第3話 グレース姫
この世で最も美しい人は、と聞かれたらリリアーヌは「グレース姫」と答えるだろう。
母譲りのウェーブかかった銀の髪、丸く柔らかい灰の目。
最初に会ったとき思ったものだ、この世のものとは思えない美しさだと。
最初にグレースに出会ったのはグレースの母のお葬式だった。
国王の愛妾。王城に住まされながら、その葬儀は王城では執り行ってはもらえなかった。
彼女の実家であるレアンドル伯爵家でグレースの母の葬儀は執り行われた。
当時、リリアーヌとグレースはまだ8歳、グレースは大きな目に涙を浮かべ、それでもわんわん泣くようなはしたない事はしなかった。
リリアーヌの方が、会ったこともない人の葬儀でわんわん泣いてしまった。
遺されたグレースがかわいそうだった。
広い王城で母という後ろ盾すらなくなった、独りぼっちのお姫様。
グレースとデスタン侯爵家の婚約が決まったのはその直後だった。
グレースは笑っていた。
「こんな私を必要としてくださる方がいる……」
彼女はそう言って笑った。
「夢……」
グレースの笑顔が夢によるものなのか、本当の笑顔だったのか、リリアーヌには思い出せなかった。
10年という月日はあまりに長かった。
「さて、朝ごはん朝ごはん」
ラウルトに身支度を手伝ってもらう。
朝食の席にセドリックの父はいなかった。
領内の仕事を片付けるため早朝に家を出たという。
頭の下がる働きぶりだった。
朝食はセドリックと2人でとることとなった。
食事の席はあまりに静かだった。
「……セドリック様」
意を決してリリアーヌは未来の旦那様に声をかけた。
「なんだ」
返ってきたのはとても冷たい声色だった。
「……セドリック様はパン好きですか?」
まるで子供のような質問になってしまった。
「…………」
セドリックは困ったように手にしたパンを見つめた。
「ジャムはアプリコットが好きだ」
微妙に噛み合っていない返事が来た。
リリアーヌは返事が来ただけでよしとすることにした。
「私は好きです、パン」
「そうか」
「リンゴジャムおいしいです」
「それは何より」
会話が成立した。そんな些細なことが嬉しく思えた。
ラウルトのいない時間をリリアーヌは私室で本を読んで過ごした。
持ってきた荷物の中に本はたくさんあった。
リリアーヌは元々そこまで本が好きではなかった。
本を読むことを好きになったのはグレースの影響だ。
一人きりの王城で彼女は本を読んで過ごした。
彼女は本の話をたくさんしてくれた。
リリアーヌはグレースから本の話を聞くと、不思議とその本が読みたくなった。
リリアーヌが今めくっている本も、グレースが教えてくれたものだ。
下働きをしていた娘が、ある日王子様に見初められる。そんな夢のような話。
「……夢のような話、ね」
王子様に見初められたところで、待っているのがグレースの母のような最期なら、夢は夢でも悪夢だ。
リリアーヌはため息を付きながら本を閉じた。
「…………庭にでも出てみようかしら」
リリアーヌは気分転換に外に出ることにした。
5人の使用人に付き添いはいらないと言いつけて、庭に出た。
咲き誇る花々が美しい。
広々とした庭園にリリアーヌはどの道を行けばいいのか迷いながら、歩き出した。
デスタン侯爵領は王都より北にある冷涼な地域だ。
そのためだろうか、庭に見られる花々も王都とは違った。
趣が違う。
「……庭師を紹介してもらえばよかったかしら」
花の名前を知りたいとリリアーヌは思った。
黙々と背の高い生け垣の中を進むと前方にささやかな建築物――ガゼボが見えてきた。
そしてそのガゼボには、誰あろうセドリックがいた。
リリアーヌは急いで生け垣の向こうに隠れた。
「……リリアーヌ」
しかし、セドリックとはバッチリ目が合っていた。
少し呆れた声がリリアーヌを呼んだ。
「……いや、出てきたくないのならいい」
「……いえ、驚いただけでございます」
リリアーヌはしずしずと生け垣の向こうから、セドリックの前に姿を現した。
「……ごきげんよう」
「ひとりか?」
「セドリック様こそ」
セドリックの手元に目をやると、本を持っていた。
どうやら読書をしていたらしい。
「俺はいつもひとりだ。レディ・ラウルトは?」
「ラウルトはこの屋敷でのルールを伺いに行っています」
「なるほど……熱心な乳母だ」
「はい」
「……座りたまえ」
「失礼します」
セドリックに促され、リリアーヌはセドリックの正面に座った。
本の表紙が見える。
「あ……」
リリアーヌはその本を知っていた。昔、グレースから教わった本の一つだ。
騎士が華々しい功績を挙げる英雄譚。
あまりリリアーヌの趣味ではなかったが、読むには読んだ。
「……その本、お好きですの?」
「……昔、グレース姫から手紙で勧められた……あの方は、『これに出てくる騎士をあなただと想像して日々過ごしています』と手紙に書いてらっしゃった」
「…………」
とんだノロケを聞かされたものである。
グレースにとって本とは外と繋がるための手段だったのだろう。
そしてセドリックにとってもグレースと繋がるための手段だった。
リリアーヌはグレースがこの本が好きだった理由を今、ようやく理解した。
読んではセドリックのことを思っていたのだ、彼女は。
「……グレース」
リリアーヌはその名を小さく口にした。
「……グレース様は、本が好きですものね」
「……君も、グレースと本を?」
「ええ……『下働きと王子』はご存知ですか?」
「あ、ああ、それもグレース姫から聞いたな」
「……私、あの本嫌いですの」
「そう、か」
「あの後、下働きは幸せになれたのかしら」
「…………」
リリアーヌはセドリックの沈黙に慌てて口を閉じた。
これではまるで嫌味のようだ。
幸せになれそうにもないデスタン侯爵家への嫁入り。
「……わ、わたくし、失礼しますね」
「……図書室に本はたくさんある。読んだあと元の場所に戻してくれるなら、好きに使ってもらって構わない」
「あ、はい……」
セドリックの言葉の真意が分からない。分からないがリリアーヌはうなずいて、屋敷への道を戻った。
残されたセドリックは一人ため息をついた。