行き交う人々にガルディの風景を重ねた。どこからか笑いあう声が聞こえて、胸が締めつけられる。
「ずっと守られてきた。今度は…私が守る。お兄様…」
意思を奪うように瞼がストンと落ちる。落ちた瞼がスイッチになり、妙に頭が冴える。夢と現実が溶ける中で、蛍は雑踏に見知った顔を見つけた気がした。
「お兄さま?!」
叫ぶより先に伸びた手が空振りして、蛍は派手に転んだ。鼻血を拭ってすぐに顔をあげたが、そこには見知らぬ男が数人立っているだけだった。
「ごめんなさい。人違いだわ」
「人違いだあ?」
強面の男たちが蛍を覗き込むようにして睨みつける。涼風の姿を見たような気がしたのだが…どこをどう見間違えたのか、彼らと涼風では目つきが悪い他、似ても似つかない。
「私ともあろう者が。涼風兄様とこんな貧弱なチンピラを見間違うなんて…」
蛍は手で顔を覆うとがっくりと肩を落とした。
涼風は愛華がうっかり母の腹に忘れてきたものを全て拾ってきたような男だ。
寡黙、強靭、豪放にして実直な姿は、若くして重い貫禄を持っている。母譲りの深緑の瞳は父に似て鋭く、目でクマを殺したと噂されるほどだ。
彼は皇族仲間の視線に反して、軍人の道に進んだ。文人の最たる兄が頭上にいたことを思えば、選択の余地もなかったのかもしれない。
余儀なく置かれたその環境は涼風が生まれ持ったものに磨きをかけ、彼の心身はまるで武神のように頑強に進化を遂げた。
「こんな貧弱…?」
「ええ。まるで枯れ枝のようね」
涼風を知っていれば、ここにいる誰もが納得しただろう。しかし残念ながら、蛍を取り囲むチンピラたちは、彼がいかに屈強かを知らない。
「喧嘩売ってんのか?!ああ?!」
バカにされたと感じたチンピラは、蛍の胸ぐらを掴むとグイッと路地裏に引き摺り込んだ。
「お嬢さん、言葉には気をつけたほうがいいぜ?特に俺らみたいな輩にはなあ」
「言葉がわかる生き物には見えないけれど…ご忠告ありがとう。それではご機嫌よう」
蛍はチンピラの手を難なく払い除けると、外套の裾を摘んでお辞儀をし、にっこり微笑んだ。
「おい、てめえ…今、なんつった?」
チンピラたちは凄んでみせるが、蛍はこのような状況に臆する性分ではなく、むしろ勝気な性格が火に油を注ぐことも少なくない。彼女は久々に生まれた姫君として蝶よ花よと育てられたはずなのだが…ふたりの兄の影響からか、彼女は「手綱を引きちぎって走る最速のじゃじゃ馬」のように育ってしまった。
「あら、聞こえなかった?言葉がわかる生き物には見えない、と」
「てめえ、笑ってんじゃねえぞ」
「落とし前つけてもらおうか」
チンピラたちは拳をぷるぷると震わせ、怒りで顔を真っ赤にしている。ひとりが蛍の髪をガシッと鷲掴みにして、下品な笑みを浮かべた。
「おい、こいつ。きったねえが、金になりそうな面してるぞ」
「おうおう、売っちまおうぜ?」
「待てよ、金じゃ腹の虫が収まらねえ。ちょっと楽しませてもらおうか」
「またかよ。お前、それで何人殺してんだ…売りもんだぜ、傷つけんなよ」
下劣なやり取りに蛍もさすがに身の危険を感じて、チンピラを威嚇するように睨めあげた。
「その汚い手を」
「その手を離せ!」
蛍の言葉を遮って、歌うような美声が路地裏に響いた。振り向くと熊とも犬ともつかぬ、中折れ帽をかぶった着ぐるみ…の頭部のみを装った少年が、そこに仁王立ちしている。
「なんだ、てめえ」
「な…なんだ…えっと…」
「おいっ!ビーモくんじゃねえか!」
頭だけ着ぐるみの少年がしどろもどろしていると、ひとりの男が興奮気味に言った。彼の腰で被り物と同様のマスコットが、舌をペロリと覗かせてぶら下がっている。どうやら彼はいかつい顔に似合わず、この愛らしいキャラクターのファンらしい。
「誰だか知らねえが、邪魔すんじゃねえよ」
「お前、おとなしく帰ったほうがいいんじゃねえの?そのもやしみたいな腕じゃ…」
それまでしどろもどろしていた少年が、ピタッと動きを止める。かわいらしい笑みを浮かべる被り物からただならぬ空気を感じて、蛍の背筋がゾクッとした。
「もやしって…もやしって言うな!」
少年が怒り任せに叫ぶと、周囲の窓ガラスが一斉に砕け散った。
「くっそ!魔法使いかよ!」
「ふざけんな!」
チンピラが頭を腕で覆い、降り注ぐガラス片から身を守ろうと身を屈める。蛍はフードを目深に被ると、少年のほうへタッと駆け出した。
「ごっきげんよう」
「おい、こら!待て!」
蛍はいたずらっぽく笑ってチンピラの腕をすり抜けると、そのまま少年の隣を颯爽と駆け抜けた。
「助けてもらったのは有難いけど、魔法には関わりたくないの。悪いけど、あとは任せるわ。ご機嫌よう」
