本田美也子
「じゃ、ここで」
「え、うん・・・え? ここで?」
「うん」
宮代さんを家にまで送るはずだったのだが、明らかにここには人が住める建物は存在しておらず、木々が生い茂る林しかない。
すると、宮代さんは林の中に入っていき、暗闇で姿が隠れる寸前の所で足を止めた。
「・・・雄介君・・・ごめんね・・・」
その声は震えていた。僕の行く先々に現れては、嫌になるくらい明るい彼女の弱っている所を見せられ、罪悪感を覚えてしまう。
でも、あの人が僕の本心に入ってこなければ良かっただけの話だ。僕の事をよく知っているのなら、僕が嫌がる事をしないでほしい・・・なんて、自分勝手な考えが嫌になる。
「・・・宮代さん」
だからこそ・・・だからこそだ。
「僕、明日はいつもより30分くらい早く家を出るから」
「・・・?」
「だから、その・・・早起きしないと、置いてくから!」
「それって・・・!」
「それじゃ!」
宮代さんがこっちに振り返る前に、僕は自分の家へと走っていく。別に宮代さんを許したとか、そんなんじゃない。
ただ僕は、嫌になった自分を無かった事にしたかっただけだ。宮代さんの為ではなく、僕自身を許す為に。そうすれば、このモヤモヤとした気持ちが少しは楽になるから。
「宮代さん・・・来てくれるかな・・・?」
あの人なら僕の考えが分かるみたいだし、多分僕が言いたかった事が分かるはず。明日は初めに今日の事を改めて謝って、それから彼女の話に付き合おう。それでいつもの調子に戻ってくれたらいいけど・・・変だな、僕が他人に期待するなんて。あくまで自分の為に言った事なのに、これじゃあまるで―――
「北崎、くん・・・」
「ッ!?」
電灯が照らす夜道の途中。一ヶ所だけ電灯の明かりがチカチカと点滅していた。点滅する光の下に立っていたのは、本田さんだった。
「本田さん・・・!」
「・・・ごめんね」
「え?」
「ごめん、私・・・北崎君なら、私の事分かってくれると思って・・・あんな酷い事を・・・!」
点滅する光の所為で確証は得られないが、震える声や言葉の途中で挟まれる鼻を啜る音から察するに、本田さんは泣いているようだ。
そうか、やっぱりそうだ。本田さんは本に影響されただけで、異常になった訳じゃなかったんだ。ただちょっと興味が湧いただけで、興奮から覚めて自分がやった事の恐ろしさに、罪悪感が芽生えたんだろう。
「・・・いいよ。少し食べられたくらいだし」
「でも・・・」
「そんなに気にしなくていい」
「北崎君・・・優しいんだね・・・」
本田さんは尚もその場に立ち尽くして泣いている。僕を食べた事は、もう許しているし、自分がやった事の恐ろしさを分かってくれたなら、それでいいと思った。
「あのね、北崎君。今、時間いいかな? 良かったら、お詫びも兼ねて家に来て欲しいの」
「今? もう21時を回ってるけど・・・」
「やっぱり駄目、だよね・・・」
「いや、そうじゃなくて! こんな時間にお邪魔したら、本田さんの親に迷惑かなって」
「大丈夫だよ・・・だって私、一人暮らしだから」
「そう、なんだ・・・それじゃあ、お邪魔させてもらおうかな」
「・・・ありがとう」
・
・
・
本田さんに連れられ、僕は本田さんの家に来た。一人暮らしと聞いたから、マンションかアパートなのだろうと思っていたが、意外にも一軒家であった。
「僕の家より良い家だ・・・」
家の周りの庭には花や木が植えてあり、二階の窓にはベランダが付いてある。本当にここで一人暮らしているのか?
