第7話 迷った時のトイレは、長くなるもの。
「……緊張してきたのです」
「気楽に行けばいい。女将さんもいるんだし」
夜の晴美島を走るタクシーの中でじわりと身を固くするすばるに、そう声をかけてやる。
というか、このくらいで緊張するなんてそれでも元勇者か?
俺の城に攻め入ったときなんて、みじんも緊張していなかったくせに!
些か元魔王に失礼ではないだろうか。
「まぁ、いざとなったら俺がフォローに行く。安心しろ」
「期待しているのです」
「まずはトラブルが起きないように気をつけろよ?」
過度な期待を寄せられても困る。
特に、それが気を抜きすぎる原因となれば本末転倒だ。
「そう言えば、灰森君はいないのです?」
「ああ、何か用事があるとかで後から合流するって言ってたな」
「なんだか、いつも用事がある人なのです」
なかなか言い得て妙な表現をする。
本当に用事があることもあるのだろうが、この夏休みはあいつの『用事を思い出す』頻度が高い。
何を狙っているのかは明確だが、それに乗ってやるわけにはいかない。
まったく。俺とすばるはそうはならないというのを、そろそろ理解してほしいところだ。
「渡したものは持ってきてるな?」
「……ッ! も、もちろんなのです!」
俺に返事をしながら、右手を示すすばる。
その薬指には俺が念のためにと渡した【報せの指輪】がきちんとはめられていた。
「よしよし。トラブルになったり、自分では解決できなさそうなことが起きたら使うといい。スマホを取り出すよりも早い」
「わかったのです」
うんうんと頷くすばるは、妙に素直だ。
本当にわかっているのだろうか。
自分の迂闊さとか、殺人ボディブローの威力とか。
まぁ……すばるが多少うっかりしても、何とかするのが俺の役目だ。
腐っても元魔王。
多少エグい事態になっても、何とでもするさ。
地球世界の〝管理者〟に何かしら怒られるかもしれないが、今のところは特に面識もないし……目をつぶってもらうとしよう。
「どうした?」
黙り込んだ元勇者殿を覗き込むと、先ほどまでは緊張していたのが今度は妙にそわついた様子だ。
「なんでもないのです」
【報せの指輪】を指でなぞりながら、すばるは妙に浮ついた様子で俺に笑った。
◆
女将さんである克子さんとホテルで合流し、すばるを預けた後……俺は、『ザ・高級ホテル』な空気を溢れんばかりに醸し出すカフェラウンジで、コーヒーを注文してソファに沈み込む。
お、これはいい座り心地だ。
魔王城に欲しいくらい。
「いよーっす」
湯気の立つコーヒーがサーブされたタイミングで耀司が姿を見せた。
高校生らしからぬ、スーツ姿で。
何ともまぁ、似合っていて腹立たしい。
「……おいおい、魔王レグナ。浮いてんぞ」
「ドレスコードがあるとは聞いていないし、高級とはいえリゾートホテルなんだから……過ごしやすい軽装こそが、むしろ正装だろう?」
「屁理屈に理屈を通すんじゃねぇよ……!」
向かいのソファに腰を下ろした耀司が、小さくため息を吐く。
まぁ、こいつが正装なのはトラブった時に潜り込めるようにという配慮だろう。
これで気の利く男なのだ。
「日月ちゃんはそろそろ会場か?」
「パーティーの開始時間は過ぎてるし、そうだろうな」
返事をしながら、会場にいるであろう残念勇者をふと想像する。
和服で着飾ったすばるは、きっと周囲の目を引くだろう。
俺だって、『晴湯旅館』で初めて目にしたときは、一瞬「おっ」と思ったものだし。
ただ、目立つというのはトラブルになりやすいということだ。
このまま何も起こらなければいい、と思った瞬間──勇者の放つ寒気を伴った殺気がふわりと肌に触れた。
【報せの指輪】からの申告からはまだないものの、何かしらあったのかもしれない。
さて……どうするか。
「どったの?」
「慣れない環境なんでちょっと、な」
少しばかりそわつきながら、すばるの気配を探す。
直上、約250m。
スカイラウンジを貸し切っていると聞いた気がする。
……うーむ。
呼ばれちゃいないが、こっそり踏み込むか?