蛍は我ながら恩知らずだなと自嘲した。ここ数年の出来事は、蛍の性格を大きく捻じ曲げてしまったようだ。
しかし、背後から聞こえるのはチンピラの負け惜しみばかりである。罵声のひとつやふたつ覚悟していた蛍は、足を止めて少年を振り向いた。
「しまった…ネルに怒られる」
蛍の声も向かってくるチンピラの姿も、彼には全く届いていない。少年はなにかに怯えるようにして、そこにじっと立ち尽くしている。
蛍はチンピラと少年を交互に見て、はあっと大きくため息をついた。
「ほら、ボーっとしてない!」
蛍の脳内でもうひとりの自分が「放っておけ」と叫んでいる。
(うるさい、うるさい、うるさい!ここで自分を裏切ったら、お兄様たちに合わせる顔がなくなるのよ!)
少年は色白の肌を青白くして、お経のようにぶつぶつと独り言を呟いている。
「修復魔法を使えば、なかったことに…できないよね。きっと今頃、ネルは僕の魔力を察知して、荒ぶる闘牛のごとく…」
「さっさと動く!」
蛍はパッと少年の手を取り、迷路のような路地を無我夢中で走った。
どれくらい走っただろうか。月明かりを頼りに馴染みのない土地を走り回り、蛍は自分がどこにいるのかもわからなくなっていた。
空気を吸いすぎてカラッカラになった喉を手で抑え、蛍は後ろを振り返った。
「も…う、まけたみたい。追ってこないわ」
蛍が足を止めて少年の袖をひっぱると、彼もまたゆるやかに足を止めた。
「これで、貸し借り…は、なしよ」
蛍がゼェゼェと息を切らしながら顔をあげると、少年はみじろぎもせず直立不動でそこに立っている。
「あんた凄いわね、息一つ乱れないなんて。体力ある」
ドサッ…!
蛍が言い終わらないうちに、少年の身体はまっすぐ前に倒れてしまった。
見間違いか、倒れる瞬間に彼の周りに小さな花が飛んだ。
「えッ…」
少年の身体はとっくに限界だったらしい。
休みなく走り続けて、おまけに被り物をしていたのだ。彼は酸欠で意識を失ったようだった。
「ちょっと…!だ、だだだだだ大丈夫!?」
数秒、呆然と立ち尽くした蛍だったが、ハッと我に返ると少年にかけより頭の被り物をとった。
「嘘…」
ファサッと中から出てきたのは、人形のように美しい顔をした黒髪の美少年だった。
そんなことをしている場合ではないと頭でわかっていても、蛍は少年の美しさに見惚れずにはいられなかった。そこだけが白い光に包まれているような気がした。
「被り物、ないほうが絶対いい」
「ま…ほう、がっ…こうの…」
「え、な、何!?」
「まもって…あげ…」
「え?」
少年は声にならない声で、パクパクと口を動かす。蛍は耳を近付けたが、ついに少年は完全に気を失ってしまった。
「魔法学校…?守って、あげ…揚げまんじゅう?」
蛍の言葉に答えるように、腹がぐーっと鳴る。緊張の糸がぷつんと切れて、急に空腹が襲ってきた。
そういえば、父はとある国から帰るといつもあげ饅頭を土産にくれた。ガルディで揚げ物は珍しく、揚げまんじゅうは幼い蛍の大好物だった。
最後に食べたのはいつだったか。揚げまんじゅうどころか、蛍はもう数日なにも食べてない。
「揚げまんじゅう、食べたい…って、それどころじゃないわ。この子をどうしたら…生きてるかしら?死ぬなんて嫌よ」
パニックに陥った蛍は思いつくままに思考を吐き出し、とっ散らかった頭を整えようとする。疲れがどっと押し寄せて、そのうちに周囲の景色がぐるぐると回り始め、スゥッと気が遠くなっていく。
蛍はついにかぶさるように少年の上に倒れ込んだ。
「見つけた!」
背後でチンピラたちの声がした。逃げようにも蛍にはもう動く力も残っておらず、そもそも少年は気を失って動けない。
蛍は力を振りしぼり少年に覆い被さると、ぎゅっと目を瞑って覚悟した。
「見ぃつけたっす!」
声のほうに目を向けると、青年が八重歯を見せてニッと笑っている。体格は涼風のそれよりひと回り小柄だが、20歳前後だろうか。年齢は涼風と近いように感じた。
彼の太くも柔らかな眉毛に桃色のまんまるほっぺ、ちょこんと結ばれたちょんまげには愛嬌がある。
「さあ、お縄を頂戴するっすよ」
青年が身構えたその瞬間、チンピラたちの頭上から誰かが降ってきて、そのままひとりを踏み倒した。
空から降ってきた彼は足を蹴り上げて2人目をノックアウトすると、流れるような動きで3人目に掌底を食らわせる。
あっという間にできたチンピラの山に足をかけると、彼は龍の尾のような三つ編みを揺らして蛍を振り向いた。耳元で小ぶりのピアスがチラチラと揺れている。
(褐色の肌に、真紅の瞳…?)
