第9話 気まずいベッドルーム
雨には少ししか濡れなかったのに、リリアーヌは翌日には風邪を引いていた。
「本……返さなくちゃ……」
ベッドで苦しい息の中、呟く。
ラウルトが苦笑しながら額を撫でた。
「カサンドラさんに頼みましょうか?」
「いえ……自分で……」
「まあまあ」
ラウルトは優しく微笑みかけた。
「ゆっくりお眠りくださいませ、お嬢様」
「ええ……」
熱は翌々日になっても引かなかったが、起き上がることは出来た。
ぼんやりとベッドの上にただ腰掛けた。
「……はあ」
リンゴを刻んで湯につけたお茶を飲む。
「おいしい……」
体の芯からあったまるようだった。
「本、返さなくては……でも、風邪をうつすわけにはいかないし……」
ブツブツとひとり、呟いていると、ドアをノックする音がした。
音が遠い。
リリアーヌの部屋は廊下から応接室、応接室から各部屋に行けるようになっている。
恐らく、応接室と廊下の間のドアがノックされたのだろう。
「はいはーい! ゴホッ! ゴホッ!」
「お嬢様!」
応接室で掃除をしていたラウルトからお叱りの声が飛ぶ。
何か声、そして、今度こそベッドルームのドアがノックされた。
「どうぞー……」
今度は咳き込まないように、小さな声で応える。
「失礼する」
入ってきたのは、セドリックだった。
「…………せ、セドリック様っ」
てっきり使用人の誰かだと思っていたリリアーヌは慌てて、ベッドの中に潜り込んだ。
服はネグリジェで、肌が透けていた。
婚約者とはいえ、結婚前の男に見せていい格好ではない。
「……すまない」
困ったようにして立っているセドリックは手に花束を持っていた。
「あ、あの……」
「庭の花が好きなのかと思って、庭師に花束を作らせた」
「あ、ありがとうございます」
寝転がったまま、リリアーヌは花を受け取った。
「……きれいです」
「よかった」
「ラウルト、セドリック様に椅子を。あ、それと本、本を持ってきて」
「はい」
ラウルトがセドリックに椅子を勧め、書斎に引っ込んだ。
「本……ああ、『下働きと王子』、君に渡していたな」
「ええ、お返しします」
「……風邪を、引かせてしまった」
「私が悪いのですわ。それより、セドリック様がお元気そうで何よりです」
「……そうか」
「お待たせいたしました」
ラウルトが『下働きと王子』を手に戻ってきた。
セドリックはラウルトから本を受け取った。
「……花束を花瓶に生けてまいりましょうか」
「お願いするわ」
ラウルトは花束を受け取ると、またベッドルームを後にした。
ふたりきりだ。
「……雨が続きますわね」
リリアーヌは外を見た。
「そうだな、冷たい雨だ。デスタン侯爵領の雨は冷たい」
「……ええ」
言葉が続かない。
何を話していいのか、分からない。
「……よくあそこで読書を?」
「……うん」
「そう……セドリック様は読書以外ではご趣味は?」
「狩猟はよく父と行く。……君は狩猟は?」
「母の実家で少し見物したくらい……あまり好きではないかも」
「そうか」
「銃の音とかドキドキしてしまうの」
「ああ、自分で撃ったのではないなら、そうなるのかもな」
「ええ……」
「…………早くよくなるように、きちんと休んでくれ」
「はい」
セドリックはとうとう立ち上がった。
リリアーヌはそれを見送った。
「…………お見舞いありがとうございます、セドリック様」
「いや……君は俺の婚約者なのだから、このくらいは当たり前だ」
「そうですか……」
セドリックの背中を見送って、リリアーヌは「ふう」とため息をついた。
「お待たせしました」
「ありがとう、ラウルト」
ラウルトが花瓶に花を生けてベッドルームに入ってきた。
「ベッドから見やすい場所に置いておきますね」
「ええ……旦那様が初めてベッドルームにいらしたっていうのに、色気のカケラもないわね」
「お見舞いですからねえ。でも、ずいぶんとお優しいじゃないですか」
「……ほだされはしません」
「お嬢様……」
「……私はあの方を幸せにするためにここにいるのです……あの方、幸せになろうとしていませんから」
「…………」
「だから、私、あの方が自分から幸せになりたいって思えるようになるまで、ほだされたりなんてしませんから」
「……お嬢様」
「グレースとの、約束ですもの」
リリアーヌは空を見た。
グレースはどうしているだろうか。
元気にやっているのだろうか。
寂しくはないだろうか。
「会いたいわね、グレース……」
リリアーヌは目を伏せた。
すぐに寝付くことが出来た。
「……グレースはどうして、どうして、そんなに平気なの?」
「諦めてしまえばいいの。全部、諦めてしまえば平気になるの。ねえ、お願い、リリアーヌは、そのままでいてね」
「駄目よ、駄目よ、グレース。私たちの人生はこれから何十年と続くのよ。だから、だからねえ、グレース、諦めないで。お願いよ、じゃないと、私、グレースと友達でいられない。そんなグレースと友達でいるのは辛いわ」
「……リリアーヌ」
「大人になったら幸せになるの。絶対絶対幸せになるの。グレースの婚約者だってきっと良い方なの。信じましょう。ねえ、信じようよ、グレース」
「……デスタン侯爵令息セドリック様」
「ねえ、信じましょう。信じてみましょう、グレース……」
「……あなたはセドリック様を信じたのかしら、グレース」
リリアーヌは夢を見て、一言呟いて、また、目を閉じた。