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雪山姫譚(ゆきやまきたん)

作者: 睦月えす

さくっと読める短編です。

お気軽にどうぞ

 私はしびれる手で雪をかき分けて歩いた。

 積もりたての雪は泡のように軽いのだけれど、膝まであると、なかなか前に進めない。


 相変わらず雪は降り続いている。見上げる空は真っ白で、太陽なんて欠片も見えないのに明るかった。舞い降りる雪は私の肌の上で溶けて消えていくけれど、だんだん肌上の滞在時間が長くなってきたような気がする。


 私は進まなくてはならない。立ち止まれば助からないってわかるから。それは確実なことだ。


 でも……無駄だろうなぁ。


 一歩一歩前に進みながら、気力が萎えていくのがよくわかる。

 そう、無駄に違いない。あの光だって家なのかどうかわからない。家だとしてもすごく遠い場所なのかもしれない。


 無理だよ。たどり着けないよ。


 私は重い素足を雪から引き抜いて、また一歩前に進めた。青白い腕を仰ぐように振る。もう関節も曲がらない。指先の痛みすら感じない。第一つま先がどこにあるかもわからない。


 風が無いのが幸いしている。凶悪な風は私の体を包むたった一枚の布を通り抜けて、肌を直に凍らせるだろうから。

 私は前のめりに倒れそうになって、自分が歩みを止めていることに気が付いた。


 酷いよ。どうして私は水着のままなの!


 肌の感覚は全くない。動いているのが奇跡。今年買ったお気に入りがワンピース型で良かった。ビキニやセパレートだともっと寒い。……いや、あまり変わらないか。


 もうダメだ。倒れてしまいたい。でも体が雪に触れた途端に死ぬような気がして身動きできなかった。雪に包まれている足が暖かく感じてきた。この先一歩も歩けないだろう。きっと死ぬ。絶対だめ。

 私は数分前の事故を思い出していた。



 私は海水浴に来ていた。一緒にいるのはいつもの三人組。親友のゆりかと、(はじめ)と大樹。夏休みだからというだけの理由で、私たち四人は海に来た。

 天気は超快晴。朝の予報では今年一番の気温になるとのこと。


 砂にいると焦げてしまいそうだったので、私たちは着くなり海に飛び込んだ。

 冷たくて気持ちのいい水にひとしきりたわむれた後、私とゆりかは持ってきたゴムボートに乗った。もちろん押すのは男の役目。とはいえ、一と大樹は不満顔だ。もっと潜ったり泳いだりしたいみたいだ。

 でも私たちはボートをやりたくて来たのだ。結局彼らは私たちの「お願い」に負けてゴムボートを押してくれた。


 私たちは楽をいいことに水を掛け合って遊んでた。ある程度まで来ると一と大樹は飽きたらしく、ボートから離れた。

 事件が起こったのはそのときだった。ゆりかはふざけついでに私を海に突き落としたんだ。私は泳げないというのに! 