「悪い、ちょいお手洗い行ってくるわ」
「おう、迷うなよ」
いいことを言ってくれた。
少しばかり、この広いホテル迷わせてもらうとしよう。
席を立って廊下に入りつつ、軽く指を振って〈幻惑〉を薄く周囲に広げる。
現代において、この魔法は非常に有用だ。
なにせ、人間だけじゃなくて監視カメラだって欺けるからな。
正確には監視カメラの映像に俺が映っておいても、それを確認した人間が不審に思えなくなるのだ。
「おっと」
到着したエレベーターに乗り、スカイラウンジへのボタンを押したところで少し驚く。
さすが、高級リゾートホテル。
エレベーターを使用するにもカードキーが必要だなんて、なかなか洒落ているじゃないか。
ま、こんなセキュリティなんて大した意味はないんだけど。俺にとっては。
〈開錠〉があれば、カードキーなんて必要ないし。
動き出したエレベーターの中で、いくつかの魔法を付与しておく。
俺のような一般高校生がうろうろしていては余計な騒ぎになりかねないので、主に偽装系の魔法をいくつか、だ。
あんまり得意なわけではないが、魔王時代はこれで人間の街をうろうろしたりもしていた。
そうそう見破られるものではない。
……見破られたところで、記憶か意識でも奪ってしまえば無問題だ。
「到着、と」
絨毯が敷き詰められたエレベーターホールを、人を避けながら進んでいく。
さて、すばるはどこかな……と、いた。
「あなたに用はないのです」
壁際で何者かに言い寄られて敵意をむき出しにしているすばる。
あーあー……このタイミングで来て正解だったか。
いたいけな一般人の命が地面に赤くぶちまけられる前でよかった。
「そないつれないことを言いなはんな」
……ん? 聞いた声だ。
く見れば、いい寄っている男の顔に見覚えがある。
そう、先日砂浜で小さなトラブルとなった、あのチャラ男だ。
「そういう顔されると、燃えるわぁ。なぁ、ええやん? ひと夏の過ち、楽しいで?」
「反吐が出る軽薄さなのです。これ以上付きまとえば、痛い目を見ることになるのです」
「かわええなぁ。どんな風に痛くしてくれるんやろ?」
余裕のある顔でニヤつく男に思わず、ため息が出る。
人類というのは、なぜこうも愚かなのか。
「やめとけ。ものすごく痛くされてしまうぞ」
背後から耳元でそう囁いてやって、俺は男の意識を魔法で奪い去った。
ゆっくり崩れ落ちる金髪男を近くの椅子に座らせて、すばるに向き直る。
「蒼真!」
「しっ。魔法でこっそり忍び込んでるんだ。あんまり注目を集めてくれるな」
殺気が消えて落ち着いた様子のすばるの手を引いて、目につかないところへと誘導する。
「よく我慢したな」
「もう少しでアイツを聖滅するところだったのです」
「おいおい、事件は起こすなよ?」
結構ギリギリだったことに、思わず肝を冷やす。
「指輪はどうした? 俺が気付いたからよかったものの、ずいぶんと冷えた殺気が一階まで漏れてたぞ」
「だって、使うと壊れちゃうのです……」
右手をじっと見て、少しむくれるすばる。
その薬指にはシンプルな銀の指輪がはまったままだ。
「使い捨ての魔法道具なんだから、そう温存するもんでもないぞ?」
「蒼真は馬鹿なのです」
「脈絡なくディスるのはやめていただこう」
俺の言葉にジト目を向けたすばるが、小さく首を振る。
「いいのです。これは使わないのです」
「何を意固地になってるんだ。まだストックもあるしどんどん使え?」
「やっぱり蒼真は馬鹿なのです」
なぜかご機嫌斜めな元勇者に小さくため息をつきながら、俺は軽くその頭を撫でる。
釣り上がった眉がゆっくりと元に戻っていくのは、なんだかおもしろい。
「終わるまではここにいるから会場に戻るといい。帰りにアイスを買って帰ろうぜ」
「……蒼真のおごりなのです?」
「仕方ない。一個だけだぞ」
俺の返答に小さく笑ったすばるが、軽く手を振って会場に戻っていく。
その背中を見送りながら、俺は椅子に項垂れたままの金髪男をどうするべきかとしばし考えた。