物珍しい容姿だ。歳は蛍と同じくらいだろうか。表情に乏しいが、彼は端正な顔立ちをしていた。
「サラくん、ずるいっす!俺の活躍の場が」
サラと呼ばれた少年は無表情のまま、八重歯の青年をじっと見つめている。
「な、なんすか?」
「…浦島さんの活躍より、対象の保護が優先」
「あうっ!」
「吠えるのみならず、正面から向かおうとするなんて」
サラが呆れた様子で肩をすくめると、浦島はうぐっと言葉を詰まらせた。
「正義のヒーローは、姑息な戦い方はしない」
サラが眉根をわずかに寄せると、浦島はフンッと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「おやおや、まあまあ」
穏やかな波のように優しい声がする。白虎にまたがった青年が、栗色の髪をなびかせてふんわりと舞い降りてきた。
サラと同年齢にも浦島より年上にも見える彼は、白虎からパッと飛び降りると、首を小さく傾けてニコッと微笑んだ。左側のこめかみの毛先についた、雨粒なような髪飾りがキラッと光る。
彼のすべてを包み込む仏のような微笑みに、蛍は一瞬「ついにあの世から迎えが来たのか」と勘違いした。
「イルカさん!こいつマジ、殴っていいっすか?」
イルカを見るなり、浦島がビシッとサラを指差す。
「できるならどうぞ」
サラの涼しげな顔に、浦島がギリギリと歯軋りをする。イルカは「まあまあ」と浦島をなだめるが、彼の怒りが収まる気配はない。
「くっそ!自分は絶対!こいつを!仲間とは認めないっすから!」
「そもそも仲間じゃない」
サラのひと言で浦島の怒りはカチンと頂点に達する。イルカは視線でサラを咎めたが、彼は知らん顔で蛍をまじまじと観察している。蛍は目のやり場に困ると、頬をほんのり赤く染めてスッと顔を伏せた。
「だあー!ムカつく!全っ然喋らないくせに、稀に口を開いたらコレ!」
「おやおや、そう言わずに。浦島くん、ヒーローは寛大な心を持って」
「フンッ」
浦島が黒髪の少年を怒り任せに担ぎあげた。彼の肩が腹に食い込んで、黒髪の少年はうっと声を漏らした。
「イルカ。この子、例の子」
「マジっすか」
「サラ、間違いありませんか?」
サラがコクッと頷いて、浦島とイルカは顔を神妙に変えた。
サラはじっと蛍を見つめていたが、ふいに彼女の顎を指先でクイッと持ち上げると、その額にそっと口を寄せた。
パクッ
サラがおもむろに何かを食べて、浦島とイルカが目を丸くする。
「なっ?!」
「サラ?!」
サラは涼しい顔でしばらく黙っていたが、徐々に顔色を土色に変えると、終いにはうっと口に手をやった。
彼の具合が悪くなるにつれ、蛍の心身がスッと軽くなっていく。安堵からか、急に強い眠気が襲ってきた。
「何をしたんすか?!」
「サラ、すぐに吐き出してください!」
遠のく意識の向こうで、イルカにぐったりともたれかかるサラを浦島がブンブンと揺さぶっている。
蛍は心地よい眠気に身を委ね、ゆっくりと目を閉じた。