第14話 義母との対面、その顛末
その日の朝食はろくに喉を通らなかった。
リンゴをお湯に浮かべてもらい、飲み干した。
午前中は何も手に着かなかった。
本を開いては大きな音を立てて閉じた。
そして昼の少し前、デスタン侯爵ロドルフはリリアーヌの部屋まで迎えに来た。
「……わたくしの服装、何か不備などありませんでしょうか」
「いや、大丈夫だ……カサンドラ、大丈夫だろうか?」
侯爵は不安そうにカサンドラに尋ねた。
「大丈夫だとは思いますが……あの、旦那様、本当にリリアーヌ様を奥様に? まだ……婚礼まで半年も時間はあります」
カサンドラはずいぶんと不安そうな顔をしていた。
「時間はある、時間はあると先延ばしにしてもうすでに一度失敗したのだ」
グレースとセドリックの婚約のことだろうか?
リリアーヌは喉まで出かかった疑問を飲み込んだ。
「何、新しく親交を持ったレアンドル伯爵家のお嬢さんを紹介するだけのことだよ」
侯爵はそう言い切ると、リリアーヌを連れ出した。
館と離れはそこまで距離がなかった。
侯爵の先導でたどり着いた離れは本館と比べればこぢんまりとしていたが、それでも王都のレアンドル伯爵家よりは大きかった。
「私だ」
侯爵がそういうと、足音がし、ドアが開いた。
エプロンを掛けた老婦人がそこにいた。
「……旦那様、それにそちらが……」
「レアンドル伯爵家のご令嬢、リリアーヌ嬢だ」
リリアーヌは黙って礼をした。
「ようこそ、おいでくださいました。リリアーヌ様……。奥様は私室にてお待ちです」
老婦人の顔には緊張がみなぎっていた。
「ああ」
侯爵は老婦人の後にしたがった。
ドアが、重苦しい音を立てて閉まった。
離れの中は人の気配に乏しかった。
どこかにエドウィージュの母もいるはずだ。
さすがにこの老婦人ではないだろう。年を取り過ぎている。
「…………」
沈黙が、息苦しかった。
ひとつのドアの前で、老婦人は立ち止まった。
「アレクサンドラ様、デスタン侯爵様がいらっしゃいましたよ」
「ええ」
か細い声が、応えた。
部屋の中には一人の美しい女性がいた。
金の髪に碧の目。セドリックとそっくりだった。
ずいぶんとやつれて見える。
そのそばには年若い侍女が控えていた。
老婦人が戻ってきたのを見て、侍女は見るからにほっとした顔をした。
侯爵夫人とふたりきりは荷が重い。
その顔はそうありありと告げていた。
「ようこそ、侯爵様」
アレクサンドラ――セドリックの母は自分の旦那にどこか他人のように微笑みかけた。
「……そちらは?」
「レアンドル伯爵家のご令嬢、リリアーヌ嬢だ」
「レアンドル伯爵家……?」
「王都の方々だ。新しく交友を持ってね」
「まあ、そうなのですね。リリアーヌ嬢」
リリアーヌは何を言って良いのか分からず、また頭を下げた。
「どうぞ、お座りになって」
アレクサンドラの正面のふたつの椅子に、侯爵と並んで腰掛けた。
「ミラベルと同じ年くらいかしら? 仲良くしてあげてね」
「ミラベルはもう28だよ、アレクサンドラ。リリアーヌ嬢はまだ18になったばかりだ」
「あら……ミラベルはもうそんな年だったかしら……」
アレクサンドラは困ったような顔をした。
アレクサンドラは穏やかだった。
顔色は悪いが、重い病気をしているようにはあまり見えない。
「……あの子も可哀想な子なのですよ、リリアーヌ嬢。大きなお腹を抱えて……本当に……」
「ミラベルはもう出産した」
侯爵の声はどこか冷たく、苛立ちを隠せていなかった。
「あら?」
「男の子だ。孫だ。アンベールだ」
「あら……あら?」
アレクサンドラは困ったように視線を虚空に惑わせた。
老婦人が咳払いをした。
「……すまない」
侯爵は消え入りそうな声でそう言った。
「……アレクサンドラ、リリアーヌ嬢は読書が趣味だそうだ」
「まあ、そうなの。本は良いわよね。セドリックも好きなのですよ、読書が」
「…………っ」
セドリックの名に、侯爵の空気が明らかに凍り付いた。
「あの子ったら、本をねだるの……なんでしたっけ? 『犬のケンカの話』? ふふふ、あんまりにも普通な題名でしょう? でも、侯爵様ったらあの子に甘いから、駆けずり回って本を探してきて……セドリックも大層喜んで……」
「…………」
それは、昔の話だろう。
しかしアレクサンドラはつい昨日のことのように話す。
リリアーヌは息苦しかった。
どこにも息を逃がせない。そんな錯覚があった。
「……アレクサンドラ」
「はい」
「……リリアーヌ嬢は、セドリックの婚約者だ」
「婚約……?」
「半年後に式を挙げる。それまでに回復してくれ。ぜひとも彼女たちを祝福――」
「駄目です」
アレクサンドラはそう言い切った。
その目は虚ろで、顔は青ざめていた。
「駄目、駄目です。駄目よ、あなた。駄目です。セドリックを結婚なんてさせては駄目!」
「…………」
「どうか、どうか、お願いです。ああ、私、私、どんな責め苦でも負いましょう。だから、ああ、お許しください。あの子のことはお許しください!」
「アレクサンドラ! 私は!」
「絶対に駄目っ!」
アレクサンドラは子供のように悲鳴を上げた。
「侯爵様」
老婦人の冷えた声が場を切り裂いた。
老婦人は子供をあやすようにアレクサンドラに覆いかぶさった。
「今日は、今日はもうこれ以上は……」
「…………っ」
侯爵の顔に苦しみがにじんだ。
「ご案内を」
老婦人は年若い侍女にそう言いつけた。
侍女は弾かれたように跳ねると、はしたなくも部屋の中をドタバタと走って、ドアを開けた。
「お、お帰りください」
「……失礼する、リリアーヌ嬢」
「……はい」
リリアーヌは従順に立ち上がった。
ちらりとアレクサンドラ夫人に視線をやると、彼女はまだ震え続けていた。
「…………」
「戻ろう」
侯爵の声には暗く深いものが混じっていた。
ここにある。
セドリックの不幸の元がここにある。
リリアーヌは密かに確信した。