「北崎君、入って・・・」
本田さんは先に扉を開け、僕を待っていた。外観はとても良かったし、きっと中も広いんだろうな。いいなー、僕も広い家に住んでみたいよ。今の家が好きじゃないって訳じゃないけど、やっぱりもう少し広い自分の部屋が欲しいし。
「それじゃあ、お邪魔しま・・・す・・・」
本田さんの家の中に入るや否や、僕は絶句した。予想通り、家の中は廊下だけ見ても広い家だと分かる。
でも、その広い廊下一杯に、割れた食器やゴミが散乱していた。電気が点いていなくても分かるくらい、壁には赤、紫、黄色、緑の絵の具が乱雑に塗られて、元がどういう色の壁だったのか分からなくなっていた。
家の中の荒らされ具合に立ち尽くしていると、本田さんは靴を脱がずに廊下を歩いていき、廊下の先にある扉の中に入っていく。
「履いたまま行っちゃった・・・一応お客だし、脱いどくか」
どんなに荒れていようとも、僕はこの家に招かれた客だ。流石に土足のまま家に上がる訳にはいかない。靴を玄関に置き、足元に注意しながら本田さんが入っていった部屋を目指していく。
部屋に入ると、そこも物や壁が滅茶苦茶になっており、でも不思議な事にテーブルだけは綺麗な状態で残っていた。
「ここに座って」
「・・・うん」
大きめのテーブルには椅子が四つあり、僕は本田さんに指定された席に座った。座って待っていると、本田さんは二人分のカップと小さめのポットが乗ったトレーをテーブルに置き、僕の席の隣に座った。
本田さんはテーブルの上にあった燭台に火を点けると、カップにお茶を注いでいき、一つを僕の前に出してくれた。
「ありがとう」
色からして紅茶だろう。火傷に気を付けて慎重に紅茶を飲む・・・美味しい。紅茶のくどい感じが無く、心地よい風のようにスッと喉を通っていく。飲み込んだ後も紅茶の風味が口の中に残って、凄くリラックス出来る。
「これ良いね。僕、紅茶って独特な感じがして苦手なんだけど、これならいつでも飲めるよ」
「ふふ、気に入ってくれて嬉しいわ」
「「・・・」」
気まずい・・・まだ本田さんは僕を食べた事に罪悪感があるようだし、ここは僕から話し始めた方が良いよね?
でも、何を話せばいいんだろう? 正直、本田さんとは今日知り合ったばかりだし、共通の話題なんて・・・本、か? いや、本の話をすれば更に気まずくなりそうだし、う~ん・・・。
「・・・傷」
「え?」
「私が、食べちゃった時に、傷・・・」
「あ~、大丈夫。もう治ったから」
「え?」
「あ」
し、しまった。つい言っちゃったよ。僕にとっては当たり前だけど、他の人からすれば刺されただけでも重症なんだよな。たまにどれくらいの怪我で重症になるのかが分からなくなっちゃうんだよな。
「だ、だって! 結構深く刺しちゃったし、食べちゃったし!」
まずい、興味を持たれてしまった。上手く誤魔化したいけど、特別口が上手いって訳じゃないしな僕って。
「えっと・・・こう、傷をね? ギュッと!」
「ギュッ?」
「そそ。ギュッとやって治した・・・とか?」
「・・・」
あ、駄目だ。全然誤魔化せてないわ。ギュってなんだよ、僕は粘土男か。そりゃ本田さんも鳩みたいな顔になるわ。
「・・・くくく・・・あははははは!!!」
「うぇ!?」
「ごめんなさい! 北崎君って、結構面白い事も言うんだね! あはははは!!!」
「そ、そうかな?」
冗談として受け取られたのか? あーなるほど、冗談で誤魔化せばいいんだ。一つ勉強になったな。
それにしても、本田さんって実は結構明るい人なのかな? 笑い方といい、笑った顔も似合うし。
「あ・・・ごめんね。私、笑える立場じゃないもんね・・・」
「良いんじゃない? 笑ってる本田さんの方が、僕も好きだし」
「そ、そう、なんだ・・・それじゃあ・・・」
本田さんは僕の方へ顔を向け、少し顔を傾けながら笑顔を浮かべた。初めて見た本田さんの純粋な笑顔は、儚く、綺麗だった。
「北崎君が好きなら、私も好きになれそう」
「うん、なれるよ。だって本田さんの笑顔、とっても綺麗だから」
そうだ、きっとなれる。だって本田さんは、影響されて化け物になりかけていただけなんだから。本田さんが自分を好きになれば、人を食べるなんて異常者なんかにならず、他の人と同じように、普通の生活と幸せを手に入れられるよ。
少し・・・羨ましいな。
次回
「変貌」
今日の16時に投稿します。