第1話 旦那様は傷心中
「行きたくないわ……」
秋の初め、レアンドル伯爵家の令嬢リリアーヌ18歳は揺れる馬車の中、顔をしかめていた。
「……帰れない?」
「諦めてください」
50歳になる乳母のラウルトの厳めしい顔にリリアーヌはため息を深くした。
「……デスタン侯爵家セドリック様、かあ」
それはリリアーヌの一度も会ったことのない婚約相手の名前だった。
デスタン侯爵家の現当主であるセドリックの父はやり手と有名で、セドリックは10年前、12歳の時には王国の麗しき姫君グレースと婚約していた。
しかし半年前、突如としてその婚約は解消された。
そしてグレース姫の後釜として推挙されたのは姫のハトコにあたる同じ年のリリアーヌだった。
「私にグレースの代わりが務まるわけないわ……あらゆる面で……」
リリアーヌの父方の曾祖父と、グレースの母方の曾祖父が同一人物である。
グレースの母は国王の正妃ではない。愛妾だ。
伯爵家の小娘が美しい姫を産んだ。
そのせいでグレースは長年、王城で味方も少なく辛い目に遭っていた。
そんなグレースが王城を出て、デスタン侯爵家で幸せに暮らせる未来。
それを思い描いて、リリアーヌは心の底からその婚約を祝福していた。
そうだというのに突如として解消されてしまった婚約。
グレースはまたあの敵しか居ない王城に留まらなければいけないのだ。
しかも数少ない友人は王都から離れて、デスタン侯爵領に嫁いでしまう。
リリアーヌは3日前、お忍びで我が家を訪ねてきたグレースの顔を思い出す。
『私のせいでごめんなさい、リリアーヌ。でも、でもね、セドリック様は悪い方ではないの。だから、お願い、セドリック様のこと、幸せにして差し上げて……』
涙をたたえて、グレースはそう言っていた。
しかし、グレースは婚約破棄の理由を一切語ろうとはしなかった。
どちらから言い出されたことなのか、何が原因なのか、まったく分からないままリリアーヌはデスタン侯爵領に向かっている。
「……はあ」
グレースがああまで言うのだ、セドリックとやらは悪い人間ではないのだろう。
世の中では辺境のデスタン侯爵領に引きこもってめったに出てこないセドリックに関して、偏屈ものだの、乱暴者だの、実はすでに子供がいるだの根も葉もない噂が飛び交っているが、リリアーヌはグレースの涙を信じた。
それでも、それと結婚するとなると話は別である。
「嫌だなあ……」
セドリックとはどういう男なのだろう、憂鬱に沈みながら、リリアーヌは馬車の椅子に体を預けた。
「ようこそ、おいでくださいました」
デスタン侯爵家の門の前で門兵が深々と礼をする。
デスタン侯爵家はそれはそれは立派なお屋敷だった。
元々王都の狭い土地に暮らす貴族の屋敷はどうしても小さくなる傾向がある。
しかし、母方の地方の伯爵家の屋敷と比べても、デスタン侯爵家は遙かに巨大だった。
まず庭が広く、門からお屋敷までの距離が長い。
「でか……」
「お言葉」
ぴしゃりとラウルトに叱られて、リリアーヌは口を慌てて塞ぐ。
「んぐぐ……」
「レアンドル伯爵家からまいりました。よろしくお願いします」
リリアーヌが口を塞いでいる間に、ラウルトが門兵に頭を下げた。
「そのまま馬車で屋敷の入り口までお進みください」
「ありがとう」
馬車は屋敷の中をゆっくり進んだ。
屋敷の中に入ると、老齢の執事が待ち受けていた。
「遠いところをよくぞおいでくださいました、リリアーヌ様。セドリックがお待ちです。どうぞ、こちらに」
リリアーヌの荷物を取り上げ、執事はキビキビと屋敷の中を案内する。
通されたのは応接間だった。
応接間の中、ソファの上、金の髪に碧の目、絵に描いたような美男子がいた。
愁いを帯びた顔で頬杖をついている。
リリアーヌの真っ黒い髪と真っ黒な目を、彼はまっすぐに見つめた。
「……君がリリアーヌか」
「……はい、お初にお目にかかります。セドリック様ですか?」
「ああ、私がセドリックだ。……似てないな……」
グレースのことを言っているのだと、すぐに分かった。
「申し訳ありません……」
リリアーヌは顔を伏せた。
この人の心はグレースに囚われている。それがよく分かった。
「ああ、いや、失礼。失礼なことを言った」
セドリックは頭を振ると立ち上がり、リリアーヌを迎え入れた。
「ようこそ、デスタン侯爵家に」
「よろしくお願いします……」
「どうぞ、座って……ああ、そちらのお付きの方のお名前は?」
「彼女は乳母のラウルトです」
「よろしく、レディ・ラウルト」
「どうぞよろしくお願いいたします」
ラウルトは深々と礼をした。
その目は、鋭くセドリックを値踏みしていた。
リリアーヌ、セドリックは腰掛け、執事とラウルトはそれぞれの主の後ろに控えた。
「……嫁ぐに当たって君には何点か話しておかねばならぬことがある」
「はい、なんなりと」
「まず、君はいつでもご実家に帰っていい。この私や侯爵家に嫌気が差したとき、誰に遠慮することなく実家に帰ってくれて構わない。ただ、行き先は告げて帰ってくれ。捜索の手間が省ける」
「……はい」
いきなりとんでもないことを言われた、背後のラウルトが何か言いたそうにするのが気配で分かる。
しかしリリアーヌは従順に頷いた。
「次に、君には屋敷の一角と5人の使用人を与える。その範囲でなら、君は自由だ。何をしてくれても構わない」
「恐れ入ります」
「そして最後に……私たちは子供を作らない」
「……は?」
「訳あって離縁された姉の息子がいる。その子を養子に迎える。跡取りにはその子を据える。私たちの間に子供は要らない」
「…………はい」
「リリアーヌ様!」
「ラウルト、黙って。セドリック様がお話しされているのよ」
「し、しかし……いくらなんでも、なんでも、無礼にもほどが……!」
この国では子だくさんこそが女の価値と言われている。
子を多く産んだ女が偉く、子を産めない女の地位はずいぶんと低い。
「構いません。私にそれを要求するということは、私に向けられる目からも守ってくださるのでしょう? セドリック様」
「……ああ、そのつもりだ」
「分かりました。いつでも好きなときに実家に帰ります。与えられた屋敷の一角でおとなしくしています。子供は要りません」
リリアーヌは淡々とセドリックの言葉を受け入れた。
「……どうぞ、よろしくお願いしますね」
旦那様、と喉まで出かかった言葉を彼女は飲み込んだ。