海に抱かれて
眠りから目覚めたユウスケは、不思議な感覚に包まれていた。普段感じている、風の感触や、風に運ばれてくる匂い、風に乗った音、みんな何処かへ消えてしまった。今感じられる唯一は、正体不明の何かに包まれている感覚。その感覚を例えるなら、宇宙に放り込まれたよう。そんな不思議な感覚であった。
閉じていた眼を開けると、広がる景色全てが水色の世界に満ちており、その美しさからか、空虚な体の奥に温かさが注ぎ込まれていく。
「ここは……」
ユウスケは体を動かそうと、まず右腕を前に出してみた。スローモーションの映像を見ているかのように、右腕がゆっくりと目の前まで揺らめいていく。何かに触れている感触は感じるが、それが何なのか理解出来ない。理解出来ない事の多さに、自分の身に何かがあった事を察知したユウスケ。
その時だった。ユウスケの肩に、後ろから長い赤髪が寄り添ってきた。振り向くと、すぐ目の前に、鼻と鼻がくっついてしまう程の距離に、セイレーンがいた。彼女の透き通った綺麗な水色の瞳が、ユウスケの瞳を通って、体の中に入っていくようだった。
「セイレーン……ここは、どこなんだ……?」
「苦しみも痛みも無い、私の居場所」
「居場所……それって……」
そのユウスケの疑問に答えるかのように、セイレーンは優雅に泳ぐように後ろへ下がっていった。揺れ動くセイレーンの赤髪が、まるで炎のように揺らめき、着ている白いワンピースはそよ風のように優雅であった。
その姿に、ユウスケは初めてセイレーンと遭遇した時と同じく、心を惹かれてしまう。そしてまた、さっきまで抱えていた疑問や危機感が掻き消されていき、この空間のように透き通った気持ちになっていく。
しかし、今回は更にこの空間の違和感までも掻き消されてしまい、ここが自分がいるべき居場所だと思うようになってしまう。
「ユウスケ、こっちに来て」
この空間の美しさとセイレーンの姿に放心状態のユウスケに、セイレーンは妖しく手招きをする。ユウスケは吸い込まれるように体を前へ動かそうとするが、上手く自分の体を前へ動かす事が出来ず、苦戦してしまう。
「前にって……どうやっても進めないよ……!」
「動かすのは体じゃなくて、あなたの心よ。さぁ、私のもとへ」
「心……」
体の動きを止め、ユウスケはセイレーンの所へ行く事を願った。そうすると、体が勝手に前に進んでいき、ゆっくりと、そして確実にセイレーンの方へ近付いていく。セイレーンは腕を広げ、近付いてくるユウスケを包み込むように受け止めた。
温かさ、安らぎ、安心感。セイレーンに抱かれたユウスケは、安寧に包まれていた。自分が体験した事の無い、母のお腹の中で甘える赤子のように、ユウスケはセイレーンに自分の全てを預ける。そんなユウスケを、セイレーンは優しく受け入れた。
「……不思議だ。ただ抱かれているだけなのに、安心する……こんなのは、初めて」
「もう大丈夫よ、ユウスケ。ここにはあなたを悩ませる存在はいない。あなたが悩んでしまう要因も無い。この心地よさに、私に、安心して溺れて」
「……そうだね。僕は、十分努力した。自分の役目を果たそうと努力してきた。全部、上手くいかなかったけど、努力したんだ。なら、もう……いい……」
ユウスケは眠った。果ての見えぬ海の底のような、深い眠りに。その寝顔は、幼子のようだった。寝顔だけではなく、ユウスケの姿が徐々に遡っていき、最終的に赤子にまで退化してしまう。
赤子になったユウスケを抱くセイレーンは、ユウスケのオデコを撫でるように、人差し指でユウスケに魔術をかける。
「これで、あなたは赤子のまま。いつまでも私の腕の中で眠れる。痛みも、苦しみも、孤独も、感じない。あなたは私の大切な子供」
セイレーンは大切な物のようにユウスケを抱きしめ、この空間の中を流れていく。誰もいない、何も聞こえない、そんな静寂の中で、セイレーンは求め続けていた子供を抱きながら、幸せに包まれていた。
だが、そんな幸せ時間はあっという間に終わりを告げた。いるはずのない、聞こえるはずのないこの静寂の空間に、巨大なカエルの化け物が轟音でこの空間に入り込んできた。
「……誰、あなた?」
招かれざる客の侵入に、セイレーンは氷のような冷たい視線をカエルの化け物に向けた。カエルの化け物、もとい安原は、セイレーンに向けていた視線を抱かれている赤子にギョロリと動かした。
「ここは私の空間。ここへは私とこの子しか存在しちゃいけない。あなたの醜悪さは、ここを穢す」
すると、安原の体に強い衝撃がぶつかり、そのまま上へ押し飛ばされた。突き飛ばされた安原は空間の層を突き破っていき、元いた現実の世界へと戻されてしまう。砂浜に吹き飛ばされた安原は、体中に残る衝撃の余韻によって変異化が解かれていき、人間の姿に戻ってしまった。
「が…ぐっ、がぁ……!?」
痛みは全く無かったが、呼吸困難になってしまう程の苦しさが安原の体を襲っていた。安原はうずくまりながら、自身の腹を思いっきり殴った。
すると、体の底から大量の海水が這い上がっていき、安原の口から吐き出された。一度だけでは吐き切れなかったので、全て吐き切るまで何度も殴る。
「うぉえぁ……はぁ、はぁ、はぁ……ちくしょう……!」
安原はふらつきながら立ち上がり、目の前に広がる水色の海の中に棲む、北崎雄介をさらったセイレーンに怒りを覚えた。
そして後悔した。この海の違和感に初めから気付いていたというのに、どこかで違和感を払拭してしまっていた自分の楽観的な考えに。ようやく違和感に疑いを持った時には、既に遅過ぎた。
そうして絶望した。自分の勘が当たっていたとしたら、セイレーンの正体が手に負えない存在な事に。
「あの女、おそらくラックスと同じ上位存在…………俺には、無理だ……」
悔しさと恐ろしさを抱えながら、安原は重い足取りでテントに戻っていった。




