第8話【あっふん&はっふん】
頭から漂うレモンの香りを嗅いでいると、青い目をした少女が詰め寄ってきた。
「はぁー、マジU2だわー、ちょっとキョーちゃん!」
異国的な顔立ち。横溝ハイネだ。
「ユーツーってなんだ」
登校の際に会った卯月と同じく、僕の古馴染みの友人だ。幼稚園から同じなので、今年で十年以上の付き合いになる。両手では数えきれない仲というわけだ。
「はぁー、もうボロボロじゃない。ほら、保健室いくよ。立った立った」
彼女の白い手に連れられて、保健室へ直行することになった。
ロシア人の血を四分の一だか引いている彼女は、異国めいた顔立ちと、黄色人種からは比較にならないほどの白い肌をしているし、スタイルも日本人離れしている。
すらりとした長い手足に、極端なくびれ。それでいながら座敷童みたいな黒髪おかっぱに、青空を透かしたような蒼い瞳。
そんな異彩を放つ外見から、彼女は幼稚園からすでに浮いていた。
うまく周りに馴染めなかった僕と仲良くなるのに、そう長い時間はかからなかったわけだ。
「あの、先生が手当てするわよ?」
「いえ、先生のお手を煩わせるわけにはいきませんので」
人当たりが弱そうなおばちゃん先生の好意をぴしゃりと断ち切り、ハイネが僕の傷口に黄色い消毒液を塗布してくる。
「痛い」
「わかってるわよ」
「もう少し優しくしてくれ」
「バカにつける薬なんてホントはないんだから我慢して」
謎の根性論を押しつけられる。
傷口に消毒液を塗るなんて自分でもできるのに、なぜか強行してくるハイネ。
僕が思うに、彼女はお節介焼きなのだ。
しかも、ドがつくほどの不器用な。
「痛いっ!」
「だから、わかってるわよ」
ひぃひぃと息も絶え絶えだ。
傷口に染みる液体をこれでもかとべちゃべちゃつけられて、泣かない人間がいるだろうか。いいや、いないであろう。
「ほい、終わり」
とどめのガーゼをパン、と叩かれた。
「あっふんっ!」
ショックで変な声が出た。あふん。それは北海道にある町の名前。
ガーゼからは赤いしみが浮き出ている。今のはわざとだったと思う。
「ふんっ」
鼻息荒く後片付けをするハイネ。
異国めいた顔の裏で、彼女が何を考えているのか僕には知る由もない。
「ふむ、人の好意には、たとえ不快なものだったとしても謝意は述べなければな……」
父の教えをぽつりと呟く。
「なんか言った?」
「ありがとう」
「はい。どーいたしまして。相変わらず、そういうところは素直でよろしい」
テキパキと消毒液などの入った瓶を元あったところへ戻していく。
雑な動きでありながら、その手際の良さたるや。
「あなた、保健委員とか向いてるんじゃないかしら?」
保健室のおばちゃん先生がついつい勧誘してしまうほど。
「いや、見ず知らずの人間なんて相手にしたくないんで」
「あら、そう?」
おばちゃん先生はそう言って、僕のことをまじまじと見つめてきた。
熱い眼差し。
若き頃の青春を再燃させるかのような、純情でつぶらな瞳。
「……いいわね、若いわね」
うっとりと愛を語る詩人のように告げるおばちゃん先生。
なんなのだろう。僕の心を見透かすかのようなこの目は。
「じゃ、あたしはこれで」
さっさと用を終えたハイネが立ち上がり、保健室の扉に手をかける。
しかし、そこから動かなくなった。
「……キョーちゃんさ」
彼女の背中が話しかけてくる。
「ん?」
「法香ちゃんのこと、好きなの?」
「ああ、好きだ」
迷うことのない質問。
僕はいつでもまっすぐ生きてきたからな。
「……そうかよっ」
がらがらっ、ぴしゃっ。と強い音を立てて、保健室の扉が開閉された。
急に機嫌が悪くなったように見えたが、気のせいだろうか。
「はっふん!」
おばちゃん先生は面白い声を上げていた。
「いいわねぇ、青春ねぇ」
なんだかよくわからないが、僕もその場の空気に合わせて、ふっと鼻で笑ってみた。
なんとなく、それっぽかった。