 叫ぶまもなく沈む私にゆりかは素早く手を伸ばした。笑ってる。腹が立ったのでゆりかも引きずり落とすことに決めた。

 しかし私は自分のカナヅチを甘く見ていた。ゆりかを引きずり落とすつもりで伸ばした手はただ水をただ叩くだけだった。しかも大きな波が来てボートが流れてしまった。

 ゆりかの手ももちろん届かない。


「直美!」

 ゆりかの声が笑い声じゃなくなった。私も叫ぼうとした。だけどすこぶる水を飲んだだけで声なんてだせやしなかった。

 足が付かない場所は死ぬほど怖い。

 私はあせった。慌てた。そして暴れた。

「おい、暴れるな。こっち!」


 声が聞こえたときは遅かった。私は離れていくボートに気を取られて気づかなかった。そばに来ていた誰かを、蹴り飛ばしてしまったらしい。


 私は声に応えるつもりで大声で叫ぼうとした。バカだった。沈みかけているときに声をだそうだなんて。

 私は海水を思いきり飲み込んで沈んだ。目にも鼻にも耳にも水が入って、目の前が真っ暗になった。


 気が付いたら私は雪の中にいた。だから私は水着である。今年流行と紹介された青色のワンピース型。ゆりかがスクール水着みたいだと笑った、ちょっとハイレグの入った水着。

 周囲を新雪に囲まれながら不思議と明るい雪山は、私に新鮮な驚きを与えてくれた。こんなものテレビの中でしか見たことがない。

 雪がしんしんと降るというのはこういう状況なのか。明るいくせに視界が無いという奇妙な状況は一瞬目を喜ばせる。


 でもそこまでだった。冷たさも寒さも想像以上で、私はあっという間に凍えた。体中がひび割れそうになり、そよ風だけで寒さより痛みが走った。

 夢だと思いたかったけど夢ではありそうになかった。こんなに生々しく痛くて寒い夢があるのなら、私はもう夢など見たくない。


 私はどうしたらいいのかわからず、自分の体を抱きしめた。

 頭の中はクエスチョンマークでいっぱいだった。どうして真夏の海から雪山に飛んでしまうのだろう。

 きょろきょろと落ち着きなく首を回していると、遠くに赤い点を見つけた。雪がまぶしくてよく見えないが、確かに赤いものが見えた。

 このままなら死ぬ。わかっていた。だから私は赤いものに向かって歩き出すことにした。自分の助かる唯一の道なのだから。



 ……結局五分もしないで力尽きた。

 精一杯だった。私は何度も大声を上げた。意識を保つ最後の方法はこれしかなかった。

 私の体にどんどん雪が積もっていった。雪は私の肌の上で溶けるのをやめていた。

 何だ、結構暖かいじゃない。始めからこうして雪に埋もれていれば良かったのかも。私は妙に幸せな気持ちになる。だけどこの感覚はなんか間違っているような……。

「ゆりか、化けて出てやる!」

 私の最期の言葉だった。


「みーつけた」

 遠いところで声が聞こえた。でもきっと遠くはなかったのだろう。私は抱え上げられた。もこもこでしゃわしゃわの肌触り。毛皮? 目が開かないのでよくわからない。目も口も鼻も凍っている。

「大変大変、ダメになっちゃいそう。早く暖めてあげなくちゃ」

 全然大変そうでない声で言われた。だから、助かったと思った。



 目が開いたのは焚き火の前だった。炎以外見れなかったし、見る気にもならなかった。激しく燃える木の棒を見つめるだけ。いまさらながらに歯が音を鳴らし始める。

「はい、お飲みなさい」

 私の前に出された飲み物に自動的に口を付けていた。いきなり喉が焼けるように熱くなり、鼻につんとした刺激が抜けていく。吐き出す前に液体は全て体の中にとけ込んだ。

「何、これ」

 やっと自分の声を聞く。生きていたらしい。

「オリジナルホットカクテル〈愛子〉。ちなみに愛子って私の名前ね。ノンアルコールだけどよく暖まるでしょう」


 目の横の方に、少しだけその愛子と言う女性が見えた。軽装だと思った。シャツが見えたから。代わり私の体には何枚もの防寒着が被せられているようだ。

 感覚はまだ戻らない。指がどこにあるのか足がどこにあるのか。腕はつながっているのだろうか。

 愛子がすりよって来て私の足に触れた。初めて両足が湯に浸かっていることを知った。


「もう少しで暖まるかな。服に入れてちょうだい。暖めてあげる」

 私の座っているところは長椅子のようになっていた。愛子は私の防寒着の中に体を滑り込ませた。水着と服がすれる音がした。

「まだまだ冷たいのね。外にいたのはどれくらい?」


 耳元で話された。私はまだ愛子を見ていない。首が凍り付いていて動かない。

「ここ、どこ?」

「山小屋〈愛子〉。ちなみに愛子って私の名前ね。シャツで過ごせるくらい暖かいのがここの売りなの」

 真夏に雪が振る山なんて、一体どこなんだろう。


「私、的場海岸に……」

 そこまで言ったら愛子が軽やかに笑った。どんな人だろう。若い人のようだ。

「格好で分かるわよ。海にいたんでしょ。潮の匂いがする」

 なんだかしゃくにさわった。


「ここはどこ? どうして私はここにいるの?」

 かんしゃくを起こしそうになる。わけわかんない。海で泳いでいて、気が付いたら山の中なんて。

 でも愛子は楽しそうに笑いながら答えた。

「バカねぇ、直美。決まっているじゃない」

 愛子は私の顔に触れて顔を自分の方に向けた。初めて見た愛子は色白で透き通るような美人だった。こんな綺麗な人を今まで見たことがない。二重のまぶた。漆黒の瞳。すっきりとおった鼻。小さな唇。長い黒髪。


