第16話 醜聞、傷、幸せ
「そ、それが……それがグレースとの破局の理由というのなら……あ、あなたの、あなたの父親は……!」
リリアーヌの声は震えた。
「……陛下だ」
おおよそ敬意の一欠片も入っていない敬称がむなしかった。
「ああ、グレース!」
リリアーヌは顔を覆った。
「ずっと、ずっと、あの子はあなたをお慕いしていました……! いつかあの冷たい王城から抜け出す日を、物語のお姫様のように助け出される日を……あの子は待っていて……あなたに恋をしていて……! それなのに、そうだというのに……」
グレースとセドリックが異母兄妹だった。
リリアーヌの口から止めどなく怨嗟の声があふれ出た。
けっしてセドリックに向けたかったものではない。
しかし、どうしても止まらなかった。
「……このことは、どこまでの方が?」
「当然、母。父。グレース様。陛下。それと離れに老婦人がいただろう。母の乳母だ。彼女を含めて6人……君を入れて7人になった」
「…………」
「母は父が再婚相手に選んだとき、王城で王妃様に仕えていた。貴族の令嬢をそばに侍らせるのはよくあることだ。……その時、手を出されていた。父は知らなかった。知っていたら、俺たちを婚約などもちろんさせなかっただろうとも」
「…………」
「……陛下は王妃のお付きに手を出したことすら忘れていたそうだよ」
セドリックの声はいやに淡々としていた。
「半年前、グレース姫の18の誕生日が近付いて……、婚礼の準備が始まった。徐々に母の様子がおかしくなって……最初は姫をお迎えするのに緊張しているのだと俺たちは思っていた……。そして、母はとうとう父に告白した。2人は口論になった。屋敷中に響き渡って、俺は……俺は姉にアンベールが眠れないからどうにかしろと言われて……2人を止めに行って、そのまま聞いてしまった。母の告白を」
セドリックの顔には表情がなかった。
苦痛はとうに過ぎたのだろう。
苦痛も、苦悩も、苦悶も、すべて通り過ぎて、今のこの人はただ、己を呪っている。
「……だから、俺は、幸せにはなれないよ、リリアーヌ」
「セドリック様……」
「……アンベールを後継者にするというのはそういうことだ。デスタン侯爵家はデスタン侯爵の血を引く者が継ぐべきだ。俺はつなぎだ。それに王家の血を引く者をいたずらに増やすわけにはいかない……君に子供を授けられないこと、申し訳なく思う」
「……かしこまりました」
リリアーヌの声は凍り付いていた。
「……だから俺は、幸せにならない。なっていいはずがない。デスタン侯爵家の簒奪者にはなりたくない」
「…………」
かける言葉が見つからなかった。
半年もの間、彼が抱えてきた苦しみを癒やす言葉などリリアーヌが持ち得るはずもなかった。
「……話は以上で良いだろうか? ……帰るなら今のうちだ、リリアーヌ。今なら何も聞かなかったことにして、何もなかったことにして、実家に帰れる。俺は……何か嫁を取るのに不都合がある男だとでも噂を流して、アンベールに爵位を継がせるまで一人でどうにかするさ」
「帰らない!」
「……リリアーヌ」
「帰りません。その事実を知って尚、グレースは私にあなたを託したのです。私はあなたを……幸せにしてみせる!」
「……俺の気持ちが分からないほど愚かな君ではないだろう。俺が、幸せになれるものか。幸せになればなるほど……きっと俺はグレースへの罪悪感を、父への罪悪感を、捨てきれない」
「それでも、私は帰らない」
リリアーヌは泣きながら、言い切った。
「……分かったよ」
セドリックはうなずいた。
「ああ、君は強情なやつだな」
「……はい。それだけがとりえです」
「では、俺はもう失礼する。君の使用人たちに声をかけておくよ。おやすみ、リリアーヌ」
「おやすみなさいませ、旦那様」
リリアーヌからの呼び掛けにセドリックは怪訝そうな顔をした。
「……おやすみ」
もう一度そう言って、セドリックは部屋を後にした。
セドリックに呼ばれたラウルトたちはリリアーヌの真っ青な顔に慌てた。
「大丈夫……心配しないで……」
リリアーヌは力なくそう言うと、ベッドに潜り込んだ。
☆☆☆
声が聞こえる。
言い争いの声が聞こえる。
父と母の声だ。
珍しいこともあるものだ。
母は父に従順だった。
父はいつも冷静だった。
こうして声を荒げて喧嘩をするなどセドリックの記憶にはないことだった。
「セドリック、お父様達を叱りつけてちょうだい。こんな夜更けに……アンベールが泣いているわ」
「分かりました」
姉の言葉に部屋を出る。
父の部屋から怒声が聞こえる。
ガシャンと何かが割れる音がして、セドリックは慌てて父の部屋に飛び込んだ。
まさかあの父が母に暴力を振うとは思わない。
思わなかったが、緊迫させるようなものがあった。
「父さん……!?」
「ふざけるな! あの子が私の子でないなど……! せ、セドリック……」
床には食器が散らばっていた。
靴にそれが刺さるのも気にならなかった。
「……誰の話ですか」
「せ、セドリック。違う。違うのだ」
聞くまでもない。母の子供は自分しかいない。
母はここ最近ずっとおかしかった。
グレース姫をデスタン侯爵家に嫁入りさせる。
その準備が進む度におかしくなっていった。
「……母さん?」
その時の自分の顔は、ひどい顔をしていただろう。
母はひどく怯えた顔をしていた。
震えながらセドリックを見つめていた。
その目は涙に潤んでいた。
「……セドリック、あなたは結婚なんてしては駄目……!」
母は喉から絞り出すようにそう言った。
「駄目! 絶対に駄目! 駄目なのよ……!」
母の悲鳴が、耳にこびりついて離れない。
「……ああ」
そんな悪夢を見て、セドリックは目を覚ました。
朝日は今日もまぶしかった。




