第一話 姉妹
「ハッ…ハッ…ハッ……クソッ」
悪態をつきながらも夢中で走る。あれから30分は走り続けているだろうか。
口をだらしなく開けて浅く息を吸う。すぐに吐き出す。
肺から空気を絞り出して、必死で呼吸をする。心臓の鼓動は早く、体が空気を欲しているのがわかる。
脳ミソが腰を下ろして休めと命令してくる。
しかしそんな暇はない。この状況を打破しなければ満足に呼吸するどころか明日を生きられないだろう。
なぜなら——。
「——オイッ!! てめえクソ女、待ちやがれ!!」
追手に追われているからである。どこで拾ってきたのか錆びた鉄のパイプを持った男が目を血走らせて追ってきているのだ。
熊を彷彿とさせるその巨躯からは到底信じられない速度で…。なにをどうしたらその体でこんな機動力が出せるのか疑問に思ったが
そんなことを言っている暇はないと自分に言い聞かせ、逃走に専念する。捕まったらシャレにならない。楽に殺してくれるならいいが、そんな慈悲を奴らが与えるとは思えない。とにかく例の場所はすぐそこだ…
「待てって言われて素直に待つバカがどこにいる、バカが!てめえの脳ミソは脂肪が詰まってんのか?」
「ッ…ンだと!!このクソ女ガァァッ!!」
「ハハッ!…そんな怒ると血管爆発するぜ?オッサン?」
普段の悪癖がここぞとばかりに発揮され、追手を激昂させる。生意気な態度をとらせてこの少女の右に出るものはいないほど彼女には人を怒らせる才能があるのだ。この状況で役に立つかはさておき——。しかし追手も馬鹿ではない。脳ミソはある。男はパイプを握る右腕を振り上げる。そして投擲。激しく弧を描く鉄の棒が少女に直撃する——かに思われたが。間一髪——棒は少女を通り過ぎ後方の天井に直撃する。
「ウワッ——!! あぶねえぞオッサン! まっ、ノーコンだったけどな!」
「そいつァどうかな!!」
天井に直撃した棒は勢いを止めることなく壁をぶち破る。そして…少女の真後ろの天井がけたたましい音を立てて崩壊する。コンクリートとはいえ、年月が経ち劣化したものだ。さらにこの突き抜けたビルでは雨風に晒される。居住地としてはもろすぎるが、足止めの材料としてはちょうどいい具合だ。狙ってか偶然かは男にしかわからないが、狙ったのならこの男も存外馬鹿ではないようだ。
「ハハハハハッ!バカはお前だ女!もう逃げ道は塞いだ…命乞いするなら今だぞォ?」
男は憎たらしい勝利の笑みを浮かべ、一歩ずつゆっくりと近づく——。二人の距離が残り5mを切ったところで俯いた少女は顔を上げる。
そしてその顔に、男の想像していた悲嘆の表情はなかった。そこにあったのは以前と同じで何も変わらない——生意気なにやけ顔だった。
「油断大敵だぜ?オッサン?」
「——ンナ?!」
少女は身を翻したかと思うと右の通路へと直進する。しかしその先には何もない。あるのはかつて窓ガラスがあったのであろう四角い枠だけだった。少女と男がいるのは廃ビルの11階だ。つまり、ここから飛び降りということは必然的に死を意味する。しかし彼女は立ち止まるどころかぐんぐんと速度を上げていき——枠を飛びぬけた——。
「ハアァッ⁈ ここは11階だぞ⁈」
男は素っ頓狂な声を出し、窓から身を乗り出して、下を見る。すると地面へと急降下していく少女が視界に移る。
そして少女が地面に衝突し、その命を散らすと思われた寸前——
ボフ——
「——ボフ?」
少女の落ちた先には落下用のマットがおかれ、少女の仲間と思わしき数人の人影が見えた。
そして少女は上空に顔を向けると、舌を出してお得意の生意気な顔をして——
「バイバーイ、オッサン!次は捕まえられるといいね、まあ無理だろうけど!」
「クッソ―――ッ!! あの女次あったらぶっ殺してやるッ!!」
そのセリフに男は激昂し、その雄たけびが灰色の空に虚しく響くのだった
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雨の止まない町、光のない街、私の住む町はそう呼ばれたりする。
私の生まれるずっと前にこの町に太陽は登らなくなった。
もともとこの地域では雨の日が多かった。一週間や二週間降り続けることはザラで、だから雨のことなんて最初はだれも気にしなかった。
そのうち一か月、二か月と雨の止まない日が続くと、さすがにみんな意識し始めた。
けど気づいたころにはもう手遅れだった。まず、植物が死んだ。都市の中心を流れる川は氾濫して、地面を水浸しにした。
道路は汚染水で冠水、山は土砂崩れを起こし、隣接する都市は壁を増設し交通網は途絶えた。おかげさまでカビは増え続ける一方、オマケに鼻を刺激する匂いが充満していった。
取り返しのつかない状況まで追い込まれ、都市政府はこの町を捨てた。当たり前だ。
大雨によって甚大な被害を受けただけなら立て直しもきく。沢山のヒトとカネを導入して都市を再建すればいいのだから。
ただそれも、雨が止めばという条件付きだ。最終的にこの都市は世界から隔絶された。