「死んだからよ」

 美しい愛子は言った。

「……え?」

「だってどう考えてもそうでしょう。あなたは海で死んだのよ。心当たりがあるんじゃない?」


 愛子は笑っていた。私はそれどころじゃなかった。死んだ? 誰が? いつ?

「嘘よ。苦しくなかったもの」

 自分でもよくわからないことを言う。愛子はまた笑った。今度は少し哀れむような表情。私が鳥肌を立てるには十分な哀しい笑みだった。


「運が良かったわね。普通、溺死って苦しいのよ。もしかしたら海水を一気に飲んだせいで気を失っちゃったのかも」

 自然と体が震え出す。死んだ。嘘に決まっている。だって、こんなのおかしい。

 私は愛子から離れようとした。でも、愛子は私をしっかりと抱きしめた。


「今更そんなに怯えなくたって……」

「あ……、はっきり分かる。あんたのこと」

 私は思いつくまま叫んだ。私は愛子を押しのけて自分の顔を触った。足を触った。胸を。腕を触った。

「だって、感覚があるわ。死んでなんかない。痛かったし、寒かったし、しゃべれるし」

 しかし愛子は残酷な言葉を続ける。


「ばっかねぇ。死んだからって別に感覚が無くなるわけないでしょ。誰がそんなこと言ったのよ」

「だって、だって」

 私は泣きだした。嘘だ。死んでなんかいない。そんなの嫌だ。

「ほら、泣かないの」

 愛子は私の足をお湯からだして、足を拭いてくれた。


「大分体が温まったわね。もう大丈夫よ」

 愛子は私の防寒着を大きく広げて肩に手を触れた。

「あんたの言うとおりだとして、どうして私がここにいるの!」

 愛子の親切はとてもうれしいのに、私は乱暴な言葉を叫んでしまう。なにしろ愛子の言葉が信じられなかった。

 愛子は私の肩を押して長椅子に押し倒した。


「直美がここに来たのは偶然。私だって死んだ人がどこに行くのかわからないわ。人は誰でも死ぬのよ。仕方が無いじゃない。諦めなさい。それより、今この時を楽しみましょう。もう寒くはないわ。これからずっと暖かいままよ」

 嫌な感じがした。愛子の眼が怖い。愛子の「綺麗」は「妖艶」に変わっていた。色白の頬も少し紅潮していた。


「な、に?」

 愛子は私の腕を押さえつけて太股の上に座った。

「嬉しいわぁ。こんな可愛い子が来てくれるなんて。直美だから助けてあげたのよ」

「何? あなたも死んだの?」

「そんな難しい質問をしちゃダメよ」


「触らないで!」

 私は愛子をはねのけようとしたけど全然動かなかった。もし私が死者なら、この人は死神か何かだろうか。

 愛子は顔を私の顔に近づけてきた。私は顔をそむけたが愛子は構わず私の頬に唇を寄せた。


 舐められた! 鳥肌が立つほど冷たかったし、気持ち悪かった。でも身体は熱くなった。

「止めて!」

 私は夢中で叫んだ。助けてもらったとしてもこんなのは嫌だ! いや、助かっていない。そもそも私は死んでいる?


