第二話 始まりの予感
「ハァッ…ハアッ…ァぁ…クソォ…」
どこか諦めを含んだ言葉が口からあふれる。あれからどれくらい走り続けているだろうか。
二時間…三時間…いやそんなことはどうでもいい。
片足は靴を置き去りにし靴下がボロボロになっている。着ていた白いシャツは汗まみれだ。
とにかく空気が欲しい。どれだけ息を吸っても足りない。吐き出す量のほうが多いのだから当然だ。
心臓が痛い。肺が痛い。足が痛い。
「邪魔だッ! ドケッェェ‼」
道を行く人々を全力で押しのける。絞り出す空気はなく、耳元で心臓が鳴っているように心音が聞こえる。
脳が休めと言っている。この状況を打破することはもう…できないのではないか…
たとえ明日がなくても…もう休みたい…
「ッ…ォ…も、もぉ無理だ…ハアッ…ハア」
大通りから脇に逸れ、小路に逃げ込む。
男は動かし続けていた足を止め、糸の切れた人形のようにその場にへたり込んだ。
車がガソリンで動くように、人間もカロリーとタンパク質を消費して動く。もはや彼にはそのどちらも残っていなかった。
車と一つだけ違うのは、人は心が折れなければ多少無理ができるという点だ。…が彼のそれも折れてしまった。
男は地面に座り込んだまま、肩を激しく上下させながら自分が逃げ込んできた小路の角をじっと見つめる。
何かを恐れるように…そして男は汗まみれの顔面をシャツの裾で拭う…べっとりとした感触が顔から消え大分マシになった。そう思い、再び正面に視線を戻すと——少年が立っていた。
「——ッヒ‼クックソがッ!クソガキが!追ってくるんじゃねえッ!」
立っていたのは先ほどから男を追っていた少年だった。燃え盛るように煌々とした濃い赤髪の少年は汗一つ流さず澄ました顔で佇んでいる。
その少年に男は酷く恐怖を感じナイフを投擲する。しかし——無駄であった。
少年は片手を横に一閃したかと思うと、次の瞬間にはナイフの柄を掴んでいた。
「は…は⁈ あっありえねえ…ありえねえだろッ‼」
命の危機が迫っているときそんな芸当を見せられれば次にやることは決まっている。
捕まろうが、ここで殺されようが、男にとって大差はない。ならばせめて最後まで抗おうと男は決意した。それは言ってみれば男のプライドだった。
彼はこの街で悪事を働く中小ギャングの頭だった。尤も、団員は全員捕らえられたので残っているのは男だけだが。
それでもせめて自分も部下と同じように最期まで抵抗しようと思ったのだ。そしてそのプライドを胸に男は少年の顔面に殴りかかる。
しかし次の瞬間男はなすすべもなく叩き潰される。
少年は男の突きを軽く頭を傾けるだけで避け、その一瞬で男の伸び切った肘関節を逆さに折り曲げる。
曲がらない方向に曲がった肘はギシィと骨のきしむ音を立て、男の声にならない叫びと共鳴する。
「ッッグガッァァ——ッ!」
男の叫びを無視し、少年は男に足をかけ転ばせる。そしてそのガラ空きの顔面に拳を叩き込み意識を奪ったのだった。
少年は何事もなかったかのように男に手錠をかけ、腰に装着している通信機器を手に取る。
「こちらウェスペル。 目標を確保、致命傷は無し、大通り脇の小路にて待機中。オーバー」
『こちら本部、了解だウェスペル。直ちに増援を送る。位置を特定しておくからGPSをオンにしておけ。アウト」
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護送車両のサイレンの音が近づいてくる。
この男が捕まれば、例のギャングとの子競り合いも終わる。
政府の奇襲作戦によってギャングは半壊、残った団員は片っ端から各捜査部が特定して捕まえた。
そして最後に残ったのがこの男だ。
「はあ…やっと終わった…」
僕が政府直属の捜査官としてこの国の首都ディルクロに派遣されたのは一週間前。
初仕事からギャングとの抗争だ。正直荷が重いと感じていた。候補生時代も勿論大変なことはあったのだが、
捜査官としての仕事はそれ以上に大変だ。
なんといっても首都ディルクロは正規居住者だけで1000万人、違法居住者を含めれば1500万人近い人口だ。
これだけの人口が集まれば犯罪が起きないはずがなく…ギャングやマフィアの抗争が後を絶たない。
そんなことを考えていると車のドアが開く音がした。
大通りの方へ目を向けるとランプを青く点滅させる護送車から捜査官の制服である黒いスーツを着た男と何人かの捜査官補佐らしき人達が出てきた。
「よお!シキ! 初任務はどうだった?捜査官ってのも中々痺れる仕事だろお?」
ニヤニヤしながらそう声を掛けてきたのは首都東捜査部の部長ヴァルトだった。
「任務中はウェスペルって呼んでくださいよ部長…そういう決まりでしょう…」
任務中は名字で呼び合うのが部署の決まりなのだが…この人は結構いい加減である。
仕事は完ぺきにこなすがところどころいい加減で、自分の無精髭をかっこいいと思っているオッサンだ。
…が、悪い人ではない。
「おいシキ…今失礼なこと考えただろ」
「えっ、そっそんなことないですよ部長…ハハハ」
「おい、目が泳いでるぞ…はあ…まあお前みたいな15の坊主に俺の大人の魅力はわからんか…」
そんな無駄話をしている間にギャングの頭は護送車に乗せられ送還準備が整った。
僕と髭部長も護送車に乗り込む。本部まで行き、捜査の報告をするからである。
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「首都東捜査部捜査官部長 アレス・ヴァルト そして右が首都東捜査部捜査官 シキ・ウェスペル 報告に参りました。」
僕と髭部長は報告のため本部の司令部へと赴いていた。敬礼をし、上官である髭部長が野太い声を出す。
「今回の抗争で敵対ギャングは壊滅、逃走した団員もすべて拘束し、先ほど組織の頭を送還しました。犠牲者は南捜査部から捜査官一名、北捜査部で捜査官補佐二名の計三名です。」
「うむ、最大派閥でないとはいえこのタイミングこの組織を潰せたのは大きい。多少の犠牲はあったが、最低限に抑えられたとみて良いだろう。」
そういったのは捜査本部総司令官プルート・バッカス。この組織の頭、即ち政府内でもトップの権力を持つ偉い人だ。
「報告は以上だな? もう下がってよい。近いうちにまた会うだろうがな」
「「はっ」」
僕たちは最後の言葉に疑問を覚えながらも簡潔に報告を済ませ指令室を退室した。
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二人が退出した後の室内にてバッカスは後ろに控えていた秘書に指示を出した。
「先ほどの二人を例の部隊に加える、正式な指令書を書く、準備しろ」
「はい、かしこまりました。」
「今日中に出せるな?私の署名は君がしてくれて構わん、頼んだぞ」
彼らの知らないところで新たな物語が始まろうとしていた。