十五年たった今でもこの都市では雨が降り続けている。曇った空が一面に広がり、植物は死に絶え、視界に広がるのは薄汚い水の中からそびえたつ無機質なコンクリートだけになった。やがてその光景をみた人々の間である呼び名が定着していった。人々はこの閉ざされた街をこう呼んだ。灰色の街と————
「————ハ」
「———ズハ」
「—ミズハ!!」
「―——ッ痛!」
「ボーっとしてたけど大丈夫か?やっぱり怪我か?」
「だから怪我してないって…少し、考え事してただけだよお姉ちゃん」
姉のナギサに頬をつねられ先ほど逃走劇を繰り広げた少女——ミズハは現実に意識を戻す。
現在二人は、第二区をボートに乗って進んでいる。水中には沢山の建物が沈没し、コケに覆われた高層ビルが水面から顔を出す。
二人は第二区の敵勢力の領域を抜け、追手を撒くことに成功していた。今日は一段と雨が降っているため視界が悪く、追手は追跡を諦めたようだった。勿論、油断は禁物だが…三十分以上走り続け、文字通り息を詰める思いをしたミズハは完全に緊張の糸が切れていた。
「まったく…敵の領域を抜けたからと言って安全という訳ではないんだぞ。第二区とはいえ犯罪は横行していて治安は悪いんだ。」
「そんなの分かってるよ…けど、あいつらから食糧奪えたんだしいいだろーこのくらい。ケチケチしすぎだっての!」
「——けち…って私はケチじゃない!大体お前が敵を煽っていつも問題を起こすのが悪いと何度言えば分かる!」
「うわっ…また始まったよ…はいはい私がわるかったでーす。ごめんなさーい!」
姉妹で敵勢力の領域に侵入し、帰りには姉の説教が始まる。毎度お約束の流れである。
最もミズハが敵を煽らなければもっと穏便にすんだはずだが、悪癖がそうそう簡単に治ることはない。
そんなわけでミズハが姉の説教をまともに聞くわけもなく——
「ってオイ!ミズハ!ちゃんと聞けー!」
ミズハは目を閉じて両耳を塞ぎ説教から逃れる。
「えー?きこえなーい!お姉ちゃんなんかしゃべってる?アハハ!」
「ミーズーハー!いい加減にしろー!」
ナギサはミズハの両手を掴み取っ組み合いが始まる
——傍から見れば姉妹がじゃれあってるようにしか見えないのだが…
最早、ナギサも自分たちが安全ではないということを忘れていた。緊張の糸が切れたのはミズハだけではなかったのである。
曇天の雨空の下、場違いな笑い声が響き渡るのだった。
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ボートに乗って一時間ほど経った頃、今までと街の雰囲気が一変する。
建物には明かりがともっている。街道にも電灯があり、雨と廃墟の中にあるこの町は幻想的な雰囲気を纏っていた。
第二区の中でも最も治安が良いこの領域は比較的高い位置にあるため冠水を免れており百人ほどの人々がまとまって生活している。
お互いに協力しながら生活しているため秩序が乱れることもなく、他の領域のように悲惨な事件が起こることもない。町の中心にある大型の発電所によって最低限ではあるが生活の質も保証される。
町を中心に流れる川を進むミズハ達は自分たちの拠点に戻ってこれたことに安堵する。
そんなミズハ達を見つけた町の人々が相変わらず言い合い…じゃれあいをしている姉妹二人をみて声をかける。
「おーい!二人とも帰ってきたのか!」
「あーこんにちは!おじいさん!」
「怪我は無いかい?…っあそうだ、ミズハちゃん。うちの排水装置の調子が悪いみたいで、今度見に来てくれないかい?」
「おっけー!近いうちにいくよ!」
「いつも済まないねえ…お礼は弾むから」
「あはは、いいよそんなの。この領域で助け合いは当然! んじゃまたねー」
そんな風に二人は町人に話しかけながら川を下ること数分。
たどり着いたのはこじんまりとした喫茶店のような建物。事実この建物は元々喫茶店だった。
しかし災害以降だれも住まなくなったためミズハ達が住み着いたのだ。
二人をボートを止め、ロープで固定する。大男の領域から略奪した食糧を抱え家の戸を開ける。
「ただいまー!ってまあ誰もいないんだけどね」
「ミズハ、私は食糧を管理組合に預けてくるけど来るか?」
「んーん、私は疲れたから休む…もうくたくた…」
「そうか、じゃあ行ってくるから」
「うん…ありがと…あとでねお姉ちゃん」
そうして、ナギサは食糧を抱えたまま家を後にする。
一方のミズハは例の逃走劇で酷使したからだを休めるため自室へと向かおうとする——
「——っと、忘れてた…」
ミズハは自分が耐水性の戦闘衣服を着ていたことを思い出し脱衣する。
機能性に特化したネイビー色のスーツは年頃のミズハからすればダサいのであまり好きではないが、これを着ていなければこの街ではやっていけない。戦闘衣服を脱いだミズハは部屋着に着替え、その深い藍色の髪を束ねる。
脱いだスーツを脱衣所のかごに入れ自室へ直行する。
ベッドへダイブすると鉛が落ちたように体が重く感じられた。気の抜けない環境での決死の逃避行は想像以上に身体を酷使した。
やがて意識が曖昧になる中、重い瞼を閉じ、襲ってくる睡魔にその身体を委ねるのだった。