 愛子は私の耳に口を寄せた。

「まさか、好きな男がいた? 手遅れだけどね」

 今度は耳の下を舐められた。体中に寒気が走り同時に熱くもなる。

 手遅れという言葉が私の心の軸を砕く。全てがどうでもいいような気がしてくる。


 好きな男。考えたけれど浮かばなかった。みんなで騒いでいるのが楽しくて、好き、嫌いを考えたことがなかった。一番気が合うのは大樹だったけど、大樹が好きなのかは自信がなかった。そう、別に未練なんて……。

「だったらいいでしょ」


 いきなり言われて気が付く。よくない。それとこれとは話が別だ。

「止めてよ、止めて!」

 愛子の唇は首の上を滑ってくる。息苦しいほどに気持ち悪くなってきた。

 愛子は何だろう。きっと人間じゃない。こんなに綺麗な女性が普通の人のわけがない。

 愛子は私の首をくすぐるように舐める。きっと食べられてしまう。愛子は笑ったようだった。忍び声が聞こえる。

「ここに噛み付いたら暖かい血が飲めるのね。きっと美味しいわ」

 え、嘘。

 その途端、愛子の歯がのどに突き立てられた。

「ひっ!」

 一瞬の痛みで私は気を失った。



「あら、やっと起きたわね。ホットカクテル〈愛子〉はいかが?」

「あ、私」


 目の前にグラスがあると思ったらカクテルを飲まされていた。今度は思いきりむせた。

 愛子が背中に手を当てて私を抱き起こす。今度は椅子の上じゃない。クッションを背にして柔らかい布団の上に寝ていた。やはり私は水着のまま。

「ちょっとした冗談だったのに気絶するなんて」

「放して、放してよ。愛子!」


 私は手を伸ばして愛子を拒絶した。愛子が怖い。

 愛子は私から離れたけれど、私の手を握ることは忘れなかった。逃がさないと言われている気がした。

「直美。信じようが信じなかろうが、あなたが死んだことは間違いないのよ。もう認めなさい。ねぇ直美。一緒に暮らしましょう。ずっと一人で寂しかったの」

 愛子が目を潤ませてにじり寄ってきた。男だったら誘惑されちゃうのだろうなと私は冷静に思った。愛子は美人だ。綺麗という言葉では言い表せないくらいに。


 私は腕を伸ばして愛子から一定の距離を保った。

「私は愛子と一緒に暮らす気なんて無い。私は帰る」

 私は何とか愛子から逃れようとしたが、急に愛子の腕の力が強くなって身動きとれなくなった。愛子は少し私をにらんでいた。その表情さえも美しかった。


「どこに帰るの? どこにも帰れるわけないでしょう」

「そんなの信じない。ここから出ていけばどうにかなる」

 自分に対する言い訳だ。本当はどうにかなるなんて思っていないから。愛子は真っ赤な唇で笑みを作った。

「今、外は吹雪よ。すぐに凍え死んでしまうわ」

 今度は私が鼻で笑った。


「一度死んでいるはずの私が、どうして死ぬって言うの」

 そうだ。死んだのに死ぬなんて変だ。やっぱり私は死んだわけじゃない。

 でも愛子は平然と答えた。笑みをたたえたまま。

「死ぬわよ。決まっているでしょう。何度でも死ぬのよ。今まで何人もの人がこの雪山に入り込んできたけど、みんな死んでしまった。もちろん私が助けなかったのだけど。助けたのは直美だけ。だって可愛いんだもん。すごくタイプだったの。死にたいっていうのなら止めないけど、今度死ぬときはきっと苦しいよ」


 さっきの凍える寒さを思い出して身が縮まる。

「そんな」

「諦めなさいな。素晴らしい偶然に感謝しなくてはね。少なくとも私に出会えたのだから」

 人が死ぬのは一回じゃないって? 何度でも死ぬって?


「そうよ。始めに死んで、次に死んで、何回死んだら終わりなのかは分からないけど、そういうものなのよ。一度死ぬたびにその人の何かが欠けていくの。次に死んだら直美は自分の名前も思い出せなくなっているかもね」

 わからない。愛子の言うことが。だったら死ぬって何だろう。一度目に死ぬことと二度目に死ぬことは同じだろうか。第一、私は今どういう事になっているのだろう。海にいた私とここにいる私は同じなのか。


 私が考えていたら、また愛子が私を押し倒した。抵抗も出来なかった。ただ不安が襲いかかってくる。

 愛子が私の胸に自分の胸を押しつけて顔を寄せた。

「どうして直美がここに来たのか何て私は知らないわよ。説明しろと言われても無理。一番始めがここと言うことでしょう」

「始め?」


「次に直美が死んだらどこに行くか私も知らないって事よ。もう一度雪の中かもしれないし、火の海なのかもしれない。血の池かもしれないし、針山の大地かもしれない。もちろん人によって何回死ぬかは決まっているのだろうけど、私は知らないわ」

「それってまるで……」


 私は自分の言葉を飲み込んだ。戦慄を覚えたから。別に信じているわけでも信じていないわけでもなかったが、死ねば本当にそこに行くとでも?

