第19話 不幸という波紋
エドウィージュがグレースに化粧や何やらを施すのは、明日に医者が来たときに、ということになった。
リリアーヌとグレースはどうということもない会話を語らった。
「『茨の庭の秘密』を覚えてる……?」
「ええ、白いシカの話ね。そういえば、デスタン侯爵領はシカが捕れるらしいわね」
「ええ、一度セドリック様と侯爵様が撃ってきたのをいただいたわ」
「いいわね。手紙にもあったけど、狩猟には同行しなかったのね」
「ええ、鉄砲の音が苦手なの……」
「それでも狩り場の森を見せてもらうと良いわ。セドリック様が自慢されてたから、きっと美しいところよ」
「……そうね、戻ったら……」
戻る? リリアーヌは戻れるだろうか、こんなになってしまったグレースを置いて。
「花園は見たのでしょう? どうだった?」
「空が曇っているというのに、思わず見とれて雨に降られるくらい……きれいで、ああ、でも、私、あそこの花の名前をまだ何も知らないの……」
「デスタン侯爵領のリンゴは召し上がった?」
「そうそう、リンゴ! お土産に持ってきたわ! リンゴなら食べられるでしょう?」
「……ええ」
グレースは泣きそうな顔をして、うなずいた。
「グレース、私の大切なグレース……好きなだけうちにいてね。ああ、この部屋にあるものなら勝手にいくらでも使っていいから……本もあるからね……デスタン侯爵領に持っていけなかった本がいっぱいあるから……」
「ありがとう、リリアーヌ」
グレースは微笑んだ。
しばらく二人は語らっていたが、グレースを休めるために、リリアーヌたちは侍女とエドウィージュを残して、退室した。
エドウィージュはカチンコチンに固まっていた。
応接室に向かえば、セドリックがひとり暗い顔でうつむいていた。
「……リリアーヌ」
「ただいま、戻りました」
「……グレース様の容態は」
「お怪我は痛々しいけれど、しっかりと受け答えをされていました……あなたが来ていることは伝えられませんでした」
「いや、いい、それは構わない。ありがとう」
「ああ、そうだ。リンゴ、後でリンゴをグレースに届けなくっちゃ」
「私が申しつけてまいります」
ラウルトが頭を下げて、退室した。
リリアーヌとセドリックはふたりきりになった。
「…………それで」
「王妃様に襲われたそうです」
リリアーヌは簡潔に答えた。
「……毒婦め」
セドリックはまだ言い足りなそうな顔をしていた。
「……そう悪し様におっしゃっては可哀想です。……元をたどれば陛下の女癖が悪いのが悪いのです」
そうだ、元をたどれば国王がすべての元凶ではないか。
セドリックとグレースのことだって。リリアーヌは顔をしかめた。
「……君は、怒りを感じないのか。王妃に」
「……ずっとグレースから聞いていました。王妃様に嫌われている、と。でも、あの子は仕方ないといつも言い添えていた……あの子が仕方ないと言うのなら、あの子がそう思うのなら、私は、あの子の思いに従いましょう」
「……そうか。ならば、俺が代わりに怒ろう」
セドリックは少しだけ宙に視線を迷わせた。
「……君は気味が悪い」
「あら」
リリアーヌは苦笑した。
「……最初に出会ったときの俺の言葉を覚えているか」
「忘れられるはずもありません」
「君が帰ってくれれば良いと思った。あれだけのことを言われればどんなに気の弱い令嬢でも家に帰るだろうと思った。それなのに君は帰らない。気味が悪い。どうして……そこまでグレース様のために……」
「当たり前だったから」
リリアーヌはあっけからんと答えた。
「グレースの言うことを聞くのは私にとって当たり前でしたから。だってグレースは可哀想だから。王城に押し込められた可哀想なお姫様。彼女がやりたくてもできないことを私代わりにやってきました。狩猟のお供も、教会での慈善事業も、舞踏会も、犬を飼うのも、妹のお世話も、お庭の探検も……私だって本当は家でおとなしく本を読んでいるのがいちばん好きだけど、グレースがやりたくても出来ないと言うから代わりにやりました。やって教えてあげると、あの子が喜ぶから」
「……リリアーヌ?」
「ええと、なんだったかしら、ああ、そう、リンゴ畑。リンゴ畑を見せてください、デスタン侯爵領のリンゴ畑……狩り場……グレースが見たくても見れなかったもの。あなたを幸せにすることも……きっとあなたの子供を産むことだって、あの子がやりたかったことですから。可哀想なグレース。鳥籠の中のきれいな私のお姫様。私だけが……あの子の望みを叶えてあげられます。私が、あの子の代わりになるのです。昔からそうです。きっと万全には成し遂げられないだろうけど、十全くらいにはこなしてみせます」
「リリアーヌ、君は」
「グレースがあなたを幸せにしたいのなら、するのです。あなたの意思などどうでもよろしい。グレースの望みを叶えるのが私の役目です。幼い頃から、最初に出会ったときからそうでした。そうね、叶えてあげられなかったのは……死にたいって願いくらいかしら」
「…………っ」
「可哀想に、あの子ったら8歳のときに、死にたいって言ったんです。お母様のお葬式。お母様を亡くしてひとりになって、泣きもせずに死にたいって……だから私、あの子の代わりに泣きました。さすがに死ぬことはできなかったから……泣いている私を見て、リリアーヌは……私のこと……あの時どう思ったのかしら……? 何にせよ、あの頃からずっと、私、あの子の代わりなんです。代わりに結婚だってしてしまうくらいにね」
「ああ、リリアーヌ。君は……君は、ずいぶんと傲慢なんだな」
「傲慢……?」
「君たちはただの友達だと思っていた。俺が甘かった。……君は、君はグレースに対して傲慢だ」
「あら、まあ?」
リリアーヌは困ったように首をかしげた。