「悪いことなんて何もしていないのに、どうしてって?」

 愛子が言う。私は震えていた。


「変だよ。……ここが……」

「なおみの考えるその名称が正しいかどうか私にはわからない。ここに来る人が悪いことをしている人かどうかもね」

「ここ、どこ?」


 もう一度私はつぶやく。でもどんな答えを聞きたかったのだろう。知ってか知らずか愛子は優しく答える。

「決して春を迎えることのない冬の雪山。そしてここが唯一の山小屋〈愛子〉」

「春が、来ない?」


「それはそうでしょう。私がいる限り春は来ないわよ」

 私の頭の中に疑問符の波が押し寄せてくる。だけど私はその波の中から一番聞きたい質問を選べない。

「私は、今……」

 愛子は私の唇に人差し指を当てた。


「質問は終わり。楽しみましょう。時間はたくさんあるわ」

 愛子の指が離れて代わりに愛子の唇が近づいてくる。私はただ愛子の真っ赤な唇を見つめていた。でも愛子の瞳を見て、私は我に返った。


「いや、いやー!」

 私は今更ながらに暴れた。愛子の好色な瞳が怖かった。私が抵抗しても愛子はびくともしない。笑ってさえいる。

「もう諦めるの! 直美は死んだの。直美は私が拾ったの。だから直美は私の物なの。ずっと私と暮らすのよ!」

 私は思わず愛子の顔を強く手のひらで打っていた。


 愛子の動きが止まった。愛子は私の両手を押さえつけて私の目をのぞき込んだ。私は怖くてふるえていたけど、視線だけは外さなかった。譲れない。死んだからって私は愛子の物じゃない。

 愛子は目に涙を浮かべた。突然の変化に私はとまどう。


「どうしてもなの。そんなに嫌なの?」

 愛子は自分の涙を隠すように、私の手を押さえたまま私の頬に自分の頬をつけた。

「……いや。嫌よ」

 私は無理に声を絞り出す。女同士でこんな事、気持ち悪い。第一愛子は人間じゃない。こんな化け物は絶対嫌だ。

 そう思った途端愛子は私から離れた。そして思い切り頬をぶたれた。私は驚きと痛みで一瞬動けなくなった。

「化け物? そう、化け物なのね。直美にとって私はそれ以外ではないというのね。女同士が気持ち悪いって言ったことは許してあげる。許したくないけど許してあげる。でも私を化け物なんて呼ぶのは許せない」


 愛子が私の心を読めると言うことに私は初めて気が付いた。後悔しても遅かった。

 愛子はソファーから飛び降りると私の腕をつかんで無理矢理立たせた。そして私を扉の前まで引いていった。

「お望み通りこの家から追い出してあげる。もう一度死んで後悔しなさい!」

 愛子は扉を大きく開けた。真っ暗な闇から冷たい風が入り込んで、私を白く包み始めた。あわてて逃げようとしたけど、後ろは愛子が塞いでいる。

 水着姿の私の体はあっという間に体温を失った。どんなにふるえても小屋に戻れない。

 さっきまでの明るい銀世界はなくなり、白が渦巻く闇。


 愛子は私の背中を押した。私は扉の縁を手で押さえて首を振った。愛子の言葉が耳元で聞こえた。

「もう一度チャンスをあげる。外で死ぬか、私と一緒に暮らすか」

 私は恐怖で身動きがとれなかった。怖かった。この闇の外に追い出されて凍えることが。じわじわと皮膚の感覚が失われていく痛みが。絶望の中で死んでいくことが。


「嫌、死にたくない!」

 夢中で叫んだ。愛子は私の背中に立ったまま言った。

「だったら私にキスしなさい。首を半分回すだけでいいのよ」

 愛子は私の頭のすぐ横に顔をつきだしてきた。

 愛子の言葉に私はあらがえなかった。がたがたと歯をうち鳴らしながら私は左に首を回す。目の前に愛子の真っ赤な唇があった。ここに自分の口を重ねれば、私は助かる。


 でも私は愛子の瞳をまた見てしまった。その視線は雪の冷たさと同じくらい私の心をさましていく。男の獣じみた視線とは違う。もっと絶望的な、ネズミの喉元をかみ砕く猫のような視線。

「お願い……」

 私は泣きながらつぶやく。


「約束が守れないなら、追い出すわよ」

 私は覚悟を決めて目を閉じた。うまく愛子の唇にぶつかれないかもしれないが、愛子の瞳を見なくてすむ。


「え、そんな!」

 突然声がしたかと思うと、私は家の中に投げられた。暖炉のすぐそばで私は丸く転がる。

 寒い、今更ながら死にそうなくらい寒い。


 愛子は扉を閉めたようだ。

 愛子は私のすぐそばまで来て私を抱き上げた。布団をかぶせて、再びソファに座らせてくれる。

 私は訳もわからずただ丸まっていた。外の雪は私を芯まで凍らせてしまった。

 私はキスをしたのだろうか。そんな感触はなかった。その前に愛子の叫び声を聞いた気がする。


 しばらくうずくまっていると。私はノックの音に気が付いた。

 私は顔を上げて振り返る。目の前に愛子の顔があった。愛子は私を後ろから抱きかかえていた。

 愛子の手のひらは私のへその上あたりにおかれている。危険な場所だった。そこから上に行っても下に行っても私は抵抗してはいけない。私はきっとキスをして、愛子のものになってしまったのだ。


 ノックの音は鳴りやまない。ノックの音は私の頭を覚ましていく。人が来ている。それはとりもなおさず私と愛子以外の人がここにいることを示している。


 さらに強く私は抱きしめられた。

 私はノックの音に集中した。助けを求めるべきだろうか。嫌、無意味だ。誰なのかもわからないのに。でも愛子に問いつめなくてはならない。私たち以外、誰がここにいるのか。


「誰もいない。ここには誰もいない」

 愛子がつぶやいた。でも音は鳴り続ける。

 愛子の腕が私から離れた。


「失せろ! 直美は私の物だ。この場所に来た者たちは全て私のものだ」

 愛子は扉に向かって怒鳴りつけた。私はただ愛子を見上げた。愛子は怒りに髪を逆立てていた。その怒りはいったい何なのか。

 扉の音は止まない。


「手遅れだ。直美は一度死んでいる。もうすでに完全ではなくなっている」

 音は止まない。愛子は扉まで走っていくと扉に手を当てた。

「私が直美をここに連れてきたのはそんなことのためじゃない! 直美は渡さない!」

 私はただ愛子を見ていた。愛子は私には聞こえない声を聞いている。愛子はノックの音に対抗して激しく扉をたたいた。

「ここは私の場所だ。私の邪魔をするな!」

 音が急に止んだ。しんと静まる。愛子は扉に額をつけたまま肩をふるわせていた。


 やがて、愛子が私の隣まで戻ってきた。驚いたことに愛子の目は赤く充血していた。泣いていたのだ。なぜ?

 愛子は私の隣に座ると優しく私の髪をなでた。私の頬に唇をつける。片手は私の腰に触れる。

 私は身動きせずに愛子の言葉を待った。それとも何も言わずに私を押し倒すのだろうか。そうなれば私は抵抗できないに違いない。

「直美、私と一緒にずっと暮らしてくれるでしょう」


 私は反射的に答えていた。

「嫌」

 愛子の動きが止まる。私は自分の言葉の意味を考えた。さっきは愛子と一緒に暮らすことを認めていたけれど、今はそんな気にならない。あのノックの音が私の直感を刺激していた。絶対に抵抗すべきだと。

「直美は死んだのよ。わかっているのでしょう」

「でも嫌」


 私はただ首を振る。

「ここで暮らせばもう怖い目に遭わなくてもすむの。心を悩ませる必要もないの。私と一緒に楽しく暮らしましょう」

「ここで暮らす以外にも選択肢があるはずだもの」

 私は思いきって答える。確信はないけれどきっと何かある。ノックの音はそれを愛子に告げたのだ。

「ダメよ。そんなことを言っては。あなたは死んで何かを失ったはずなの。記憶なのか、感情なのか、知性なのかはわからないけど、決して元通りの直美じゃないの」

 愛子は横から強く私を抱きしめる。私は腕を伸ばして抵抗した。無駄な努力ではあるのだけど。


「生き返ってもどこか欠けているはずだからこのまま死んでいろって? つまり私が生き返る方法があるって事なのね」

「……」

 愛子は答えなかった。私は確信した。私はまた愛子から離れようとした。愛子の体はぴくりとも動かない。

「私は愛子と一緒に暮らせない。私は帰りたいの」

 愛子は私の肩で泣いていた。嗚咽が漏れる。愛子は私の心を読むことができるから、私が言わなくても伝わっているはずだ。心からの拒絶が。


「どうして……」

「私は生きていたいの」

「生きていることが幸せではないのよ。つらいことや苦しいことの方が多いのよ。この先直美は生きる年の数だけ苦痛を重ねていくのよ。日と共に痛みが重なっていくのよ」

「それでもここにいたくはないの。このままここで暮らしていたいとは思わないの」


「私が嫌いなのね。……化け物だから」

 言葉に詰まる。それが正直なところかもしれない。

「ごめんなさい。でも、愛子がどうという事じゃなくて……」

 愛子は私を突き飛ばした。私は暖炉の前で倒れる。愛子は立ち上がって私を見下ろした。


「二度目に死んだのなら良かったのよ。そうすれば生き返る可能性なんて無かったんだから。私が直美を放っておけば直美は苦しみと痛みの中で凍え死んだのよ。助けなければ良かった。もしかしたら次もここに来るかもしれなかったんだから」

 愛子は涙に曇った声で私に言う。私はゆっくりと半身を起こした。

「やっぱり生き返れるのね」


「肉体の方が壊れていなければね。いくら何でも焼かれてしまった体に戻れないでしょ」

 私は身震いをした。そうだ。死んだのだからその可能性はあるのだ。愛子が私を引き留めようとしているのは、私の体が焼かれるのを待っていたからなのかもしれない。

 激しい音が私の頬で鳴った。私は思いきり床に頭を打ち付けた。背中に強烈な重さが落ちてきて、意識が飛びかけた。そして顎をあげた私の首に何かが巻き付く。


「直美、あんたは私を侮辱している。私がそんなことを考えているとでも思っているの! いいでしょう。そこまで信用できないと言うのなら、返してあげる」

 愛子は私の背中に乗って細い指先で私の首を絞めていた。

「あなたはここにいたことを忘れるでしょう。でも覚悟なさい。あなたはいつか再びここに来るのよ。そのとき私を侮辱したことを後悔するんだわ。あなたは死ねば必ずここを通るのだから」

 私は愛子の言葉を聞きながら意識を失った。



 目を開けたら白いものが見えた。だんだんそれが病院の天井だと言うことに気が付いた。

 顔をのぞき込むマスクをつけた男。その周りの白衣の女たち。彼らはあわただしく私を囲み、私の体に触れる。

 やがて男が私に言った。


 私が運ばれてきたときにはもう心臓が止まっていたらしい。それから人工呼吸と心臓マッサージを経て私は助かった。後で精密検査をするという。

 話を素直に聞きながら、何となく彼らをうるさく感じていた。

 少ししすると私はベッドに寝かされたまま廊下に連れ出された。


「直美、直美!」

 廊下でゆりかが走り寄ってきた。その白くなった顔をみると誰かを思いだしそうだったが、良くわからなかった。お父さんとお母さんの顔もあった。一と大樹もいた。

 みんな名前を呼んでくれた。私のために涙を流していた。……何の感動もなく、なぜか彼らが滑稽に見えた。

 私はただうっとうしいと思っていた。目を閉じれば彼ら全員の顔も声も忘れてしまえそうだった。

「雪山に登ってみたいな……」

 私は思わずつぶやいた。

キーワードに種明かしが入っているのはご愛敬という事で

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